ケイケイの映画日記
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2009年11月01日(日) 「母なる証明」




う〜ん、こう来ますか。内容は息子の無実を信じる母の愛と奮闘という、手垢にまみれたような題材です。これだけならパスしたのですが、監督がポン・ジュノなので、これは絶対観なければと初日に駆けつけましたが、流石はポン・ジュノ。一筋縄ではいきません。繁栄しているはずの韓国の、これも一断面なのだという自国へ向けての社会派的啓発と、普遍的な情の濃さと怖さが見事に浮き彫りになった作品です。

韓国の田舎町。トジュン(ウォンビン)は子供がそのまま大人になったような純朴な青年です。そんな息子が悪友のジンテ(チン・グ)とつるむのが心配なトジュンの母(キム・ヘジャ)。ある日この静かな田舎町で殺人事件が起こります。被害者は女子高生のアジョン。殺人現場に証拠品があったことから、トジュンが容疑者として逮捕されます。無実だという息子を信じ、奔走する母ですが、刑事も弁護士も相手にすらしてくれません。母は自分で真犯人を捕まえる決心をします。

オープニング、哀愁を帯びた、しかし陽気にも感じるギターの音色に合わせて、一心に踊る母の姿に引き付けられます。。その無心な様子は少し滑稽でもありますが、まさのその姿こそ、この作品で描かれる彼女でした。

トジュンは純朴というと聞こえはいいですが、要するにうすのろで少々おバカなのです。その息子を溺愛する母。この作品では一切父親の事が語られません。亡くなったのか離婚したのか、結婚に至らずトジュンを生んだのか、それすらわからない。これは意図的な「無視」なのでしょう。母と息子だけで生きてきた空気を、観客にも伝えたいからだと思いました。

前半はトジュンがどんな青年か、母親が如何に盲目的に息子を愛しているのかという描写が、いつものポン・ジュノ作品同様、毒気のあるユーモアが随所に挿入されながら、丹念に描かれています。私が目を見張った描写は、母がリップスティックの底の紅をすくい、指で塗る描写です。瞬時に男に会うのだと思いました。案の定相手はトジュンの弁護士。あの口紅はもうずっと使っていないものです。何年も前に生理も上がった年齢の、母親だけで生きてきた彼女。しかし息子のためなら、自分の朽ち果てている「女」が、少しでも役に立つならという、母親の執念が感じられるのです。

しかし演出にポン・ジュノらしさはあるものの、普通の母ものの域を超えない展開が、悪友ジンテの助言から一変します。犯人探しというミステリーと共に、社会派作品としての断面も鮮やかに浮かびます。

被害者アジョンの背景にあること。彼女はたくさんの男性と関わりを持っていましたが、その哀しい理由は、韓国の福祉体制が遅れていることを伺わせます。血縁関係を重んじる余り、何もかも家族で終結させようとする社会。しかし社会を恨むのでもなく、アジョンは「男は嫌い」と吐き捨てるように言うだけです。若い彼女ですら、自分の境遇を受け入れてしまうのは、幼い時からのすりこみでしょう。儒教精神は私個人は好ましいと思っていますが、行き過ぎると悲劇になるという見本です。

そして杜撰極まりない捜査。底辺に生きるトジュンやその母の存在など、虫けらのように扱われるのです。冒頭起きるひき逃げと暴行事件などもその象徴。わざわざひき逃げ犯の一党に大学教授を入れたのは、権力者にへつらう、昔ながらの韓国の体質を指摘しているのでしょう。

見てくれの良い容姿への熱望。不妊に悩む女性に、「この薬を飲んで私はトジュンを生んだのよ」と、にこやかに言う母。女性は大人になっても自立の出来ないトジュンの側面より、何度も「あの子は小鹿のような目をしている」と、トジュンの美しさを口にし、心動かされます。美容整形大国と言われる韓国ですが、確かに過度に容貌を気にするきらいがあります。だから私は、アジョンが関係した男たちの容姿を観て、本当に哀しかったのです。相手を選べない理由があったから。

ハンサムで腕っ節も強いジンテは兵役も終えています。しかしゴロツキのまま。韓国社会は、一度底辺に落ちると、這い上がる事は日本より困難だと思わせます。

そして障害者差別。トジュンは明らかな障害はありませんでしたが、少し発育に遅れがあるようです。そして母が面会を熱望した青年は、ダウン症であると思しき顔立ちでした。その青年に「あなた、お母さんはいるの?」と問いかける母に、私は号泣。

私の父親は二歳で父を、五歳で母を亡くしています。異母兄弟の兄たちは、幼児の頃生母と別れ、父の再婚相手である私の母に育てられましたが、私の母はあからさまに義理の子と実の子を区別する人でした。不仲だった父や兄たちを罵る母の気持ちだけに添っていた私の気持ちに変化が生じたのは、息子を生んでからです。自分の一生はこの子のためだけに生きてもいい、そう思う人が、父や兄たちにはいなかったのです。その哀しさに気付いた時、私のわだかまりも溶けて行きました。

三人の息子の母となり、この恐ろしいくらいの思い込みは、有り難い事に子供たちが成長するに連れ、私からは段々と薄れて行きました。この健康的な変化は、息子たちがそれなりに順調に育ってくれたおかげです。しかしトジュンの母はそうではないはず。夜眠る時は母の傍らに来て、乳房をまさぐるトジュンは、幼稚園の頃の私の息子たちにそっくりでした。ずっとずっと、この思いを抱いて生きてきたトジュンの母の息子への愛がほとばしる、哀しいセリフでした。

トジュンと母の我を忘れての錯乱した様子は、まるで同じ。まぎれもなく二人には同じ血が流れているのがわかります。母の落とした彼女が闇で治療している鍼の道具をそっと渡すトジュン。背徳感と同時に、母と息子は強い絆で結ばれているのだという、奇妙な幸福感が私の中で湧きあがります。あぁ怖い。母親って本当に罪深いわ。

キム・ヘジャはこの作品で初めて見ましたが、韓国の母と呼ばれる女優だそうで、常軌を逸したこの母が、本当にありふれた、どこにでもいる母親に見えるという、とても高度な演技力を見せてくれました。それが監督の狙いだったと思います。恥を晒し泣きわめき、罪を犯すトジュンの母。それでも彼女が素晴らしいと感じるのは、これが監督の母親と言うものへの思いでもあるのでしょう。ウォンビンは除隊後初めての出演だそうですが、アイドル俳優からの脱皮をはかっているのでしょう、自然な演技が上手く、適役でした。

その罪から解放されたくて、太腿に鍼を刺す母。こうしてトジュンの哀しく辛い記憶も封印してきたのでしょう。そして彼女は、これからトジュンの記憶がいつ蘇るか、また怯えながら暮らすのです。ひとときの刹那的な開放を表現するダンスシーンが哀しい余韻を残します。「殺人の追憶」のように、誰が観ても面白いというような作品ではありませんが、私にはポン・ジュノと言う監督のすごさを、一番感じた作品です。


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