ケイケイの映画日記
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2013年08月09日(金) 「17歳のカルテ」




もう公開してから13年になるんですね。ずっと見逃していたこの作品、やっと昨日ケーブルのオンデマインドで観ました。思春期の女子たちが集まる精神病院が舞台なのと、当時アンジーがオスカーを取った事しか認識がありませんでしたが、境界性人格障害のヒロインのお話だったのですね。観ていてむせび泣いてしまう場面が続出。人格障害については、個人的な思いもあり、実に感慨深い鑑賞でした。秀逸なガールズムービーでもあります。監督はジェームズ・マンゴールド。舞台は1967年のアメリカの精神病院。旧作につき荒筋なし、ネタバレです。

自身も境界性人格障害で精神科に入院歴のあるウィノナ・ライダーが、プロデューサーも兼ねて、原作者のスザンナ・ケイスンを演じています。同じく人格障害ですが、もっと獰猛な少女リサがアンジェリーナ・ジョリー。他に虚言癖のクレア・デュバル。顔にやけどの引きつりのあり、精神的な成長を停めてしまったエリザベス・モス。摂食障害のアンジェラ・ベティス。同じく摂食障害ですが、近親相姦の秘密も抱えている少女に、亡くなったブリタニー・マーフィー。一時代を築いたり、現在中堅女優として活躍したりと、錚そうたる面々です。

厳しい監視の目をくぐり抜け、彼女たちが院内を冒険する様子が愛らしい。戯れに寝た相手の妻から詰られるウィノナを、少女たち全員で守る姿も微笑ましい。入院ではなく、女子高の様です。誰にも理解されず、今まで居場所がなかったのでしょう、ここは彼女たちの安息の場なのだと感じます。この笑顔、どこかで観たなぁと思い起こすと、「プレシャス」でした。この映画も、恵まれぬ環境の中、学校に通えなかった少女たちが通うフリースクールで、彼女たちは初めて年相応の笑顔を見せます。環境や傷ついた心を共有する人がいる大切さを、感じずにはいられません。

しかし、これはステップなんですね。一見絆を結んでいるような彼女たちも、実はガラス玉のように壊れやすい関係です。次々医療者側の気持ちを裏切るような行動に出る彼女たち。私も医療従事者として、遠巻きに見てきた風景です。もちろん彼女たちは、裏切ってなどいない。成長や回復を望むの、こちらの勝手な思い込みです。このもどかしさを乗り越えて、彼女たちを見守る看護師をウーピー・ゴールドバーグが演じています。厳しくてちょっと怖く、何事にも動じないウーピー。彼女たちを信じるでもなく突き放すでもなく、常に温かさだけは失わず接せられたのは、彼女も黒人として、人生の辛苦を舐めてきたからだと思いました。

個人的な思いとは、私の亡くなった母が人格障害だった事です。母は精神科に通院歴はなく確定ではありませんが、私が精神科に勤めるようになり、気づいた事です。近頃流行りの「母が重たい」と、多分根本的には違うと思う母娘関係だと思われます。アンジー演じるリサを観ていて、まるで母を観ているようでした。華やかでカリスマ性があり、リーダーシップを取る。自分の手の内にいる時は守るけれど、飛び出そうとすると決して許さず、相手を傷つけまくる。攻撃的で常に自分に注目を集めたい。リサはまだまだ綺麗に描いている方です。

私の母も睡眠剤や安定剤、鎮痛剤が手放せない。少しでも口応えすると、半狂乱になる。それでも不仲の両親、問題のある家庭に育った私が、我慢できずに、今思えば思春期の辛さを母にぶつけただけでした。そうするとお決まりの自傷。私ではありません。母がです。ガス管を口に加える、舌を噛み血だらけになる、窓ガラスをバッドで叩き割る。そうすると、私が「お母ちゃんごめん!私が悪かったから!」と、号泣して謝るからです。女が出来た父を責め立て、布団に火を付けた事もあります。そして繰り返される両親の壮絶な喧嘩と、腹違いの兄たちや、母の親兄弟とのドロドロの確執。

人格障害の人は虚言癖もあり、それで周囲が振り回されます。母の葬儀の時、叔母の一人が、「姉ちゃん、頭が良くてセンスもよくてな。でも小さい時から嘘ばっかりつくって、お祖母ちゃんがよく困っていた」と言う言葉も、今の勤め先で働きだしてから、意味がわかりました。話を盛る程度ではなく、事が真逆の内容の事もしばしばで、母の場合困った事に、自分の創作した話が、いつの間にかそれが真実になっている事でした。

