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2005年05月30日(月) 温かいメール

京都にいるedaくんから温かいメールが届いた。仕事だ仕事だとあっぷあっぷしている自分が恥ずかしくなる。いつもぼっと光る帰り道の月を見上げて、お堀に立つ波の作る輝きに目を細め、夜に少しだけ開けた網戸から入ってくる風を触り、ラジオ深夜便のジングルに会わせて鼻歌を歌って過ごすのがいい。edaくんが書いてくれている、私の昔の日記もついでに付けておく。一文一文の構造は空っぽなんだけど、勢いだけで読むならばけっこういい文章。思いだけが溢れて書いてしまった、という感覚を、絶対に忘れてはいけない。





バナナさん

ご無沙汰しています。

今週末に東京外国語大学でアフリカ学会が開催されます。とうとう、僕も学会などで発表するようになってしまい今はその準備に追われています。

実は東京へ行くのは5月だけでも3度目になります。毎度毎度夜行バスで行き来していますが、なんだか馬鹿らしいです。先日初めて月島にてもんじゃ焼きを食し、意外にも美味しいので、次に行ったときにも月島へ足を運びました。あと、築地にも初めて訪れたのですが、なんだか僕にはあまり楽しい空間ではありませんでした。いい出会いがなかったからでしょうか。

最近も小難しい学術書ばかり読んでいますが、今日は少しだけ趣向を変えて沖浦和光の『幻の漂白民・サンカ』を購入してみました。昨年辺りから日本民俗学の本を読みはじめまして勉強になることが多いです。

そういえば8月末からまた1年ほど調査に行ってきます。あいも変わらずジンバブウェですが、今回は別の町の調査もしてみようと思っています。民族も歴史的な背景も異なるので今やってる町と比較しながら考えられればと。

花粉症だったからか最近のバナナさんはあまり元気がないようですね。仕事も随分と大変そうで。周りの友人たちも話をすると仕事が大変だともらします。一緒に住んでいた相方も過労と栄養失調で先日倒れたみたいだし。怖いですね。あまり頑張りすぎるのもよくないんでしょう。

実は、学会発表でバナナさんにも見せた寡婦の人たちが歌う歌を使おうかと思っています。そのことを彼女に話すとバナナさんの日記に書いてたやつやな、というので思い出してさっき読み返していました。で、うれしくなってプリントアウトもしてしまいました。

と、まぁとりとめもない話をとりとめもなく終ろうかと。お忙しいのに、内容のないメールを読ませてしまい申し訳ないです。

それでは、お体にお気をつけて



p.s. 黒蘭がなくなったことはかなりの衝撃でした。。





******

2004年06月25日(金) ずっと書きたくて言葉にならなかった。

先週の日曜、アフリカのジンバブウェにフィールドワークに行っていた友達が帰ってきた。新宿西口で飲む。

「バナナさんはアフリカについて誤解しすぎ」と怒られながら、色々と貴重な話を聞く。
彼はジンバブウェの都市に広がりつつある寡婦(未亡人)のコミュニティについて研究しているという。(なんてマニアック!と思ってしまったのだけれど。)



「ジンバブウェでは伝統的に、女性は(男性の)財産、所有物という考え方があったんですね。だから夫が死ぬと、寡婦になった妻は夫の兄弟に相続される制度があった」「えーひどい。そんなの嫌だよねえ。だんなは好きでもそのお兄ちゃん好きになれないよ」。「でもね」私の言葉を遮り、彼は続けた。
女性が何も(土地や家などを)所有できないコミュニティにおいては、寡婦相続の制度はひとつのセイフティネットでもあった。それは社会を維持するために必要なシステムだったという。

「最近はそういう制度がないから、夫を失った妻は途方に暮れてしまうわけです。僕は、その寡婦たちが、寡婦同士でより集まってコミュニティを作っているというのを聞いて、面白いな、と思ってね。それでアフリカに着いてから、急に研究テーマを変えちゃったんです。」
「彼女たちは基本的にキリスト教徒なので、寄り集まってお祈りをしたり、皆でピーナッツバターを作って売ったりしてる。コミュニティは、(経済的な、というよりは)精神的なよりどころという役割が大きい」。



