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蕎麦を打って、シャンペンを用意し、トラウト・サーモンを楢で薫製して作ったスモークサーモン、御節を前に、聞こえてくる除夜の鐘を聞きながら、今年は終わろうとしている。 「青年(とっくに青年ではないが)老いやすく学成り難し」の心境はここ毎年の思いである。 今年、着物を仕立てたが、正月には間に合わなかった。ホームページの新しいのも、ついに間に合わなかった。まだ、半分くらいしか完成していない。
出っ腹を羨ましがる着物屋の小僧
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| 2005年12月28日(水) |
仰天2題(下 -3- )仙人現る ! |
Vien村を後にしてしばし、車が一台やっと通れるくらいの、深い谷にかかる石橋を2つか3つ渡り、大きく山の腹を巻いて、山と山の馬の背(コル)に当たる所を越えたと思ったら、正面のそこがオペデット(Oppedette)の入り口だった。
村の入り口の前には、車が2、3台駐車出来るスペースがある。右の道下は深い谷。入り口の向かいには、ぽつんと一軒小さな村役場(??)か案内所がある。人気がない。 車を止めて村に入るも、まったく人の気配がない。ここも猫の天国で我が物顔でたむろしている。Vien村より、多いかもしれない。死んだような村の中の石の建物の間を通っている、幅2〜3mの石畳をさらに行くと、建物に突き当たって左に直角に折れ、数歩行ってまた建物に付き当たって右に折れてこの道は、ずっと先の断崖絶壁の谷を見下ろす村はずれまで続いている。
歩けば時間にして、5、6分で端まで行けてしまうくらいの村だ。 観光客が対象とするような見るべき物はない。 ここにも、小さいがCafeが一軒だけあった。店の入り口横に粗末な椅子とテーブルが一組、そこに荷物を置いて店の中を覗き込んだ。薄暗く狭い石壁の店奥のテーブルにおばあさんが一人何かしている。 総じてフランス人・イギリス人は、どんなに暗くても昼間っから電灯をつけることはしない。 「コーヒー飲めるか?」 「あいよ!」 この村に来た日本人としては多分、ほとんど初めてではないかと思うのだが、こっちを見て取り立てて驚きもしなかった。
猫は寄ってくるが人がいない。店の前の石組みの古い館の前には、花が飾ってあるのだけれど人の気配はない。 しばらくぼんやりしている間も、黙っていると静けさのあまり、耳がキーンと鳴る音が聞こえる。時が止まっている。花が微風に揺れる以外何も動かない。 その時、突然ハンチングのがっちりしたお兄さんが前を通った。何だ、いるじゃないか。こっちを見てにっこり。こっちも 応えた。 お兄さんは、郵便配達夫だった。二三の家を回り配達した後、 店に来て、おばあさんと奥で世間話をしている。
この村は遠くから眺めて美しい村で、まっただ中でいても仕方ないので、眺めの良き場所を求めて、村を出て、 の色褪せた一枚の写真をとったと思われる場所を探した。村から、今来た反対の道を歩いて7、8分行くと、道からは、谷を挟んで村の全景が見える。そこから少し山に分け入ったあたりが近いと思われたので、山側に車を置いた。車のすぐ横は、背の高さくらい山肌が露出しており、その上は低木と雑草が生い茂り、より眺めが良さそうだった。
少しよじ登って写真を撮ろうと思い、準備を始めたその時である。車を止めたすぐ上の薮が、がさがさ動き、何か頭のようなものが出た。 びっくりした。羊かと思ったがそうではなかった。人だった。 あたりには止まっている車はない。頭のようなものが出たちょっと後ろには、羊の転落防止のための鉄条網が張ってあるのが見え、そこは、おおよそ人のいる場所ではないし道もついていないところだ。
