オクラホマ・スティルウォーターから

2001年11月28日(水) アメリカへ

 成田からシカゴまで10時間の旅だ。行きより帰りのほうが1時間短いようだ。でもシカゴからボストンまで飛ぶし、そこから車で1時間ちょっとあるので、1日がかりだ。

 機内での時間はあっという間で、機内食が出たあとは梨奈共々寝ていたし、ビデオを見たり、ゲームを少ししただけで、何をしたかなというぐらいだった。

 シカゴに着いて、一番最後に乗務員と飛行機を出た。シカゴの空港の乗務員に連れられて、入国手続きを済ませ、荷物を受け取った。驚いたのは、私の荷物が既にカートに積まれていたことだ。どの荷物かわかっていたようで、とても驚いた。ファミリーサービスっていいなあ。

 税関のところでも、たくさん荷物があるにもかかわらず、特に申請するものもないので、あっさり通された。私と一緒にファミリーサービスを受けている人は、申請するものがあったようで、別のところに通された。

 それでもなんとか入国して、アメリカン航空のゲートまで乗務員が連れてきてくれた。シカゴは何回か来ているので、私はわかっているが、ファミリーサービスを受けているもう1組の中年カップルにとってはとてもありがたいと思う。

 ゲートの待合席で待っていて、そのカップルがボストン郊外に住む息子さんのところに電話をかけることになった。シカゴからボストン郊外まで、公衆電話でコインでかけると5ドル近くになると電話案内があったようだ。私はプリペードカードがあったので、それでかけてあげた。ついでにネジャーティにも電話して、シカゴに着いたことを告げた。

 ボストンまでは2時間だったが、国際線より緊張した。でもなぜかアフリカ系の子供2人がスナック菓子を配ってくれたり、空の缶を集めにきてくれたりして、子供のおかげでホッとした。子供の力ってすごいなあ。

 無事にボストンに着いた。いつも日本から戻ってくる時、緊張するからか、おなかの調子が悪い。ネジャーティにも無事会えた。ボストンまで一緒だった中年カップルも息子さんが迎えにきていて、無事対面を果たされた。

 思ったより暖かくてよかった。



2001年11月27日(火) 出発

 朝5時過ぎに起きて、支度をした。梨奈はぎりぎりまで寝ていた。

 出発は8時40分だったが、空港で朝ご飯を食べることにしたので、早く出た。車の中でいろんな話ができたが、笑ったのは父の話だった。
 父の実家は戦後少しまで大阪のど真ん中にある商家だったが、父の父が用事で他の商家に行って、遅くなってしまったのでそこの2階に泊まることになった。連絡を受けて父は次の日の朝早く、用事があって、その商家に泊まっている父の父を訪ねた。

 父 「すみません、父がお宅の2階に泊まってるて聞いてきたんですが、、、。」
 商家「うちには2階はおまへんで。」

 大爆笑。父曰く、明け方で2階があるかどうか見えなかったとか。2階と聞いてきたからてっきりそこに泊まっているかと思ったらしい。思い込みは恐ろしい。それで結局父の父はその商家の向かいにある別宅の2階に泊まっていたらしい。久しぶりに面白い話を聞いて、笑いが止まらなかった。

 空港に着いた。宅急便で送っておいた荷物が届いていた。ダンボール箱を2個預けて、「荷物は2個でいいですか」と聞かれた。実は昨日もう1個小さいかばんひとつができてしまったので、預けられるかどうか聞いてみた。すると60キロまで大丈夫だからまだ預けられるということで預けた。先に国内線に乗るからそれでいいのか、それとも規則が変わったのか、とにかく荷物が減ったのでよかった。

 朝食を済ませたのは8時近くでいい時間だ。両親と別れて、荷物検査を済ませ、ゲートで待っていた。荷物検査のところではある大物関西のお笑いタレントも突っ込んでいたが、「ポケットの中に次のものは含まれていませんか?」という案内板に「ナイフ」や「はさみ」などのアイテムのほかに「安全靴」とある。これはポケットの中に入らへんやろ。

