ケイケイの映画日記
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2015年04月29日(水) 「ザ・トライブ」




全編字幕なし・音楽なし・セリフなしの、ウクライナの聾学校が舞台の作品。この手のアート系作品はまず私には合わない(笑)。それでも観ようと思ったのは、最近仕事にもだいぶ慣れ、ちょっと気持ちに余裕が出来てきたので。遊んでみようか、後学になるかも?的な気持ちで観ました。鑑賞直後は期待値下げたのが良かったのか、合わないけど色々触発された程度でしたが、一日経ち二日経ち、この作品の事ばっかり考えている自分がいるのです。あれやこれやが、段々光明が差すように、私なりに解釈することが出来ました。監督はミロスラヴ・スラボシュピツキー。

とある全寮制の聾学校に入学した少年セルゲイ(グレゴリー・フェセンコ)。そこは窃盗や売春など犯罪が組織化された世界でした。当初暴力の洗礼を受けたセルゲイですが、徐々に頭角を現します。しかしリーダーの愛人の少女アナ(ヤナ・ノヴィコバ)を愛してしまった事から、歯車が狂い始めます。

出演者は本当に聾唖者だそう。字幕なしでわかるのかなぁと不安でしたが、手話はわからずとも、登場人物の鋭い表情のあれこれや、表現豊かな身振り手振りで、何となくわかります。ウクライナと言う国をよく知らないので、イマイチ咀嚼出来ない箇所も、その後の場面展開で事情が判明します。時間通り追う一見ドキュメンタリー風の撮り方も、計算しているのでしょう。

障害者を主役に据えると、障害に屈せず豊かな人生を勝ち取る的な美談に流れがちです。冒頭、小学生くらいの子たちの、晴れやかな卒業式風景はその通り。しかし、それを経た学年のこの作品の登場人物たちは、強盗・恐喝・売春などが組織立って行われ、それに教師まで一枚噛んでいる始末。リーダーの子に上納金を渡すなど、歴然としたヒエラルキーがあります。セルゲイがのし上がっていく様子など、他国のマフィア映画と寸分たがわずです。

何故そうなるのか?私は貧しいからだと思いました。彼らの住む学生寮や校舎は、とにかく古い。老朽化だけではなく、とても不衛生だしプライバシーと言うものも皆無。日本のこの手の公的施設では、まずお目にかかれぬ代物でした。世の中に出るのを目前にした子たちが、障害を持つ自分の将来を直視した結論なのかと感じます。もうこの辺の流れは、良い悪いの理屈じゃないと思う。

モデルでも通用しそうな、伸びやかな肢体と顔立ちの少年少女たちですが、セルゲイだけが少し異質の、負けん気の強い顔立ちです。これは意図的なものかな?恋もしたい年頃の子です、好きになったアナを独占したいでしょう。二人のセックスの様子が生々しく描かれ、当初こそ娼婦性を感じさせたアナですが、段々とセルゲイに好意を持ち始め、普通の男女の愛し合う様相になる。でもアナはしっかりお金は受け取るのですね。一線を引いているのに、セルゲイにはわからない。音もなくセリフもない素っ裸のセックスシーンの変遷だけで、若い男女の心の移り変わりがわかる演出はお見事です。

恋心に盲目的になり、数々失態を冒すセルゲイ。数々の特権は剥奪され、グループの最下層になります。ここからの反撃の演出が圧巻。目を覆う蛮行が繰り広げられますが、何故誰にも止められず可能だったのか?彼らが聾唖だからです。中盤でも耳が聞こえない悲惨さを感じる場面がありました。耳を塞ぎ、声も出さず、耐え忍んでいるだけだと、いつかこうやって爆発してしまうのだと、監督が国を憂いているのかと感じたのですが、それは深読みなのかな?

犯罪に加担している大人も聾唖であったり、非合法であろう危険で不衛生な堕胎の場面、仕切りがなく丸見えのトイレなど、日本では考えられない風景が、淡々と描かれるだけに、尚衝撃的です。この衝撃性や汚辱さを緩和するため、少年少女たちは美男美女を使っているのだと思います。後から考えると、非常に綿密に計算された、知的な作品だと気づきます。

聾唖の人は、聞こえない分、体で感じる能力が長けていると聞きます。観ると言うより体感する作品かな?中々に味わえない経験でした。観て良かったです。


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