よく日焼けした茶色の頭がこっちを見た。眼鏡をかけている。東洋人である。どこにでもいる支那人かとも思ったが、とっさに「こんにちは」と日本語で言ってみたら、「こんにちは」と答えた。向こうもびっくりしている。
「何でこんな所に!?」 そっくりこっちが聞きたい。
今日は開戦の日 以前のたん譚貼付けておきます。
2001年12月08日(土)
大東亜戦争 今日の日に関連したことなどの備忘録。
日米開戦前、 日本は戦争を避けるために最後の最後まで平和交渉を続けた。
それを拒否したのはルーズベルト。
ハルノート こんなものつきつけられたら、我が国でも宣戦布告している(モナコ公国)
先制攻撃はアメリカであった
ルーズベルトの苦労(先に日本に攻撃させる画策-スティネット「パールハーバーの真実」)にもかかわらず、日本のハワイ襲撃1時間20分前に公海において米国は日本の潜水艦を攻撃して撃沈させている。
-米国海軍ヒューウィット調査機関提出書類第75(1945年6月7日)による日本語訳は『現代史資料』35巻(みすず書房)-
日本軍国主義 一般にいわれているような、それだけのために国が軍国主義であったことはなく、そうと言われていた時期、軍事予算は削減されて、それをめぐって、陸海が予算争奪している。
原爆
終戦3ヶ月前、日ソ中立条約を結んでいるソ連を通じて米国に平和停戦、平和交渉を依頼している最中に米国は広島、長崎に原爆を落とした。
人々の言葉
毛沢東 社会党の佐々木更三委員長が、毛沢東主席に「中国国民に多大の損害をもたらして申し訳ない」と挨拶すると、「何も申し訳なく思うことはありませんよ、日本軍国主義は中国に大きな利権をもたらしました。中国国民に権利を奪取させてくれたではないですか、皆さん、皇軍の力なしには我々が権利を奪うことは不可能だったでしょう」 (東大近代中国史研究会)
支那事変勃発 周恩来首相
「あのとき我々の軍隊が日本軍と中国国民党軍(蒋介石軍)の両方に(夜暗にまぎれて)鉄砲を撃ち込み、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨げたのが、我々(中国共産党)に今日の栄光をもたらした起因である」
アムステルダム市長サンティン氏
「あなた方日本はアジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分をさげすみ、ペコペコ謝罪しているがこれは間違いである。あなた方こそ自ら血を流して東亜民族を解放し救い出す人類最高の良いことをしたのだ。日本の人々は過去の歴史の真実を目かくしされて、今次、対戦の目先のことのみ取り上げ、或いは洗脳されて悪いことをしたと自分で悪者になっているが、ここで歴史を振り返って真相を見つめる必要があるでしょう。 本当は私ども白人が悪いのです。百年も二百年も前から、東亜を征服し自分の領土としてきた・・・・血を流して戦ってきたあなた方こそ最高の功労者です。自分をさげすむ事を止め、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきであります。」
インドネシア大統領特使、アラムシャ陸軍中将
もし日本があと5年大東亜戦争を続けていたならば恐らく中東まで進出していただろうから、中東諸国ももっと早く独立できたであろうし、日本軍の大変な勢いがアフリカにも伝わって、アフリカ諸国もインドネシアのようにもっと早く独立できただろう。そうすれば、南アフリカも現在のように苦しまずに済んだはずなのだ」
