終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2001年07月29日(日)

小林秀雄の全集を読んでいる。
この気まぐれでしかも執拗、透徹とした視線と
常に自らという台に立ちそこを離れることのない激情と
他者の視線に対してひとつの諦観めいた潔さをもつひとは、
とても、哀しい。


小林秀雄が友人の詩人、中原中也を評した文章がある。

『中原の事を想う毎に、彼の人間の映像が鮮やかに浮かび、彼の詩が薄れる。
詩もとうとう救うことのできなかった彼の悲しみを想うとは。
それは確かにあったのだ。彼を閉じ込めた得体の知れぬ悲しみが。
彼はそれをひたすら告白によって汲み尽そうと悩んだが…(中略)…
彼は自分の告白の中に閉じ込められ、どうしても出口を見つける
ことができなかった』「中原中也の思ひ出」より抜粋

他人の魂を見通すことのできるひとの、悲しみを想う。
このような悲しみを友人のうちに喝破しながら
その傍らで酒を酌み交わし言葉を交わすひとの悲しみを想う。
常に慟哭してやまぬ友の傍らで、
その全ての言葉が慟哭であるひとの傍らで、
癒しえぬ傷を生まれながらに負ったひとの傍らで。
われわれは、どのように振舞うことができるだろう?


それとも、これは――
あるいは小林秀雄が自らのうちに持つものを
友人に投影した、あるいは託したものに過ぎないのだろうか?
他人の心理に対する言葉が常に推論の域を出ることができないように
この澄んだ文章も、独り善がりなものに過ぎないのだろうか?
中原自身に尋ねれば、くだらないと心底言われるたわごとなのだろうか?
――そのように判断することもできる。


何が正しいのかということはけっして明らかになることがない。
けれど。


本当よりも本当らしい本当、というものがある。
欠けるところのない美人というものがけっしていなくても、
私たちは、目にする全ての顔について、それぞれの欠けたところ
「多すぎ」たり「少なすぎ」たり「高すぎ」たり「低すぎ」たりしている
ところを指摘することができる。
つまり私たちは一つの美の祖形を持っている。
それに比して現実という本当を見る。
そのように、祖形としての本当は、われわれの内面に存在する。


小林秀雄の描き出す中原中也は、
あるいは――ひとつの人間のかたちは、
確かにそのようなものとして、私の胸を打つ。
私はそのようなひとを、知っている。


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