 日本の航空会社(JAL)だったが、ファミリーサービスが受けられるということだった。国内線で一旦成田まで行くが、国際線使用の飛行機だった。成田までビジネスクラスだった。成田で降りると、乗務員がずっと案内してくれた。荷物も持ってもらったので大助かりだった。空港の専用のラウンジに通されて、そこで11時5分にそこを出てゲートまで案内するということだった。出国ゲートのラウンジも使用できるということだったが、出国前のラウンジは子供も遊べるようになっていた。手荷物を棚においていけるということで、JAL専用のベビーカーも借りていたので、デザートを食べることにした。とても身軽で楽だった。

 あまり時間はなく、あっという間に11時5分になり、ラウンジに戻った。10分ほどして、出国手続きをすることになった。出入国カードがなくなったので、出国口もとてもスムーズだった。ゲートまでずっと案内された。時間があったので、売店で買っていると、乗務員が呼びにきてくれた。子供連れは先に通される。席はスクリーンの前だった。機内は混んでいたが、隣の席はだれもいなかった。肘掛が上がらないので、寝転ぶことはできないが、それでもずっと膝のうえに抱えなくてもいい。

 いよいよ出発だ。
 



2001年11月26日(月) 最後の日

 明日ニューハンプシャーに戻るなんて信じられない。里帰り当初は日本の生活に戸惑って、場違いなところにいるような気がしたが、そのうち慣れて、またニューハンプシャーの生活に戻るのが億劫になっていた。

 毎回里帰りするたびに新たな発見があって、それが面白かったり、逆にそれに戸惑ったりすることもある。今回の新たな発見といえば、日本は(というか関西は)人間臭いところだなということだった。ニューハンプシャーにいると人間関係がドライに感じる。それはこの辺の特徴なのかもしれないが、ギャップを感じてしまった。

 何はともあれ、今日は最後の日。お造りや食べたいものを買ってもらった。

 夜は梨奈がなかなか寝付かなかった。普段と違うことがわかったのかな? 母の手を握ったら寝てしまった。



2001年11月25日(日) 見学

 今日はユキ子さんが帰る日で、神戸の西にできたアウトレットに行こうと決めていたが、父を除いてみんな遅くおきてしまい、アウトレットに行く時間はなくなったので、結局もう一つの候補だった、今年オープンした酒ミュージアムに母に連れて行ってもらうことにした。

 西宮には灘五郷の二つがあって、大手酒メーカーの工場が海の近くにある。そこで六甲の水脈から湧いている宮水を酒に使う。

 震災ではこの辺も大きな打撃を受けた。震災で壊れた道具類や水車も展示されていた。お酒を作る過程や数知れない道具が置いてあった。英語の説明もあったのでユキ子さんも理解できたようだ。

 酒ミュージアム横には80席あるというレストラン&カフェがあるのだが、休みだからかあいにく混んでいたので、芦屋駅に向かい、新幹線のチケットを買って、お昼ご飯を食べた。
 新快速で新大阪に向かった。4時出発のこだまに乗るまで30分あったが、すでに少し列ができていた。新大阪発なので座れるはずだ。ユキ子さんは窓側の席に座り、出発を待った。
 時間どおりに新幹線は出て、ユキ子さんともお別れだ。あっという間だったなあ。

 その後、母の仕事場に行った。



2001年11月24日(土) 神戸にて

 今日は神戸を周ることになっている。

 神戸の中心地、三宮で下車して東急ハンズで買い物。その後、市庁舎の24階の展望台から神戸市内を見渡した。神戸は北に山、南に海があるので、「北側」「南側」といわずに「山側」「海側」という。

 市庁舎の海側に「東遊園地」という公園がある。そこに、旧居留地だった建物を使ったとてもおしゃれなレストランがあって、そこではとても良心的な値段でランチを出してくれる。そこに行ってみると、披露宴のパーティーで貸し切りになっていた。残念。
 市庁舎に戻り、展望台にあるレストランに入ることにした。レストランからもいい眺めである。

