- 2001年07月30日(月) 『青い小さな葡萄』という本がある。 遠藤周作の著書だったはずだ。今は手元にない。 ある種の作家には、内側に秘めた一つの問いがある。 一つ、というのは、人間、そうそう多くを自分のものとできないからだ。 絶えず取り付かれ、どこにあってもその想念に襲われ、 誰といてもその問いから離れられず、一方の目を向けている、 そのような問いを、一体二つも三つも人間は背負えるだろうか? そのような「魔」は、一つが限界だ。 評論家が、「同工異曲」と「自己模倣」呼び、 読者が「またか」と言っても、 作家はそこから離れられない。 なぜなら彼はその「魔」に追い詰められて物を書くのであり、 読者や評論家のために書くのではないからだ。 彼は足掻く。 その問いを整理し、文字として物語として成立させ、 その向こうに救いを求めようと、救いがあることを証明しようと、 出口があるのだと自分に信じさせようと、彼は足掻く。 けれど。 そうして書き上げた物語の中で作中人物が救いを見出しても、 それは作者の救いにはならない。 作者はその問いから自由になれない。 その問い自体を全ての人間に対してはっきりと示すことができても、 それを他の人々と分け合うことができても、 それは作者の救いにはならない。 それは彼の「魔」だ。 彼はそれを墓場まで運んでいくしかない。 遠藤周作の代表作は、「沈黙」だ。 この作品の完成度に比べれば「青い小さな葡萄」は、言うに足りない。 だが、扱われているのは同じものだ。同じ問いだ。 ――苦しみ足掻いて救われることなく死んでいった人々、 その叫びを聞かれることなく殺された人々はどこへ行く―― 『死者の叫び』 -
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