酔っぱらいはろくでもないことしかしない。
その時ぼくはかなり酔っぱらっていて、しかも少々図に乗っていた。
進藤がぼくのことを好きかもしれないと薄々気がついていて、からかうように言ったのだ。
「キミ、ぼくのことが好きだろう。土下座して頼み込めば付き合ってあげなくも無いよ」
冷静になるまでも無く、一体どこの何様かと思う。
けれど酔っぱらいのぼくは、ただひたすらに進藤の反応を楽しんでいた。
怒るだろうか、それとも図星をさされて動揺するだろうかと。
もし動揺するならその時の顔を見逃さないようにしたいと、まるで掴まえたネズミを嬲る猫のように内心わくわくと待ったのだ。
そもそも今日飲んでいるのだって進藤の方から誘って来たのだし、その結果こうなったのは彼の自業自得でもあるのだと、そんな傲慢なことまで思っていた。
「どうする? ああ、でもこんな衆人環視の中でそんなことをする度胸キミには無いよね」
折角のチャンスを残念だったねと、ぼくはまだ半分ほど残っていたカクテルをにこにこと微笑みながら舐めるようにして飲んだ。
と、呆気にとられていたようだった進藤の顔がすっと拭ったように真面目になった。
(え?)
そしてぼくがグラスをテーブルに置くよりも早く椅子から降りると、そのまま磨き上げられた店の床にぺたりと伏せてぼくに土下座をしたのだった。
「お願いします。おれと付き合ってください」
場所は都内の洋風居酒屋で、席はほぼ満席。店員も忙しく行き交っている。
その中での土下座には、ぼくはもちろん見える範囲に居た全ての人間が度肝を抜かれた。
「し……進藤」
つい今までの上機嫌はどこへやら、ぼくは真っ青になって彼を立たせようとした。
いや、進藤だって酔っぱらっているのだからノリでやったのだと頭で思いつつ、でも感情が否定する。
だって席を立った時の彼に微塵も酔いは無く、怖い程に真剣な瞳をしていたからだ。
「進藤っ」
ぼくが椅子から降りて肩に手をかけるよりも先に彼は起き上がり、何事も無かったかのようにまた元通り席に着いた。
そして飲みかけだったビールのジョッキに手をかけて、呆然と突っ立ったままのぼくを見上げて笑う。
「安いもんだな」
「え?」
「こんなことでおまえが手に入るんなら安いもんだって言ったんだ」
静まり帰っていた店内に、ざわざわとゆっくり音が戻り始めた。皆、ただの酔っぱらいの奇行と受け止めたのだろう。
でもぼくは違う。そうで無いことを知っている。
「おまえのことずっと好きだったけど、下手打ったら永久に二度目は無いからさ、どうしたもんかと思っていたんだ」
だからおまえの方から条件持ち出して来てくれて好都合だったと、これもまた食べかけだった串カツをがっつくでも無く、けれど健啖家よろしく勢いよく食べながら言う。
「キミ……」
力が抜けたように椅子にへたり込むぼくを進藤は可笑しそうに見ている。
「するわけないと思ったか? とてもこんな所では恥ずかしくて土下座なんて出来ないって?」
「……いや」
「するに決まってんだろ。それで間違い無くおまえが手に入るってのにやらない方がどうかしてる」
それを舐めてかかったおまえの読み間違いだと、全く持ってその通りなのでぐうの音も出ない。
「とにかくおれは言われた通りにやった。だからおまえはおれのもんだ。それを今更撤回するなんて言わないよな?」
あれは酔った上での冗談だったと言うようならおれはおまえを一生軽蔑するし、一生もうおまえを好きになんかなってやらないと、ここまで言われてどうして首を横に振れようか。
ぼくだって進藤のことをずっと密かに想い続けていたのだから。
(バカなことをした)
自分の愚かさと軽率さをぼくはひたすら後悔した。
どんなに御しやすく見えたとしても進藤はやはり進藤で、易々とぼくの思い通りになんかなるはずが無かったのに。
今目の前に居るのは掴まったネズミなんかでは無い、ネズミの皮を鼻先に引っかけた獰猛な虎だった。
「言わない。……撤回するなんて言わないよ」
「うん、じゃあ今日からおまえはおれのもんな?」
にっこりと笑う進藤の視線を受け止めることが出来ずに思わず顔を背ける。
それをテーブルの向こうから伸びて来た手が顎をつかんで向き直させた。
「愛してるぜ? 塔矢」
だからおまえもおれを愛してるっていい加減白状しろよと、顎にかけられた指の力は強くてぼくに逃れる術は無い。
「言ってよ。なあ」
空になったカクテルグラスには泣きそうなぼくの顔が映っている。
「あ――」
愛してると掠れる声で返しながら、ぼくは虎の爪に切り裂かれる瞬間の猫の気持ちはどんなものだろうかとぼんやりと考えていた。
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本当はホワイトデー用に書いていた話だったのですが、間に合わなかったので書き直しました。同じようなネタでもし以前にも書いていましたらしょうがないなーと許してやって下さい。