 お昼を食べた後、センター街という三宮と元町の間にあるショッピング通りを歩き、元町の駅からまだ山側にある日本庭園の相楽園というところに行った。神戸には数え切れないほど行っているが、相楽園は少し離れたところにあるので、行ったことがなかった。

 あまり大きい庭園ではないが、その空間だけ静けさが漂っている。昨日まで菊花展をしていて、今日は片付けていたが、まだ少し菊は残っていて、少し楽しむことができた。庭園の横には異人館も隣接して、一般公開している時期がある。それも昨日までの公開だった。異人館の建物は見たところはユキ子さんの言うように、ニューハンプシャーの家みたいだが、屋根は日本風でとても面白い。

 相楽園を後にして、元町に向かう。元町は若者向きの三宮と違って、アーケード通りは老舗が多く、マダムが行くお店があったりして、ハイセンスの町である。また旧居留地跡があり、明治、大正、昭和初期に立てられた建物が残っている。アーケードどおりから海側(南側)に路地を入ると、南京街という中華街がある。横浜の中華街と比べたらとても小さいが、一角だけ中国だ。中国人はすごいなと思う。自分たちの文化を中華街の中で持ちつづけながら、その街に溶け込んでしまうのである。中華パワー恐るべし。

 元町の駅から神戸駅に向かう。神戸駅の海側にはもともと大手企業の重工の工場や倉庫があるのだが、その一部分が百貨店やお店ができ、ポートタワーがあるメリケンパークの埠頭をはさんで西側にハーバーランドがつくられた。人が戻ったので、神戸駅も活気を戻している。

 ハーバーランドにあるモザイクに行く途中でコーヒー店に寄る。宮水という西宮で取れてお酒にも使われる水を使っているというので有名である。そこで一休みして、モザイクに向かった。

 すっかり日が落ち、モザイクからポートタワーや海洋博物館のライトアップを見る。やはり神戸の夜景はきれいである。夜には山にある市章やいかり、「KOBE」という文字が見える。ユキ子さんはそこに山があることをすっかり忘れていて、なんだろうと思っていたらしい。

 少し夜景を眺めて、帰路に着いた。



2001年11月23日(金) 大阪にて

 今日はユキ子さんが来る日だ。10時40分に新大阪に着くというので、間に合うように出たが、駅で新快速に乗っていこうと思ったら、とても混んでいて乗れる状況じゃなかったので、次の快速に乗っていった。

 新大阪の新幹線の出口は人がたくさんいて、やはり連休だからだなと、人の多さに驚いた。ホームで待ち合わせをしていってみたが、ホームでも人が多く、端から端まで歩いたがユキ子さんの姿はなく、ユキ子さんの親戚のうちに電話をしたら、携帯の番号を教えてくれた。携帯にかけてみたら、すでに中央出口にいるというので、中央出口に向かい、無事会えた。

 在来線で一駅乗って、大阪駅で一旦降りて荷物をロッカーに預けた。ロッカーも奥の方は空いていたが、私たちがロッカー室から出てくると、係の人が、ここはいっぱいですと他の人に言っていた。

 駅ビルの屋上に上って大阪を一望した後、難波に向かった。難波から歩いて道頓堀に向かった。道頓堀にはカニやら、くいだおれの人形やら、ふぐちょうちんやら、お店の装飾がすさまじい。ユキ子さんいわく「とてもアジア的だ」。

 お昼はお好み焼きを食べようと思ったので、5階建てのビル全階が店舗となっているお好み焼き店に入った。エレベーターの前で待つように言われて待っていると、団体客がどっと入ってきた。その数30-40人。既に予約をしているらしく、2階と4階に分かれて入っていった。同窓会か何かのようだった。また旅行会社の添乗員もいて、近くの県からきているようだった。

 そのうち私たちは5階に通された。ユキ子さんはモダン焼きのもちチーズとえび、私は同じくモダン焼きのイカとタコを注文した。ユキ子さんは日本語で「ビデオをとってもいいですか?」とお店の人に了解を得てビデオを撮っていた。

