TOP 最新の記事 戻る≪ INDEX ≫進む


指輪物語関連ファイル

YUKI


2004年02月29日(日)
 <映画>『マスター&コマンダー』感想


公開初日、レイトで見てきました。9時30分開演。200席くらいの劇場が半分以上埋まっていました。客層はばらばら。若いカップルや年配のカップルや、女の子のグループや家族連れなどなど。いったい何を期待して見に来られたのか・・・予告編騒動のことを考えると少々心配ですが、初日から来るお客さんたちは映画を見るマナーがとても良くて、快適に過ごせました。感想は以下(ねたばれ全開)↓


映画全体として見れば、割とおだやかな描写が続いた印象があるんだけれど、冒頭とラストの戦闘場面が結構ショックかも。できるだけ忠実に描くとああなるんだねえ。砲弾か来て水兵たちがふっとぶさまや、白兵戦の血だらけの描写がすごかった。でも、これまで読んだ帆船ものの小説や漫画(私の場合、数は少ない)の舞台がこんなふうなんだ、と納得することができました。
細部がものすごく本物っぽくて、戦闘シーンもリアルな割には、穏やかな部分の人間ドラマの部分はどう受け取ればいいのかしら・・・と考えながら見ていました。船長の任務遂行に徹している姿を描いているのか、船医との友情を描いているのか。有無をいわせない戦闘シーンと人間的なシーンを融合させるのは難しいね。中盤の時間のゆっくりした感じは『刑事ジョンブック目撃者』と『ピクニックatハンギングロック』の監督と知って、なるほどと思いました。
私は主役のラッセル・クロウの映画を見るのはこれが四本目。『L.A.コンフィデンシャル』『グラディエーター』『ビューティフル・マインド』『M&C』
L.Aのクロウが一番好きだな。今回のは、グラディエーターとビューティフルマインドの主人公を足して割ったような感じだよね。(も少しやせた方が好きかも)ラッセル・クロウとポール・ベタニーのコンビは絶妙で、『ビューティフル・マインド』の時とは、全然違うパターンだけれど、ラッセル・クロウの反対側にベタニーを置きたくなる気持ちはすごくよくわかる。うれしそうに動物を追いかけるマチュリンかわいい。でもって自分で手術しちゃうのもすごい。そして熱血クロウに意見する得がたい友人。チェロとバイオリンでふたりで演奏するシーンも素敵。
問題の少年のエピソードは、抑えた描写でよかったと思う。「母さん」のかの字も言わない勇気のある子供たちでした。うがった見方をすればジャック・オーブリーの出発点と経過点と到達点を一本の映画の中で描いているんでしょうね。ジャックが皆に向かって檄を飛ばすシーンがいい。船乗り達を掌握して、思ったように動かすためには、いろいろな経験を積んで、はったりをきかせなけりゃいけないんだなあ。アメと鞭。尊敬されなかったら人はついてこない。
原作からどの部分をとって、どの部分を落として、この映画ができているのかはわからないのですが、映画としてみた時に、とても周到に構成されていて、エピソードの使い方も丁寧で穴のない映画だと思いました。
さてアカデミー賞の作品賞、監督賞は『王の帰還』とどちらがふさわしいでしょう・・・
正直なところ、『マスター&コマンダー』が大人が作った映画だとしたら『王の帰還』は少々子供っぽいかもしれない。PJという大きな子供が喜んで作った作品。それでも三本の映画の膨大な作業を仕切って、あの原作を映画として完結させたことは評価されるべきだし、難しいなあ。


2004年02月28日(土)
 <映画>『マスター&コマンダー』


指輪物語とは直接関係無いのですが、
指輪の映画を一緒に楽しんできたネットの友人が
とても力を入れて応援している映画ですので、ご紹介します。
今日が公開初日。

『マスター&コマンダー』
友人が作っているこの映画の情報サイト
Sail ho! 
映画「マスター&コマンダー」とP.オブライアンの原作etc.の海外情報日記
http://www.enpitu.ne.jp/usr2/27941/diary.html

ラッセルクローとポールベタニー主演。
アカデミー賞で『王の帰還』の一番のライバルです。
多くのファンを持つ海洋小説の忠実な映画化。

私は原作をまだ読んでいません。
この映画についての情報もあまり読んでいません。
白紙の状態で今日、映画を見に行こうと思っています。
映画を見たら感想をアップします。

指輪の映画がお好きな方ならきっと
楽しめる映画だろうと思います。
ぜひご覧になってみてください。


2004年02月27日(金)
 <王の帰還>サントラ


ネットでちらほら噂の上がっていた、DVDおまけつき王の帰還のサントラをアマゾンで購入した。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00016ZPK8/qid=1077819847/

