西方見聞録...マルコ

 

 

38歳 - 2006年01月28日(土)

マルコはもうすぐ35歳になろうとしているとき、関西引っ越した。そんで今の研究室に席を得たとき40歳の先輩に出会った。その先輩に「35歳になってなんか一山超えちゃった感じです。」と言ったら「35歳以降40歳まで毎年一山越える感じよ」といわれた。なるほど。

女の37度線なんて言葉もあるけど、38歳と言うのもなんかこう、大山を越えた感じがするなあとおもう。今、私38歳なんですけど。

中身的には20歳くらいのころとそんなに大差ないつもりなんだけどさ。デモなんか腑に落ちなくって落ち着かない気分でいたのが、まあ腑に落ちないなりになんとかやっていきましょう、と折り合ったり、あきらめたり、わかった振りができるようになる。そういう年代のような気がする。30代後半から40歳にかけて。

神はサイコロを振らないという小林聡美が主人公をしているドラマをなんだか見ている。民放ドラマを第1回から見ているのなんてはっきり言って何年ぶりだろう?ひょっとしたら「週末婚」以来かもしれない。「サトラレ」と「エンジン」はかなり見たけどやっぱり第8回目あたりから見たような気がするな。とにかくそれくらいマルコ家はNHK教育以外のテレビは見ないのだ (ちなみにビデオは見ます、あと話題のドラマの最終回だけ見るというのは時々します)。

でで小林聡美ドラマなんだが、航空会社の地上勤務の主人公は38歳。10年前に事故で乗客乗員全員死んだと思われていた飛行機が10年前の世界からワープしてくるところから話しが始まる。その飛行機には副操縦士の恋人とスチュワーデスの親友が乗っている。

多分38歳ってのはもう若くない女の代名詞なんだろう。もう若くない自分が10年前死別したと思ってた若いままの親友と恋人に再び出会うことによって10年前の自分と否応なくむきあわされる。と言う話らしい。

私は10年前の自分より、5年前くらいの激辛人生送ってた自分に会いたくないな。多分一山越えた後の私たちは一番輝いてる自分を目の前につきつけられるのがしんどいのではなかろうか。

ところで、思うんだが小林聡美ってこれからすごい女優になりそうだな。十代で大林宣彦の「転校生」でデビューしたときはなんだかものすごい新人が出たとおもったけど20代の彼女は「やっぱり猫が好き」をやってるとき以外はなんだか場が得られなくてそれこそ腑に落ちない雰囲気だった。でももう若くなくなってはじめて所を得る人というのもいるんだな。なんか既成の「おばちゃん」とか、「大人の女」になるのでなく、小林聡美がいいかんじで本来の自分に戻っていくように年を取って行ってるのを見ると、なんだかうれしくなる。

激辛人生も輝いてる時代ってのもそれなりによかったけど、ホントは枯れてきた自分ってのもかなり好き。こっから先、いくつくらいまでかはわからないけど、どんどん、ゆっくりとしっくりといろんな物に折り合いがついていってそれはそれでいいものなんではないかなと予測している。

ところで「転校生」で小林聡美と共演した尾美としのりも上記ドラマに出ているが、これまた「転校生」以来、夏の季節に所を得られなかった人材の様に思う。なんだか二人が「もう若くない」演技をしていると、若くなくなるというのは商品価値を失うということではなくて、人から押し付けられたいろんな「ものさし」やかくあるべき「型」から自由になることなんだなとしみじみと思う。なかなかたのしい。



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流通する言説 弾圧される言説 - 2006年01月24日(火)

 掲示板のほうでちらほらと話題になってましたが国分寺で起きた東京都による学問の自由への侵害に関する事件に対する抗議サイトが女性学の研究者を中心に立ち上げられました。

 バックラッシュの動きはあちこちで耳にする機会が増えています。でも自民党のPTのページが選挙期間中はリンクをはずしたりとか、バッシングのもとになった『誤った教育実践例』(ジェンダーフリー教育のために林間学校で男女同室にしている等)が事実無根の「勇み足」だったりとかとても怪しい動きだと思います。

