目次 |過去 |未来
先週の土曜日、京都市役所前、四条河原町で二つのデモで行われた。 どっちに参加したい? 午前中に四条河原町で開かれた集会 遠目に日の丸?、よく見ると日の丸の日の部分が雲古マークになっている。さらに大きな旗の方は、赤い日の部分になぜか寺の地図記号が描いてある。 ハーケンクロイツ のつもりなんだろうが、小学生に笑われるデ。(もっとも裏から見たらハーケンクロイツにはなる。)そのナチもどき雲古日の丸を、土足で踏んだ靴跡が描かれている。この旗をなんと地べたに引きずって行進し、その主張するところは「外国人を差別するな」「外国人日本人を言う前に人間である」「ファシスト!!(午後のデモグループに対して浴びせられた言葉)」 河原町四条の北西角ではハワイアンダンサーのような場違いな女が全面に出て、訳の分からない踊りで何事かを主張。 午後のデモのグループにかなり執拗にくっつき英字(日本人に主張するのに英語で書いてどうするんだ)で書かれたプレートをアピールしながらついてくる。朝鮮人とおぼしき初老と若者がけんか腰で、やはりずっとついてくる。警察官に終始遮られるもずっと妨害行動を取った。爆竹は鳴らすわ、特製の金ぴかの張り扇で、午後デモのリーダ格の一人、通称ドロンパ演説中の頭を張るわで大混乱させた。 午後、市役所前で開かれた集会 言っていること主張は至極真っ当。在日特権、外国人参政権の反対。不法入国の外国人への情緒的同情のマスコミへの批判、など。まったく正論。 デモ行進直前、場違いな二十代と思われるモデルのような綺麗なお姉さんがミニスカートで登場、大きな日の丸を持ち参加している。何でも「右翼や」と片づける人々にはかなりインパクトを与えたのではないか。 ところが行進が始まり、シュプレヒコールが、「朝鮮人はでていけー」「犯罪外国人をたたきだせー」これ以外に、たぶんインターネットで集まって来た連中が、各自叫ぶシュプレヒコールは、かなり過激で汚いものもあった。 午前の左巻きの連中が掲げているプラカード「外国人を差別するな」と午後の真っ当派の中の一部が叫ぶ、「朝鮮人(犯罪及び特権享受を略している)は出て行け」の怒号が町行く人々の頭の中で呼応して、誤解を抱かせる。その時居合わせて聞いた人達は、左巻きの掲げている旗印に共感しただろう。 午後の部に参加したが、一回目の NHK抗議の時に話しかけてきた居酒屋経営の人が今回も大阪から京都に来ていて挨拶を交わした。 この人が、「シュプレヒコールこれ過激やなあ」「言えんなぁ」思わずもらしたように、ある種の言葉はちょっと普通では言えない。 だが見ていると「空気」で品の良い婦人も一緒に気勢を上げていた。 こちらは言葉を選んで言っても良いと判断した主張だけを叫んだが、道を行く人々は十把一絡げに映ったに違いない。 さあ、これからどっちに参加する? 夜半、近くのバーに立ち寄り、昼の市役所前集会のことを知っているかと尋ねた。バーテンが 「ああ、右翼の集会でしょう」 ま、世間はこんなもんです。
2009年06月04日(木)
岳すれば 岳なるものと知りながら 山に山れぬ 山と魂
後輩の遭難の追悼文を五月末日にようやく仕上げて、故郷にある後輩が所属していた山岳会に送った。つい先日も、産經新聞東京版に、山岳事故の異常な多発の記事が載っていたが京都でも思い当たる事があった。 今年の始め頃、友人と実に10年ぶりくらいに京都の愛宕山に行った。ここは学生時代から足慣らしと登山靴調整のためによく登った。人ごみが嫌いで、なをかつ好き勝手に行動してしまうので、中々友人と一緒には行けないし、迷惑をかける。だから、殆ど一人で行っていた。勿論土日も外す。そういう山行きが普通であった。 今度同行した友人はサラリーマンだから当然土日しか休暇はない。だから、土日に山行き の選択しか無い。 朝、烏丸丸太町で友人をひろい、清滝の麓までタクシーで行く。朝といっても、もう十時近く、終点清滝バス停に来るわ来るわ老若男女、ある人は我々と同じようにタクシーで、また自家用車で、バスで続々とやって来る。 過去、土日に山に入った記憶は無かった。 朝の静かなバス終点でコーヒーを飲みちょっとしたもの食べ、 ゆっくりと歩き始めようと言う思いは見事に砕けた。 清滝の日頃閑散として人もまばらな場所に、町中のにぎわいが出現した。百人はいたのではないか。 人ごみの中それでもコーヒーを飲みながら、各、山人の足下を観察する 。十数年は履き込んでいると思える見事なまでに手入れの行き届いた登山靴を履いている初老がいる。登山には楽なニッカ−ボッカを履いている人もいる。いづれも中高年が目立ち、若者は目立たない。 