私はなるほどねえ、とうなってばかりいた。世界には私の知らないことがなんて沢山あるんだろう、と思う。色々質問をした。



彼は読んでいる学術書の量もやはり私などとは比較にならず、ジンバブウェの政治がどうなっている、世界の南北問題はどうなっている、そして寡婦はどうやって生活している、という広い視野と狭い視野、両方の眼でものごとを見つめる眼を持っている。

しかし結局のところ、一番感心させられたのは、やはり実際に見て、会って、話して、一緒に働いた人にしか分からない寡婦たちの生活についてであった。フィールドワークをしていた10ヶ月の間に、仲のよかった寡婦が2人死んだという。

「数日前に話したばかりの人で、病気も回復に向かっていると思ってたからだいぶ落ち込んだ。でも、土葬で死に顔を見ても涙が出ないんですよ。寡婦コミュニティの人も誰も泣かない。慣れざるを得ないんだろうね」。

「辛いんだろうね」哀れんだ顔をした私に、彼は冷静に答える。「僕はその人たちと一緒のうちに住みこみで研究させてもらって、ひとりひとりにインタビューしたんですよ。何が一番しんどいですか?って。聞けば、やはりお金がないことだと言っていた。でも、けっこうなんだかんだでやってるよ。口では『まったく苦しくてねえ、困るわ』とか井戸端会議してるけど、それは日本と一緒。辛い辛いってふさぎこんだままやってかないわけにいかないから、古着を売ったりかごを作って売ったり、まあどうにかご飯を手に入れてみんな楽しく生活してますよ。そんなもの。あたりまえだけど一緒ですよ、僕らと」。



彼が撮ってきた何千枚という写真の一部を見せてもらう。都築響一が「写真の素晴らしさは撮る側の被写体への好奇心で決まる」というようなことを書いていたのを思い出した。彼と寡婦とのいい関係が、画面からにじみ出てくる。本当にみんな、いい笑顔をする。「写真を撮ってもらうから」とわざわざ着替えて化粧をしてから出てきた人もいたという。私と一緒だよ、と笑ってしまった。



この文章を綴りながら、それで私は何が書きたいのだという自問自答を何度も繰り返し、結局友人に勧められた新書、『グレート・ジンバブウェ』を面白く読むしかない自分を少し情けなく思ったりもする。ただ、「物質的に豊かになった我々は、発展途上国の人達のような生きる喜びを忘れてはいないだろうか」といったようなまとめにはしたくないことは確かであったはずなのに、寡婦が歌う賛美歌(動画で見せてもらった)は最近聴いた音楽の中で一番泣きそうになったし、ピーナッツバターを作った後の黒くて脂ぎった彼女らの掌を写した写真は、勉強のために買ったおしゃれ写真集の何倍も私の心に響いてきたのである。



なぜ、カメラを向けられて微笑んだ彼女たちはあれほどに、生気に満ちているのだろう。人の生活とは、政治や思想や書物をはるかに飛び越えて、なんと不思議で、素敵なものなのだろう。



クーラーのきいた部屋でこんなことを書いて、書くことで満足している自分は何だろう。書くことで満足している自分は何だろう、と書くことで満足している自分は、何だろう。






2005年05月29日(日) 毎週のこと。

毎週毎週日曜日の夜が嫌だと言っているのはどうかと思うが、毎週毎週嫌なのだから仕方がない。

仕事をしていると、もちろん良いこともある。例えば、先日は夢が叶った。アルバイトさんのインタビューで、大手アパレルメーカーの手刺繍を手がける会社に行くことができたのだ。日本橋の、小さな問屋街の一角に、その事務所はあった。

夢というのは、「華やかな服飾業界の裏方として働く人々を取材したい、記事にしたい」ということ。就職活動中、エントリーシートと作文に、ずっと書いてきたことだ。自分としては、『装苑』でやる企画と考えていた。どこでどうなってやりたいことがやれるか、会いたい人に会えるかなんて分からないものだと思う。

刺繍と聞いて、すぐにある有名ブランドが浮かんだので「ケ○タさんとかやっていらっしゃるんですか?」と、ちらっと聞いてみたところ「あそこの刺繍はほとんど全部うちですね」とのこと。

美しいニットの模様は、一針一針アルバイトさんが手刺繍している。服を作る道が諦めきれず、1年社員として勤めた設計の会社を辞めたという女の子だった。「自分が作業してできた服を、街で着てくれる人を見た時がとても嬉しかった」とはにかむ。そんなことがある職業なんだ、当たり前のことに気付いて、鳥肌が立った。



