SS‐DIARY

2016年06月25日(土) (SS)不治の病


「アキラくんは紅茶、進藤くんはコーヒーで良かったわよね?」


碁盤の横に置かれたカップに、アキラは躊躇った後、非道く申し訳無さそうな顔で言った。


「ごめんなさい、市河さん。今日は紅茶じゃなくてホットミルクにして貰えますか」


あらと、市河が驚いた顔をするのに更に言葉を重ねる。


「実は最近カフェインを摂りすぎているみたいで、お茶の類を控えているんです」

「どうしたの? 眠れなくなっちゃった?」

「そういうわけでは無いんですが、いや……そうとも言えるのかな。少し動悸がする時があって」


それで寝付きが悪い時もあるのだと言うアキラの言葉に市河が眉を寄せる。


「どこか体調が悪いんじゃない? ちゃんとお医者様に看て貰った方がいいんじゃないかしら」

「あ…それは」


たまたまではあるが先日棋院で健康診断があり、そこでの結果は健康そのものだったのだ。


「だからたぶんお茶や紅茶の飲み過ぎなんじゃないかって。確かに最近喉が渇いて飲む機会が増えていたから」

「まあ、大昔の人はお茶で酔ったって言うくらいだものね。解ったわ、しばらくはアキラくんにはミルクかジュースを出すことにします」

「すみません、我が儘を言って」

「何言ってるの、アキラくんに何かあったら大変でしょう?」


優しい姉のような微笑みを残して市河は去り、しばしの後にホットミルクを持って戻って来た。


「それじゃごゆっくり」

「はい、ありがとうございます」


ぺこりと頭を下げたアキラは、そこで初めて違和感を覚えた。


「キミ、どうしてずっと黙っているんだ?」


普段は五月蠅いと北島に窘められるのが常で、市河にも機関銃のように喋りまくることの多いヒカルがさっきからひとことも喋らない。


「いや別にどうしてってことも無いんだけどさ」


ヒカルは自分に出されたコーヒーを一口飲んでカップを置く。


「その動悸っていつ頃からしてんのかなって」


思いがけず真面目な面持ちのヒカルにアキラは面食らった。


「いつって……そうだな、気がついたのは最近だけど、実際はもう少し前からしていたような気がする。眠れなくて夜中に起き出して水を飲みに行った覚えがあるし」

「うん、だからそれって例えばおれとこうして会うようになる前から、それとも後?」


ヒカルの問いにアキラは黙り、しばし真剣に考え込んだ。


「後……かな。先週もキミと会っただろう? その晩も動悸が非道くて眠れなくて、それで気にしだしたんだから」

「それで、今は?」

「え?」

「今はどーなん?」

「今って……うん。言われてみれば少ししてるような気が」


途端にヒカルの表情から緊張が解けた。


「なーんだ、マジ心配しちゃったじゃねえか。大丈夫、それ病気でもなんでも無いから」

「な、どうしてキミにそんなことがわかるんだ!」

「どうしてだって、わかるもんはわかるんだよ。とにかくそれは病院に行っても治らないし、治療法なんか無いから気にしたって無駄無駄」


そして更に追い打ちをかけるように言う。


「たぶん一生治らねーんじゃないかなあ」


ヒカルの言葉にアキラの表情が露骨に曇った。


「それは……困る。こんな、いつも動悸がしては落ち着かなくて」

「いいんだよ。ってか、おれとしてはずっとそのままで居て欲しいんだけど」

「キミ、本当に非道いな! 少しはぼくの身にもなれ! ぼくは本気で困っているんだぞ!」


不愉快を隠しもせずに怒鳴りつけるアキラをヒカルは涼しい顔で見つめている。


「だったらおまえもちょっとはおれの身にもなれよな」

「それはどういう……」

「教えてやんない」


でもいつかたぶん解る時が来るよと、したり顔で言うとヒカルは再びコーヒーのカップに手を伸ばした。


背伸びして、子どもっぽく見られたく無くて碁会所ではいつもリクエストしているコーヒー。

苦くて正直ヒカルは好きでは無かったが、少なくとも二杯はここで飲む。

けれど不思議と幾ら飲んでも眠れなくなることは無いし、動悸が速くなることは皆無だった。


(だってそんなの)


思いながら密かに苦笑する。

ちらりと目を上げた先に見えるふくれっ面の美人の碁の鬼。

この鬼を思うたびにヒカルはいつだってずっと、もっと強くもっと非道く胸の辛さを感じさせられて来たのだから。


(今更カフェイン如きでびくともしねーっての)


でも、アキラには教えない。

アキラ自身でそれに気がついて欲しいと思うし、何よりも自分が苦しんだのと同じだけはアキラにも苦しんで欲しいと思うからだ。


「ま、いつかな、いつか」

「キミはそればっかりじゃないか!」


医者でも薬でも温泉でも治せない。そんな不治の病に二人して罹った。

それはヒカルにとっては有り得ない奇跡で、同時に信じられない位幸運なことでもあった。

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前にも同じタイトルを使ったことがあるかもです。もしそうだったらご容赦を!