「キミもやってみるといい」
暇な時に何をしているのかと言う問いに、アキラは微笑んで頭の中でヒカルを再構築していると答えた。
要は記憶を総動員して細部までよりリアルにヒカルを思い出す作業をしているのだと。
平凡な答えを期待していただけにヒカルは驚いたし、その作業にどんな意味があるのかと思った。
「キミが恋しいからかな。キミが恋しいからキミのことを考えて、それを紛らわせたくなるんだと思う」
「だったらそんな間怠っこしいことしてないで最初から直でおれに会いにくればいいじゃん」
「それはそうなんだけど」
ぶっきらぼうなヒカルの言葉にアキラは特に怒りもせず、ただ静かに笑って言ったのだった。
「キミもやってみるといいよ。これはこれで結構……かなり楽しい作業だから」
その後は空想よりも楽しい現実に浸ることになったので再構築云々の話は終わりになった。
けれど家に帰って一人になった時、ヒカルはアキラの言葉を思い出したのだった。
「再構築か」
結局の所は妄想じゃんと、そんなんだったらいつでもおれはやってるよと苦笑じみた笑いで思う。
もっぱら性的な欲求を感じた時で、だから頭の中の絵面もエロ雑誌やAVの画像にアキラを当てはめただけのような感じになる。
それでも効き目は相当で、自分は早漏なんじゃないかと思うくらいなのだ。
「まあ、でもいっちょやってみっか」
アキラを好きな年月にかけては誰にも負けないという自信のあるヒカルは、好奇心半分目を閉じてゆっくりとアキラを思い出し始めたのだった。
最初にぱっと脳裏に浮かんだのは目だった。
キツく思い詰めたような眼差しが真正面から自分を睨んでいる。
そこから通った鼻筋、きゅっと結ばれた唇に続き、それを縁取る髪と輪郭が浮かんだ。
ああ、おれ何よりも一番塔矢の目が好きなんだと、そのことにヒカルは少なからず驚いた。
アキラの全てを好きだけれど、自分がそのどれに重点を置いているのか考えたことが無かったからだ。
さらりとした髪が頬にかかる。ちらりと覗くうなじと、顔を動かした時に少しだけ見える形の良い耳。
(うん、やっぱりおれ、結構かなり良く覚えているじゃん)
棋聖の記憶力舐めんなと、そこから更に首筋を思い描き、シャツの襟元から覗く肌の白さを思い出す。
インドア派のアキラは夏でもあまり日焼けしないで青白い程白い肌をしている。
本人はそれを生白いと嫌がっているのだが、闇の中に浮かぶ時のそれは相当にセクシーだ。
(おっと、迂闊なこと考えると勃つな)
まだ全体像にもなっていないのにイッてしまったら、押さえの利かないケダモノだと笑われてしまう。
ぐっと堪えてヒカルはアキラのその他の部分を思い浮かべる作業に没頭した。
(襟首んとこだろ、それから薄い胸板)
あいつちょっと痩せすぎなんだよなと、一局打つたびに薄くなるアキラをヒカルは心配と不満のない交ぜな気持ちで想う。
(もう少し太ったっていいくらいなんだよ。あんなじゃその内、ぶっ倒れるって)
雑念が入って脳裏のアキラの像が少しブレる。
いけないけないと改めて集中して、肩から背中、腰に至るまでのラインを思い描く。
何度も何度も丁寧に、ほんの少しの間違いも無いようにヒカルはアキラを思い浮かべて行った。
(鳩尾、下腹、それから……)
そこに至ってようやくヒカルは自分が思い浮かべようとしているアキラが座り姿なのに気がついた。
眼光鋭く自分を睨む、それは正に盤を挟んだ向こう側に居るアキラの姿だった。
片側に碁笥、碁笥の中に差し入れられる指。
(なんだ、結局おれもかよ)
アキラの思い浮かべる自分が対局時の姿であることに呆れて、どれだけの碁バカなんだと罵ったけれど、自分も同じだったと解る。
アキラを思い浮かべる時、ヒカルは敢えて何も考え無かった。
そういうつもりで意識的に性的な物をイメージする時の逆で、最初から固定観念を与えずに、自然に思い出せるままにアキラを描いて行った。それが結局対局時のアキラだったとは。
(あいつのこと笑え無いな)
でも実際にヒカルは『この』アキラが最も好きなのだと噛みしめるように思う。
挑んで来る、真っ向から睨み付けて来るこの瞳が何よりも好きなのだと。
思わず知らずため息が出た。
イメージのアキラが着ているのは、ついこの間の天元戦の時の淡いグレーのスーツだった。
それに濃い緑色のネクタイ。
今やイメージのアキラは本当に目の前に居て、手を伸ばせば触れられそうなくらいリアルだった。
「すごいな、おれ」
思わず声が漏れる。
そしてヒカルは待った。
アキラが思い浮かべたヒカルが喋ったように、自分が思い浮かべているアキラがその口を開くのを待ったのだ。
(どうせ罵りしか出て来ないんだけど)
実際の対局後の辛辣極まりない言葉の数々を考えて、目を懲らすようにして目の前のアキラに集中する。
けれど‥‥喋らない。
(あれ?)