2005年05月28日(土) 不思議な偶然

土曜日の夜に、どうしても音楽に助けてほしくて、新宿のタワレコでジョナサン・リッチマンのCDを買った。それと、久しぶりに前の彼の書いている文章を読みたいと思ったので彼が文章を書いている雑誌を買って、ずっとだるい体を引きずって家に帰った。

帰宅後、その前の彼から「今馬場にいるからごはんでも食べよう」と電話がかかってきた。誕生日に私が入浴剤を贈ったお礼だという。

石田千もエッセイでそんなことを書いていたが、不思議な偶然は重なるものだ。誰かのことを考えていた時に、ひょいとその人に出くわすことが多い。



日曜日のお昼ご飯を、家にあったもので適当に作って一緒に食べた。彼はたまご焼きとビールがほしいと言って、わざわざ近所のスーパーまで買いにいった。一番いいたまごを買ってきてくれたおかげで私が作ったたまご焼きはいつもより鮮やかな黄色に仕上がった。おいしかった。

コロナビールにライムを入れて飲んだ。本当は、村上春樹みたいなおしゃれな日曜の午後になるはずだったのに、ライムが熟れていなかったせいでうまく絞れなくて、仕方がないので彼は果肉をそのままビールに突っ込んでいだ。彼のグラスの惨状を見て、おかしいので大笑いした。昼間からビールを飲むってけっこういいなと思った。

ジョナサンリッチマンの話をしたら、リッチマンがモダン・ラヴァーズというバンドでヴォーカルをやっていたころ、70年代の時代背景と、どんな音楽をやっていたか、この曲がいい(『アイム・ストレイト』のあとに『ロードランナー』を聞け)、というのを解説してくれた。



帰り際にハグしてもらった。「れいちゃんがんばれ!」と言われた。「がんばれって何?」と聞いたけど教えてもらえなかった。記憶というのはすぐに消える。だから、こうして書いておくのが趣味になった。記憶でも何でも、これからはうまく使って楽しい毎日を過ごしたい。




2005年05月27日(金) この日記の問題点

過去の日記をタイトルごとに見られないこと。

イイダくんから「バナナさんが僕のジンバブエ滞在について書いていた日記を読み返しました」というメールをもらったのだが、いったいどこにあるのか分からない。

何年の何月?



2005年05月23日(月) 「答えは風に吹かれている」

ここ数日の鬱屈した気持ちは女性ホルモンのせいだったことが判明。こえー。こんなのに月1回やられてたら仕事にならないよ。月曜日が終わった。見上げたら(ほぼ)満月だった。

最近買った本でお気に入りなのが『都電懐かしの街角 昭和40年代とっておきの東京』(明元社)。

手紙を書いた。



2005年05月22日(日) 日曜日の夜の抽象的な話

日曜日の夜、すごく大変そうないろいろなもの(ひとつあげるなら美貌、もうひとつあげるなら努力せずにはいられないという才能)を宿命のように受け入れ、抱え込みながら全力で、息せき切って生きている、つまりとってもとっても大変そうで見ているこちらがしんどくなる黒木瞳のドキュメンタリー、『情熱大陸』を見たあと、歯を磨いていたら突然涙が出ていた。私も大変だ。

昨日のウディ・アレンでも泣いたから目が腫れている。

就職活動のとき「誰にも頼れない」と思ったあの感覚が突然戻ってきて、とても辛くなった。いつまでこんなに辛いんだろう。歳をとっても辛いんだろうか。それとも、だんなと子どもでもできれば辛くなくなるのだろうか。

今日、取材で一緒になった代理店の女の人は、「今、すり減るばかりで返ってくるものがないから、仕事が辛い」と言っていた。それでもきっと辞められないんだろう。たまに楽しいし、今さら逃げられないんだろう。そういうあっぷあっぷの人を、よく見る。

私が前の彼を尊敬している理由は、彼は生きるのがとても辛そうだけれど、その辛い点が私の考える「辛いこと」とはっきりとずれているからだ。私が手放さずに頑張って辛い、と思っているものを彼は何の惜しげもなくひょいと捨ててしまっている、というか、生まれつき持っていないように見える。だから、彼が生きるのが辛い、と言ったとき、「辛い辛いばっか言ってないでどうにかしろよ」と笑い飛ばせる。