これは輸入版で、日本語の解説書つき。通常のサントラのほかに、45分のDVDと、フォトギャラリーと切手仕様のシールが一枚ついている。DVDには三部作の名場面を集めた6分のトレーラーと、ハワード・ショアのサントラ録音風景が30分くらいと、写真集が入っている。
映画の中でBGMに何曲か歌がかぶっている曲がある。ピピンとアラゴルンの曲はわかるが、その他には字幕もつかない。その歌の歌詞が載っていた。歌詞はトールキンの文章をエルフ語に訳してあるらしい。フラン・ウォルシュが作ったものもある。ゴンドールの兄弟の歌とかあるんですが、映画のどの部分で流れているか、今度確かめなくちゃと思う。
このCDは映画の公開前に発売されていたそうで、けっこう映像とか写真が盛りだくさんで、公開前に見たら楽しかったかも。ネタばれだけれど。




2004年02月25日(水)
 <王の帰還>スクリプト


ネットにスクリプトが上がっていました。

http://www.seatofkings.net/script_rotk.html#trotk



2004年02月23日(月)
 <王の帰還>希望


「私はドゥネダイン(エダイン)に望みを与えた。私は私自身のためには望みを取って置かなかった。」

これは、アラゴルンの母ギルラインの言葉。追補編に出てくる。
『王の帰還』を最初に見たときは引用されていることに気がつかなかった。
字幕では、エルフ語が区別できなかったから。
エルロンドが鍛え直された剣を持ってアラゴルンを訪れる場面でふたりが言う。
前半部分をエルロンドが、後半部分をアラゴルンが言う。
これはこの映画のキーワードじゃないか?
先行上映を見た時点で、すでにある人がそのことを指摘していたので
吹き替えで見たときは、その部分がはっきりとわかった。
そして、今日、グワイヒアさんのサイトで、詳しい解説を読んで、
『王の帰還』にもきちんと通った考えがあるんだと思った。

ミドルアースの風
http://www5e.biglobe.ne.jp/~midearth/
ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還 セリフ探索の旅
http://www5e.biglobe.ne.jp/~midearth/caption/rotk/index.htm

アラゴルンはエルフ達の間でエステルと呼ばれていた。エステル=希望だ。
TTTの時に繰り返し語られる「希望」「望み」は、この言葉につながっていたのか。
人間の王が再び現れ秩序を回復する。

また、この言葉はフロドにもあてはまるかもしれない。
フロドは指輪を捨てて中つ国を救った。それでも、そのことは彼の希望にはならなかった。

この言葉はまた、エルロンドにもアルウェンにもあてはまるのかもしれない。

「私はドゥネダインに望みを与えた。私は私自身のためには望みを取って置かなかった。」

この言葉の前半と後半のどちらに重きをおくかによって、映画のラストシーンの受け止め方が
変わるのかもしれないと思った。そういう観点からもう一度映画を見るのもいいかもしれない。





2004年02月21日(土)
 <王の帰還>三回目 吹き替え版


吹き替えのいいところは、字幕を目で追わなくていいから画面のすみずみまで見ることができること。今日は、ストーリーを追うのもそこそこに、いろんなところを見ていました。あ、吹き替えの訳文は字幕とさほど違わなかった。ようやく、字幕のレベルが普通になったってことですね。でもね、吹き替えの方が、矛盾点を緩和してる感じがしました。たとえばセオデン王がエオウィンに、アラゴルンの方を見ながら「お前に似合いの男だ」と、字幕版ではなっていましたが、吹き替えでは「立派な男だ」というふうになっていました。原文のスクリプトを見ていないので、どちらが原文に忠実かはわからないけれど、セオデンまで応援している恋、という中途半端な感じはなくなりました。

今日は、戦闘の状態がどこまで進んで、どういうタイミングで援軍が現れているのか、というようなところを見ていました。オスギリアスが戦略上の要というのが、よくわからなかったんだけれど、あそこをとられると橋を渡って敵がやってくるわけですね。だからファラミアが守っている。でもいったん退却して、デネソールに言われてまた出陣し、全滅する。そうしてオーク軍がペレンノールの野に布陣して、ミナスティリスを攻略して、外壁を突破して、城に攻め込もうとした瞬間にローハンの騎馬軍団が現れる。そしてオーク軍を川へ追い詰めようとしたときに、南方の兵士とかじゅうが現れてローハン軍を蹴散らして、エオウィンと魔王が戦っている前後に、幽霊の軍をひきいてアラゴルンたちが到着。あっというまにオーク軍を蹴散らしてとりあえずの勝利。その間に、デネソールの狂乱と、モルドールのシェロブの話がからむから、あちこち大忙し。インフレ気味のオーク軍に対抗するには、RPGのような幽霊軍団しかないわけだーと、思わせてしまうところがちょっと残念。