 モダン焼きができあがって、りなにも少し食べさせた。二口、三口食べて、唇をかんでしまったようで、泣き出した。やけどはしていないはず。私が食べ終わる頃には寝てしまった。

 エレベーターの前で読んでいたミナミのお店のパンフレットに20%の割引券がついていたので、それを使った。ユキ子さんも、あの量で安いね、と喜んでいた。

 戎橋筋、心斎橋筋を歩いて、心斎橋の百貨店でケーキを買って、地下鉄に乗って大阪城に向かった。

 大阪城に来るのは小学校以来で、十年(×2)ぶりだ。大阪城公園がこんなに広かったかなと新鮮に感じた。今日は大阪城ホールや公園でいろんなイベントがあって、賑わっていた。

 天守閣近くまで行って、写真を取ったり、少し休憩したりした。天守閣の上までは上らず、また元の道を通って、地下鉄の駅とは違う方向に歩き、同窓生である友人のおうちに向かった。

 友人宅に着くと、すでに別の同窓の友人がきていたので、少し待たせてしまったようだ。同僚の方も一緒で、ネット上では知っていたが、初めてお会いした。

 友人の手作りのお菓子と、ケーキとお茶で話も弾んだ。特に友人と同僚の方は日本語を教えているということでユキ子さんも一生懸命日本語で話した。

 すっかり日も暮れて、あっという間に時間が過ぎた。友人も駅まで送ってくれた。

 大阪駅に寄って荷物を取って、電車に乗って、駅まで母が迎えにきてくれた。 



2001年11月22日(木) カット

 ニューハンプシャーに戻る前に、もう一度カットしてもらった。この前は後ろの紙をだいぶすいてもらって、かつらができるぐらいの髪の毛が床に落ちていた。今回も後ろの髪を少しすいてもらったが、前回ほどではなかった。それでも髪の毛が軽くなった。

 私の髪の毛は量が多いので、伸ばすととても重たい。毛の向きが違うと、毛穴が痛くなることがある。
 
 私の髪はもともと茶色い。でも染めているような色ではないので、とても自然で羨ましがられることがあるが、前回だいぶ髪の毛をすいてもらったからか、まだ授乳でホルモンの量が違うからか、前回のカット以降、前より黒く見えるような気がした。中・高の同級生にもそれを指摘され、やはりそうなのかとちょっとショックだ。親には色素が沈着してるのではといわれた。

 カットのあと、近くのケーキ屋でケーキを買って帰った。父が梨奈を見てくれていて、もしおとなしくしていなかったら近くの山に散歩しに行くといっていた。家に着いたら、出かけた後だった。しばらくしたら帰ってきて、ケーキを食べた。

 今日の夜は大阪に行って、本屋に寄ったあと、晩ご飯を食べた。



2001年11月19日(月) 結果

 今月初めに病院に行って検査してもらった結果が出ていることがわかったので、今日行ってみた。てっきり連絡してくれるのかと待っていたのだが、こちらから電話をかけて、結果が出ているかどうか聞かないといけなかったようだ。
 
 検査の結果は「繊維線種」という良性のものだった。悪性の可能性はほとんどありませんということだったのと、良性のものが悪性になるという可能性はないようだ。ただあくまでも検査結果なので、半年後に再検査を勧められた。

 線種そのものを取るというのも簡単なので、実際に取ってそれを検査するということもできるが、今回はもう少し様子を見ることにした。

 あまり心配はしていなかったが、少し安心できる結果でよかった。



2001年11月18日(日) オフ会

 母に駅まで送ってもらい、買い物した後、電車で大阪に行った。初めにJALプラザでチケットの交換をしてもらいに行ったが、時間がかかり、後からとりに行きます、ということで、待ち合わせ場所の大阪駅の駅ビルに向かった。いつもお邪魔している掲示板のお二人と初めてお会いするのである。駅ビルの最上階で待ち合わせである。時間ぎりぎりに到着し、無事お二人にお会いした。掲示板以上に素敵な方だった。
 お昼のひとときもあっという間にすぎて、お別れした。少し緊張してしまった。