インドネシア、サンパス将軍(東欧大使歴任) 「日本の戦争目的は植民地主義の打倒であった。その目的の大半は達成したが、南アフリカ、アジアにまだ残っている。そんな時に行った××首相演説は、植民地主義打倒の悲願を放棄したことになる。××さんは日本の果たしてきた歴史を踏まえ、A・A(アジア・アフリカ)の悲願を代表して、まだ残る植民地主義を攻撃すべきであった。かつての日本は、スカルノ、ハッタ、バー・モウ、ラウレル・アキノ、汪兆銘、チャンドラ・ボース等を応援したのに、たった一度の敗戦で大切な目的を忘れてしまったのは遺憾である」
マレーシアのガザリー・シャフェ外相
「日本くらいアジアのために尽くした国はないのに、それを日本の政治家が否定することだ、責任感をもった政治家だったら、次のように言うだろう。 「「その頃、アジア諸国はほとんど欧米の植民地になっていて、独立国はないに等しかった。日本軍は、その欧米の勢力を追い払ったのだ。それに対して、ゲリラやテロで歯向かってきたら、治安を守るために弾圧するのは当然でないか。諸君らは何十年何百年にわたって彼らからどんなひどい仕打ちをこうむった事を忘れたのか?」」と。
終戦後 「日本が太平洋戦争(大東亜戦争)に立ち上がったのは正当防衛であった」と証言した最高司令官マッカーサー元帥は、昭和25年10月にウェーク島においてトルーマン大統領と会見して「東京裁判は誤りだった」と告白。 翌26年、米国上院で「日本が行った戦争は自国の正当防衛のためであり、即ち侵略戦争ではなかった」と証言した
東京裁判ウェッブ裁判長の反省
「東京裁判は誤りであった」
東京裁判、
日本糾弾の急先鋒であった首席検事キーナンの告白 裁判後数年にして「東京裁判はいくつかの重大な誤判を含むのみならず、全体として復讐の感情に駆られた、公正ならざる裁判だつた」
インドのパール判事
「日本は国際法に照らして無罪である」 「大東亜戦争は日本は無罪である。(田中正明著『パール博士の日本無罪論』慧文社)欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人である。 日本の教育書は子弟に「日本は侵略の暴挙をした」「犯罪を犯した」と教えている。 日本の子弟が、歪められた罪悪感を背負って卑屈、退廃に流されてゆくのを、平然と見過ごす訳には行かない。」
英国枢密院顧問官国際法権威ハンキー卿
『戦犯裁判の錯誤』を著わし、裁判官パール氏の主張が絶対に正しいことを、「私は全然疑わない」
英法曹界重鎮FJPビール氏
「東京裁判は戦勝者が敗戦者に加えた野蛮な行為にほかならない。」
英国国際法で有名な W・フリードマン教授
国会議員であり、王室弁護士R・T・パジョット博士等、皆パール博士を支持した。ロンドン世界事情研究所監修『世界情勢年鑑』(1950)は東京裁判を解説し、パール判定が正論であることを裏付
アメリカのチャールス・ベアート博士歴史学政治
『ルーズベルト大統領と1941年戦争の形態と実際の研究』を著しその中で、日本が真珠湾を攻撃するより数ヶ月前に、ルーズベルト大統領はアメリカ軍部をして、海外駐屯軍に秘密に軍事行動を指令したと発表し、パール博士の指摘した点を裏づけた。
米国、国際政治評論家ラティモア氏 「白人の侵略の終着点」 「日露戦争の勝利が有色民族解放運動の出発点であり、終着点はまさしく大東亜戦争であった。」
仏大統領ドゴール
「シンガポールの陥落は、白人の植民地主義の長い歴史の終焉(しゅうえん)を意味する。」
プラモード元タイ首相
「日本は独立の母である」と感謝 「日本のお陰でアジア諸国は全て独立した。日本というお母さんは、難産して母胎を損ねたが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民が、米、英と対等に話ができるのは一体誰のお陰であるか、それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。」
ほとんどの日本人が以上を知らない。教科書で教えないからだ。
リメンバーパール判事!