黒門前に集結して、サウロンの目をごまかすというのは、原作よりわかりやすくなっていました。今日見てておもしろかったのは、指輪はないけれど、サウロンの目がアラゴルンにむかって、「あらごるーん・・・えれっさすーる・・・」という誘惑の言葉をつぶやいていたことでした。今から突撃するぞーっていうそのすぐ前の場面でね。そこで背後のレゴラスとかガンダルフが、こいつ大丈夫かなー?という顔をしているの。そこで、アラゴルンは少し間合いをとって「For Frodo」と言って突撃するんでした。王様になったアラゴルンはサウロンの罠には引っかからないのよ。

指輪が滅ぼされて、モルドールの全てが崩れる時に、原作では黒い雲がサウロンのかたちになってそして風に吹き飛ばされる・・・という描写だったと思うのですが、映画ではそういうふうにはなっていません。できるだけホコリをたてずに崩れていったようでした。黒い影も現れませんでした。PJいかにも喜んで作りそうな場面なのに。そのへんに911の映像の記憶への配慮があるのかなと思ったりしました。いろいろな意味で、あの出来事と制作時期が重なったのは大変だったんですね。

あとはネットで見かけた小ネタの確認
・ギムリ、執政の椅子に座ったら失礼かも。
・クモの糸にまかれたフロドの目が一瞬閉じてるカットがまざっていました。
・灰色港で、ガンダルフは指輪をしていました。
・最後にサムが家に帰るときに、フロドにもらった赤表紙本はどこへ行ってしまったんでしょうね?(笑)


2004年02月20日(金)
 映画のパンフレット


最近は映画のパンフレットを買わなくなりました。
以前は俳優の名前やスタッフの名前を知るために買っていたけれど
そのうち映画館のチラシでいいや、となって、
しまいにはネットの公式サイトで見ればわかるし、という感じ。
スクリプトが載っているなら価値があるけれど
写真ばっかりで、たいしたことのない解説記事ならいらない。
LOTRのパンフはちょっと悩みました。
メイキングブックとかフォトブックとかポスターブックとか
原作とかイラスト集とかDVDとかSEEとかCDとか入手して、
ネットの公式サイトやファンサイトを巡回していたら
ほとんど新しい情報は載っていないからです。
で、『王の帰還』のパンフレットを買おうかどうしようか迷いつつ
まだ買っていないのですが、姪っ子のを読ませてもらいました。
四人の方のレビューが載っていました。
田中明子さん、荒俣宏さん、柳下毅一郎さん、あとひとり
(名前を忘れました。すみません。)
納得のいく人選でそれぞれの立場の文章がよみごたえがありました。
個人的には柳下さんの見方がおもしろかったです。
なにかとてつもないものを描くのがファンタジーなら
それを映像化したPJの映画はファンタジー映画として
素晴らしいという内容。絶賛に近い(笑)
この方は『二つの塔』の公開時に、映画秘宝で特集記事を担当されていて
ものすごくおもしろかったんだけれど、パンフではあまり毒をみせずに
嘘もつかずに、ほめてあるなあ。
お名前で検索するとHPがヒットします。
とっても面白いのですが、殺人に関するページには
予期せぬ写真があったりするので、ご用心です。


2004年02月18日(水)
 viggo-online.net


Viggoの情報を得るのにとても頼りになるサイト、『The House of Telcontar 』がLOTRの三部作の公開が終わったあとでも、情報提供を続けるということで『viggo-online.net』に生まれ変わったのは最近のことです。
最初はアメリカのサイトのみでしたが、だんだん各国語に訳されて日本でもお世話をして下さる方が現れて、日本語で読むことができます。そして、このごろ日本国内の雑誌やオンエア情報も充実しています。数日前、ご紹介した『いのちの響き』もビデオクリップとして、このサイトで視聴することができます。著作権関係がどうなってるかはわからないんですが、ものすごくありがたいです。この番組はこのへんでは、やっていないから。『めざましテレビ』や、ジャパンプレミアで来日の時の番組をいろいろと見ることができます。

viggo-online.net
http://www.viggo-online.net/news/viewtopic.php?t=5&lang=jp



2004年02月17日(火)
 <王の帰還>第二回目感想


映画『イノセンス』の試写会を見るために上京したついでに、公開初日の『王の帰還』を六本木のヴァージンシネマズ六本木ヒルズで見ました。

見終わって不思議だったんですけれど、先行上映の時にあったシーンがふたつほど、映りませんでした。短いバージョン?それとも上映ミス?それとも私の勘違い?ほんの数秒のカットですけれど。

前回は上映開始に少し遅れて、冒頭部分をちゃんと見ることができなかったけれど、今回は落ち着いて見ることができました。ゴラム役のアンディ・サーキスがちゃんと画面に映っていましたね。この冒頭部分はゴラムの役で一番たいへんだったアンディサーキスへのねぎらいの意味もあるんじゃないかと思いました。そしてまた、物語の中心は指輪にあることの再確認。

