ケイケイの映画日記
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2005年07月21日(木) 「サラ、いつわりの祈り」

J・T・リロイ原作の自伝小説を、イタリアからハリウッドに渡り活躍中のアーシア・アルジェントが、脚本・監督を担当した作品です。ネグレストの親を子供の目から描き、見るに忍びない悲惨な描写もありますが、普通では理解し難い母と息子の愛情の絆を、冷静に、しかし突き放さず遠くから見守っているかのように描いた作品です。

突然暖かい愛を注いでくれた里親から、実母のサラ(アーシア・アルジェント)の元へ引き取られた7歳のジェレマイア。強引に彼を連れ戻したはずのサラでしたが、トラックの運転手相手に娼婦をしている彼女との生活は、暴力・育児放棄・ドラック、果てはホームレスまがいの生活など、子供にはとても劣悪な環境です。その生活の中で絆を深めていく二人。それは他人には伺い知れない母と息子の世界でした。

「世界でひとりぼっちの、ふたり。ギザギザの愛情でも、サラとぼくは、幸せだった。」これがこの作品のキャッチ・コピーです。本当に上手くこの作品を表しています。ジェレマイアが受ける虐待というのは、食事を作ってもらえない、子供を一人だけで何日も放置する、ドラッグを与える、粗相したした下着をそのままはかす、食べ物がなくなる、一緒にゴミ箱をあさるなど、あげるとキリががありません。そしてサラが連れ込むたくさんの男たちから受ける虐待。しつけと称しベルトで殴る、幼い子に同性の男性からの性的虐待などです。映画全体から漂う不潔感と嫌悪感。しかし何故か二人の心からは透明で純粋な愛が感じられます。

サラは幼いジェレマイアに、里親には捨てられたのだと嘘を言い聞かせます。お前には私しかいないのだと。そして私にもお前しかいないと抱きしめます。その様子や「こちらにおいで。」と、眠っている自分の傍らにジェレマイアを抱き寄せ、腕枕をして胸に抱く姿からは、この上のない幸福を感じます。幼い我が子を胸に抱きならが眠るその至福の瞬間、かつて同じときがあった私には、サラの気持ちがとてもよくわかります。

サラは我が子がいないと生きていけないのです。15の時生んだ欲しくなかった子供。しかし母親失格の烙印を押され、育てられないからと取り上げられたジェレマイアを、きっと片時も忘れたことはなかったのでしょう。「お前のためにどんなに私が自分を犠牲にしたと思っているの!」と叫ぶサラ。素直に謝る息子。一見なかなか理解出来ない光景ですが、母としてとても未熟なサラのこの叫びは彼女なりの真実だろうし、母には誰よりも自分が必要なのだという心が、素直にジェレマイアに通じるというこの不可思議も、納得も理解も出来るのです。

一児の母であるアーシアは、自分に全く共通項のない母であるサラを表現するのに、とても苦労したそうです。虐待の場面など細かく演じる子役や観客に配慮してあります。同性に陵辱されるシーンはその部分は言葉だけで、ジェレマイアの心身の苦痛は毒々しい赤い鳥で表現し、女の子が欲しかったというサラから化粧をほどこされたジェレマイアは、自分がサラと同化したと、きっと錯覚したのでしょう、同棲相手に自分から誘惑するのですが、そのシーンも腰をふってお尻を見せて演じるのは子役ではなくアーシア。

普通の感覚の大人なら、子供が性的暴行を受けるのを見るのは耐え難いです。なのに自分は排泄シーンやヌードを含め、レベルが低く薄汚い母親を果敢に演じています。この演出方法から、私はアーシアの母親としての子供を守る見識の高さを感じ、好感を持ちました。

サラの両親を登場させ、いわゆる虐待の連鎖も見せ、彼女がどうしてこんな女性になったのか、観客に問いかけています。ラストは甘美な雰囲気を漂わせながら、しかし破滅もきちんと感じさせるようになっています。J・T・リロイは、実際15歳の時まで母親と一緒に男娼として身を売っていたそうです。それなのにこの作品からはありのままを描いているのに、母と息子、お互い求め合う姿がそこにはあります。

子供はその表現がいびつでも、母親が自分を必要だということを心から感じたいのです。

アーシア・アルジェントは才女の誉れ高い人で、確かにすごく手ごたえのある作品でした。原作は未読ですが、きっとリロイの母に対する思いを、きちんとすくい取った作品ではないかと思います。


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