ケイケイの映画日記
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2006年12月14日(木) 「硫黄島からの手紙」


昨日私の愛する布施ラインシネマで観て来ました。昨日はオープン10周年記念日ということで、大盤振る舞いのサービスがあり、この作品もガラガラだった「父親たちの星条旗」に比べ、超満員でした。しかし映画を観てそれも納得。今まで観たこともない日本を描いた戦争映画で、本当に本当に全て事実だったんだろうなと感じました。「父親たちの星条旗」の最後に書いた私の疑問にも、答えてもらった気がします。
 
1944年6月の太平洋戦争末期、戦局は悪化する一方の中、硫黄島に新しい指揮官・栗林中将(渡辺謙)が着任しました。アメリカ留学の経験もある栗林は、従来の精神論が幅をきかせる軍の様式を踏まえず、合理的な方法で軍をまとめようとします。それに疑念を持つ伊藤中尉(中村獅童)など反発する将校が多数の中、乗馬でオリンピックに出場経験のある西中佐(伊原剛志)だけは、栗林の良き理解者でした。そして西郷(二宮和也)たち、下級兵士も。栗林の戦術で善戦する日本軍でしたが、それも空しく終焉はそこまで見えていました。

「父親たちの星条旗」で当時の自国を辛辣に描いていたので、日本を描いても、辛辣とまでは行かなくても、それなりに厳しく描いているだろうと思っていましたが、あまりにも鮮明に当時の兵士達の心をすくい取っていたのには、びっくりしました。栗林中将が死を覚悟して、部下達に命懸けの命令を下す際、お馴染みの「天皇陛下、万歳!」を叫ぶのですが、今まで観た作品と全然感じが違うのです。

栗林はアメリカへ留学し、外から日本を観た人です。「太陽」の感想を読んで回っていたとき、70半ばの親御さんが、「天皇が人間だなんて、本当はみんな知っていた。知っていたけど黙っていただけ。」と話されたというのを読みました。栗林とて同じでしょう。国民の心を一つにするには、天皇に神となってもらい、お上の御為という求心力が必要だったのだと感じました。親米家で、争いを好まぬ彼の戦いぶりは、「玉砕するのではなく、ここで踏ん張れば本土にアメリカが渡るのを遅らせられる」と言う言葉と共に、本当の愛国心とはどういうものか、教えてもらったような気がします。

手榴弾での自決シーンが出てきますが、これがもの凄い。こんな風にして自決したのかと思うと本当に胸が痛みました。ここでもお決まりの「靖国で会おう」が出てきますが、自決を否定しながら彼らの想いを尊ぶ演出に、イーストウッドのこの戦いに対する気持ちを見た気がします。

何やかやと上層部を陰で揶揄する西郷は最初から軍人ではなく、元は妻とパン屋を営んでいました。当たり前なのですが、伊藤などとは心構えが違います。今の時代から見ると、生き残ることに執着する西郷や憲兵というエリートから脱落した清水(加瀬亮)などは、感情移入出来る人物達ですが、当時も一心不乱にお国のために戦ったと思われがちな兵士たちですが、本当の姿は彼らのようだったのではないかと思わせます。

西が読んだアメリカ兵の手紙は、母親からの、ただひたすら息子の無事を祈る内容でした。そして「あなたの正義を貫きなさい」と。兵士たちが今まで鬼畜米兵と聞かされていた彼らが、自分たちと同じ血が流れていたことを知る時でした。栗林にしろ、西にしろ、世界を見渡しアメリカ人は鬼畜ではないとわかっている人たちも、戦わなければならない壮絶な虚しさ。これが戦争なのです。「父親たちの星条旗」の三人の姿でもわかるように、勝とうが負けようが人生を一変させ、一生逃れられない苦しみを与えるのが戦争だ、私がこの二作から感じたことは、これでした。

キャストは二宮和也が大評判で、なるほど好演でした。しかし「青の炎」を観ていた私には、これくらいは彼の実力かとも思います。渡辺謙も、同じく。中村獅童も、この作品では敵役のような強硬派の軍人を印象深く演じていますが、ますます歌舞伎は辞めて映画に専念した方がいいような感じが。私が感心したのは加瀬亮です。憲兵から脱落した者という難しい役ですが、教育と繊細な感受性の間で心揺れる清水を、とても上手く演じていて、私は彼が一番印象に残りました。

もう一つ嬉しかったのは、伊原剛志。彼は本人もカミングアウト済の、日本に帰化した在日韓国人です(ついでに、うちの息子達の中学の先輩)。歴史に残るこんな大作で、部下に「あなたに出会えて光栄でした」と言われる様な将校を彼が演じたことは、同じ出自の私には大変嬉しかったです。国境など軽がる越えたようなバロン西の雰囲気が良く出ていました。

私が疑問だった日米の「お国のために命を散らす」と「生きて返すと約束した」は、勝機があるのかないのか、本当は上の人達はわかっていたからではないか?と感じました。日露戦争や日清戦争でも同じ事を言ったのでしょうか?この辺は不勉強でわかりません。

栗林は息子の太郎、西郷は妻の花子、そして清水は母上と書き始めます。太郎と花子は、日本人全てということでしょう。そして名を呼ばれない母は、世界中どこでも名前など必要も無いほど、それぞれに大切な人、と言う意味なのでしょうか?


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