二回目を見て、私は映画のある部分は原作へのリスペクトに満ちていて、またある部分は原作とは離れた考えのもとに作られているように思いました。だから映画全体として原作との比較をすることはできないな、と。そういう意味でも、この映画は完成度は高くない。それでもやはり映画を見終わったあとに残るのは、原作を読了したあとに残るものと、重なる部分があって、この映画は好きな作品なんだなと思いました。


2004年02月12日(木)
 Tシャツとブックカバーと「めざましテレビ」


今日はシネコンのあるショッピングセンターへ行ったので
劇場限定キャラクター商品を少し買ってしまいました。
ネットで評判のいい、ゴンドールの紋章が金の箔押ししてある
文庫サイズのブックカバーと、黒のTシャツ。
黒のTシャツはメンズですが、半袖なので私でも大丈夫そう。
レディスは白ですが売り切れでした。



バックプリントの王冠はワンポントで小さいです。
いい感じですよ。

めざましテレビ

今朝のめざましテレビで指輪の映画の来日メンバーのインタビューを流していた。うちはたいていやじうまワイドを見ているので、めざましは見ないんだけれど、教えてくれる人がいたので見た。朝の7時40分に電話がかかってくるので、なんだろうと思ったらディスプレイに友達の名前が出ている。
「はいはい、何?」
「めざましテレビ!」
「え?ちょっと待って」(と、パソコンのテレビを切り替える)
「あーーーなるほど」(録画スイッチオン)
「あはは。ありがとう。」
「じゃあね。」
後ろで見ていた長女が言う。「何?今の」
「友達がテレビに指輪の映画が映ってるって教えてくれたんだよ。」
「なんでわざわざ、そんなことを。えーーー?」(あきれる長女)
「いいじゃないか、静かにしないとテレビが聞こえないよ!」
「・・・・」(そしてあきれたまま学校へ行く長女。こんな時間じゃ遅刻だな。)

さて、番組はフジテレビのアイドル系女子アナがインタビューするというもの。もう、内容もへったくれもないんだけれど、けっこう時間が長くて流れ作業の取材現場がおもしろかった。突然下手クソな歌を歌い出す女子アナに呆然とするイライジャとヴィゴがかわいかった(笑)ほんとに恥ずかしいな日本のマスコミは。んでもおもしろかった。

いのちの響き

ヴィゴが15日に6分間の「いのちの響き」という
インタビュー番組に出るそうです。

http://www.otrfilm.com/inochi.html

残念ながらこのあたりでは放映されていないらしい・・・



2004年02月11日(水)
 そして原作へ


映画を見終わったあと、いろいろと考えて
それから本棚から原作を出してきた。
そうして拾い読みをすると、前よりももっとイメージが
鮮明になるような気がした。
もしかしたら私が欲しかった答えはこの中にあるのかも。
というわけで、しばらく本を読もうと思います。
最初からゆっくりと。
それからまた映画を見よう。
しばらく楽しみにはことかかないですね(笑)



2004年02月10日(火)
 王の帰還のアラゴルン


PJの映画三部作のアラゴルンは原作とは別人です。
彼は、自分の血筋や、アルウェンとの恋を、引き受けることをためらうモラトリアムな人です。
しかし、『旅の仲間』では、フロドを守り、ボロミアと関わるうちに
自分の運命を引き受けることを決意します。
そこにははっきりした筋道があって、私はやはり三部作の中では
『旅の仲間』が一番好きだし、ここに出てくるアラゴルンが好きです。
でも『二つの塔』と『王の帰還』のアラゴルンはいただけない。
なによりも、映画の中のアラゴルンには
大局に立って、国の行く末を考える王としての視点が欠けています。
そんな彼が王様になっても、中つ国がちゃんとやっていけるのかわからない。

PJの映画を見て一番原作と違うのは、登場人物たちが
物事をどのように見ているか、ということだろうと思います。
アラゴルンが自分の悩みにこだわり続けたように、
他の登場人物たちも、自分の問題に足をとられています。
エルロンドは娘の心配をし、ファラミアは父親の歓心を求め、デネソールは国を忘れ
サムはフロドの気持ちがゴクリに傾いたことを嘆き、レゴラスはアラゴルンの心配ばかりする。
それは原作の登場人物たちが、今、自分は何をすべきか、と考え
皆のため、フロドのため、中つ国のために、しなければならないことを最優先させたのと対照的です。
メリーとピピンが陽気なホビットから、一人前の騎士に成長したのは
広い世界に出て、ひとつ上の視点からものを見るようになったためだと思います。
PJ達は、人間的なキャラクターにしようと思ったのかもしれません。
もっと現代的に。もっとわかりやすく。
それは意図的だったのか?それともPJほか脚本家の人間理解がその程度なのか?
もう少し、原作の持つ品格みたいなものが、この映画の中に通っていたなら
どんなに素晴らしかったでしょう。