そして、要は毎日ドキドキしちゃうアキラの話なのでした。たぶん本当に自分は何か病気では無いのかと真剣に心配していることと思います。



2016年06月12日(日) (SS)June Bride


その日ぼく達は、早朝から近隣の教会で写真撮影を行っていた。

男性棋士数人と女性棋士数人。

ぼくを始めとする男性陣は全員白のタキシードで、女性陣はウエディングドレス。

にこやかに教会の前に立つ姿は、まるで結婚情報誌の表紙のようだっだが、実は棋院発行の囲碁雑誌のための撮影だった。

ごく普通の会員向けの情報誌だったそれを「地味」、「つまらない」と企画部に入った桜野さんが言い捨てて、以来女性向けファッション誌のようにガラリと体裁が変わった。

もちろんお遊び企画だが、これが意外にも大当たりして、発行されるや否や瞬殺で無くなるという珍事に発展している。

今回は発行が六月ということで棋士の恋愛、結婚が特集となり、この撮影に至ったというわけなのだった。



「んー、和谷だとちょっと本気感が足りないのよねえ」


カメラマンを買って出た桜野さんが、数枚撮った後に首をひねる。


「なんて言うか、おれまだ当分は遊んでいたいんですみたいな。結婚なんてマジ冗談じゃ無いんですけどみたいな」

「はあ? なんすかそれ、おれは目一杯真面目ですよ。本気感が足りないって言うなら、隣に居るのが奈瀬だからじゃないんですか? こいつが花嫁なんてマジ有り得ないし」

「ちょっ……和谷っ、あんた言うに事欠いてなんてこと! 私だってねえ、例え雑誌のための嘘企画でも一緒に写真撮るならもっと格好いい人がいいわよ」

「なんだと! おれだってどうせ撮るならもっと可愛くて素直な子がいいに決まってんだろ」

「なんですってえ!」


一触即発、あわや乱闘という直前で桜野さんが大きくため息をついて手を振った。


「はいはいはいはい、止めて頂戴。午前中だけならってことで撮影の許可貰ってるんだからケンカなんかして無駄な時間を使われちゃ困るのよ。別に誰と誰でも構わないから色々組み合わせ替えて撮って行きましょう」


じゃあ次進藤ねと、名指しされた進藤は、とっくの昔に飽きて教会の植え込みに居たスズメ蛾の幼虫を棒で突いて遊んでいたが、呼ばれてくるりと振り返った。


「なんすか?」

「なんすかじゃないわよ。次アンタ撮影するって言ってんの。で、女子は、うーん良子ちゃん行ってみようか?」


にっこりと促されて、後ろの方に居た春木良子初段が前に出る。


「はい、さっさと二人並んで階段の所で腕を組んで」


鬼監督の如き桜野さんの指示で、進藤と春木さんはおずおずと指定された場所に立った。

途端に、ほうと見ていた面々から声が上がる。


「いいんじゃない? 進藤はチャラいけど良子ちゃん純真そうで」

「そうだな。背丈とか全体的な雰囲気? 結構釣り合ってるよな」


確かに、はにかむように頬を染めている春木さんはとても初々しかったし、それをエスコートするかの如く腕を差し出した進藤は堂々としていて、本当にたった今式を挙げたばかりの新郎新婦のように見えた。


