ケイケイの映画日記
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2015年07月11日(土) 「きみはいい子」




評価うなぎ上りの呉美保監督作品。幼児虐待の母、学級崩壊やモンスターペアレンツに疲弊する若い教師、認知症の独居老人。三つのお話が繋がるのではなく、寄り添って進むような構成で、とても感銘を受けました。素敵な作品です。

三歳の娘を持つ雅美(尾野真千子)。夫は単身赴任で、娘をせっかんしてしまう事に、罪悪感を持っています。4年生を受け持つ新任教師の匡(高良健吾)。真面目で優しい性格が災いしてか、親にも子供にもはっきり物を言う事が出来ず、学級崩壊や親からの苦情に疲弊しています。穏やかな独居老人のあきこ(喜多道枝)。穏やかな日々ですが物忘れが気になり始め、認知症かと怯え始めます。

夫は単身赴任中で、ママ友たちにも愚痴や悩みをこぼせない雅美。娘を叩く場面はすごい形相で、演出は子役に配慮を感じる物の、娘役の子がトラウマにならないかと心配するほど。でも私にも覚えがあるのです。

家→公園→スーパー。毎日毎日この繰り返し。私は当時やんちゃ盛りの年子の男の子の子育て真っ最中。余計な事に夫は毎日昼食を取りに家に帰ってくるのに、仕事後は、毎日自分だけのお楽しみにまっしぐらで、帰宅は10時頃。子供は私が既に一人でお風呂に入れてご飯を済ませ、寝かしつけています。そのまま私も寝たいのに、それから夫のお風呂とご飯。疲れているのに、一日がとても長い。頼みの実母は頼りなく、私が世話をすることも多い。常にストレスと疲労がマックス。分刻みに早くしなくちゃと常に焦り、子供が言う事を聞かない時は、私も何度も叩きました。未熟な母であったと、観ている間、本当に悪い事をしたなと、心が痛みました。

そんな私が何故雅美のような虐待はせずに済んだかと言うと、ママ友たちの存在です。公園で夫の悪口を言い、姑の愚痴をこぼし、自分の親の重たさを嘆く。みんなみんなそこで吐き出して、頑張っているのは、私だけじゃないんだ。共感したり悩みを解決したりして、今日も明日も頑張ろう!と、お互い支え合っていました。多分自分のためにも公園に行っていたのです。

雅美はと言うと、相手の腹を探って本当の事が言えない。他のママ友たちは、開けっぴろげで昭和の「カアチャン」のような陽子(池脇千鶴)を、やや見下していますが、あんなものです。雅美だけ距離感が掴めない。そんな雅美を、何くれとなく気遣う陽子。のちに二人には共通の背景があったとわかります。

二人の家の様子が対照的。幼児がいるのにまるでモデルハウスのような家庭の匂いのしない雅美の家に対して、あちこちにおもちゃが転がり、散らかり放題の陽子の家は、暖かい生活感がいっぱいです。うちは陽子宅でした。そこかしこに子供の匂いがして、家は子供が主役でした。雅美と陽子の違いは、愛の出し方を教えてくれる人が居たかいなかったか、私はそこだと思います。エリートらしき単身赴任の夫を持つ雅美。自分の家庭はほったらかしと言いながら、小学校教師の夫を誇りに思っている陽子。夫にも違いがあります。

匡はいつ辞めてしまうのかと、もうハラハラ。いやはや今の先生は本当に大変。今の時代、デモシカで先生になるわけはなく、狭き門を潜って、彼なりに大志を抱いて小学校の先生になったはずです。学級運営は確かに未熟さを感じますが、欠落があるわけではなく、親の盲目的な学校への要求には、首を傾げました。人の良さそうな先輩教師(高橋和也)が、あまりきばりなさんなと、助言します。私は親の苦情の出ぬくらい、サラリーマン教師的にと聞こえましたが、ラスト近くで、それは意味が違うのだと痛感します。

季節外れなのに、桜の花びらが見えるあきこ。スーパーで代金を払うのも忘れます。しかし通学路、明らかに自閉症の奇異な行動を見せる弘也(加部亜門)が、きちんと挨拶出来る事に「偉いわねぇ」と、褒めてあげるのです。それは障害を持っているのに偉い、ではなく、子供として偉いと褒めている。弘也の本質を見ているのです。何気ない言葉ですが、はっとしました。多分今の私にも出来る。優秀な者を引き上げ、更なる位置に高めたいと思うのが男性の特性で、優劣関係なく平等に愛せるのが女性の特性だと読んだ事があります。若い時は若さの持つエネルギーが、時には余分な思考をもたらしますが、年齢が行くと、その余分なものが、一つ一つ剥がれて行くのがわかるのです。老いもまた、成熟なのです。

弘也の母(富田靖子)に、弘也を褒めるあきこ。謝ってばかりで褒められる事などなかったと涙ぐみ母。姉の子から、抱きしめられる事から得られる力を教えて貰う匡。娘を殴ろうとする雅美を抱きしめる陽子。毎晩毎晩、代わる代わる三人の子を抱きしめて眠っていた私は、あれは私が息子たちから力を貰っていたのだと気づきます。今の私を良い母親だと思って下さる方がいるのなら、それは息子たちが、私の母性を育てたのだと思います。あきこは、弘也の母の心を抱いたのでしょう。

クラスの子供たちに、誰かに抱きしめて貰う事を宿題に出す匡。思春期の入り口で照れくさいはずが、みんな宿題をしてくる。この時子供たちが感想を語ってくれますが、ドキュメントタッチだと思ったら、ここは自由に語らしたのだとか。秀逸な場面です。

多分陽子と匡の先輩教師は、夫婦でしょう。画面にツーショットになる事はありませんが、「そこのみにて光輝く」では、不毛で絶望的な関係だった二人が、まるで救済されたような気がしました。陽子の母親としての有り方は、障害児学級を担任する夫から影響されたものだと思いました。それに気づいた時、高橋和也の「きばらずに」は、「期待はせずに、希望を失わず」だと解釈しました。

最後に舞う季節外れの桜の花びら。今度はあきこだけに見えるのではなく、町中に舞っています。それはこの作品を観ている人へのプレゼント。心の中に芽生えた思いを、現象として表してくれているのでしょう。桜は入学式や新学期、新入社など、心を新たにする節目を象徴するものだから。ほんの一歩、それが難しいのですが、この作品から得た小さな勇気と力を、私も残りの人生に生かしたいと切に思いました。皆さんにもこの力が届くよう、願っています。


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