ケイケイの映画日記
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2016年02月14日(日) 「サウルの息子」




仕事休みが続いて、連日映画を観歩いています。昨日は今週の大本命「ニューヨーク眺めのいい部屋売ります」をテアトル梅田へ観に行くも、あえなくソールドアウト。通常土曜日はネットで先に買うのですが、会員更新したので、無料のチケットを使おうと思ったのがまずかった。時計を観ると、ガーデンシネマでこれまた本日初日の、「サウルの息子」がまだ間に合う。水曜日に心斎橋シネマートで仕事帰りに観る予定だったのを、急遽変更。駅から10分のテアトルから更に10分のリーブルへ、梅田お散歩物語。上映10分前に滑り込み、こちらも残席5つほど。本来なら苦手なタイプの作風ですが、何故だがストンと胸に落ち、多分ずっと眉間に皺を寄せ、哀しい顔で観ていたと思います。監督はこれが初作のネメス・ラーシュロー。カンヌ映画祭グランプリ受賞作です。

1944年10月、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所。そこでゾンダーコマンドとして働くハンガリー系ユダヤ人のサウル(ルーリグ・ゲーザ)。ゾンダーコマンドとは、ナチスから選抜され、自分たちと同じユダヤ人がガス室で抹殺されたのちの、遺体を処理する特殊部隊で、数か月後には彼らも抹殺されるのです。ある日ガス室で生き残り、すぐに殺された少年を、自分の息子だと言うサウル。ユダヤ教に則って息子を葬りたい彼は、収容所内を、ラビ(ユダヤ教の聖職者)を探し廻ります。

冒頭からガス室送りのユダヤ人の様子やその後、死体の山の処理など、かなりきつい場面が続出。思春期に読んだ、ピーター・フランクルの「夜と霧」が、目の前に現れたのかと思いました。最初ずっとぼやけて映る死体の山に、あまりにむごいから、映さないのかと思っていました。

死ぬ前に罪を犯さして、その上殺される運命のコマンド。私ならいっそ早くに地獄に堕ちたいと思いました。そう思った時、サウルたちは、地獄に堕ちる事も許されないのだと気づきます。そして目を背けたくなる死体の山に、辛いのに、何故私の心はそれほど波立たないのか?と思った時に、ぼやけた画面の理由が解釈出来ました。あれはサウルの心なのです。気が触れてもいないけど、正気でもないのだと思う。

人は強いストレスを受ける時、感情を鈍磨してやり過ごすと言います。喜怒哀楽の表情のないサウルは、一切の感情を排していたのだと思います。そんな彼の目にはっきり映る「息子」。でも本当に息子なのか?ずっと訝しい気持ちを抱いていた私。やっと見つけたラビに、祈りの時に息子の名前を聞かれ、答えられません。リーダーも彼に息子などいないと言います。サウルは、妻との間の子ではないと言いますが、何かとサウルを気遣うリーダーは、多分彼の心の状態をわかっていたのだと思います。

ゾンダーコマンドたちが、収容所からの脱出を計画する様子が同時に描かれます。息子の事に一心不乱で、仲間の足を引っ張るサウル。ユダヤ教は、火葬されると転生出来ないのだそう。ガス室で死んだ人たちは、皆焼かれました。

最初、サウルの行為は、死んでいった同胞への罪悪感や贖罪なのかと思っていました。最後の最後、出会った少年に向けて、初めて笑顔を向けるサウル。彼に取って、子供は未来であり希望なのだと思い直しました。だから「息子」をユダヤ式に葬り、自分を含め同胞の転生を願ったのでは?他のコマンドたちの希望は、脱出でした。その違いだけ。人はどれだけ辛い状況でも、絶望ではなく希望を抱く生き物なんだと、私は思いたいです。そう思うと、あの幕切れにも、皮肉ではない一筋の光明を感じるのです。「サウルの息子」は、焼き殺されはしませんでした。

コマンドたちと共に、当時の収容所で労働も感情も体験しているような、疑似感覚を抱く作りです。ホロコースト物は、まだまだ斬新な切り口があるのだなと、思いました。そして、たくさん作られる反ナチス作品に、どれも異を唱えないドイツは、決して同じ過ちを繰り返さないだろうとも思います。人種間でいがみ合い、差別や殺戮の頻繁な昨今、永遠に学ぶべきテーマだと思います。








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