思春期になると、母はよその家のお母さんとは違うと、ぼんやりわかってきます。人より抜きん出た気の強さと、父や自分の親族との不仲のため、母は神経を疲弊させていたからだと、私は思っていました。ある日いつものように包丁を取り出し、「あんたがわかってくれへんねんやったら、お母ちゃん生きてても意味ないから、今から死ぬわ!」と言う母に、当時18歳だった私は、「死にたかったら死んだらええやん!もう勝手に死んで!」と、大声で泣き、謝らなかったのです。へなへなとその場に座り込んだ母は、たった一度私に謝り、それ以降は私の前では自傷しなくなりました。妹の前ではしてたみたいだけれど。その時の姿が、「誰も私の背中を押してくれない」と、泣きまくるアンジーに重なりました。この母と対峙する事でいっぱいいっぱいだった私は、自分自身をコントロールできない母の辛さは、全くわかりませんでした。

幸いにも、母の状態が出るのは身内だけ。これは今でも心から良かったと思っています。

ぼんやりだった母の輪郭がくっきりしたのは、結婚後。母から離れてからです。そんな生い立ちなので、何者かになるほど賢くもなく、不良に成るほどバカでもなかった私は、この家庭から脱出するには、結婚するしかないと思い込んでいました。せっかく生まれてきたのだから、一度は幸せだと言う思いを抱きたかったのです。しかし母が私や妹に吹き込んでいた父の人間としての欠陥を、何と夫も共有している。暗澹たる気持ちの新婚の私が、でもそれは、「男」だからなのだという解釈に到達したのは、それから程なくです。

結婚するまでの私は、幸せだと思った事は一度もないけど、でも不幸だと思った事もありません。それは母が何を言っても、父親が頑張って贅沢な暮らしをさせてくれた事への感謝の気持ちを、私が持っていたからでした。破天荒で4度の結婚離婚を繰り返した父ですが、母からモンスターのように吹き込まれていた父も、また母を持て余していたのだと気づくと、家庭を顧みなかった父への憎しみも、消えていくのがわかりました。

何故母は気づかなかったのだろう?母の四面楚歌状態は、実は自分がチョイスし、作り出したものだと解釈していくと、母親としての力量も足らない、こんなか弱い人が、家庭を顧みない夫の分までと、必死になって私や妹を育てたのかと思うと、180度違う人に思えました。「お母ちゃんは、父親も母親も兼ねられる器のある人間」と豪語して、私をしらけさせた母。実は自分を奮い立たせる言葉だったのだと、気づいたのはずっと後年です。

人格障害を克服するには、どうすればいいのか?と、うちの先生に尋ねたところ、「自分が変わりたいと言う強い意思が必要なんです」と回答を得ました。この作品で、正にそのシーンがありました。ブリタニーの自殺にショックを受けたウィノナが、涙ながらに「変わりたい」と、ウーピーに抱きつく場面で、涙が止まりません。それが如何に困難か、私にもおぼろげながらわかるからです。この作品は当時アンジーにばかり賞賛が集まり、これ程好演していたウィノナは、批評家から無視された事にご立腹だったとか。しかしそれは、演じた役柄のせいではないかと思います。立ち直った(そもそも人格とは一見わからない)スザンナより、強気な外見を装いながら、実は自分を持て余し、世間からも疎まれる者の哀しみや孤独が、リサの造形に溢れていたからでしょう。世間は弱い人に同情するものです。もちろんアンジーの好演あってのことですが。

土曜日担当の男性の先生に、「先生、人格って遺伝するんですか?」と聞くと「いや、環境やで」とお返事いただきました。そこが他の精神疾患とは違うところみたい(人格は病気ではない)。「うちの母親は人格だったんですよ。何で私はならなかったんですかねぇ」「それはケイケイさん、旦那さんが良かったんちゃう?」といたずらっぽく言われ、二人で大笑いしました。

「ダウンタウン」「この世の果て」など、スイートな名曲も、彼女たちの複雑な気持ちを表現するのに役立っていました。女の子の一断面を切り取った青春ものとしても、精神疾患を扱った作品として観ても、秀逸な作品だと思います。統合失調症は比較的若く発症するので、これはもう大丈夫でしょうが、これからは老年期妄想症とか、老人性うつ病が待っている(笑)。精神疾患は、生きている間は口を開けて待っているかのようです。そう思うと、著者ケイスンの「精神病院に入るのは簡単」と言う言葉は、実に重い意味を放つ気がしませんか?


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