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| 2005年12月04日(日) |
仰天2題(下 -2- )仙人現る ! |
1953年に撮られた, の色褪せた一枚の写真。オペデット(Oppedette)村、朝焼けに映えた山あいの谷と谷に挟まれた、断崖絶壁の村。場所はわからないが,南仏の山の奥深くのどこかにあるという事だけははっきりしていた。
初めてこの村の色褪せた写真を見たとき,ぜひ訪ねてみたいと思った。ボークルーズ県に何十年住んでいる日本人も知らない。名所やミシュランのレストランに載るような店があれば,ガイド本に載るのだが,それもなかった。(後にミシュランのネット地図検索で簡単に発見して唖然としてしまった)あてずっぽうに片端からミシュランの地図を細かく探していった。 似たような名前がある、Oppede、ここなら前から知っている、違う。 そうしてついに見つけた。山中,ボークルーズ県とアルプス・ド・オー・プロヴァンス県境に発見した。アプトの町からだと,チーズのバノンよりは近いところにあった。近いと行っても,山の奥深くである。
数日後,車にカメラ機材,食料, 武器(不慮の事故に備えて −樫の木で出来た木偶の棒?−)、水を積み込んで出かけた。持参した,デジタルの方位計を車に取り付けてあるので,方角は間違いなく出る。またまた野超え山超え走る事数時間、一つの目印にしていた村,Vien村にたどり着いた。がらんとした、小さな駐車場に車を止めていると、山歩き姿のイギリス人がまたいる。歩いている彼らに、山中ほんとうによく出会した。 元祖*ナショナルトラストの国だから、よほど自然を好む国民性なのだろう。 ここは、城壁に囲まれた小さな村で、Cafeは一軒しかなかった。車を置き城壁内に入って行くと、やたら猫が大きな顔してたむろしている。迷路みたいな細い小径を行くと、RUE DU CHAT NOIR (黒猫通り)と石壁に木の札があった。成る程、合点した。 猫を片端から追いかけ回して、品定めした。家の家来の猫は、主人によく仕えてはや19年と17年。19年は、廃猫、若い頃たん譚とボクシング(お互い、両手(人間は指)に塵紙を巻きグローブとする)のやりすぎか、目は白内障が出て、頭は既にもうろくしているが食欲はすごい。一日のほとんどを寝て過ごし、庭から塀を越えて外に出る事は全くなくなった。
17年の家来は躾の賜物、100回呼べば100回「にゃあ」と答えて、その所在がたちどころに分かる。悪い事をして隠れても、名を呼べば、縁の下から「にゃあ」、隠れても無駄である。 ここの猫どもに、少し日本語を教えて、すぐに成果が上がる。「どうだ!この日本の服?」「にゃう!」「よっしゃ」 人影のないVien村を後にして、一路オペデット(Oppedette)村に向けて車を走らせた。
*ナショナルトラスト…1895年に設立された民間非営利団体で、英国の歴史的建造物や自然を後世に 残すことを目的としている。
| 2005年11月30日(水) |
「myrte21」のmyrteの意味 |
お前のメールの、@の前の部分にある、myrte21というのは、どういう食いもんや(くいもんてあんた!)?と聞かれて、以前たん譚に書いたのを思い出して、探したらあったので、そっくり、も一度貼付ける。
酒(myrte)と薔薇をめぐって。(2001)
最近、茨城に住む親しい友人の絵描きが、ワイン購入リストを送ってくれる。これがもう、どこの酒屋で買うのも嫌になるくらい安い。本来なら畑のちがう、世界ではけっこう名を馳せている工業関連の会社がなぜか、ワインを扱っている。6000円のカルボーニュが2800円という具合。何ケースか買うことにしてふと、リキュールの所に目をやると、ミルト・アイスとあった。フランスでミルトのリキュールの存在は知っていたけれど、向こうのマルシェでも見つけることが出来ないでいた。 南仏に可憐に咲く白い花でMyrte [mirt]と読む。それが、リストにあった。 この植物はその香りゆえに、ハーブの一種としても数えられている。 南欧のような比較的温暖な場所に育つミルトの木は、1年を通して緑を保つ為、この木の原産地である南欧やギリシァなどでは「不死の象徴」ともされていた。 ミルト の「不死の象徴」という一面は、欧州でもボヘミア地方に伝えられているそうだ。 ボヘミアでは、「再生」や「永遠の生命」を願って、ミルトの葉や花を葬儀に使うそうだ この花の日本訳は、「銀梅花」「祝いの木」などとされている。