映画を好きになって、映画に出てくる俳優たちのこれまでの作品を見て
彼らのインタビュー記事を読むうちに、それぞれがどういう人なのか
ある程度わかるようになってきました。
私はアラゴルンを演じるヴィゴ・モーテンセンが好きなのですが
彼は映画のアラゴルンよりもアラゴルンらしい(笑)人です。王様ではないけれど。
ヴィゴは他人を尊重し、自分の正しいと思ったことをすることができる。
人の話を聞き、受け止めることができる。
そして自分の考えを自分の言葉で話すことができる人です。
その彼が映画のアラゴルン役を演じているのに、あれでは少しもったいない。

反対に、サムを演じるショーン・アスティンはサムとは全然違う考え方の人のようです。
これは実はアルウェン以上のミスキャストではなかったかしら?
と私は『二つの塔』で思いましたが、『王の帰還』では、なんとかかんとか許容範囲でした。

映画は共同作業であり、特にこの映画は普通の映画よりも
ずっと大規模で関係者の数も多い作品ですから、
いろいろな要素がこれほど揃って完成したのは奇跡のようです。
キャスティングはほぼ完璧。美術も小道具も大道具も音楽も特撮も素晴らしい。
あともう少し、ストーリーに一本芯が通っていたら、
どんなに素晴らしかっただろうと、それだけが心残りです。


2004年02月09日(月)
 昨日から考えていること


映画を見てからずっと考えています。
指輪物語の結末をどう受け止めたらいいのか。
ちょっとまとまらないですが、思ったことを以下書いてみます。

<映画を見てから考えていること>
『王の帰還』を見てからずっと考えている。
どうしてフロドはホビット庄に住み続けることができないのか?
何故かれは癒えることのない傷に苦しみ続けなければいけないのか?
ずっと考えて、今日ある程度考えがまとまったので書いてみようと思う。
きちんと推敲していないので、まとまりには欠けるけれど
思ったとおり書くことにする。
まず、昨日書いた文章。これはまだ途中の考えなので、
今思っていることの前段階のようなものだ。

2月8日に考えたこと
『サクリファイス』というのはタルコフスキーの映画のタイトルだ。
私はまだ見ていない。ネットでみたあらすじによると
核戦争をとめるために自らを犠牲に捧げて、というような話らしい。
『犠牲』というのは柳田邦男さんの本のタイトル。
これは若くして自殺した柳田さんの息子さんの話。
読んだのがかなり以前なので、内容の細かいところは覚えていない。
どちらも「マタイ受難曲」が作品中に流れている。
犠牲サクリファイスというのは、キリスト教圏ではキリストのことをさすんだろうか。
私は宗教的な知識がないので詳しいことを知らない。
『指輪物語』で、フロドが全ての災いの大元である指輪を
捨てる旅で深い傷を負い、ついに故郷を去ってしまうことに
いつも「何故?」と思ってしまう。
私の心の中では、その結末にどうしても納得ができない。
きっとどこかに、キリスト教的な教義との関連を述べた文章もあると思うのだけれど
私はまだ読んだことがない。
そもそも、イエス・キリストが罪を背負ったことで
他の人々が許されるという、その話も実はよくわからないのだ。

でも、時々ものすごく行き場の無い思いに捕らわれることがある。
それは、たとえば一昨年発覚した北九州市の監禁殺人事件。
不思議なくらいテレビや新聞では報道されない事件なのだが、
ネットで検索すると詳細な事件経過を読むことができる。
自分の欲望のために他人からお金を搾り取り、自由を奪い、生命も奪う。
親も兄弟も関係ない。自分の手を汚さずに、被害者に被害者を傷つけさせる。
それはさながらこの世の地獄のようだ。
そこで殺されていった父親、母親、子供達のことを思うと
胸がつぶれるような思いがする。
殺されてしまった彼らに救いはやってくるんだろうか。
そしてまたそういう犯罪を犯した人間が
そのことを心から反省することはあるんだろうか。
この場合、個人的な犯罪だが、そういう犯罪を
犯人ひとりの責任と考えていいものか。
そういう犯罪者を生み出した社会にも責任があるとしたら
その罪を償う(贖う)のは誰か?
同じように、自分の欲望を肥大化させいって規模が大きくなったのが戦争だとしたら
その責任はどこにあるのか。前線で戦う兵士にあるのか。
手を汚さずに命令を与えている政治家にあるのか。
利益を享受する者に等しく責任があるのか。
頭の中で考えていると、話はどんどん拡散していってしまう。
それは流された血や痛みや涙への答えにはならない。

そういう行き場のない思いの受け皿が宗教だろうかと思ったりする。
ひとつひとつの重さをしょって生きていくことは難しいから、
ある程度肩代わりしてくれるシステムじゃないかと。
私はそのような信仰を持っていないので、いつまでもうだうだと
殺された子供の悲鳴や、ジェルミの悪夢や、フロドの痛みを考え続ける。

