ケイケイの映画日記
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2007年07月18日(水) 「ダーウィンの悪夢」(布施ラインシネマ・ワンコインセレクション)

ロードショーで見逃した作品でしたが、布施ラインシネマのワンコインフェスティバルで観ることが出来ました(会員は無料だぜい!)。結構周りの評判もよく期待していましたが、私の思っていたような内容ではなく、上滑りにしか持っていない私のアフリカへの知識を、上滑りに見せてくれただけ、と言う感じでイマイチした。こんな感想を書いたら、また辛辣って言われるかなぁ〜。

タンザニアのヴィクトリア湖。この巨大湖はかつて「ダーウィンの箱庭」と呼ばれ、様々な生物が生息していました。しかし約半世紀前、この湖に肉食のナイルバーチという魚が放たれてから、状況は一変。他の魚を食いつぶすナイルバーチのため、生態系は破壊され、湖はナイルバーチだらけになります。ナイルバーチが白身で食用に適していたため、EU諸国や日本への一大輸出産業が生まれます。湖畔付近の人々も、輸出産業に携われた人とそうでない人との間に、貧困・売春・暴力・ストリート・チルドレンなど、生活の格差が広がっていきます。果ては武器密輸の噂やエイズの蔓延も。

まず何が肩透かしだったかというと、私は生態系が破壊されるのがどんなに恐ろしいか、環境保護を訴えるのが一番の目的の作品だと、ずーと思っていたのですね。ナイルバーチのせいで、水質を良好に保つために活躍してくれた魚や藻などが全滅となり、近年のヴィクトリア湖は、水質が著しく低下して、濁って何も見えないそうです。しかしこの説明は本当にチョロっと。数字で説明してくるわけでもなく、ただただナイルバーチの繁殖のせいで、押し通します。その割には「誰かによって放たれた」そうなんですが、その誰かって、とても重要なことだと思うのですが、これも最後まで「誰か」。「誰か」が欧米諸国の人間で、現在の様相を予見していた上でなら、それはとっても問題だと思うんですが。

この作品の真意は、湖畔で生活する人々の悲惨な状況を訴えることにありました。衛生に気を配った工場で加工された切り身は、欧米諸国や日本へ。不衛生に放り出されたウジ虫の湧く粗や頭は、そのまま干して油で揚げたものがタンザニアの人々の食卓に上るのです。切り身は値段が高く、現地の人では口に出来ないのです。江戸時代にお百姓さんが白米を口に出来なかったのを連想する私。

他にも貧困からストリートチルドレンになった子供たちが、加工工場から拾い上げてきた発砲スチロール(かな?)の箱を燃やし、ドラッグのように吸う様子、炊きあげたほんの一握りの食物を奪いあい喧嘩する様子など、子供持ちには、観ていて辛い衝撃的な場面が続きます。

ただどうも、ドキュメンタリーとして、作りが散漫なのです。子供たちを紹介する仲介役の青年は、今は働いて自立していると言いますが、その脱出の糸口を語ってくれるわけでありません。いかに悲惨かという点に力点を置いて映しているだけで、だたそれだけ。監督フーベルト・ザウバーの思いはわかりません。それは観客に考えて欲しいという風には見えません。

この作品の描いていることは、全て本当だと思います。しかし視点が少し偏っているように感じるのです。虚実ない交ぜではなく、「『やらせ』ない交ぜ」に私は感じるとことが多々ありました。例えばこの画像のおじさん。↓




加工工場の夜警さんなんですが、夜に褐色の肌・白目の赤い目は不気味で、語り口も小々芝居がかり怪しさ満点。地獄の道先案内風で、新東宝の「地獄」での、沼田耀一を思わすと言えばお分かり頂けるでしょうか?このおじさんは、「この貧しさから逃れるため、若い者は戦争を望んでいる」と語ります。これだけ聞けばズシンとお腹にきますが、語るのはおじさんだけ。ドキュメントなら、他の人の声も拾わなきゃ。「フランドル」でも、何も無い田舎での生活に飽き飽きした若者が、戦争に刺激を求めますが、「フランドル」はフィクションで、テーマは暴力と性についての観念を描き少し哲学的なものです。対してこの作品はノンフィクションです。このおじさんは脚本付きの映画だったら、助演賞ものの印象深さなんですが、ちょっと素人には見えませんでした。

他にも欧米からナイルバーチを運ぶためやってくるパイロットたちに売春している若い女性が出てきてインタビューに答えますが、ここも自然な感じには受けませんでした。彼女はそののち客のオーストラリア人に殺されたと、同僚の娼婦たちから語られます。本当か?ならどうして「弔いに行った」と語る女性がいるのに、その様子を映さないのか?本当ならドキュメントとして詰めが甘いし、やらせなら演出が雑です。加工工場の社長は現地の人と顔つきが違い、中東の人にように見えました。私の感じる通りなら、掘り下げることはたくさんあると思います。

他にも何やら怪しげなものを嗅ぎながら煙草を吸う、年端の行かない子どもを映すのですが、それも悲惨さを煽るだけ。だから監督はどうしたいの?観客はどうすればいいの?かなり監督の意図の入った演出の割にはアフリカの悲惨な状況が垣間見えるだけで(それも以前から知っている)、その先の明確な作り手の意図は伝わってはきません。

テレビのドキュメントで、世界中の学校に行けない子どもたちを定期的に映す番組があります。ある子は5歳でカカオ取り、ある子は10歳で鉱山で穴掘り。もちろん学校へは行けません。幼いので母の喜ぶ顔が見たい一心というのが本当のところなんでしょうが、番組は彼らが自分の手で稼いだ金で家族を養っているという、子どもなりの誇りと自負を認めています。あるストリートチルドレンの少女は13歳で出産。翌年も父親の違う子を産みます。この状況で絶望する気持ちを必死で抑え、「今まで家族がなかったんだもの。私はもう一人じゃないわ。私はお母さんなんだもの。頑張るわ。」と語る幼い母を映すとき、作り手の彼女へのエールが感じられます。

この番組はお涙ちょうだいかも知れません。しかし作り手の彼らへの「何とか子供たちの役に立ちたい」と言う感情を感じるのです。それは映される側にも通じるものではないでしょうか?そういう「何とかしたい」という気持ちが、この作品からはあまり伝わってはこないのです。センセーショナルな事実を羅列しているだけでは、ジャーナリズムとしての役割には、少し物足らない気がします。

それにしても「ナイロビの蜂」「ブラッド・ダイヤモンド」などで、盛んに描かれる欧米諸国や他の国の食い物のようにされているアフリカ。自分は何をどすればいいのかわからない時、本当に無力を感じます。上に書いた番組などでは(他の番組かも)、確か案内の番号へ電話すれば、それだけで少額の寄付になる制度を設けていました。何もしないよりまし、偽善者かも知れませんが、それしか思い浮かばないダメな私です。


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