かってここを何度も登っていた頃は、普通の日の朝、人に会う事はまれであった。世間の休日がこれほどの登山人口を持っている事にびっくりした。 それにしても多すぎやしないか。 朝からバス停のトイレに並んでいる光景は、初夏の上高地のバスターミナル、スイスのツェルマットを思い起こさせる。 それでも、三々五々、人々は各自のペースで愛宕山頂上に向かって登って行った。 人気の無くなったバス停を後に我々も登り始めた。山としての難度は「へ」みたいなもので、それこそ誰にでも手軽に登れる山である。 しかしである。手軽といっても高度は800m位ある。この次期、多分上の方はアイスバーンになっているだろうと思って登って行ったら案の定、最後の石の階段(多分百数十段ある)はアイスバーンになっていた。多くの年寄った人々にとっていったん滑ったら只では済まないだろうと思っていたら、普段起きる時間帯に行動しているせいか、こちらの太ももがつりそうになってあわてた。 これは、きっと転んでけがをする人が出ると確信に近い思いを持ったが,周囲では滑る人を見かけはしたが、訓練されているのか寸での所で踏みとどまっていた。 人ごみが嫌なので少し東に路を辿って行くと立派な標識がかなり離れている地点からはっきり見えた。近くに行って驚いた。この標識は多分、高齢者のためと思われた。異常に文字と図体が大きい。はっきりくっきりこれっきりと言うくらいに書かれてあり、こんなものが北アルプスにあれば、強風で吹き飛んで跡形も無くなる代物で大きければ良いと言う物ではない。 群衆から離れた静かな場所で、茶を沸かし、三十六穀米が入った玄米お結びを食べ、シャンペンで乾杯した。行動途中だから、当然コッブ一杯分位の瓶詰めを友人と半分にしての乾杯だ。 昔はなかった地蔵谷の小径を下る事にして、残雪の雑木林を楽しみながら下って行く途中、バラバラとヘリコプターが頭上を旋回しはじめた。やがて旋回範囲が窄まり、下降し始め姿は森林の中に見えなくなった。さらに下山をつづけていると、その音はますます近く大きくなって、自分たちの進行方向から十時方向の地点にいると思えたので、二人してそこ目指して真っすぐよじ登ったら、小径に出て、その小径は少し上の森林を伐採して作ったと思われる空き地に続いており,そこにヘリが着陸していた。 見ていると4.5人のオレンジ色の服を来た隊員が担架を持って今まさに出動せんとしている。其れを見てああやっぱりと言う思いがした。あれだけいて、簡易アイゼンも用意せず、高齢者がアイスバーンの路、階段を歩いて無事なわけが無いのである。 登山口に付くまでの林道の様子も昔とは様子が変わっていた。下に降りて、途中至る所に半休(仮名)旅行社の紙の指示標があった事の意味が分かった。旅行社が中高年ににわか登山者を募り、商売しているのである。 これで、こんなに混んでいるわけが解った。 山はベテランであろうが、非日常状態になれば命に関わる事は同じで、その事態を考えて行動するのがベテランである。にわか登山者は非常事態になるとパニックになる。 携帯電話を誰でも持っているので、簡単に救助を呼べる、今回のヘリもよばれたのだろう。あんな所にヘリの発着出来る場所が確保されていると言う事から考えて、もうこういう事態は常態となっているのかもしれない。 この山は4000回登山記念の個人の石碑が建っていたりして驚く。四千回と言えば毎日登って10年ちょっと掛かる。あんぐり…。 亡くなった後輩は冬山で遭難した。 遡る数十年前、* 谷川岳の某沢、岩に取っ付くまでのアプローチで、遭難してまだ未発見の三人だったかの情報を胸に、雪面を登っていた時、ピッケルの先に、シュラフかヤッケの切れ端がひっかかってきた。嫌な思いの中、ルートを誤り、遭難寸前となりそれでもなんとか稜線上に出て下山し、引きつけられたのか、遭難碑のある所へ行った。そこには拙い字で「お兄ちゃんさようなら」といつ書かれて置かれたのかはわからないが、黄ばんだ紙切れが石を重しにして置かれてあった。 あの時はじめて、「無常(梵… anitya)感」と言う物を経験し、持った。何のために生きて、何のために死ぬのか。疲れ切った体と心にこの置き紙はこたえた。考えてみればあの時以来、本格的な冬山は、少しの山スキーゲレンデスキー以外は行かなくなった。* 谷川岳 1931年(昭和6年)から統計が開始された谷川岳遭難事故記録によると、2005年(平成17年)までに781名 で、世界のワースト記録である。ちなみにエベレストの遭難事故死は178人 →2003年の今日のたん譚
2009年06月01日(月)
日韓伝統文化の側面?