 JALプラザに戻り、チケットを受け取った。今日はそのまま寄り道せず駅に向かった。近くの駅まで迎えにきてもらい、来週アメリカに戻るときに持っていく物を買った。食料品は買ってあるので、雑貨を買った。荷物が増えたなあ。いつもダンボールに入れて持っていくが、今回は大きい箱が必要だ。預けられる荷物は2個までなので、何とか2個におさえないといけない。



2001年11月16日(金) あっという間

 目覚ましのセットよりも早く目がさめた。朝風呂を入りに行った。梨奈はまだ寝起きで、立ったら足がぶるぶる震えていて、びっくりした。そのうち目がさめて大丈夫だったが、そんなことは初めてだ。

 朝食のバイキングは7時からだったので、7時少し前に行ったら、すでに開いていて、宿泊客がわりと来ていた。昨日梨奈はたくさん食べたが、フルーツポンチとか果物類、小さいクロワッサンやデニッシュを食べた。私は和食で、山芋や丹波の黒豆、じゃこをとった。じゃこは里帰りして初めて食べた。じゃこは生だから、向こうには持って帰れないなあ。梨奈は眠たいようで、あまりゆっくり食べられないまま、朝食を終えた。クロワッサンとデニッシュを分からないようにもって帰った。

 部屋に戻ったら8時前で、11時のチェックアウトまで時間があるので、一寝入りすることにした。梨奈も私もぐっすり寝た。1時間前に母が起きて、チェックアウトの用意をした。私も起きて用意をした。

 用意が済んだぐらいのときに梨奈も起きた。出る用意はできた。フロントでの支払いが終わった後、荷物を車に積んで、また戻って売店で向こうに持っていくお菓子を買った(UNHの皆さん、来月2日の集まりに持っていきます)。
 
 車に乗って、20分か30分発ったらもう実家だ。実家に戻ってもまだ帰ってきた気がしなかった。母は昼からの仕事に出かけ、梨奈は少しして寝てしまった。

 梨奈が起きたのは4時ぐらいで、近くのバス停に来る4時過ぎのバスに乗って、駅に行った。駅前のコープで少し買い物して、電車で隣駅に行った。隣駅のビルで買い物して、母と待ち合わせた。



2001年11月15日(木) 温泉

 母、梨奈と神戸にある有馬温泉に行った。この温泉は古代からあって、もう少し新しい歴史で言えば豊臣秀吉も入ったというところである。有馬温泉は六甲連山の裏にあるが、実家から裏山を通っていくと車で20分か30分で着く。こんなに近いなんて驚きだ。

 泊まったホテルの部屋はとても豪華で10畳の和室、洋室と、とても広く豪華版の部屋だった。ホテルの人に聞くと8人は泊まれるそうだ。

 ホテルの裏にある庭に下りて散歩。その後夕日が見える大浴場に行こうと行ってみたが、すでに夕日が沈んでしまったようで、少し残念。先に大浴場に行っておくんだったと母と後悔。それでも大浴場に行って楽しんだ。大浴場の外には2種類の露天風呂があって、両方入ってみた。外で寒いけど、温まれば問題ない。

 おなかが空いて、ホテルの1階にある和食処で晩ご飯を食べた。梨奈が食べられそうなおでんや自分が食べたいおすしなど注文した。梨奈は巻きずしを3つ半、おでんのスジ肉1本といろいろ食べた。

 部屋でくつろいだり、ロビーのラウンジでアイスクリームを食べたりした。梨奈はのどが渇いているのかアイスクリームをよく食べた。売店にも行ったりしてあっという間に時間が過ぎた。洋室のベッドで寝ることになったが、梨奈も興奮してなかなか寝られなかった。母は早く寝て、自分と梨奈が寝付けたのは1時半ぐらいだった。