Myrteは以下のような場面に登場する。
クラシックでは、シューマン:歌曲集に、ミルトの花、2つのヴェネツィアの歌がある。
●献呈(「ミルトの花」より)Widmung ●月夜(「リーダークライス」より)Mondnacht ●ミルトとバラをもって(「リーダークライス」より)
また、 絵画では、モーリス・プリアンションの「ミルトのある静物(1940)」がある。
ゲーテの詩、ミニヨン中に
レモンの花の咲くあの国を知っている? ほの暗い葉陰で金色のオレンジが燃え、真っ青な空からは風がやさしく吹く。 そしてミルトの木は音もなく月桂樹は高くそびえるあの国を。 その国にあなたと一緒に行きたい! 私の愛する人、あなたと一緒に行きたいのです。 …以下略
ヘルダーリン の詩にも、
プラタナスの樹かげ 花々のあいだを縫ってケピソスの流れはさざめき 若人たちは栄誉を夢み ソクラテスは人の心をとりこにし アスパシアはミルトの繁みをさまよい 友愛の朗らかな叫びは かしましい広場のさなかからひびきわたり わがプラトンはかずかずの楽園を作りなし
祝祭の歌は春をにぎわせ 霊感の奔流は ミネルヴァの聖なる丘から 女神を讃えよとばかりに流れ落ち 百千の甘美な詩興の刻には さながら神々の夢のように 老いの影は消えうせた 『ギリシャ』川村次郎訳 河出書房新社
最後に車では、BMWの328iセダンにミルト・ウッド・パネルが標準装備されている。
| 2005年11月11日(金) |
仰天2題(下 -1- )仙人現る ! |
南フランスの田舎にしばらくいた。十月の初めに帰ってきた。南フランスというと、大抵海辺の風光明媚な、ニースだとかカンヌだとかを思い浮かべるのだろうが、85年に南仏に初めて訪れ今日まで海辺の都市や町は行った事がない。 偏に、興味がないの一語に尽きる。だから人から聞かれても答えようがない。
でまたあきもせずに、いつもと同じ所の同じGite(貸別荘)と思って予約Faxを入れおいたのに、あら大変!去年、2棟続きのいつも借りている大きい方のジットには、静かで心地がいい(TV.ラジオ無)事を知ってか、ペコポン大学の教授(プロフェッスール)が長期滞在、住んでいた。この先生は今年、同敷地内の平屋一戸建てのジットに移って、その後に新たに、ボコペン大学のドクターが、いつもたん譚が逗留するジットを借りていた。 そのことが、フランスに向かう8日くらい前こちらからの確認電話でわかった。 多少泡食ったがなんの、インターネットの時代である。ジット協会につないで、星(epis)を選び、条件を選択してあっというまに、メネルブ(menerbe)村の農家のジットをきめた。
それはよかったのだが、行き方の欄に、 「ボーメッツで、メネルブの方に向かって行く、3キロ行きそれからボーニュウの方へ左に曲がり2キロ行き、ラコストの方へ左に曲がり、一キロで、左に糸杉の垣根の家」 なんて書いてあるきりで、こんな説明で目的の農家につけると思う方がどうかしている。大体方角が書かれていない。ミシュランの地図には、N100とか、小さい道にはD14とか丁寧に記されてあり、これが読みこなせると多少迷っても必ず目的地までたどり着けるようになっている。 一本道ならいいけれど、地図と照らし合わせてみるに、ぶどう畑の中の道は、多く枝分かれしてとてもこの説明文ではたどり着けそうもなかったが仕方ない、
