ケイケイの映画日記
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2010年04月16日(金) 「息もできない」




予告編を観ただけで心を揺さぶられ、絶対観ようと思っていた作品。発展する韓国社会で、底辺に置き去りにされた人々の苦悩や哀しみが充満していながら、希望も感じさせる作りで、すっかり魅了されました。監督は主演のサンフン役も兼ねるヤン・イクチュン。これが初監督作。忌まわしい負の血の連鎖を暴力描写で描きながら、ベトナム帰り、DV、違法な取り立て、崩壊した家庭など、現在の韓国の様々な社会的要素をも取り入れた傑作だと思います。

チンピラのサンフン(ヤン・イクチュン)。仕事は取り立て屋です。仕事場でも冷酷にして非情、自分の意に添わねば、相手かまわず殴り倒します。幼い時、父親の暴力が原因で母と妹を亡くし、以降父親には憎しみを抱いていますが、異母姉の子ヒョンイル(キム・ヒス)に対しては、不器用な愛情を注ぎます。ひょんなことから、生意気な女子高生ヨニ(キム・コッピ)と知り会います。彼女もまた、精神に異常をきたした父、崩壊した家庭にいけやがさす弟ヨンジェ(イ・ファン)がおり、彼らからの日常的な暴力に悩まされています。お互い境遇は知らないのに、魂が魅かれあうように、交流が始まります。

サンフンは粗野で粗暴、凶暴な男です。口を開けば「クソアマ」「クソ野郎」「クソガキ」など、人を罵る言葉しか出ません。知性や教養からも遠く離れた男です。そんなサンフンの土壌を作っていたのが、父の暴力でした。子供の時に母と妹を奪われ、一見そのうっ憤を老いた父を殴ることで発散しているように見えます。しかし、実の父を殴って楽しいでしょうか?嬉しいでしょうか?サンフンの心は、荒む一方だと思うのです。その辛さを思うと、無性に泣けてしまう私。

家族に暴力をふるっていた父は、今は息子に殴られるだけ。辛いでしょう、哀しいでしょう。韓国社会では父親は絶対の存在。息子に殴られるなどこんな恥はありません。しかしその痛みは息子に殴られる痛みではなく、息子を人を殴る事でしか自分の心を表現出来ない人間にしてしまった、親としての悔恨の痛みです。殴られているだけの父の心は、サンフンにも通じているはずなのに、殴る事が止められないサンフン。父親は十数年前の自分を、息子の中に観ていたはずです。

誰彼なしに殴るサンフンですが、姉と社長(チョン・マンシク)にだけは、口こそ罵りますが、決して手を出しません。姉、兄貴分と言う立場をわきまえているのです。二人はその事に気付いているでしょう。こんな凶暴な男の本心を知っているから、最後まで見捨てずにいたのです。夫のDVから離婚した姉、取り立て屋の社長なのに、決して現場に出ない社長。「誰だってやりたくて、こんなことをしているんじゃない」と言う社員にも温かい社長は、孤児でした。「どんな親でも、おれはいて欲しかった」と、サンフンの父にとお金を渡す社長には、こんな生業である事の、せめても罪滅ぼしの意が汲み取れます。本心は暴力から逃れたいのです。

もうよい年に見えるサンフンのどこにも女性の影が見えないのは、父から受け継いだ暴力的な血を怖れているからなのかも。家庭を持つのが怖いのでしょう。しかし血の繋がった甥ヒョンイルを不器用に愛する姿は、彼が血の濃さを求めているからでしょう。血を呪い血を恋しがるサンフン。

ヨニの家庭も複雑です。ベトナム帰りの父親はそのせいで精神に異常をきたし、妻は亡くなったのに不貞を働いていると思い込んでいます。弟は始終ヨニに暴言を吐き小突きまわす。時々感情を爆発させながら、この家庭を捨てない彼女は、心のどこかで父や弟を理解し赦していたのだと思います。だから不良にならず、同じ境遇のサンフンに、魂が呼応するように引き寄せられたのでしょう。

本当に辛い悩み事は、誰にも言えないものです。人に相談出来る悩み事は、まだ軽いのだと私は思います。排他的になる二人の気持ちが、私には痛いほどわかるのです・お互い交流を重ねても、自分たちの境遇は決して話さない二人。作り話の家族の話をするヨニに、「それなりの家の子だと思っていたよ」と言うサンフンですが、それは彼の思いやりでしょう。チンピラと街をほっつき歩き酒を飲み、夜中に会いたいと言えば出てくる少女が、堅い家の娘だとは誰も思いません。愛でもなく友情でもなく、そんな生易しい感情ではない、突き抜けた二人の魂がぴったり重なった漢江での逢瀬。むせびなく二人の姿に私は号泣。美男美女には遠い男女がただ泣く、そんなシーンがこんなに美しいなんて。

サンフンとヨニ。次第に距離が近くなり、次の段階に二人の交流が深まる気配を見せた頃、サンフンは今までしてきたことの、落とし前をつけられます。それはまるで若い頃の自分に復讐されたが如くです。

明るい兆しを見せながら、暴力の連鎖は断ち切れないのかと、ヨニを絶望させるようなラスト。でも私は、サンフンと交流することで強く生まれ変わったヨニを信じたいです。彼女には出来る事があるはずだから。自分の境遇を受け入れる事、それを学んだのが、サンフンとの逢瀬でした。

インディーズ界の大物俳優だそうなヤン・イクチュンは、私財を投げ打ってこの作品を作ったそうです。彼自身家族の問題に長年悩まされていたそうで、その思いをこの作品にぶつけたそう。各方面でこの作品は絶賛されたそうで、ヤン監督、自分の貴重な体験が映画人として生かされて良かったですね。私も複雑な家庭に育ち、結婚するまで様々な葛藤を抱えて生きてきました。その生い立ちが、私の映画の感想には生きています。多くの方に私の感想を好んでいただけるのは、あの両親あってこそだと、皮肉ではなく本心から思っています。この作品を観て、ヤン監督が私と同じ気持ちであることを、心から信じています。


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