私は原作のマニアではないので、『指輪物語』についてそんなに深くは知らない。
上に書いたことについて納得のいく答えを見つけるために調べることもたぶんしない。
なぜフロドは故郷で暮らすことができないのか。
どうして彼が傷を負わなくてはいけないのか。
もうすでにそういうことは語りつくされているかもしれないけれど。

2月9日に考えたこと
フロドが指輪を捨てて、そのかわりにもう故郷には住めなくなったことを
現実に起こったことのように、不幸と考えるのが間違っているのだろうか。
それは物語の中の象徴的な出来事として受け止めるべきなのか?
自分は、自分の気持ちが収まるような「そしてみんな幸せに暮らしました」という結末を
求めているだけなんだろうか?
フロドが西の国に行ってしまったことを、たとえば天国へ行って安らぎを得たと
考えればいいんだろうか?
故郷に残って幸せに暮らす人と、もう故郷に住めない人を分けたのは何だろうか?
そんなことを朝から考えていた。そうしたらすとんと考えがまとまった。(ような気がした。)

痛みは消えないし、傷は無くならないこともあるんだ。
自分に原因が無くても、傷つけられることが世の中にはあるんだ。
自分が安心するために、大丈夫と言ってもらうことを期待してはいけないんだ。

指輪物語はファンタジーだけれど、そういう意味ではとてもリアルな世界なのかもしれない。
そして、フロド以外の旅の仲間達もフロドと同じように戦い傷ついている。
彼らの物語が心をうつのは、彼らが自分の欲から離れて、
他のもののために身を捧げることができるからだ。
これを「自己犠牲」と言ってしまうと、また別のニュアンスが加わってしまうが、
彼らは自分自身をないがしろにしているわけではなく、
もう一段上の段階から行動することができる。
それが、メリーとピピンが話している、「世の中には素晴らしいことがあるということがわかった」
ということじゃないかしら。(正確に引用すると「もっと深くもっと高尚なものが存在している。」)
だけど高尚なものだけでは暮らせない・・・・と続くところに
作者のバランス感覚やユーモアを感じるような気がする。

フロドが美しいホビット庄で笑って暮らす結末を私は期待してしまう。
しかし、そう思うこと自体が、自分の欲かもしれない、と思う。
気持ちの良い、暖かい、ハッピーエンド。
そうやって自分自分の気持ちにこだわること、こうあるべきだと考えること、
そのことこそが、指輪を求める気持ちへの第一歩かもしれない。

今日、友達と食事をしながら映画の話をした。
彼女はまだ『王の帰還』を見ていないけれど、原作は大学生の頃から読んでいる。
映画がすごくよかったよ、でもずっといろんなことを考えている、と私が言うと、
「あの本を読んだ後は、なんだかとても悲しいのよね。終わったあとが悲しいの。」
と言った。そうなのよ。映画もそうなのよ。だから映画は原作の大事なところを
伝えていると思う、と私が言った。

全然、状況は違うので、こんなところに書名を出すと、また別のニュアンスが
加わってしまうかもしれないが、『聞け、わだつみの声』という本がある。
戦没学生の手記を集めた本。
彼らは日本が負けることを知っていた。勝つ可能性がないことを知っていた。
それでも逃げることなく自分の命をかけて戦った。
彼らの手記は静かで、残される家族への愛情にあふれている。
それを読むと悲しくなる。それはフロドのことを思う気持ちと似ている。

彼らのために何ができるだろう。
彼らが望んだことは、自分の故郷がいつまでも平和で
残された家族や仲間が仲良く暮らすことではないかしら。
私たちは、ちゃんとそうしているだろうか?

歴史を見ても明らかなように、昨今の状況を見ても明らかなように
争いや暴力や様々な問題はなくならない。
人間が天使のように清らかな存在になることなんてありえない。
いつの時代にも、理由の無い暴力で傷つく人がいる。
戦いの中で傷つく人がいる。
受けた傷を抱えて生きて行く人もいるだろうし
その傷に耐えることができない人もいるのかもしれない。
自分の力以上に重い荷物を背負った人に何をしてあげられるのか。
人が人を救うことなんてできるんだろうか。
とりあえず私にできることは、
彼らのことを思うこと。彼らのことを思って泣くこと。
そして、自分のいる場所で最善をつくすこと。


昨日から考えているのはそういうことだ。
ここに書いたようなことは、アレンジの仕方によっては
とんでもない方向へ持っていかれるような可能性がたくさんある。
でも、できるだけ自分の頭で判断しながら
いろんなことを考えて行きたいと思う。
PJの映画は、私に原作を読む機会を与えてくれた。
そしていろんなことを考える機会をくれた。
そのことに心から感謝したいと思う。


2004年02月08日(日)
 <王の帰還>先行上映感想その2(ネタばれ全開)