四日前の五月二十八日は、旧暦の五月五日端午の節句だが、いつの間にか端午の節句を韓国は朝鮮起源、発祥地として「世界無形文化遺産」としてユネスコに申請してそれが認められてしまった(端午の節句は中国が起源)。これは今に始まった事ではなく、何でもかんでも朝鮮起源にしてしまう性癖は、別名朝鮮 ウリジナル(Uriginal 朝鮮語で「私たちの」を意味する「ウリ=우리」とかけて「ウリジナル」)と揶揄されている。 日本の端午の節句は能狂言にも曲があり、それを調べていて下の映像に出くわし久しぶりに大笑いした。新石器時代から朝鮮に伝わる舞踊と日本の能を文化的側面 ?から淡々と映像にして比較している。朝鮮の言い分は勿論能狂言も朝鮮起源らしい。 無意識的抽象(幼児期の絵)やがて稚拙な具象(児童の絵)→高度な具象(大人の絵)→再び意図的な崩した形の具象(漫画など) ↓ →意図的な高度な抽象 この映像の朝鮮舞踊タルチュムの面の表現形式は、児童レベルのものでないとしたら意図的な崩した具象化(漫画化)なのだろうか。そうするとそれに到達するまでには、必ず高度なリアリズムの過程があり、それが残っているはずである。無いとしたら…。朝鮮のあの面は新石器時代からずっとあれなのだろうか。おもろい国や。→2008年の今日のたん譚 →2002年の今日のたん譚
2009年05月31日(日)
デモクラットがデモーニッシュなNHK にデモンストレーション
昨日全国規模で NHK 偏向報道に意見する千人規模デモ(東京)の第二弾があった。今日、千人規模にもかかわらず産経新聞の片隅にしか報道されていない。 昨日大阪でも開かれたデモには行かれなかったが、その一週間前の大阪NHK前の抗議デモには出かけた。 民間のトヨタ、アサヒビールの出身者がNHKのトップにいる。もうこれだけで、何で中国に阿(おもね)ったドキュメンタリー「 JAPANデビュー」が出来上がり、制作局内で放送法 「放送法(国内放送の放送番組の編集等) 第3条の2 放送事業者は、国内放送の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。 1.公安及び善良な風俗を害しないこと。 2.*政治的に公平であること。 3.*報道は事実をまげないですること。 4.*意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。 」 をものともせず 易々と放送できてしまうのか、分かろうというものだ。自分のやっている商行為優先が、国を売る行為とは思っても見ないのだろう。 トヨタは1日にコマーシャル代だけで数億円使っている。民放各社が報道できないのはスポンサー離れしやしないかと怖れるためだ。 ↓は第一回目の様子
2009年04月26日(日)
「NHK(何と偏向した局)は、何を言いたいのか」まとめ
その後のNHKの放送に対し簡潔なるまとめ。井上和彦さんのインタビュー ↑の画面に非公開動画と出る場合は、 ↓をクリック井上和彦・台湾取材12のポイント[桜 H21/4/25] 本当に台湾が嫌日、反日なら、二度の旅行期間中、食品市場街でも、どこでも日本語で通しても親切に対応してくれた事実、かってフランス旅行し始めた80年代後半、英語では対応してくれなかったことと比べてもNHKの放送がいかにおかしいか解る。そんなに嫌ってるのなら、敵性語を使うわけはない。 かって日本人だった台湾人には、何か熱いものを感じて涙が出そうになる。
2009年04月22日(水)
NHK(何と偏向した局)は、何を言いたいのか。