いくら思い浮かべようとしても、アキラはじっと黙っているのだ。
(なんでだよ! おれの記憶力が足りないって言うのかよ)
ぼくに比べてキミは愛情不足なんだよと、アキラに責められているような気がしてヒカルは焦った。
(あんだろ、幾らでも再現出来る声、言葉。思い出せよ、おれ)
と、唐突に目の前のアキラの視線がふっと緩んだ。そして口角が上がってにっこりと笑う。
その瞬間、ヒカルは全身にぞわっと鳥肌が立つのを感じた。
そして刃物で刺されたかのように鋭い、けれどとろけるような甘い胸の痛みも。
(こいつ)
自分の記憶力が構築した実体の無いアキラであるにも関わらず、ヒカルはもう少しで罵りそうになってしまった。
(こいつ、何が一番おれに効果的か解ってやっていやがる)
本当の天元戦ではアキラはこんな微笑みは見せなかった。
だからこそこれは間違い無くヒカルが脳内で作り出したものなのだが、それでも思わずにはいられなかった。
卑怯だ、狡いと。
「いや……違うか」
早くなった動悸を押さえるようにヒカルはゆっくりと思考を巡らせる。
イメージのアキラはまだ静かに微笑んでいる。
「それだけおれが、こういうこいつを好きなのか」
普段冷たく素っ気無いくせに、時折ふいに甘さを見せる。
その瞬間のアキラを自分が死ぬ程好きなのだと思い知ってヒカルは我知らず呻いていた。
「こんの……野郎」
悔しいが完敗だ。
性処理のための妄想と、記憶の中に在るアキラの再構築は全くの別物だった。
そしてアキラが自分に対してそうするように、これは愛情の再確認でもあるのだと悟った。
「好きだよ、会いたいよ、畜生!」
今すぐ本物のアキラに会って抱きしめたい。肌の温もりを感じて唇を重ね、痛い程舌を絡め合わせたい。
ヒカルは真っ赤に火照る顔で、一瞬からかわれることを思い逡巡した後、やはりどうしても我慢が出来ず、諦めて会いたいとアキラに電話をかけたのだった。
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これの前にアップした「空想の恋人」のヒカルバージョンです。 ふふふAさんどうですか? ご想像とはちょっと違っていたでしょうか。 リクエストいただくと、おお、そうかとイメージが広がって話が浮かんだりするんですよね。なのでこれからもどんどんリクエストしてやってください。
「おまえ、一人の時って何やって過ごしてんの?」
ヒカルが尋ねたのは読書とか碁の勉強とかありふれた答えを期待してのことだったのだけれど、返って来たアキラの答えは予想だにしないものだった。
「頭の中でキミを再構築している」
「は?」
日本語か? それはと思った後でゆっくりと反芻してようやく意味は解ったけれど、やはりさっぱり解らなくて尋ね返す。
「何それ、どういうこと」
「言葉のままだよ。ぼくの中に在るキミに関する記憶を総動員して、頭の中でキミを再現するんだ」
こうねと、アキラは軽く瞼を閉じて見せる。
「目を閉じてキミのことを思い出す。最初は盤の上に置かれた石。そこからすっと指が見えて、手の甲、手首、更にその延長線上に腕と肩とキミの体が続く」
服の袖や色、時には糸のほつれなど、指の節や寄った皺まで1つ1つ何度もトレースするようにして思い描くのだとアキラは言った。
「首筋、胸板、顔はその次くらいかな。眉の流れ、瞳の中の光彩、睫毛や鼻筋もどうだったかをじっくりと思い出す」
やがてそれはくっきりと形を持ち、盤の向こう自分を睨んで座っているヒカルの姿となる。
「唇の開き具合、覗いている白い歯、汗が浮かんでいたかどうだったか、額にかかる前髪の乱れや襟元から覗く肌の色や」
それらを更に目を懲らして見るように考える。