プロローグはゴラムがいかにしてゴラムになったかという回想シーン。
かなり丁寧な描写のように思った。
映画全体を見て思ったのは『王の帰還』は原作のテーマを明確にするために
大胆にいろんなエピソードをカットしたのだろうということだ。
そしてゴラムとフロドとサムを中心にすえた。
指輪を捨てなければいけないが、捨てることは難しい。
なぜなら指輪は持つ者を誘惑するから。
冒頭のシーンは伏線的な役割を果たしている。

そして始まった映画はたたみかけるように心に迫るシーンが続く。
アイゼンガルドでの再会をちゃんと残してくれてありがとう。
馳夫さんがパイプをふかす場面はなかったけれど、
サルマン様の最期をはしょってしまったのは悲しいけど、
パランティアの場面は迫力十分だった。
トゥックのばか息子がヘマをしでかしてガンダルフと一緒に走り去る。
ピピンとメリーの短い別れ。
ここでどうしようかと思った。こんな調子で続いたらたまらない。
ピピンはわかっていないがメリーはわかっている。別れの意味を。
そして砦を駆け上るメリーのあとを馳夫さんが追いかける。
旅の仲間の絆を感じさせる場面だった。

エルフ達が西に向かう。途中でアルウェンは幻影を見る。
その場面がものすごく美しい。
王様が子供を抱えあげる。ヴィゴの全開の笑顔。
まだ生まれていない子供。生まれてくるはずの息子。
こんな場面は原作にはない。
アルウェンが三本の映画を通して
一番アルウェンらしく見えた。きれいだった。

そして舞台はローハンに移る。
アラゴルンとエオウィンの描き方は
前回もそうだったが、どうも中途半端だ。
どう考えてもアラゴルンにも気持ちがあるような
アイコンタクトのシーンが多すぎる。
そんなんで「幻影」なんて言っても、説得力ないよ。
そのへんは原作既読者は脳内補完して映画を見る。
原作のエオウィンとミランダの違いは、ミランダが血肉を持った
暖かい女の子を表現してしまったことだろう。
彼女のアラゴルンへの気持ちは、自己実現へのあこがれではなくて
本当に恋しているかのようだ。
だからそれにちゃんと応えないアラゴルンが
バカみたいに見えちゃうよ。

私がヴィゴのファンであることは周知の事実ですが
三作目の王様はどう贔屓目に見ても、情けないやつでした。
優男。肝心なときに現場にいない。他人の(幽霊の)力で戦ってる。
いつも勝てそうもない軍隊の中に一番最初に切り込んでいくヤツ。
命がいくつあっても足りないぞ。
男ならアルウェンじゃなくてエオウィンを選ぶべきだろー!
見る目のないヤツ。
戴冠式で真剣にキスするなよ。おい。
でもヴィゴは好きなんです。ほんとに素敵です。私はヴィゴが大好きです。
でもPJは王様さえサイドストーリーにしてしまった。それがすごい。
王様の歌はスマップの紅白を見るかのようにどきどきものでしたが
なんとかかんとか様になっていたのでほっとした。
黒門の前で演説するシーンより
「フロドのために」とぼそっと言うところに萌えました。

めちゃくちゃ格好よかったのはセオデン王とガン爺だな。
セオデン王が騎馬軍団の前で号令をかけるシーンがものすごくいい。
あそこで「死だ」と叫ぶのはどういう意味なのか実はよくわからない。
死を恐れないという意味か。敵に死をという意味か。
暗くて熱いシーンですけれど。
エオウィンとセオデンの別れは原作にはない場面ですが、
これはあっても全く違和感がありませんでした。
「私は男じゃない」と言って魔王を刺すシーンでは
実はひそかに笑いが起きちゃったんですけれど
エオウィンは強かったです。

ガン爺は白い衣装を汚しもせず、ひとりであちこち走りまわっていました。
(訂正:ピピンと一緒にゴンドールに来たときに裾が汚れていました。)
デネソールを杖でばしばしたたいていました。
寝ているときに目があいているのは、レゴラスと同じ?ちょっとこわい(笑)
ピピンに死後の世界について語るところは
またしてもよい場面を持って行ったなあ、という感じでした。

出番は少なかったけれど、デネソールもよかった。
食べ物の食べ方の汚さに、彼の堕落が現われているようだった。
食事のシーンのピピンの歌を聞いたら泣けた。
一緒に見に行った人はあのシーンが一番よかったと言っていた。

ファラミアはかわいそうな子供の役回りだった。
涙目で父親を見つめていた。
ファラミアとデネソールとボロミアとソロンギル。
それだけで一本の映画が作れそうなくらいだ。
このキャスティングでやってくれないかな。
デネソールの声がものすごく良い声で驚いた。