先日、台湾を取り上げた番組、NHKスペシャル番組の第一回「アジアの“一等国”JAPANデビュー」の全編を通じて、よくもまあ、映像とナレーションが乖離した放送を鉄面皮にも流せたものだと思った。とにかく最初に結論ありき「日本悪し」「台湾人は中国人(漢民族)」。よく言われるが歴史の光と影の影の部分だけを強調した番組になっていて、清から割譲後、明らかに違う日本独自の新たな領土への取り組みは、かってのヨーロッパが行った世界各地の植民地政策とは違う側面などはまったく副題にもなっていない。 台湾人少数民族を「人間動物園」として英国などで見せ物にした? 1895年に締結された下関条約(馬關條約)で日本になってから、日本政府は統治を1945年までしている。ここでよく頭に入れておかなければならない事は、この統治中に日本は世界に先駆けて、各国が植民地運営をよくして行こうと相談し合っている時代に、パリ講和会議(1919年)で「人種差別禁止案」を出している事。そしてそれは無視に近い状態で「却下」されている。この事実は消せない。 以下のビデオの中で、柯(か)徳三さんが後にNHKディレクターに「あんたがた(朝日新聞とNHK)は中共に呼ばれてちやほやされて貢ぎ物を持って行ったんだろう」と本音を語っている。そういう言葉を頭においてみると、確実にNHKは何らかの意図を持ってこれを作っている。 「JAPANデビュー」というふざけた言葉、なぜデビューなのかという言葉にピンとくる人は「極東」、「東南」アジアという言葉にもピンと来る。ヨーロッパ各国は昔から存在していたわけではない。フランスを除き、統一国家としてのドイツ・イタリアなどは明治の三〜五年に出来た国である。これは日本暦「皇紀」の目で見ると、近代に台頭して来た「白人種」中心の洗脳である事が解る。 親が子供を公園に連れて行き、同環境にあるご近所さんの集まりで紹介するのを公園デビューと言うそうだが、成熟した大人(国)が、新興の若造(国)の集まりにデビューするとはいわない。 以下、NHKに出演した人々をチャンネル桜放送ワイド中、「今日の自衛隊」のキャスター、自衛隊に関しての著書もある井上和彦さんがインタビューしている。北京日本支局NHKの実態が解る。 左は美術家 児玉麻衣比さん、中央 水島チャンネル桜社長 右 「世論の会」三輪和夫さん NHKに出演し、不本意にも都合の良い所だけを継ぎはぎされた人達にチャンネル桜が直撃インタビュー 井上和彦さん直撃インタビュー↓ ↑コマーシャルが邪魔な場合、画面右下のx印をクリックすると消えます。
2009年04月05日(日)
天才及び天災(2/2)
******** …続き。 由緒ある大阪倶楽部三階の控えの間には、日本全国主要美術館に収蔵されている有名画家、鹿子木孟朗の風景画が掛かっていたが、このくすんだ繪からは何の感銘(天才)も受けなかった。 講演が終わって京都に帰ると、徳島の山岳会岳人クラブから、一昨年大晦日槍ヶ岳槍平で遭難死した後輩市川啓二君の追悼文の依頼の手紙が届いていた。 月刊誌「山と渓谷」先月号に、昨年正月にかけての山岳事故検証があり、同君達の遭難状況を分析していたのを読んでもなを、依然としてあの場所で雪崩が起きたと言う事実に釈然としなかったが、遡る二十数年前、もうとっくに記憶から消へ、記録だけにとどまっている京都大学山岳部22名(うち5人死亡)の同地での大人数雪崩遭難事故、小屋の雪崩直撃他、起こりえないと思われていた槍平の雪崩で、過去一度ならずあった事で再認識する事になった。ほぼ結論として出しているのは、* 「泡(ホウ)状煙型雪崩」ではないかと言うものだったが、真相はやはり解らないと結んであった。 手紙を読みながら、同君が大晦日に山で亡くなったのに続き、翌年の一月初旬九日に西村さんの御長男が事故で亡くなった。去年三月、徳島でのお別れ会に出席した同じ日に、大阪での西村さんの新年互礼会に行ったなあと、不思議な縁を感じた。 政治には妙に諦観の念があって関心が無かったが、ある時期を堺に?今まで二回だけ真剣に一票を入れたのが、西村さん(党ではなく、あくまで個人支持)だった。西村さんは学生時代に山岳部にも籍を置いたことがあって、大阪京都を、* 八尾の朝吉で有名な八尾の、市議三宅博さんとさらっと歩いてしまう。