「覚えているようで覚えていない部分や、曖昧な記憶しか無い部分もあるからね。それから仕草、熟考する時にキミは少し前屈みになるからそういう所とか、苛々したように扇子を畳んだり広げたりする様とか」
それらを繰り返して行くと、頭の中のイメージのヒカルは、本当に息をして生きているかのように生々しい存在になって行く。
「瞬きをする。ため息をつく。そしてゆっくりと口を開いてこう言うんだ。……ありません。っていうか、くそっ、おまえやり方がせこいんだよ。手拍子に乗ったふりして最後にバサッと断ち切りやがって」
「ちょっ! やめろよ! それこの間の天元戦のじゃん」
アキラの口真似にヒカルの顔がさっと真っ赤に染まった。
「新しい記憶だからね。今思い出そうとするとそれが出てくるんだ」
悪びれた風も無く、アキラは可笑しそうにふふと笑った。
「本当に目の前に居るように思えるんだよ。手を伸ばせば触れるんじゃないかってくらい」
それはリアルに感じられるのだと。
「それでおまえどうすんの」
「ん?」
「そんな触れそうなくらい生々しいおれを思い浮かべてどーすんだよ」
「おかずになんかしないよ」
「ばっ、あったりまえだろってか、いや、むしろしろよ! どうして妄想のおれまで碁なんだよ」
おまえの碁バカ指数ってどんくらいなんだよと逆上したヒカルに怒鳴られてアキラの笑みは苦笑に変わった。
「だって本当にそういうつもりで思い浮かべているわけじゃないから。そうだったら最初からベッドの上のキミを思い描くよ」
「じゃあなんで」
「恋しいからかな」
少し考えてアキラは言った。
「キミが恋しいからキミのことを考えて、キミをどれくらい正確に思い出せるかやってみたくなるんだと思う」
碁バカというよりキミバカなんだよと言われてヒカルの顔の赤みが更に増した。
「で、じゃあ結局どーするんだよ。ただ思い浮かべて終わりかよ」
「そうだね。でも目を開いても当然キミはそこに居るわけじゃないから猛烈に寂しくなる」
「おう」
「何時間もキミのことだけを深く考えているんだから、ぼくは当然キミに触れなければもう体も気持ちも収まらない」
会いたくて会いたくてたまらなくなるのだと。
「それでそこで考えるのを止めて、キミに電話をするんだ。―今日みたいにね」
ふんふんと聞いていたヒカルは、頷きを止めて手で顔を覆う。
「そーゆー」
そういう帰着をするのかと、ヒカルはもはや茹ですぎたタコのようになってしまっている。
「うん。今日、ぼくはそういうわけでキミをいきなり呼びつけたんだよ」
空想のキミでは足りなくなってしまったからと、アキラは優しい声で言ってヒカルの膝に手を置いた。
「で、ぼくの答えにキミは満足したのかな」
ヒカルは答えない。
「もしかして引いた? でも悪いけどぼくはこういう人間だから」
後悔しても遅いよと手が滑るように膝から太股に移動する。
「後悔はしてない。引いてもいない。どっちかって言うとすげえ嬉しくて、そう感じるおれ自身にどん引きした」
指の合間から呻くように言うヒカルにアキラが笑い声を上げた。
「キミ、ろくでも無い相手に岡惚れされて一生を棒に振るタイプだよね」
「おまえが言うの? それ!」
「うん。正直言うとちょっと引いた。でもそれ以上にものすごく嬉しかったから」
記憶からの再構築で無い生のキミを堪能させて貰うよと、アキラはヒカルのジーンズの前をゆっくりと優しく指で撫でて、それからチャックを下ろしたのだった。
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アキラの一人遊び。いや、ちゃんと読書したり碁の勉強をしたりもしてますよ。
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