2001年11月12日(月) 電話で

 ネジャーティにメールを書いて送ろうかなと思っているところに、ネジャーティから電話があった。近況や梨奈の様子を話しただけだったが、久しぶりに電話で話した。
 梨奈は日本語に囲まれているせいか、両親の言うことが少しずつ分かってきているし、言ったことをまねし始めたり、コマーシャルで聞いた言葉をまねしたりしている。こうやって言葉を覚えていくんだなあ。
 最近では、ごはん食べよう、というと台所に向かっていったり、父が「お手伝い」というと飲み終えて洗った牛乳ビンを配達用のかごに入れたりする。
 来月で2歳。「あと1年たったら楽になるよ。」といわれている。やはり物事も言葉もわかっていくからだろう。友人の子供は3歳だが、1年でも大きな違いだなと思う。



2001年11月11日(日) 外出は大変だ(2)

 母が大阪の電気街に出かけるという話にかんで、梨奈も連れて出かけることにした。大阪駅の周辺地、キタと呼ばれる地域には電車一本で出やすいので、行動範囲はどうしてもキタに限られ、そこから地下鉄や電車に乗って、どこかへ行こうという気にならない。道頓堀、難波周辺のミナミと呼ばれる地域には、大阪駅から地下鉄で行かないといけないので、何かがないと行かない。少し気合いが必要である。

 ミナミでもいつも行くところが決まっていて、電気街に行ったことがない。大阪市内で生まれ育った父曰く、「難波から歩いてすぐやで」。
 地下鉄の駅は「日本橋(にっぽんばし)」で「難波」とは違う。でも実際に歩くと日本橋と難波はとても近かった。
 結局買い求めたいものは見つからなかったが、近くの百貨店に寄った。キタにある百貨店とはまた違うセンスのものが置いてあり、のところで一休みした。梨奈もよっぽどおなかが空いていたのか、私が注文したケーキに食らいつき、平らげてしまった。
 
 梨奈を連れて歩くのはとても大変だと実感した。おとなしくベビーカーに乗ってくれないし、自分で行きたい方向に行こうとするし、立ち止まってしまうし、そうすると梨奈を抱っこしてベビーカーを押さないといけないし、大変だった。ニューハンプシャーでは町の人口は数万人にも満たない。隣町は数千人単位の人口である。また車での移動なので、人の中には行ったことがないので、まだまだ人の中でどのように振舞えばいいか分かっていない。
 電車の中では眠ってくれればいいが、眠たいのに興奮していて、いうことを聞いてくれない。でも今日のお出かけで梨奈も少しは何かを覚えたようだった。



2001年11月10日(土) 外出は大変だ(1)

 昼過ぎから梨奈を連れて、バスで出かけた。駅前のショッピングセンターに行ったが、エスカレーターやエレベーターを上り下りしたり、特に買い物をせずにすごした。またミスタードーナツで休憩した。梨奈はドーナツを2つも平らげた。
 今日は暖かい日で、上着も脱いで、荷物がかさんだ。バス停から坂道や石段を登って家に帰らないといけないので、きつかった。梨奈も眠たがって、抱っこして帰った。外出は大変だ。



2001年11月07日(水) 男脳

 里帰りして3週間たつが、これは里帰りしたてのころのこと。家に「話を聞かない男、地図が読めない女」の本があったので読んでみた。そこには男脳か女脳かを見るテストがあったのでやってみた。結果は男脳だった。しかも、男度と女度がオーバーラップするところよりかなり低いところに点数が出て、少しショックだった。

 思い当たるところがある。地図はかなり読めるほうだ。どこか行くといったら、ネジャーティにも結構頼りにされる。間違うときもあるが、何とかなる。知らないところに行っても、好奇心旺盛で心配しない。知ってる街では、いろんな道を車で通ってみたりして、探検する。

 うちの祖母も生前、地理感はあって、ここは以前通ったとか、覚えてる。方向音痴ではなかった。旅行に行っても車の中から外を良く見ていた。
 祖母が生きていたら、このテストをしてみたかったが、それがかなうわけも無い。母にこのテストをしてみたら、オーバーラップの領域で、バランスが取れているということか。父はまだこのテストをしていないのでわからない。