こうやって自然にぽろぽろぽろぽろ涙が出て止まらないとき、だから私は彼のことをちらっと思い出して、少しだけ楽になる。今の私が大切にしている私の大部分、私を作り上げていると思われる価値が、彼にとっては何の意味も持たないことを確認するのだ。



2005年05月21日(土) 『さよなら、さよなら、ハリウッド』

気分が鬱屈していたので、ひとりでウディ・アレンを見に行った。大盛況らしく、夕方に着いたのに7時の回まで全て満員だった。臨時でレイトショーが追加されることになり、何とか入ることができた。

笑った。たまに泣いた。人生のベストスリーに入る、いい映画だった。真っ暗な映画館で、常に「くすくす」と人の笑い声がもれていた。みんな、大好きなウディおじさんと、向かい合って話しているみたいだった。最後の「落ち」で、映画館全体の観客がどっと笑った。「こういうのをきっと『映画』っていうんだろうな」と思った。

12時過ぎの山手線で帰る。漱石の『文鳥・夢中夜』。おぼろ月夜。ラジオ深夜便。消えてしまいたい。



2005年05月17日(火) 王子様への手紙

新緑が美しい季節になりました。
たまに降る雨で気温が下がる時のために、
私の部屋にはまだこたつが出しっぱなしです。

お元気ですか。

またすぐに忙しくなりそうですが、
とりあえずひとつ、仕事が一段落したので
書いています。

6月前半は入稿のラッシュが控えているので、
せいぜい今のうちに(といっても数日間かもしれないけれど)
会社帰りに本屋さんに寄ったりしてのんびりしたいなと思っています。

あなたに向けて書きたいことを貯めている間に、
また新しい本の感想が
自分の中から出てきたりして、
なかなか全部お伝えするのが難しそう。

でも、書きたいことがたくさんあるってきっといいことですよね。

今日は、ゴールデンウイークに行った
世田谷美術館のことを聞いてほしくて筆をとりました。

『ウナセラ・ディ・トーキョー」という写真展を見てきた。
7人の写真家が
東京の1935年から1992年までを撮った作品を
展示したものです。

初めて、桑原甲子雄さんの写真を生で見ました。
「午後の微笑」という作品群がとてもよかった。

それから、アラーキーと桑原両氏が出展しているということで、
金井美恵子の小説『午後の微笑』に出てくる
「ラヴ・ユー・トーキョー」という写真展(どうやら同じ世田谷美術館で開かれたらしい)
が頭に浮かびました。
そのくだりに、大好きな文章があるので引用します。
(少し長い上、以前も書いたことがあるかもしれないけれど、許してください)



 荒木の写真は、私たちの東京や性やとりわけ死に対する「イメージ」を脅かしたりはしない。「イメージ」を脅かし、それを揺るがせるはずだと素直に信じて発表されたことによって、荒木の写真は、見る者の「イメージ」のなかに、ほどよいショックを与えつつおさまり、平板化される。あらゆる価値の平板化こそが現代の特質だという近代批判の価値観によって、荒木は自らをアラーキーに平板化するのである。観光客が旅先で撮る「写真」が、パック・ツアーの「経験」をますます平板化する、という、ブーアスティンの『幻影(イメージ)の時代』を反語的映像として撮ったはずの荒木が、「イメージ」の持つ、そう単純には出来ていない両義性を超えることが出来ないでいる時―「トーキョー」も「東京」も、「イメージ」などにはおさまりきれないし、「中年女」も「風俗女」も「死顔」も「性交」も、たかが写真のイメージなどにおさまりきれるものではない、と当の「イメージ」が主張する―指と視線の倫理をカメラという装置に賭した桑原甲子雄の写真が、見る者の生きた時間に向って、ここでしかない瞬間と空間に生きている者たちの存在の力を主張する。わたしたちは写真なんかに撮られても平板化されはしないのだ、と。

 桑原甲子雄が最も新しい写真展(1992年)に「午後の微笑」というタイトルを付けたのは、フレームに切り取られる写真などで決して平板化されることのない時間と人生のダイナミズムにあふれて、現にそこにひろがる世界に対する―それが東京であれトーキョーであれ―指と視線の倫理による確認の微笑なのだ。そして、私たちは桑原の微笑を共有することによって、この世界で生きようと思うだろう。