 その怪しい動きがいま行政やマスコミでどんどん力を得ていることに不気味さを感じずにはいられません。

 今回の抗議文の草稿が若桑みどり氏を中心にGender Studies のML上で纏め上げられていく作業を傍らから見ながら、声をあげなくてはならない時代の曲がり角に立っているのだ、としみじみと感じています。

 抗議文のなかのジェンダー理論についての説明は簡潔でなんだかとても参考になりました。全体的にいい文章だなあ。

 抗議サイトでは署名も受け付けています。締め切りが1月26日とちょっと早めですが、マルコもこっそり署名しようと思います。


 ========引用==============

ジェンダーは、もっとも簡潔に「性別に関わる差別と権力関係」と定義することができる。したがって「ジェンダー・フリー」という観念は、「性別に関わる差別と権力関係」による、「社会的、身体的、精神的束縛から自由になること」という意味に理解される。

 したがって、それは「女らしさ」や「男らしさ」という個人の性格や人格にまで介入するものではない。まして、喧伝されているように、「男らしさ」や「女らしさ」を「否定」し、人間を「中性化」するものでは断じてない。人格は個人の権利であり、人間にとっての自由そのものである。そしてまさにそのゆえに、「女らしさ」や「男らしさ」は、外から押付けられてはならないものである。

 しかしながら、これまで慣習的な性差別が「男らしさ」「女らしさ」の名のもとに行われてきたことも事実である。ジェンダー理論は、まさしく、そうした自然らしさのかげに隠れた権力関係のメカニズムを明らかにし、外から押し付けられた規範から、すべての人を解放することをめざすものである。

 「すべての人間が、差別されず、平等に、自分らしく生きること」に異議を唱える者はいないだろう。ジェンダー理論はそれを実現することを目指す。その目的を共有できるのであれば、目的を達成するためにはどうすべきかについて、社会のみなが、行政をもふくめて自由に論議し、理解を深めあうべきである。

 それにもかかわらず、東京都は、議論を深めあうどころか、一面的に「ジェンダー・フリー」という「ことば」を諸悪の根源として悪魔化し、ジェンダー・フリー教育への無理解と誤解をもとに、まさに学問としてのジェンダー理論の研究および研究者を弾圧したのである。このことが学問と思想の自由に与える脅威は甚大である。

===============以上引用=========








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柳川堀割物語 - 2006年01月17日(火)

柳川堀割物語ときいて、ああ、あの宮崎駿と高畑勲のあれね!と言える人はかなり通である。宮崎・高畑コンビがナウシカ後のわりとすぐの1987年にこのドキュメンタリーを世に発表している。

私はこのフィルムを18年前、成人式で帰郷した時に、池袋の文芸座ルピリエで見た。エルザさんがすごい面白いから見ておいでと言ったのだったと思う。そんでそのエルザさんは多分、私の兄からこの映画の話を聞いたんだっけかな?

で、当時近代合理主義と伝統文化の相克について卒論でやりたいなと思ってた私はこの映画を見てすぐに(と言っても大学の春休みに入ってからだが)柳川に行った。青春18キップ乗り継いでトコトコ行った。ユースホテルにとまって堀割の衰退と再生をささえた社会関係とその変容を主題に調査できないかな〜と思って2週間くらい街をさまよった。でも当時の私は都市部での調査手法を知らなかったので結局、柳川はあきらめて、福島県の戸数50戸の山村をフィールドに選んだんであった。

このビデオをホントに久しぶりに行きつけの図書館のビデオライブラリーで見つけて、環境学科のNPO・NGO論のクラスで見せてみた。とにかく167分の大長編で最初の80分くらい柳川の伝統的掘割システムの考え抜かれた緻密なシステムがゆったりと語られるので学生諸君はすごく眠いようなのだ。それに1987年の柳川の風俗はなんと昔めいて見えることか。