「よーし、それじゃ何枚かそれで撮ろうか! 二人、もっと幸せそうに寄り添って!」


指示の続く中、何回かポージングを変えてシャッターが押される。
と、目の前の進藤が急に驚いたような顔になって花嫁を置いてぼくの方に駆け寄って来た。


「あ、ちょっと進藤、何して―」


言いかけた桜野さんもぼくを見て絶句している。


「おまえどうしたんだよ!」


目の前に突っ立った進藤に尋ねられてもぼくには何のことか解らない。


「何が?」

「何がって……おまえ泣いてんじゃん」


言われて初めて気がついた。ぼくは知らぬ間に幾筋もの涙を流していたのだ。


「塔矢くん、大丈夫? どうしたの?」


一応責任者である桜野さんが心配そうに近づいて来る。


「今日は朝から結構蒸し暑いし、具合悪くなっちゃった?」

「あ……いえ」


他の面々も心配そうにぼくを見ていて、ぼくは居心地悪く俯いた。


「別に体調を崩したとかそういうのでは」

「じゃあ何で泣いてんだよ」


進藤はどこか怒ったような口調でぼくに迫る。


「鉄面皮のおまえが涙なんかこぼしたら、みんな恐怖に戦くに決まってんだろ!」


あんまりな言い様だが、その実進藤もぼくを非道く心配しているのだということが瞳で解った。


「いや、本当に何も……ただ」

「ただ?」

「進藤が…脂下がった顔で鼻の下伸ばして撮られているのを見ていたら何故か……非道く気分が悪くなって」


あーと一斉に皆が頷くのと、進藤が真っ赤になって怒鳴ったのは同時だった。


「お、おれがいつ鼻の下伸ばしてたよ!」

「してたよな」

「うんうん。実はおれも正直めっちゃムカついてたわ」

「進藤のくせに調子こいてるよなあって」

「おまえら後で殺スぞ!!」

「あ、良子ちゃんは大丈夫。すごく自然で可愛い花嫁に見えるから」

「うん。じゃあまあ進藤が悪いってことで」


よくわからない内にそういうことで収まって、進藤は撮影から外された。

そして組み合わせを替えて何枚か写真を撮った後、全員でまるで記念撮影のように並んで一枚写真を撮った。


「最後のこれは今日のギャラね。まあこの先女の子達は大丈夫だろうけど、うちの男共は着る機会が無いかもしれないんだから一生大事に持っておいた方がいいわよ」


桜野さんの非道い言葉に苦笑しつつ、それでも男女共々皆笑って撮影された。

並び方は適当で、誰に指示をされたわけでも無く、たまたまそうなっただけなのだけれど、ぼくと進藤はセンターで隣だった。

後に渡された写真を見て、ぼくは思わず微笑んでしまった。

そうしてすぐに恥じたように真顔に戻す。


何故だろう、何の意図も無く撮られたその写真は、まるでぼくと進藤の結婚式の写真のように見えて、そう思った瞬間言い様の無い喜びが胸に沸き上がったからだ。

そして同時に何故あの時、自分が春木さんと進藤を見て泣いてしまったのかも理解して、ぼくは激しい自己嫌悪に陥ったのだった。


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自覚の無かったアキラの話です。
ヒカルはたぶんもう、自覚済みでアキラがすごく好き。



2016年06月05日(日) (SS)吉兆


空気はピンと張り詰めていた。

十畳ある和室の南と東の窓は開けられ、緑濃い庭園から涼しい風が吹いて来る。

にも関わらずじりじり暑いと感じさせられるのは、向かい合って座るヒカルとアキラの表情の険しさからだったかもしれない。

両者とも、もうかれこれ三十分ほど身動きしていない。それどころか眉一つ動かしてはいない。

触れれば切れるというのはこういうことを言うのだろうと誰もが思った時だった。

アキラがふと息を吐き、脇に置いてあった茶に手を伸ばした。

緊張の余り喉が渇いた。渇いたことすら気づかなかったのが、今初めて気がついたと言う風だった。

湯飲みの蓋をそっと外し、掌で包むようにして持つ。そしてゆっくりと口の側まで持って行った時、その目が大きく見開かれた。


「進藤」


いきなりの大声に向い側に居たヒカルが驚いたような顔になる。


「進藤、見ろ、茶柱だ」


そんなヒカルにお構いなしに、アキラは嬉しそうな顔でヒカルに湯飲みを差し出した。


「久しぶりに見た。きっと今日は良いことがあるよ」


しんと静まりかえったその次に、ぶふっとヒカルが吹き出した。

同時にアキラがはっとしたような顔になる。


「うん、おれも久しぶりに見た。きっと今日はお互い良い日になると思う」

「いや……すまない。失礼しました」


身を乗り出していたアキラが顔を朱に染めて座布団に戻った。


「あー……塔矢棋聖、対局に関係無い行動は慎むように」

「はい。すみません。本当に」


身の置き所が無いように俯くアキラとは対象にヒカルはまだ可笑しそうに笑っている。


「進藤天元、天元もどうか対局に相応しい態度を保つように」


いつまでも馬鹿笑いしているのでは無いとやんわりと窘められて舌を出す。


「スミマセン。いや、でもあんまり『らしい』ことするから」


くくくと喉の奥でまだ笑っているのにアキラが顔を上げて睨む。


「悪かったって言っているだろう! 茶柱なんて見たのは久しぶりだったし、折角だからキミにも見せてあげようと思っただけだったのに」

「うん。嬉しかった。ありがと」


微笑ましいと言うか何と言うか、ヒカルとアキラの二人は先程までの険のある表情から親しい間柄のそれに顔が変わっている。

けれど周囲に控えている人達は呆気に取られていたり、苛々としたり、責めるような表情を浮かべていた。


無理も無い。今は名人戦の最終局の真っ最中だったのだから。

ヒカルが中央に打って出た後、アキラは盤上を睨んだまま長考に入った。

次の一手で戦局が大いに左右される。そんな時だったのだから不謹慎だと怒られても仕方は無かっただろう。


「塔矢棋聖、進藤天元、そろそろ対局に戻って頂きたいのですが?」


促されて、ヒカルが先に返事をする。


「はい。大丈夫です。丁度良い休憩も取れたし」

「申し訳ありません、お叱りは後で受けますので」


アキラもまた通常の顔色に戻り、座り直した。


「ありがとうな」


盤に目を落とす間際、ヒカルが言った。


「何が?」

「茶柱。うん、きっとおれら今日は良い碁を打てると思うよ」

「別に塩を送ったつもりは無いし、でも良い碁を打てるというのには同感だ」


二人で吉兆を見たのだからと、優しく微笑んでそれからすぐに表情を引き締める。


パチリ。

更に数分が過ぎた後でアキラが盤上に打ち下ろした白石は、ヒカルの黒石を大いに苦しめることになり。この日の対局は後々語られる程の名局となったのだった。

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これ、逆だったらアキラはものすごく冷たい反応で返したような気がするんですよね。そしてしゅんとなるヒカルとか。


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