会社員として毎日働いていると、「存在の力」なんて忘れちゃいますよね。
写真展に行ってよかった。

足を運ばなかったら分からなかったことがたくさんあったから。
『軽いめまい』のことも忘れていたし、
世田谷美術館が「砧(きぬた)公園」の中にあることも知らなかった。
中にあるレストランが
コース料理ばかりで女の子一人で
入っちゃいけない店だっているうのも気が付かなかったもの。



最近、仕事ってなんだろうと思います。
自分のプライドのためにやっているのかな、とか。
今の仕事は楽しいけれど、
読者にきちんと何かを伝えられているのか不安です。

昨日、『ku:nel』を買って、
ほくほくしながら満員の山手線の終電で読みました。
私もこんな風に、本当に本当に困ったり、辛くなっているときに
人を助けられるようなもの作れたらいいなあと思いました。



あなたの近況はどうですか?

私は多分、今、低迷期なのだと思います。
そのうちよくなるでしょう。

それではまた。

かしこ





2005年05月15日(日) 初めて聞く日曜の『深夜便』

↑小見出しに「出し惜しみしない原稿」ってこういうことかな? つまんないよね。

土日、両方会社に出たので疲れた。帰宅してジャーキーを食べる。

日曜の『ラジオ深夜便』。宇田川清江さんは、一番有名なアンカーなのに、ほとんど初めて聞いた。(土日は遊びほうけて帰ってくるから、あまりラジオをつけないのだ。)今日は、神田明神の神田祭、来週は浅草の三社祭だという。行きたいな、と思う。



2005年05月14日(土) 原稿2

新しくついた先輩が、とてもていねいな人で、この人の下で今年1年原稿を直してもらっていたら力がつきそうなので頑張ろうと思う。新たに直された点。先日のものに追記。



■キャッチ、小見出しに情報を全部出す、出し惜しみしない

小見出しを見た読者に「本文を読ませる」のではなく、「本文を読まなくても分かる」小見出しをつける。たとえば、「自分の『声』を届かせるにはどうしたらいいか」という小見出しはNG。なぜなら「どうしたらいいか」の答え(つまり本文中に入っている内容)を書かなければならないから。



■やっぱり口語が多いですよ

言葉が足りない部分、口語を使ってしまっている部分がまだ目立つので気を付けましょう。「学校の時間に間に合うように」は口語。正しくは、学校の授業の時間に間に合うように」。



■声に出しましょう

表現の重複は書いているとなかなか気付かないもの。書き終わった後にぶつぶつ声を出して読めば気付く。



2005年05月13日(金) フリーターについて語る人にはなりたくない

朝から体がだるく、仕事も忙しくて嫌な一日。夕方からアルバイトさんの取材。面倒くさいな、と思いながら新宿に向かう。

声優を目指しながら居酒屋で働く女の子だった。26歳。聞けば、社会人を2年やった後にどうしても諦めきれなくて九州から上京してきたという。

「どうして声優になろうと思ったのですか?」アルバイトと関係ないことまで尋ねる。「高校生の頃に、ラジオドラマを聞いてからはまっちゃって」。うれしそうに話す。

たった30分ほどの取材で、相手の何が分かるといわれればそれまでだ。取材は、あくまで(読者が欲しい情報の詰まった)文章を作るための素材集めでしかない。話を聞くこと自体が仕事ではない。

しかし、帰りの電車では心が軽くなっていた。体のだるさも消えていた。まったくの他人から元気をもらう、ということがあるのだと知った。



2005年05月08日(日) 出羽の郷

「どうしてこんなに大変なことがあるのに、続けているんですか?」
仕事でアルバイトさんのインタビューをするとき、しばしば問いかける。仕事には苦労する点やつらいことがあるのに続けているからには、必ずそれを補ってあまりある喜び、やりがいがあると信じているからだ。相手は戸惑う。そしてたいてい、「うーんなんとなく」と答える。私は苛立つ。



NHK『サンデースポーツ』の「インサイド」というコーナーで、出羽の郷という力士のドキュメンタリーをやっていた。今場所、戦後最年長の34歳で十両に昇進。初土俵から114場所め、異例のスロー出世でようやく「関取」となった人だ。

ほんの15分ほどのVTRだったが、彼の人柄がよく伝わってきた。控えめで、驚くほど欲がない。いい笑顔をする。中学卒業後に出羽乃海部屋に入門してから、彼は今までに9人の後輩に先を越された。自分より年下の力士の付き人を、ずっと続けてきた。生まれ育った街、日本橋の小学校によく顔を出すという。自分が子どもの頃、相撲が好きだったという純粋な気持ちを思い出すためだそうだ。