みせる前に「これは『もう一つのナウシカ』って呼ばれてるんだよ。先生なんかこれ見て人生観かわっちゃたんだから」と前宣伝しすぎたのもいけなかったのだろう。前半90分を終えて、柳川に飛び出していきそうな学生はいなかった。

今週、後半部分をこれから見せる予定。

このドキュメンタリーが「このままでいいのか、近代合理主義一辺倒でいいのか」と世に問うた1987年からさらにバブルとその後の不況の時代を経て、時代はさらに人々の欲望を乗せた猛スピードのトロッコのように疾走している。

このままでいいのか

今こそ問われるべき問いなのかもしれない。


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ぽん太漬け - 2006年01月10日(火)



 「ぽん太の大冒険」とは我が家のハリー・ポッターの呼び方である。

 年末、ハリーポッターの新作映画「炎のゴブレット」封切りに先立ち、第1作と第2作の映画がTVで放映され、それを録画した。おKさんがなんだかおはまりになられ「屋敷しもべのドビーの真似」とかお気に入りの場面を演じてくれるのでその演技資料として必要らしくおKサンは飽きずに「ハリーポッターみたい〜」と叫ばれる。おかげさまで我が家ではその録画ビデオをほとんど病気な状態で繰り返し見ている。

 さらに、あめでお母からクリスマスになにが欲しいか問われたので「ハリーポッター映画の第三集 アズカバンの囚人」のビデオを所望したところクリスマス前にそれが届き、やっぱり朝から晩までそれを再生することになった。そしてクリスマスに第四集炎のゴブレットの本がサンタさんから届いたので1号サンは昼間学童で読めるところまで読んで、夜はマルコの本気音読を所望する。

 第四集炎のゴブレットの本の音読中の28日に東京方面へ帰省。マルコ実家にはハリーポッターの本がそろっているので引き続き第四集を音読。マルコはそこで第五集「不死鳥騎士団」のほうもぱらぱらと読んでしまい、猛烈に続きが知りたくなる。そして30日あめでお実家に移動。あめでお実家はあまり本を読まないのでハリーポッター断ちが出来るかと思いきや最寄駅の駅前シネコンプレックスで第四集映画「炎のゴブレット」がやっていた。そこで特に予定のない大晦日の午後1号さんとあめでお母の2人で映画を見に行くことになった。そして正月1日夕方、奈良に帰省。

 正月マルコはなんだか眠れなくて、夜一人でハリーポッターの第四集を一気読みしてしまう。1号さんに第四集「炎のゴブレット」の続き読みたい?ときくと「もう映画で炎のゴブレットの筋は理解したので、第五集を読みたい。」という。その答えを期待していたマルコはさっそく家の近くの郊外型大型書店で第五集「不死鳥騎士団」を購入してきて、昼は1号さんが学童で一人で読み、夜はマルコが本気音読する日々が続いている。

 本来流行ものに対しては拒否の姿勢をとるあめでおさんまでひそかに携帯版の1集〜3集を買ってきて読んでいるのをこの前発見した。

 この3連休はおKさんがビデオに録画したハリーポッターを延々と見て、気に入りの場面で「トビー」や「太ったレディー」や「マンドレイクの幼木」になりきってなにやら一人で演じている横で、マルコは本気読みで1号さんに第5集「不死鳥騎士団」を読み聞かせ、あめでおさんは自分で携帯版のはリーポッターを読んだり、ときどきマルコの音読を聞きに来たりとまさに2005年末から2006年初頭まで我が家はメディアミックスにぽん太漬けの状況なのである。

 マルコは読みながらちょっとだけ思ったのだが、ハリーポッターの作者JKローリングスが言いたいのは、ファンタジーに仮託しているが、もしかしたら「かなり現実的なこと」なのではないか?話しが進むにつれ、ちょっとずつ見えてきたのだが。(それについては第五集を読みおわってからもう一度コメントする、、はず。たぶんきっと)




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余裕と育児と斜めの関係 - 2006年01月03日(火)