レゴラスとギムリは出番どころか、セリフも少なかった。
ちょっともったいなかったね。でも仲良しなシーンがあってよかった。
「友達の隣なら?」っていうのもいいね。

サムがまた演説なんか始めたらどうしようかと思いましたが
そういうこともなく、サムさえもサイドに回したところに
脚本のバランス感覚のよさを感じました。
原作を読んでからだいぶ時間がたっているので、サムとフロドとゴラムの
関係がどんなだったかよく覚えていないんですが、
あんなふうにゴラムのせいでぎくしゃくしていたっけ。
そのへんの描写が少し浅いような気がしたけれど、
滅びの亀裂に近くなってからと、その場面と、脱出の場面には
言うことがありません。サムかっこいいよ。
私はエピローグの場面よりも流れる溶岩を見ながら
フロドがサムに「この最後のときにおまえがいてくれてよかった」
というシーンが好きです。この場面で終わってもいいくらいです。
でもそういう瞬間は続かないんですね。
だからこそ美しいんですけれどね。
グワイヒアが飛んできたところで、おお!グワさん、かっこいい!!
と思ったのはおそらく私だけではないでしょう(笑)

PJは思う存分戦いの場面を描いていました。
じゅうがあんなにたくさんやってくるなんてすごい。
それがローハンの騎士を踏み潰すんですから、
まともに見られなかったんだけれど
トロルもオークも獣の頭の形の城門を打ち破った武器もどれもこれも素晴らしい。
殺された兵士の頭部を城内に投げ込むシーンも原作どおりありましたが
やや控えめでした。あれは怖いです。
ナズグルが乗っている翼竜のなめらかな動き。
それが何羽も現れて、兵士を掴んでは落とし飛び回るのは
怖いけれどすごかった。

技術を駆使した戦闘シーンを素晴らしいと思いつつも
どこか軽さを感じていました。
幽霊の軍隊も、オークの軍隊も想像力を最大限広げて映像化された場面です。
足りないのは、かけがえのない命が戦争によって消えてしまうことの
重さの実感かもしれないと思いました。
トールキンは恐らく自分の体験からそれを知っていました。
だから原作からは言いようのない暗さと重さが伝わります。
PJの映画にはその重さはない。それは仕方のないことだけれど。
だからアラゴルンの言葉が、都合のよいプロパガンダに使われてしまう
可能性を持っています。
ヴィゴが警戒しているのはいつもそのことだろうと思います。

それにしても何故?と私は振り出しにもどってしまいます。
何故フロドがいつまでも苦しまなければいけないのか。
彼がいったい何をしたというんでしょう。
西の彼方の国は彼に救いを与えてくれるのかしら。
ホビット庄の風景が美しければ美しいほど、
フロドが故郷を去らなければならない理由が
理不尽に思えてなりません。
そして今日も映画を見ながら『残酷な神が支配する』のジェルミのことを
思い出していました。
この世の中の理不尽なことを一人に背負わせるということに
どうしても納得がいかなくて。

そうしてもう一度『旅の仲間』の最初の場面を見たときに
「何故?」という疑問はもっと強くなるだろうと思います。
そして考え続けるんでしょう。

ところでエンドロールのバックにはイラストが使われていました。
多分アラン・リーによる出演者の素描ですよね?
よかったですね。あれ。
主要なキャストの最後に「and Boromir」って出るのよ。
ボロミア。大トリ(笑)
映画三本を並べてみた時に、一番おいしい役だったのは
実はボロミアだったのではないでしょうか?


2004年02月07日(土)
 <王の帰還>第一回目感想


完璧じゃないけれど、十分だった。

「ロードオブザリング」の第三部はスペクタクルだった。
見せることに全力をそそいでいた。
映像で、指輪の世界を見せる。
PJのイメージをスクリーンに描き出す。
そのことに全力をそそいでいた。

その流れの前では、ストーリーは従属せざるをえない。
あのシーンもこのシーンもあっという間に流れていく。
ひとつひとつのお話の人と人との細やかな心のふれあいは
十分に語る時間がない。

惜しげもなくばらまかれているカケラに私はため息をつく。
役者は揃っている。背景もできあがっている。でも、時間がない。
このまま終わってしまうのか?それでもこれだけやったんだから、
それはそれですごいことだと満足すればいいのだろうか
などと、落ち着かない気持ちで見ていたが、
やがて物語りは滅びの亀裂に到着した。

フロドの顔が変わる。
イライジャのフロドが原作のフロドに重なる。
その瞬間に、ああこれで十分だ、と私は思った。

フロドは笑っていた。泣いているような笑顔だった。
フロドはそんな顔をするようなことは何一つしていないのに、
彼は選ばれてしまったのだった。

原作のあのシーンは今も心にひっかかったトゲだ。
映画はそれをイライジャの姿で描き出していた。
それだけで十分だった。

そしてたくさんの物語を端折ったのと対照的に
エピローグの部分は心をこめて描かれている。
三人の脚本家たちはよくわかっている。
ここの部分をつめたり削ったりすることはできないことを。
その美しくて悲しい場面を見ながら、この結末でいいだろうか?
と思ったことは、これから私が考えなくちゃいけないことだけれど。