| 2017年08月12日(土) |
(SS)甘美なる幸せ |
信号が変わるのを待っていたら、後ろから進藤が近づいて来るのが見えた。
早朝の交差点。
そんなに幅広では無い道路の反対側には銀行があって、壁面のガラスに鏡のように周囲の景色が映り込んでいる。その中にゆっくりと歩いて来る進藤が現れたのだ。
(眠そうだ)
イベントの設営のために来たので時間は進藤的には相当に早く、赤信号だというのに走っている車も居ない。
『車が居ないのに馬鹿正直に信号守るのなんてお前くらいだって』
いつだったか笑われたことがあるけれど、急いでいるわけでは無いのだから信号くらい守っても構わないだろうと思う。
実際そう言ったのだが、せっかちな彼には理解出来無いようだった。
『それでも、人も車も居ない道路でぼーっと待ってるのなんて恥ずかしいって言うか、手持ち無沙汰って言うか』
落ち着かない気持ちになんだよと、今日もそう言われるかなとしばし彼が近づくのを待った。
あくびをかみ殺し、背後にやって来た進藤はぼくの背中に向かって声をかけようと口を開いた。
『お』
はようと続くはずの声は何故か発せられることは無く、進藤はぎゅっと唇を引き結ぶと一歩退くようにして身を引き、そのまま遠ざかって行ってしまった。
えっと、振り向いた時には既に遙か彼方で、追いかけるのも気が引けてそのまま仕事先に出向いた。
「で、さっきのはなんだったんだ」
現場に何食わぬ顔をして10分ほど遅れてやって来た進藤を物影に引きずって問い詰める。
「は? さっきのって、なんのことだよ」
「さっき信号の所で真後ろまで来たくせに、どうして声もかけずに立ち去った」
「わ、気がついてたのか」
「正面のガラスに映ってたんだよ。そうで無かったとしても、あんな挙動不審な行動を取られたら気配で解る」
「えー、別にそんな……特に理由も無いし」
「理由も無く、キミはぼくを無視したと?」
「あ、そ、そう! ネクタイ締めてくんの忘れてさ、コンビニに買いに行ったんだって」
「苦し紛れの嘘をつくな! キミ、最初からそのネクタイだったじゃないか。ぼくの視力を舐めるなよ」
じっと睨み付ける進藤は視線を彷徨わせ、それから観念したように言った。
「すごく…キレイだったから」
「は?」
「何回も言わせんなよ! 信号待ちしてぼーっと突っ立ってるお前が、なんかすごくキレイだったんだよ!」
目の下を微かに染めながら進藤は言う。
「まだ朝早いから車も何も居なくて、その誰も居ない景色の中に立ってるおまえがすごくキレイで抱きしめたくなって」
「…欲情して、それを恥じたと?」
「違ぇよ! 抱きしめたくなったけど、でもおれなんかが触っちゃいけないような気がして」
進藤の言葉は要領を得ない。
「意味が解らない、進藤」
「汚れるって思ったんだよ! おれが触ったらお前が汚れる。おれなんかが汚しちゃいけないんだって」
そう思ったのだと、最後の方、呟くように言う進藤の声は少し苦い。
「だから消えたんだって! そんだけ! 満足したか!」
目線を反らし、ふて腐れたように言う進藤をぼくはしばし見詰めた。そして息を吐くと手を振り上げて、彼の後ろ頭を引っぱたいた。
べしっと、間の抜けた音に反して結構痛かったらしく、進藤は涙の滲んだ目でぼくを睨みつけた。
「なっ、何するんだよっ!」
「キミがあんまり馬鹿なことを言っているからだ。汚したく無いから触らなかった? 触ったくらいで汚れるなら、ぼくはもうとうの昔に汚れきっている。キミが一番良く解っているだろう」
言った瞬間、進藤の目の下の赤味がばっと顔中に広がった。
「や……そんなの、いや、でもそういうんじゃ」
「ある」
ぼくにしてみれば、ごく当たり前のように夜を共にしている相手にそんなことを言われる方が心外だ。
「キミのそういう所、時々本当に腹が立つよ。一体いつになったらキミは現実のぼくをちゃんと見てくれるようになるんだ」
「見てる! 見てるってば! でもあの瞬間、なんかほんとにすげーキレイで」
「じゃあもうこのまま二度とぼくには触るなよ」
汚したく無いんだろうと苛ついて突き放すように言うと、進藤は即座に言い返した。
「嫌だ! そんなん出来るわけ無いじゃん!」
「だったら変な所で躊躇うな! どうしてそう今更…」
最初に触れて来たのは進藤だった。
お互いに気づいてはいても踏み出せなかった一歩を自ら踏み越えて来たのは進藤の方だったのだ。
呆気に取られる間も無いくらい怒濤で詰め寄って来たくせに、今更それに後ろめたさを感じるなんて馬鹿にしている。
「もしキミが後悔しているのなら別にいい。罪悪感でぼくに触れないと言うならそれも別に構わない」
でもキミが汚さないなら他の誰かがぼくを汚すだけだよと、突きつけるように言ってやったら進藤の顔から赤味が全て抜け落ちた。
「おまえって」
「なんだ?」
「おまえって、非道ぇ」
「キミほどじゃ無いよ」
「非道ぇよ、マジドSだって」
「キミだってベッドの上では結構な頻度でサディストだけれどね」
「そ!…うかもだけど大事にしてるじゃん」
「どうかな」
わざと素っ気無く言ってやったら、進藤は情けない顔になった。
「ごめん」
「謝る前にすることがあるだろう」
「くっそ意地が悪いな」
ふて腐れたように言いながら進藤はぼくに顔を近づけるとちゅっと軽くキスをした。
「よろしい」
「…おれ、もしかしなくても、とんでもないのを好きになっちゃったかなあ」
ぼやくような声に思わず苦笑しそうになる。
「そうかもね。でも取り消したくても、もう遅いよ?」
「取り消すなんて、そんな」
「汚しまくれよ」
複雑な顔をしている進藤の肩に頭を預けると、ぼくは囁くように言った。
「遠慮無く汚しまくれ、キミの指でぼくを」
くっと、進藤の息が詰まるようになる。次の瞬間ぼくは折れる程強く抱きしめられていた。
「知らねーぞ、もう!」
おれもう本当に知らないからなと、それは抱擁というより八つ当たりに近い。
「おまえ、本当にキレイだったのに」
「そんなの―」
真っ平ゴメンだよとぼくは薄く笑って彼の体を抱き返した。
5分もすれば、何事も無かったかのようにぼく達は皆の中でごく普通に働き始めるだろう。
(でもそれまでは)
こうして好きなだけ汚し合っていてもいいのだとそう思ったら幸せで、ぼくは笑い出したい衝動を抑えながら、進藤の体の温もりをただひたすらに感じたのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
というわけで置き土産SSです。皆様良い1日を!
|