演説などの時も気を付けてみれば、ビブラム底の登山靴?を履いている。 こんな政治家はいない。 かって、選挙時に自転車に乗っている「蛸」を大阪で見かけたことはあるが、選挙でもない* 「ケ(褻)」の日に、大阪京都を歩いてしまうと言うのは、尋常の気力では出来ない。 今年ある選挙。西村さんの選挙区(堺中区、西区、南区)は名前で、比例選挙区(大阪京都滋賀奈良兵庫和歌山)は、個人名は書けないので「改革クラブ」と書かなければ無効になる。 今回の選挙の次の次まで思いを馳せていて、明確に見通し、 眞に悟 っている、またしてもこんな政治家はいない。落としたらあかん。 こんな事書くたん譚は …お政治家。* 「泡(ホウ)状煙型雪崩」…新雪が固まらず降り積もり、空気と雪粒を多く含んだものが先端部分に爆風を生じさせながら、猛スピードで斜面を流れ落ちて行く。雪崩後に見られる、デブリ(フランス語「破片」痕跡)はなく、何の痕跡も残さず、被害が無ければ起こったかどうかも解らないという。* 八尾の朝吉…大映映画「悪名」シリーズが、勝 新太郎、田宮二郎のコンビで大ヒットした。原作は今東光(八尾の貧乏?寺の住職だった)実在の人物で、晩年の映像を見たことがある。朝吉の兄は市会議員だった。今でも八尾のレンタルビデオ屋には全巻揃っているという。* 「ケ(褻)」…「ハレとケ」、ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)はふだんの生活、「日常」
2009年03月29日(日)
天才及び天災(1/2)
昨日、淀屋橋界隈にある大阪倶楽部に、衆議院議員の西村眞悟さんの話を聞きに行った。今年になって今引っ張りだこの航空自衛隊の田母神俊雄元大将、を大阪堺の眞悟の会が招聘したのにも出かけ(ものすごい人、開場入り口階段まで人があふれ、帰った人もいた)、年始めの新年会にも出かけたので、これはもう芸能人の「おっかけ」に似たものである。何でそうなったか。 「話がおもろい」 ただおもろいなら、ヨシモト漫才のおもろさもあるけれど、あれとは違うのである。 優れて見事な絵画音楽建築や、文章、論に出会うと立ちすくんでしまうような戦慄が走って虜(とりこ)になってしまう性癖が昔からあって、絵画で言うと、1974年に発表された、 Franz Gertschの一枚の作品、「バーバラとギャビー」の絵葉書を見た時の衝撃がそうだった。かって見た、スペインプラド美術館のベラスケス、パリルーブルのダビンチ、オランダ近代美術館のレンブラント、ウイーン美術史美術館のフェルメール、どの作品よりもびっくりした。 まだドイツが東西に分かれていた頃、それを西ベルリンのナショナルギャラリーに確かめに行った。どうやったらこんな写真としか思えない作画が出来るのかひと目本物を見たいと思ったからだ。当時西ベルリンは陸の孤島のようで、米英仏ソ4ヵ国のベルリン占領地と言う事になっていた。西ベルリンに向かう途中列車は、ある区間窓のブラインドを下ろせと言われた記憶がある。 そこまで苦労して行ったナショナルギャラリーはスト祝日などが重なり開いていず、一週間近くただ待った。歴史的建造物に弾痕残る公園に居ても、どん詰まりの落書きだらけの「壁」近くに行っても、頭の中はその繪の事で一杯で観光する気にもなれなかった。 ようやく開いたと聞き、勇んでその展示室に馳せ参じたらなんと!!、海外貸し出し中の張り紙…。全身の力が抜けて頭から血の気が引いてくらくらし、思わず天を仰いだ。 結局その日から現在に至るも、このオリジナルには縁がなく見る機会がないまま来ている。その後、年を経て此の天才画家の超具象は行き着くところまで行ってしまったのか、抽象画家に転じたと聞いた。此の画家の作品が無くても、今の自分の作風に向かった事は間違いないが、自分がやりたいと漫然と思っていた事をやっている具体的な先人が同時代にいるという嬉しさがあった。 Franz Gertsch Barbara und Gaby 1974 NATIONALGALERIE・ BERLIN
