ケイケイの映画日記
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2013年12月23日(月) 「ゼロ・グラビティ」(3D字幕)




来年のアカデミー賞の有力候補の呼び声高い作品。前評判も高く、ハードル上げて観ましたが、それでも期待に違わず素晴らしい作品でした。90分、私も宇宙を漂流した気分になりました。監督はアルフォンソ・キュアロン。

今回初めてスペースシャトルにエンジニアとして乗船した、ライアン・ストーン博士(サンドラ・ブロック)。ベテラン宇宙飛行士のマット・コワルスキーの誘導の元、船外で修理にあたっていた時に、ロシアが自国の衛生を爆破。その破片が猛スピードで迫っていると、NASAからの警告が伝えられます。急いで修理するものの間に合わず、スペースシャトルに破片が激突。宇宙に放り出されたライアンは、マットに助けられるものの、他の乗組員は全員死亡。果たして二人は地球に戻れるのか?

とにかく「見世物」映画として、超一級品だと思います。自分もライアンと共に漂流している気分になり、ライアンが宇宙船にぶち当たれば痛さを感じたような気になり、一緒に火に追われ、束の間の安息も共有します。体感がすごいのです。

ライアンは40代の女性で、優秀で立派なキャリアの持ち主。でもそれは地球での話。初めてのミッションで船酔いし、宇宙船のシュミレーションでは墜落してばかり。経験の乏しいティーンエイジャーのようです。広大で壮大な暗闇は、そんな彼女に牙をむきますが、それだけではなく、豊かな静寂で包んでもくれます。浮遊している時の彼女を観ていると、本来は後者なのだろうと感じます。やっとの思いで船に乗り込んだ彼女が、宇宙服を脱ぎ捨て、無重力の空間に身を委ねる姿は、羊水の中の胎児のようで、印象に残ります。

ベテランのマットは、ユーモアを交えながら、常にライアンに話しかける。動転する彼女の心をニュートラルに戻すために。「ストーン博士」から、「ライアン」と呼びかけが変わった時、お喋りでカントリー好きのプレイボーイ風だったマットの、真の男性としての技量が現れたと思いました。「女の子にライアンなんて」と笑うマット。その「女の子」の言葉に、同年輩のライアンより、ずっと年上の男性のような包容力を感じました。私は事前にストーリーは知っていて、何故この内容でサンドラとジョージなんだろうか?ミスキャストじゃないの?と、若干訝しい気持ちでしたが、観れば納得。マットの役柄は宇宙飛行士としての技量の確かさだけではなく、人としても男性としても、風格がなくては成り立ちません。重厚ではなく軽妙さも必要で、クルーニーはドンピシャで、初めて彼が俳優としてだけではなく、男性として素敵に感じました。

ライアンは幼い娘を、預けていた幼稚園での事故で四歳の時に亡くしています。今は独身の彼女。夫とはその事が原因で別れているのか?そもそも夫はいたのか?両親など身近な親戚とも疎遠だと言うライアン。彼女の人生に娘の死が、とても暗い影を落としていると暗示していると思いました。

ライアンはどんな境遇でも、生きている自分は、死んだ娘に恥じない生き方をしなければいけないと、常に自身を励ましていたのではないでしょうか?それ自分に負けない彼女のプライドを作ったのでは?危機また危機の状況に精根尽きかけた彼女を励ましたマット。マットに対して、ライアンは娘と同じように、彼に恥じない行動をと誓っていたのでしょう。想念が現れたのだと思います。

サンドラはスッピンで全編出ずっぱりでした。地球に絶対生きて帰る、その一念の中に、ライアン・ストーンと言う地味な女性の人生を感じさせなければいけない。それがなければ、ただのハラハラドキドキのアトラクション映画です。私は劇中何度も涙ぐみましたが、生命に対する感動と共感を私に与えてくれたのは、ひとえにサンドラの好演のお陰です。ライアンを通して、サンドラ・ブロックの内面の豊かさも、透けて感じたのかも知れません。それは私の独りよがりかも知れませんが、感じられて幸せでした。

どうして撮ったんだろうか?と、好奇心いっぱいにもなりました。壮大であっても荘厳ではない宇宙に身を委ねた90分は、俗世の憂さや悩みが、なんて小さな事よと、私の心も大きくさせてくれます。地味な内容の娯楽作で、面白さと感動を見事に共存させている、ハリウッドの底力を感じる作品です。


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