 友人のHPでも男脳テストを載せているので、やってみたらやっぱり男脳だった。男友達には異性と見られていなかった理由がわかった。仲間やと思われてたんやあ。そういえば、私も男友達を異性として意識していなかった。こりゃあかんわ。



2001年11月06日(火) 言葉

 梨奈が言葉を覚えていっている。最近覚えたのは「さむい」。「い」までははっきり言わないが、「さむい?」というと「さむ」という。それから、犬が鳴くと「わーわー」という。「ん」がはっきりいえないらしい。からすも「かーかー」に近い言い方でまねる。



2001年11月04日(日) 4ヶ月ぶりの再会

 今日はニューハンプシャーで同じアパート群におられたIさんとお子さんが遊びにこられた。朝のうちに、駅近くにある、この辺では有名なケーキ屋にケーキを買いに行った。本当は昨日も買っていきたかったが、雨も降っていたし、荷物があったし、ちょっと無理だった(Mえさん、みんな、今度持っていくね)。

 Iさんが来られたときは梨奈が寝ていて、ケーキを食べて落ち着いたところで、梨奈が目を覚ました。4ヶ月ぶりに再会した梨奈も覚えているようだった。Iさんからおもちゃをいただいて、梨奈は大喜び。大人でも面白いおもちゃだ。

 里帰りする前に行ったニューハンプシャーの山の紅葉をビデオに撮ったのでそれを一緒に見て、近くの森林公園に出かけた。森林公園までは急な坂道で、子供たちは元気に上って行ったが、Iさんも私も、そう元気には上れなかった。

 森林公園で散歩をして、家に戻ると、ちょうど母がタクシーで戻ってきた。そのタクシーに待ってもらって、Iさんはタクシーに乗って帰っていかれた。再会できてよかった。



2001年11月03日(土) プチ同窓会

 今日は中学、高校の同級生、Mえさんが以前から企画していたプチ同窓会を開いてくれた。おうちにお邪魔するのは3年ぶり、今日来た同級生の中には高校卒業以来初めて再開した同級生もいる。梨奈も同級生の子供たちと遊んでもらってご機嫌だ。

 お昼ごはんをMえさんが全部用意してくれた。たらふく食べさせてもらった。子供たちの分も別に作ってもらった。(Mえさん、残してしまってごめんなさい)。
 話も盛り上がってあっという間に時間が過ぎた。普段静かであろうMえさんの部屋も、この日は梨奈や同級生の子供でにぎわってMえさんも大変だったんだろうなあ。楽しい一日だった。



2001年11月02日(金) 免許証&事件

 失効した運転免許の手続きをするために、免許試験場がある明石に行くことにした。梨奈が起きる前に家を出て、駅に向かった。新快速に乗ると25分ぐらいで着いてしまう。
 電車からは明石大橋が見えた。正確には明石ではなく、神戸から淡路島にかかっているようだ。神戸側から見ると、そう大きいものに見えないが、橋を過ぎて明石から見ると、大きく見える。

 明石駅に着いて、バス停に向かう。バスがすぐに出発した。バスからは駅の前にある明石城の入口で菊花展が開催されているのが見えた。もし時間があったら見てみたいなと思いつつ、試験場に向かった。

 失効した免許証の手続きは11時から11時半までと限定されていて、試験場に着いたら11時を少し過ぎていた。受付で手続きの説明を受けて、手続きのための書類を書いたり、目の検査をしたり、手続き料を払ったら、11時半になっていた。
 1時からの講習まで時間があるので、もう一度明石駅に戻ることにした。朝ごはんをしっかり食べたので、おなかがまだ空いていなかったので、明石城の公園に菊花展を見に行った。菊というと、中学、高校のとき、大阪にある遊園地の菊人形を見に行くのがうちの秋の恒例行事になっていた。

 日本で見る大輪の菊はアメリカでは見られないので、久しぶりに菊を楽しんだ。菊花展では大輪だけでなく、箱庭に岩や盆栽、菊を施してあるのもあり、写真を持ってきていたらと残念に思った。菊花展を見る人は多くが年配で、私と同年代は見られなかったが、とてももったいないことである。
 菊花展の場所を過ぎて公園内を少し歩く、10年前に見たときより、城も大きく感じた。明石城は石垣に対の天守閣が残っている。敷地は広く、奥のほうは生徒が野球大会で使えるような球場もある。庭園を歩いて、公園を後にした。

