ケイケイの映画日記
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2011年10月29日(土) 「幸せパズル」


誕生日に観てきました。細かな演出が行き届いた秀作ですが、決めて欲しい時の盛り上がりがやや欠ける点が気になり、それとヒロインの最後の選択に、私としては大いに不満が残ります。日本公開は珍しいアルゼンチンの作品。監督は女性監督で初メガホンのナタリア・スミルノフ。

アルゼンチンの首都ブエノスアイレス。専業主婦のマリア(マリア・オネット)は、夫(ガブルエル・ゴイティ)と成人前後の二人の息子に囲まれ、幸せな毎日を送っています。50歳の誕生日にプレゼントされたジグソーパズルの魅力にはまった彼女は、次々と新しい作品を完成させます。ある日ジグソー店で「ジグソーパズル大会のパートナー募集」と言う貼り紙を観て応募。大会に優勝すれば、ドイツの国際大会へも参加できます。相手は富豪の独身紳士ロベルト(アルツゥーロ・ゴッツ)。ロベルトはマリアの才能を見抜き、二人はパートナーを組むことになります。

冒頭、大勢人の集まるホームパーティーが映されます、美味しそうなごちそうをたくさん作るマリアは、ゲストをもてなすために甲斐甲斐しく動きっぱなし。何のパーティーかしら?と思っていたら、何と自分の50歳のバースデーパーティー。奇しくもこの作品を観た当日、彼女と同じ年になる私はもう愕然!誰一人手伝わないんですよ。それどころか注文ばっかり。あぁ哀しい、何て哀しい。何より哀しかったのは、マリア自身がその事を当たり前に受け取っていたことです。

マリアがパズルにいれ込んだのは、わかります。家で一人で出来るし、家事の片手間でOKなので、家族には迷惑をかけない。出来上がった時に達成感も開放感もあるでしょう。家庭を何より愛する彼女には、打って付けだったと思います。

段々興味が深くなると、次のステップを目指したくなるもの。知らない人に連絡を取るなど、パズルが絡んでいなかったら、善良で貞淑な彼女の人生には有り得なかったでしょう。この辺は私自身も映画を通じて経験しているので、大いに納得でき、マリアの変化に応援したくなります。

行ってみると、相手は独身で富豪の中年男性ロベルト。彼女のパズルの組み方は独特のものですが、自由にやらせてくれ的確な指導もしてくれます。以前の彼のパートナーは、マリアより若く美しい女性たちでした。実力もある。しかしロベルトはマリアを選んだ。それはマリアの組み方に魅力を感じたからでしょう。無手勝流の組み方に、成熟した自分にない若々しさを感じたのかも。コンビなのですから、腕前もさることながら、性格的な相性も大事なのですね。パズルの練習を通じて、お互いが親愛と敬意を深めていくのも納得できます。

マリアの夫は経済力もあり精力的な男性で、頼り甲斐もあります。何より心から妻を愛しています。息子たちも一般的には素直な良い子に育っている。マリアはその事に満足もし感謝もしていました。しかしひとたびマリアが家庭以外に目を向け出すと、ほんの少し彼女が自分たちの世話に行き届かなくなると、わからず屋と化します。これは夫や子供が変わったのではなく、マリアが変わったのです。

全く化粧けのなかったマリアが薄化粧し、家事で薄汚れていた爪はマニキュアが施されている。新しい自分を見出し、スクリーンの彼女はどんどん明るく美しくなっていくのに、家族は全く気づかない。家族が自分の成長に無関心である事は、主婦にとって寂しく辛いものですが、これは致し方ないとも思います。パズルはあくまで趣味で仕事ではないです。家計のために働いて行き届かなくなるならいざしらず、家族の不満もわかります。私は映画館へ再び通い始めた10年前、この事には細心の注意を払いました。そういう家族にしてしまったのは、自分だって悪いんだから。これは趣味を継続していくための通過儀礼だなぁと思って観ていました。しかし・・・。

練習風景はいつも中途半端なままで終わり、完成は映しませんでした。大会でも同じ。なのでパズルの面白さが伝わりづらく、大会風景も盛り上がりません。あっと言う間に終わっていました。この辺は演出に工夫が欲しかったです。

さてこの後のマリアの選択は?これが私にはとても残念な結論でした。せっかく誰かの妻・母である以外の自分を見つけたんでしょう?導いてくれる人にも巡り会ったんでしょう?私を含む多くの主婦は、主婦としてではなく、自分自身の人格を家族に認めて欲しいはず。これからの積み重ねが、その絶好のチャンスだったのに。何故彼女がそう選択したのか?それは「あの出来事」のせい。マリアは賢い女性なのでしょう。だからこの選択になったのですね。なので、どうして勢いに任せてあんな事したの?と、私は残念でなりませんでした。

マリアはロベルトの存在を隠していました。一人で大会に参加することになっていた。確かに練習とは言え、男性と二人きりの状況は言い出しにくいです。でも私ならこの時点で、まず家族の了解を得ます。スタートがまずかったのですね。これが欧米や日本の作品なら、違うマリアの姿が描かれていたはずだと思うと、アルゼンチン女性は未だに、愛されているのなら篭の鳥で結構だと言うのが、世間一般の感覚なのかと、思い至りました。エンディング一人でピクニックをするマリアの姿は、元の世間知らずの女性には戻れない姿を表しているようで、無性に切なくなるのです。

主婦の変化や成長は、時として家族には脅威になるものです。でも充実して豊かな毎日を送っている妻・母の姿は、家族にだって嬉しい事のはず。やがてはその事を尊重してくれるものです。主婦の方も家族には私が必要だ、夫や子供に愛されていると言う自覚と気概を忘れずにね。そうすれば、家庭の平和と自分の成長は両立出来るはずです。もしかすると、それを主婦に教えてくれる作品だったのかもしれません。


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