向こうに着いて、飛行場からとりあえずボーメッツまで行って、そこから書かれてある通りに、だいたいの距離を測りながら行ってみた。 この辺は何度となく来てはいたが、多く点在する中の、特定の農家を捜すとなると話は別である。「糸杉」で囲まれた農家なんて珍しくもないし、あちこちにある。 これはメネルブの村(centre ville)へ一旦行って、カフェの親父にでも聞かないとたどり着けないと思いながら車を走らせた。 ところがである。説明文のとおり、野を超え山超え、ほとんど勘で行ったら、ぶどう畑の向こうに,それも高さ10m,幅20m位の巨大な糸杉塀が、こつ然と現れた。 それでも、こことは限らないので車を止めて、庭をいじっているおばさんに聞いたら、はたしてここであった。なんと一発で到着してしまった。 迷う時間を考えての出発だったので、早く着き過ぎてホテルで言う所のチェックインは午後からで、いれてもらへなかった。 それを幸いに、イルシュールラソルギュ近くのスーパーマルシェに、滞在分のワイン・食料他を買いに行った。その日午後、無事契約を確かめ合って、日本の都会では経験出来ない、真の静けさの中で眠った。
台湾の李登輝さんが、ニューヨークを訪れた。ブッシュにお土産を出した。どんぐり400個。
先日、南仏での滞在を終えて、最終日はパリにいた。この日の夕飯は、南西地方料理を売りにして、ミシュランの星**をもらっている「Helene Darroze」を日本で予約していた。めずらしい事に、女料理人で経営者でもある。 京都での予約は最初FAXでし、返事は出来たらE-mailでくれと書いておいたら、Eメ−ルできた。「必ず一日以上前までにコンフェルマシオンせよ」とあり、つまり、予約の再確認をせよと言う事で、ここまではどこでもそうである。ところが、こちらが指定した時間を勝手に三十分早めて、午後7時30分に来いとなっていた。その上、お前の滞在するホテルを知らせよと書いてある。どこのホテルに泊まろうが知ったこっちゃないだろとは思ったが、日本を出る直前に、予約確認を兼ねて、メールを出して置いた。田舎にいる間は連絡がとれないので そうした。通常はそれで十分なのだが、今回はちがった。
南仏で短い夏休み兼、取材を終えてオルリー空港からパリへ。ここ数年常宿(簡単にインターネット 無料接続が出来るのが主たる理由)にしているホテルに着いて、ネットで産經新聞他を読んでいると、電話が鳴った。 フロントからで、電話がかかってきていると言う。家人が出た。目を白黒させている。ちょっと話して何事か了解したらしい。 かけてきたのは、「Helene Darroze」で、ようするに、「ほんまに来るんやろなー?」の念押し電話!!であった。こんな事は初めてで、そこまでする、過去三ツ星二つ星その他料理店、皆無であった。今まで訪れた店とたった一つ違うのは、「女の料理人で経営者」だと言う事だ。なんだか、執念深さを感じてぞっとした。「そこまでするかぁ!」 まだある。レストランに着いて、フロントで、予約した誰それと告げている時に、テーブルに拡げられていた帳面が目に入った。予約とおぼしき走り書きがびっしりと書かれていて、とても、今夜さばききれるとは思えないものだった。飛ばし飛ばし赤線で消してあるのは、もう来ているのか。
午後7時30分といえば、日本と違ってパリの高級レストランは宵の口で、閑散として、食っているのは、日本人観光客位なものである。ここでピンと来た。 ははぁ、予約時間を勝手に早めて指定してきたのは、日本人を早く食べさせて帰して、もう一二回、回転させる腹づもりなのだろう。そうは行かない、ねばってやるゾ。
案内された席は、二階奥の上席だった。やはりと言うべきか、早い時間に関わらず既にほぼ満員で、宴、酣(たけなわ)であった。話す言葉から、イタリア人、アメリカかイギリス人の観光客だとわかった。多分早い時間に逆指定されたに違いなかった。案の定、着席してほどなく隣のカップルは勘定して席を立った。ちょっとして、すぐに違うカップルが席に着いた。満員。
地方料理にしては、盛りつけや、色使いは洗練されていた。フランスも健康ブームで、再び、量が控えめのヌーベル・キュイジーヌなんだが、どこか片手落ちなのだ。チーズデザートの後、お茶の前に、横4・5列が2段になったガラスケースに入った、ヌガーやキャンデーが出てきて、さあ、選べという。
これでは、いくら主菜に気を配っても、こんなのに手を出したら、総じて高カロリーになってしまうのが、分からないのだろうか。これは、先日までいた南仏の星*のレストランもまったく同じサービスの仕方であった。目はパリにいつも向いていて、田舎ですぐまねするのだろう。チーズとデザートを断って、アンヒュージョン(香草茶)だけにしたら、「何て亊するんだ」というような顔をした。それでもお茶が終わる頃、12時近くになっていた。ザマミロ。その間頻繁に席交代があった事は言うまでもない。