これと似た事が、政治家にあった。政治など、アメリカの属国の後は、中国の属国になるのだから、誰がなっても同じだと諦観していた。ところが幽霊作家の多い政治家の本の中で、日本の文明起源から説く政治家が居た。気に入ると文学でも全部読まないと気が治まらない。たちまち全部読んでしまい次は、ご本人の話を聞きたくなる。そうして講演などに足を運ぶようになる。 大体一・二回聞くと、本に書いてある方が面白い、講演は本を越えるものではないと思った講演者は結構いた。産経新聞産経抄の石井英夫、ソウル支局の黒田勝弘、ワシントン支局の古森義久、文学者では加藤周一(この人などは知識の垂れ流しに近く、学生時代は読者だったが、講演を聴きに行き途中撤収、以後亡くなるまで興味対象外)他評論家など、結構たくさんの人々の話を聞きに行ったが徐々に行かなくなった.本を読んだ方が充実していると悟ったからだ。 西村さんの報告会・講演はとにかくおもろいのだ(生きてきかた?も面白いが)。至極真っ当な事を言っているのに世間の一部ボンクラは極右だとか、右翼だとかで片付けるが、世界的視野に立つと、いっそバランスに翔んだ考え方をしていると感じる。その上に洞察に翔んで、毎回面白い.はっとする考えの道筋(日本と台湾の関係と英国とデンマークの関係の近似性など)がある。で、何を長々書いているかと言うと、政治の世界での「天才」だと思うからである。 続く…。
去年の暮れ、福田恆存原作の劇団四季「解ってたまるか」を観劇した。最初から強い違和感があり、前半を終へ休憩時間を待って京都劇場から撤収、あっさり帰(けえ)った。 内容以前の事で、この原作が出来た時代に、既に憲法九条をチンケなものとして茶にしている福田恆存のすごさは伝わったが、それ以外は改めて西洋演劇の不思議を感じてしまった。 例えば、取調室のシーンで、滑舌が、おばちゃん合唱団みたいに発声を妙にはっきり意識して喋るのがいるかと思えば、なぜかここに二十人近くもの刑事が出演し、その大半は無言で主要役者の後ろにおっ立っている。 さらに狭い舞台にあれやこれや舞台道具がしつらえてある。カウチや背景を使わなければ芝居が出来ないのだろうか。遠近感を出すためだろうか、壁が極端にデフォルメされ歪んでいるので、最初SF劇かと思ったくらいだった。 日頃、狂言を見慣れている目から見ると、もう情報過多で疲れてしまうのである。狂言には机椅子小道具は全然と言っていい程無い。わずかな職域を象徴する衣装、小道具は手に持つ如意錫杖刀などごくわずかで、酒席などでは扇がとっくりになったり盃になったりする。落語のあれと同じで、こちらで想像する。京の都も想像し歩く。「何かと言ううちに、はや五条でござる」、てなもんで舞台は京の五条となる。家並みも、武者の立派な屋敷も具体的には無いが、ある。 喋りはもう狂言師の鍛えた腹から出る声を聞いている見物としては、劇団四季のあの発声は聞くに堪えない.ここに伝統と言うもののすごさがある。狂言師、歌舞伎役者は現代劇を演じる事が出来るが、現代劇の俳優に狂言歌舞伎は演じられない、は、肌で感じた。無理である。 してみるに、あの異常なまでの人員動員は何か?狂言で十数人を動員する曲は、「唐相撲」(幸運にも過去二回見られた)しか思いつかない。 見ていて、はたと気が付いた。その他大勢無能役者は小道具大工他兼務しているのだろう、舞台を作る専属大工を雇うのは大変だ。しかし、木偶の坊(でくのぼう)を「役者」にしておけば彼らはプライドが保てる。喜んで舞台を作る下働きをする事もいとわないのに違いない。 とはいえ、役者は舞台に立たなきゃ役者ではない。木偶と言えどもとにかく立たさなければならない。かくて、木偶達はずらっと主要役者の後ろに「出演」する(ヨシモトなら絵で描いて済ます)。何人かの有能な役者がこの木偶の坊達の生活費を稼いでいる。S席や SS席が何万円もするのはそういう事情からではないか。 かくて現代劇からさらに足が遠のく。 劇団四季的活路 劇団近死演技不可也延命策有只只黙可踊。 司馬ィ遷 (劇団の終焉は近いぞよ、演技は駄目だ。生き残る道は…、ただ黙って踊っとけ!)→2003年の今日のたん譚