テレビを見ながら考える。どうして辞めずにこられたんだろう? 奥さんの支えがあったのだろうか。死んだ父との約束か。しかし、期待とは裏腹に、感動の物語は特にないようだった。負けて負けて、たまに勝つ、そうしてなかなか昇進できずに腐りかけたりまた立ち直ったりする日々が114場所。付き人としての生活。彼はそれを生きてきたようだった。淡々と。

私は欲のかたまりなので、彼のような人生を理解できない。勝てない試合ならしないほうがましだ。

出羽の郷は、あまり強くない。関取としての初日、今日も負けた。勝ち越さなければ、また十両から落ちてしまう。私は、苛立つ。

しかし、取り組み後の彼のインタビューを見て、私は口をぽかんと開けてしまった。じんわりと温かい涙が体の奥からこみ上げてきて、流れずに目頭にとどまった。この人を見るために、国技館に行きたいと思った。
「1週間、1週間を4勝3敗、4勝3敗でいきたいですね。ペース配分を考えて、疲れを残さないようにしたいです」



2005年05月07日(土) 王子様への手紙

前略

ご無沙汰しています。
最近ずいぶん暖かくなりましたね。
寒いのが本当に苦手なので、助かります。
スギ花粉も一段落して、穏やかな日常が戻ってきました。

お元気ですか。

あなたは寒いのより暑いのが苦手だから、
きっとイライラしているんでしょう。
半袖Tシャツ姿から伸びた白い腕が浮かびます。

こちらはゴールデンウイークでした。
暦通りお休みがとれたので、いろいろなところに出かけたよ。
この歳になって、少し、自分なりの旅行や散歩のコツがつかめてきたように思います。
つまり、現地に行ってこそ分かる細部に、
だんだん目を向けられるようになってきた。
実際に足を運ぶと、ガイドブックには書いていないことがたくさんある。

大学生の頃は、この世界の有限や
自分が結局どこにもたどり着けないことについて嘆いたけれど、
最近は、まだ見ぬ街を想像してわくわくします。
だから、東京23区の地図を買いました。
地図が読めないから
「今日は西に行った」とかその程度のところから
始めてみようと思います。

昨晩は、神保町から根津まで歩きました。
昨晩というのは、けっこう遅くて、夜の8時頃のこと。
友人とキッチン「南海」でカレーを食べた帰り、
本郷の東京大学構内を通って帰ることにしたのです。

東大は早稲田と違って門が立派で、(早稲田大学には門がないのです)
一度入るとなかなか出られなかったり、
逆に一度門を通り過ぎると、なかなか構内に入れなかったりしました。
講堂にはまだ研究生がいるのか、明かりのついた窓がたくさんありました。
それがぼおっとにじんで、闇を照らし、
黒ずんだ、クリーム色の壁を浮かび上がらせます。

一番奥にある「動物医療センター」と書いてある棟の前を通ったら、
建物の中から「オーンオーン」という犬の遠吠えがして
その時だけちょっと、怖い感じがしました。

春の宵は、空が紺色です。
月はなく、星は、少し見えます。
日陰の土は、前日に降った雨を含んで塩素のような匂いを放っています。
たまに、すれ違う人がいます。

東大を過ぎて裏の路地に入り、
旅館やらすでに閉まったカフェやらを冷やかしながら
やがて言問通りに当たって右折し、不忍通りまで。

ヒールのあるブーツで1時間以上歩いたから疲れて、
途中のコンビニでアイスを買って食べました。
170円のソフトクリーム型を選んだら、
「君のそれは高級なやつだ」と友人が言います。
自分がガリガリ君だから、悔しいのでしょう。

いい大人が、夜中にアイスを食べている光景が、
なんだか妙に幸せに思えてうれしくて、ロマンチストな私は
また紺色の空を見上げました。

散歩をするといろいろなものを見ます。
今日は書いていない内緒のものがたくさんあります。
便せんがいくらあっても足りません。

だからまた書くね。

私は明日から会社。
あなたのような気楽な人生に早くなりたいな。

今は、どこにいるのでしょうか?

もうすぐ誕生日だね。
もうおじさんなんだから健康に気を付けて。
たまには私の前にも顔を出してください。

かしこ


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