勘定を済ませて階下に降りると、テーブルなどありようのないと思っていた場所のカーテンがわずかに開いていた。それとなく見ると、その中にもテーブルがしつらえられて、数人が食べていた。そんなに広いとも思えないこの建物の中で、いったい何十人が夕飯を食べ(させられ)たのだろう。女経営者恐るべし。ホテルまで電話かけてきて確認して、一体この日は何巡したのだろう。料理の味付けは総じて濃く、残したものもあった。外に出ると、来る時は降っていた雨はやんでいた。
♪〜しばしも止(や)まずに槌うつ響き (一時、「休まず」に改訂されたがもとにもどされた。) 飛び散る火の花 走る湯玉 ふいごの風さえ 息をもつがず 仕事に精出す村の鍛冶屋〜♪ (鍛冶屋の減少とともに昭和55年度教科書から外される。教科書から消えた唱歌・童謡より)
この鍛冶屋、江戸時代の身分は? 鎌を作ったり、鍬を作ったりする人達の事だが、当然、士農工商で言うと「工」と思っていた。ところが、どうもそういうものでは無いようなんである。 驚いた事に、どうやら学んできた教科書で違っていた事がわかって、愕然とした。 それも最近になっての学説ではなくて、教科書によって早い段階から、そうなのであった。 どう言う事かというと、「士農工商」という言葉は、支那の古い文献にはでてき、江戸時代そういう言葉も現れるが、実体は、例えば、町に住む鍛冶屋は「町人」、村に住む鍛冶屋は「百姓」に分類された。 分け方としては、「武士・百姓・町人」の 三つの身分を区別していた。 カースト制度は、床磨きは代々床磨きだが、日本の身分区分はカーストのように、血統では分けない。 扶桑社の新しい歴史教科書によると、 農民は「百姓」の部分集合で百姓=農民ではない。町民・百姓が武士に取り立てられる例もあり、逆に武士の次男三男子が農家の養子になる事も多々あったという。町人とは、武士以外の、城下町に住むさまざまな職業の人達をさし、百姓は,村に住む人をさし、漁業や林業を営む人達も百姓に分類された。「名字」も、町人・百姓も持っていた。
これは初耳であった。ところが、この三分法の記述はすでに、東京書籍は1966年から「士農工商」併記の形で出始め、97年には「武士・百姓・町人」となっている。教育出版・日本書籍は今にいたるも、「士農工商」のままである。 扶桑社の新しい教科書は「武士・百姓・町人」の三分法をとっている。 97年に教育出版・日本書籍で学んでいる子供は硬直した歴史観を持ち、東京書籍・扶桑社(は今年)で学んだ子供は生きた歴史観を持つことになる。
参考文献:「日本文化 夏号(平17・22号)」−拓殖大学日本文化研究所編−
届いた扶桑社の歴史教科書と公民教科書(市販本)をざっと読んだ。公民の117Pに面白い項があった。41「世論とマスメディアの役割」中、「マス・メディアの問題点」の説明文に、「マス・メディアは、常に正しいとは限らず、誤った情報で国民をミスリードする事もある」と書いてあり、例として、最上段右隅に「特ダネ欲しさに事件をねつ造した例もある」と、「↑」のさきに、かって朝日新聞記者が珊瑚にみずから落書き、傷つけて、「こんなひどい事をする奴がいる」と捏造し記事にした、それがそのまま載せられている。芥子粒位の小さな字だが、「朝日新聞社」とはっきり読める。
なるほど、これで朝日新聞が、社説にまで「こんな歴史教科書でいいのか」と、国定でもなく検定済の8社のうちの一社でしかない、扶桑社の教科書を目の敵にする訳がわかった。多分、朝日は、公民にも目を通しているだろうから,載せられている事は知っているだろう。だからといって、「公民教科書」を直接非難すると逆宣伝になって、読まれたくない、事件を知らない、若い層まで「公民教科書」を手に取るかもしれない。それは避けたい。だから執拗なまでに、歴史教科書=扶桑社を攻撃する。
朝日新聞しか読まない善良な読者は、そんなにひどいのかと思ってしまう。これを世論操作という。かくて、扶桑社反対の声が巻き起こる。思うつぼである。 末期症状である。
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