ケイケイの映画日記
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2005年11月21日(月) 「カーテンコール」


続々と寄せられる賞賛の声に、予定より早めに日曜日に観てきました。しかし良質の誠実な作品には間違いありませんが、在日韓国人の描き方に私は温度差を感じてしまい、手放しで称賛とはいきませんでした。今回ネタバレです。

東京の出版社に勤めていた香織(伊藤歩)は、ある事件が元で今は福岡のタウン誌でライターをしています。映画館で幕間芸人をしていた人をタウン誌でとりあげることになり、取材のため久しぶりに故郷の下関へ戻ります。取材のため幕間芸人・安川修平(藤井隆、のち井上尭之)が出演していた「みなと劇場」を訪れると、昭和33年から彼が舞台を降りるまでの話を、劇場従業員の絹代(藤村志保)から聞くうちに、彼の家族のことが気になりだした香織は、修平の一人娘美里(鶴田真由)のところを訪ねます。

みなと劇場で絹代から語られる回想場面が素晴らしいです。当時の娯楽の殿堂であったろう映画館の熱気が感じられ、その仕事に携わる修平たちの気合や愛情が感じられます。画面に映る邦画の名画の数々は、ワンシーン観ればすぐわかる作品が次々で、これも嬉しい限り。私が生まれるちょっと前から回想シーンは始まりますが、私は幼稚園頃から映画館には連れていってもらっていて、幕間に芸はさすがに知りませんが、駅弁のように売り子さんがお菓子やジュースを売りに来てくれたのは覚えています。あれこれ買ってもらうのも楽しみでした。そうそう男の人はあんな風にタバコも吸っていたなと、それまでもが懐かしく思い起こされ、中年より上の映画好きにはたまらない場面の連続でした。語り部にその年齢の男性にはマドンナだった藤村志保を使ったのも正解で、変わらぬ清らかさに年輪が加わり、みなと劇場とは絹代自身なのだと観客に思わせます。

映画の隆盛から衰退まで、一貫として同じ接し方で夫を支える修平の妻(奥貫薫)の描き方が良いです。時間がある限り夫の舞台を観て、幕間芸人の夫を心から愛しているのがわかります。彼女が夫のために夫を首にした劇場へ、彼女が恥も外聞もなく談判に行くシーンでは、常に控えめだった人なのでその行動力に驚き、そして妻なればこその勇気だと泣かされました。演じる奥貫薫は少し老けましたが、優しく平凡な奥さんを演じて、いつも真心を感じさせる人なので、この作品でもそれが生かされ好演でした。修平を演じる藤井隆は、のち娘から「素人芸」と評されるので、まぁあんなもんかと。お笑いの人は演技をすると唸るほど上手い人が多いですが、彼の場合バラエティでの司会が中心なためか、それほど演技巧者とは思いませんでした。彼の持ち味である誠実さで救われた感じです。

前半、東京での失敗と対極するような地味な題材にのめり込む香織の姿も自然で、評判通りの秀作だと思っていたら、修平が実は在日韓国人であり、妻の死後美里を捨てて韓国に帰ったのが判明してからの、在日の描き方に疑問符がいっぱいつくのです。以下に書くことはあくまで私の私見であると思って読んでいただければ幸いです。

香織が安川父娘の行方を捜すのに区役所に行くと「個人情報だから」と断られるのに何故民団の地方支部なら簡単に教えるのか?確固たる理由がなければ、民団でも対応は同じはずです。美里は修平に中学生になる前に捨てられてから、施設で暮らし筆舌に尽くしがたい生活を送っていたはずです。その名残か、美里を演ずる鶴田真由のあまりの所帯やつれぶりにびっくりした私は、なるほど役作りかと納得。

しかし同じ在日の夫と結婚し、子供に本名を名乗らせて、差別に負けない強い子にとセリフにありますが、その強い在日としてのアイデンティティーはどこからくるのでしょう?彼女は母親は日本人のいわゆるパンチョッパリ。自分を捨てた憎い父の国を素直に母国と思えるでしょうか?夫も早くに両親をなくしたとセリフにありますが、この人もまたしかり。日本にいて自分の血を確認するのは親や周囲の人間からです。この人たちの育った背景がまるで語られないので、「苦労した」のなら、尚更日本に住んでいるのに受け継ぐ親もいないのに、在日に固執するのかわかりません。普通は同化する方を選ぶのでは?

亡くなった母の33回忌の墓参りに偶然美里の夫と修平は出会いますが、韓国では○○回忌という風習はなく、毎年命日に同じように法事をします。たまたま修平は普通の命日のつもりで墓参りしたかもしれませんが、上に書いたように在日であることを強く意識した人たちなので、たとえ母は日本人でも韓国人の妻として亡くなったのなら、13回忌や33回忌という言葉が出てくるのは変です。

香織の中学の同級生金(橋龍吾)も、中学生の時に香織との淡い恋破れ、その時の痛手か、結婚相手には同じ在日を選んでいます。これって何?いつの時代だという描き方です。これでは結局安全パイの相手を選び、勤め先も同胞ばかりの民団に移り、まわりまわって同じ血ばかりの場所が落ち着くという風に私には取れます。何と精気のない描き方でしょう。本当に在日を理解しているなら、今どんどん本名で社会に進出している人たちのように、文武両道だった金を描かなかったのでしょう?

佐々部監督は「チルソクの夏」で主人公に「お父さんは仕事で朝鮮の人の世話になっているのに、何で私が韓国の人とつきおうたらいけんと言うの?」という瑞々しくも感慨深いセリフを与え、私は嬉しかったものですが、この作品に限り在日へのアプローチの仕方は、言い方が辛らつで申し訳ないですが、大昔ハリウッドがシドニー・ポワチエに求めていたものに感じるのです。差別もさらっと目をそむけたいような物には描かず、だから差別はいけないと簡単に思わせ、差別迫害にもめげず清く正しく本名を名乗る毒のない日本人に都合の良い在日韓国人です。過去を描きながら見事に今があった「パッチギ!」とはだいぶ違いました。

日本人の佐々部監督が在日にこだわって描くのは素直に嬉しく思いますが、それなら確かなリサーチや掘り下げをお願いしたいところです。

美里を捨てた修平も親に早く死に別れています。家族ももたないそういう人は、独特の風来坊めいたアウトロー的雰囲気があり、老年期の井上尭之にはそういうムードたっぷりで、晩年の修平にはうってつけでした。若い頃の藤井隆にそういう雰囲気が欠けていたのまずかったかも。美里が劇場では会わず、遥々韓国に会いに行くのは良い設定です。よってたかって「正しい道」を説かれても、あの時は意地でも会ってやるもんかとなって当然。しかし会おうと思うまでの心の移り変わりが描かれていないので、唐突な印象が残るのが残念です。

微笑ましくも少々押し付けがましいおせっかいをする香織ですが、彼女の成長の記録とも見られる展開です。人はやはり他者と交わることで成長するのだなと、改めて思いました。修平が在日ではなく、普通の日本人なら何の文句も出ない作品だったと思います。その部分で気持ちが足を引っ張られたので、素直には絶賛出来ませんでした。金役の橋龍吾は歌手の橋幸夫の息子さんで、お父さんの「メキシカンロック」や「いつでも夢を」が流れ、なんとなく嬉しかったです。最後に佐々部監督は、「半落ち」でも意味のない上司と部下の不倫関係を挿入していましたが、今回も東京での上司と香織の同棲場面は必要なかったと思います。出版や新聞社関係は社内恋愛がいっぱいの刷り込みが、監督にはあるんでしょうか?


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