 あ〜なんか思わせぶりなタイトルの写真日記を写真だけアップして放置してしまったよ。すみませぬ。



 正月にあめでお兄から缶バッチ制作マシーンを1号さんへのお年玉に頂いた。なんつうかね、絶対、親なら買わない、こう、派手で楽しいウキウキしたものを贈ってくれるあめでお兄なんである。親や祖父母やなんか娘の成長に血道を上げてヒューズを飛ばしてる人間がまず重視しちゃう「役に立つ」とか「教育的効果」とかをあっさり無視して、その上で大胆にお金を使ってくれるのがこの兄の特徴である。

 ちなみにこの兄はあめでおさんより数段女性受けする要因を持ちながら、独身でおられ、「独身である楽しみを手放したくないから結婚はしない。」と平然と宣言し昔女の姑をぶっ飛ばしている。いくつ見合いの話を持ち込まれても「遊びでいいなら付き合ってあげるよ」と親戚筋の世話焼き婆にクールに言い放つ様ははっきり言ってシビレル。

 1号さんもこの父に似てるが数段かっこいい(そしてかわいいウキウキするプレゼントを金に糸目をつけずにばんばん買ってくれる)伯父にめろめろでファーストネームでチャン付けで呼び恋い慕っている。

 1号さんの伯父はもう一人いて、私の兄も立場的には伯父であるのだけどこちらはすでに結婚し1号とおKさんと同じ年格好の子どもを育てており「親」のオーラをびしばし漂わせている。1号さんはこのオヤ族の伯父(私の兄)よりクールでお金持ちで責任感を漂わせていない独身貴族の伯父(あめでお兄)を明らかに寵愛し、あってる時は常に2人で何事か言い合って笑い転げている。

 ー学生時代、映像民族学の講義でみたVTRのアフリカの部族社会のジョーキングリレーションシップみたいに。




 そんでこっちは年末に東京で女医さんをしている私の高校時代の友人がうちの子ども等に送ってくれた飛び出す絵本@豪華本。




 このあまりにゴージャスな絵の飛び出し方に1号がホントに狂喜乱舞した。その喜ぶ1号の姿と彼女が寝てからこの本を手にとってしみじみ考えたのは「オヤ族」になってしまった自分には到底発想できないプレゼント企画だな〜ということ。なんかね「子どもが破っちゃう」とか、「子どもには高すぎるわ」とか「オヤ」の常識にとらわれちゃってわたしはこういうの買えなかったと思うのだ。

 でもこの友人やあめでお兄が1号にくれたのは、オヤの常識や責任にとらわれない、斜めの関係からだからこそ与えてあげられる「子どもの幸せ」と言う奴なんだと思う。1号の喜び方や心の奪われ方を見ているとそれはすごく彼女にとって大事な心の栄養になったような気がするのだ。

 オヤ族にならずに大人になったことで得られる「非オヤの力」みたいなのを2つのゴージャスプレゼントを前にしみじみと感じた。

 



ところで冒頭の缶バッジ製作マシーンですが、、、だれですか!ひそかに法隆寺バッジを制作して100円で売ろうと企てているのわ!


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舎利あっての正月 - 2006年01月02日(月)

さて今年も法隆寺の舎利講を見るべくとっととお江戸から帰還しました。
舎利講とはこんなかんじとかこんなかんじで過去日記に紹介されておりますな。

今年は開始時間の午後1時ちょっとすぎに行きました。
まだお念仏中です。




そんで夢殿の回廊の下であそんでいると




を、高田良信長老、遅刻して登場。
高田長老のお嬢さんは関係ないけど女優の高田聖子さん。目がそっくりですな。

そんで1時半こと舎利殿の中に行くと、おもむろに7重の絹が解かれ、舎利が衆目にさらされているところでした。ありがたいありがたい。

正月の3日間、午後1時半に夢殿の舎利殿に行くと仏舎利が拝めます。さあみんな!舎利を拝みにLET'S GO!!


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