 県内には姫路城もあるし、大阪には大阪城もあるし、明石城跡はそんなに大きなものではない。初めて来たときも、大きく見えなかったが、今日来てみてよく見ると、天守閣がとても高いところにあって、意外に大きく感じる。

 明治になって、武士社会の象徴であった城の天守閣をほとんど壊して、実質ともに封建制度を壊すことを試みたが、建物だけでもそのまま残しておく方法は無かったのかなと少し残念に思う。日本人にとっては古臭く思うものでも、海外に住むのが長くなると、とても新鮮に思えて、もっと文化的なものを賞賛したくなる。


 駅に戻ってミスタードーナツで休憩。まだおなかが空いていないので少し軽いものを食べた。
 バスで再び試験場センターに戻った。講習は更新センターであるので、そっちに向かった。本来なら講習は30分あるようだが、時間の関係上、15分ぐらいに短縮された。重要なことをポイント、ポイント教わった。
 試験場に戻って、少し待った後に写真を撮った。また手数料を払って、無事免許証をもらった。失効した場合は、今までの年数は全て無しになる。初心者と同じ扱いだが、若葉マークをつけなくていいという免除のスタンプが免許証の裏に押されている。次の更新は3年後だ。

 駅に戻って、駅にあるお店に寄った。明石は神戸よりは知名度が低いかもしれないが、明石というと、日本標準時子午線が通っていて、海産物では鯛、たこ、穴子、いかなごが捕れる。たこ焼きも明石でつくられた明石焼き(地元の人は玉子焼きと呼ぶ)が最初だ。明石焼きはたこ焼きと違ってだしで食べる。卵の量がたこ焼きより多いのでふわっとしていて、どちらかというと中身は茶碗蒸のようだ。明石焼きを買って帰ることにした。

 おなかが空いていれば、穴子の押し寿司でも食べるのだが、今日に限っておなかが空いておらず、持ち帰りしようかと思ったが、持ち帰り用では穴子だけというのがなかったので、あきらめた。またネジャーティが来たときに、ここに来るかな。ネジャーティとは姫路城にも行ってみたい。

 せっかく一人行動なので、三宮で下車し、スーパーのDに行くことに。和食器でいいものがあれば買って帰ろうと思っていた。あれこれ見た挙句、何も買わずに帰ることに。Dの2階からは歩道橋が出ているので、そこから出てJRに行くことに。

 歩道橋から人が下を見ていた。何だろうと思っていたら救急車が。歩道橋からポートライナーの入口を過ぎてエスカレーターを降りてJRの駅の東口に向かうと、東口には警官がいて、テープを張って完全に東口を閉鎖していた。中央口からホームに向かうと、生徒がやたら「発砲が何とか」と言っている。何か事件があったようで、家に帰ってテレビをつけると早速全国版でもニュースで流していた。やはり発砲事件だった。いや〜こわい。スーパーDに行くときに東口から降りたぞ〜。もう少し遅かったら、またスーパーを早く出ていれば、発砲事件に鉢合わせたかも。4年前にも市内のホテルで、組員が発砲した流れ弾に当たった歯科医が亡くなっている。今回発砲したのは大阪市内のやくざらしいが、神戸のやくざでも普段、市民には発砲せぇへんで。気ぃつけなあかんわ。



2001年11月01日(木) 病院

 病院に行った。梨奈を置いていくことは出来ないと判断し、梨奈と母と一緒に行った。早めに行ってしまったので、待つことになってしまった。
 今日は超音波と組織を取ってもらうことになっていた。超音波を取ってもらったが、あまりはっきり映っていなかった。それと、注射器で組織を取った。針は痛くなかったが、吸い取るのが痛かった。
 結果は1週間ぐらいで出るように急いで出してもらうことになった。


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