2009年03月18日(水)
悪貨は良貨を駆逐するを、身を以て知る。
ある日突然…、空気のように使っていたTESLA日本語キーボードが壊れた。打っても頓珍漢な語がモニタに現れる。「あ」は「あ」で、「 a」、「ちゃ」は「ち」「ゃ」で「 cha」「 tya」ではないと思っているので、「かな」で打っている。これに慣れてしまうと、何でみんなローマ字で打っているのか分からなくなる。与えられたキーボード、外国様仕様のまま大人しく飼い慣らされているとしか思えない。 そうむきにならんでもと、大半の人は思いその不便さを感じなくなるまで習得して、後は惰性で使い続けている人がほとんどだろう。 じゃあ、キーに表示されている日本文字で打てばいいではないかと思っても、今のキーボードに表示されている「かな」は四段に渡ってあり、とても指がついていかないし、覚えられるか!と、思わず口にしてしまう代物で、実用向きではない。おまけに間違いを消すのにデリートキーまでの距離は遠い。小指を右上にひゅーっと移動して消さなければならない。小さなぼっちの着いた人差し指のホームポジションから、人差し指を置いたままデリートキーを打つのは無理がある。 所が、このTESLAのニコラ配列にすると、両人差し指は、所定の位置、左 F、右 Jの位置に置いたまま、デリートキーだって、Lの右二つ横なので、小指をちょっと伸ばせば、十分届く。常に人差し指はFとJから離れることはない。表記は三段に全てある。 濁点(が・ざ など)、半濁点(ぱ・ぺ など)はキーの同時押しで一回で済む。俗に言う親指シフトを習得してしまうと、ローマ字打ち込みに戻った時、そのまどろっこしさに絶望する。 そこで、壊れた専用キーボードのメーカーに問い合わせたら、技術者勉強のため、もう五年近く経っているのに、無償で見てみたいとメールをくれたので、甘える事にした。 ところが、以前の付属キーボードを引っ張り出してローマ字で入力を始めて呆然となった。初心者に完全に返ってしまって、全然打てない。JIS表示の日本文字は、表記位置が全然違うので使えない。 で、思案投げ首の末、キーボードを改造して、ニコラシフトを使えるようにした。 こんな事に時間をかけたくなかったが、仕方ない、何時修理出来てくるか分からないし、果たして修理できるものかどうかも分からないキーボードを待っていられない。必ずしも、最良のものが生き残るとは限らないことは、ビデオデッキの方式、コンピュータのOSなどを見ても分かるように、この日本文字打ち込み方式もほとんど拡がらなかった。 修理に出した機種は近々再発売されるようだが、今時の相場にしては数万円という設定で高い。 で、Mac用の以前のキーボード二つからキーを取り、スペースバーを外し、そこに短い右親指用のキーを,英数キーのところにコントロールキーを左親指用に加工してキー配列を変え、取り付けた。 だから、意味もなく長いスペースキーはなくなった。 日本人用専用キーボードとちがって、これは外人様用にできているため、各キーの間の距離が微妙に違うので慣れるまでしばしの時間がかかりそうだが、とても快適に打てている。こんな感じのキーボードになった。日記がしばらくかけなかったわけはこんな訳でした。 ↑ ↑ スペースキーは無くなり、代用左右親指キーに変えた。キーボードのかなの印字とTESLAでの位置は全然違うが、ブラインドタッチが出来るので、大丈夫。このキーボードを前にしたら、配列が出鱈目なので、他人はまず使用不可。→2002年の今日のたん譚 −韓国での心得(W杯によせて)−