しばしの間の後、代理人が「ありません」と頭を下げると、アキラは目を閉じて天を仰ぎ、それから俯いて大きく息を吐いた。
「いやあ、参りました。さすが棋聖の底力というべきでしょうか」
感嘆したように言ったのは離れた場所から見守っていた開発チームの責任者で、近寄って来てアキラに握手を求めつつ、けれど声音には悔しさが滲んでいる。
「今度こそは絶対に勝てると思ったのですが」
「おかげでかなり苦戦しました。中盤の右上での競り合いが終盤まで響いて、最後まで全く気が抜けなかった」
握手に応じつつ、アキラが苦笑したように笑った。
「寄せコウが上手くいかなかったらぼくの負けでしたよ。そうならないで良かった」
「おかげで良いデータが取れましたし、更に改良を進めて最強の『棋士』を育てますよ」
「頑張ってください。期待しています」
ネットでも中継されたこれは、人工知能との一局だった。
様々なジャンルで行われ、囲碁でも何度も行われている。
特に人間を越えることが難しいとされた囲碁はソフトの開発者の熱意が凄く、今までにも何回かアキラは対局のオファーを受けていた。
それを断って来たのは単純に心がないものと打つのが嫌だったのと、自分の棋戦が忙しかったからだ。
「ぼくは打つことは相手との会話だと思っている。それなのに心が無いものと打っても仕方が無いだろう」
機械に負けるのが怖くて引き受けないのだろうと陰口を叩く者も居たけれど、アキラは全く気にしなかった。そんなつまらないことで信念を曲げることの方が余程プライドに引っかかる。
なのに引き受けることにしたのは、送られて来た資料を眺めながらヒカルがぽつりと呟いたからだ。
「ふうん、人工知能って言うとちょっと怖い感じだけど、要はネット碁みたいなもんだよな」
「同じようでも全然違うよ。これは相手が機械なんだから」
「まあでもネット碁だって、相手がどんなヤツかは分からないじゃん?」
設定された対局はネット碁のようにディスプレイに向かって操作するのでは無く、代理人がコンピューターの指示に従って実際の碁盤に打ち下ろす形だった。
そうやって形だけ人対人の対局様にするくせに、実際は目の前に居る対局相手が考えているわけでは無いというのがまたアキラには気にくわない。
「それじゃまるで傀儡だろう」
「まあ、そう言ってやるなよ。少しでも本当の対局に近づけたいって気持ちでわざわざそうするんだろうし」
「それにしたって……」
「おまえの気持ちも解るけど、でも、そうだな。おれはやっぱりちょっと面白そうって思うかな」
ヒカルの声音には妙にしみじみとしたものが含まれていた。
「おまえが受けないなら、おれが――」
「受けるよ。受けないなんて言っていないだろう」
ほとんど反射的にアキラは言っていた。
「確かに色々気にくわないけれど、全体的に見れば囲碁の普及や発展に貢献出来ることになるんだろうし」
「うん? まあ、いいんじゃねえ?」
アキラの急な方向転換にヒカルはびっくりしたようだったが、すぐに可笑しそうに笑って言った。
「本当におまえって負けず嫌いなのな」
「そんなんじゃない」
本当にそんなことでは無いのだ。
「お疲れ。ずっと見てたけど、結構苦戦強いられてたじゃん」
コメントを終え、控え室に戻ろうとしたアキラを見学席から立ち上がったヒカルが出迎えた。
「機械相手って舐めてるからああなるんだぜ」
「舐めてなんかいない。あれが人間だったら相当嫌な碁を打つ相手だよ」
人工知能には過去から現在に遡る膨大な数の棋譜と打ち回しのパターンが記録されている。いわば沢山のプロ棋士の集合体のようなものなのだ。
「しかも学習して、どんどんぼくが嫌がる手で打って来る。あれが本当に人間だったら刺し殺していた所だ」
「ひゅう、物騒」
大袈裟に驚いてみせるヒカルをアキラがじろりと睨み付ける。
「茶化すな。本当にかなりしんどい一戦だったんだ。まあ、負けるつもりは無かったけれど」
「おれもおまえが負けるとは思わなかった。見ててすっごくわくわくしたし」
うん、面白かったと言ったヒカルの顔は自身の言葉通りの表情を浮かべている。
「あーあ、おれにもオファー来ないかなあ。来たら絶対受けるのに」
「来ないよ。来ても引き受けるな」
「なんで!」
次にもし、また同じようにオファーが来てもアキラは引き受けるつもりは無かった。
開発グループにも、今ヒカルは大事な時期なのだから決して話を持って行くなと言い含めてある。
「ぼくに負けた『もの』に勝ったって仕方が無いだろう。そんな暇があるなら次の天元戦に備えた方がずっといい」
「おまえさあ……」
「何か間違ったことを言ったか?」
「いや」
頑とした物言いにヒカルは反論せずにただ肩をすくめた。こうなると、アキラが意見を変えないことをよく知っていたからだ。
「でもやっぱ面白そうだったなあ。ネット碁も随分やって無いし」
名残惜しそうに振り返るヒカルに、アキラは深く眉根を寄せた。
「それだからキミは――」
いつやったのだ、誰と打ったのだと余程アキラはヒカルに聞いてみたくなった。
(でも、どうせ正直には答えてはくれない)
有耶無耶に平気な顔で誤魔化されるのが落ちだった。
「ん? 何?」
「いや、なんでも無い」
それ以上は言わず、アキラはヒカルを促すと少しだけ早足で対局場所であったスタジオから立ち去った。
秘密を抱えて生きているくせに、気まぐれにそれをこぼしてみせるヒカルがアキラは時折憎かった。
(そんな風に)
(そんな風にキミが懐かしそうな目で過去を見るから)
だからぼくは色々なものと戦わなければならなくなるのだとアキラは胸の中で苦く呟き、傍らを歩くヒカルの顔をそっと切なく見つめたのだった。
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アキラは負けないし、ヒカルも絶対負けないと思います。
深く考えてしたことでは無かった。
指導碁先でお茶請けとして出た菓子が進藤が好きそうなものだったので、ハンカチにくるんで持ち帰ったのだ。
お土産だと言って渡したら進藤は予想以上に喜んで、それ以降ぼくが指導碁などに出掛けて帰ると期待した顔で周りをうろつくようになった。
「あのね、そうそういつもお土産なんてあるものじゃないんだよ」
「うん、でもまた何かあるかなーって」
子供か! と思いつつ、それでも進藤があまりにもわくわくと待ち続けているので、ぼくは出された菓子のほとんどを自分では食べずに持ち帰るようになってしまった。
「塔矢先生、申し訳ありません。お口に合いませんでしたでしょうか」
そんなことが続く内、恐縮したように先方に尋ねられた。
どんなに勧めてもぼくが一口も菓子を食べようとしないので、何か不手際があるのではないかと心配になったらしい。
「もしよろしければお好みの菓子を教えていただけませんか? せっかくいらしてくださっているのにこれでは申し訳無くて」
「とんでも無い。こちらこそ申し訳ありません。塩瀬の饅頭は口に合わないどころか大好物です。ただ、実は家にもの凄く甘い物が好きな犬がいまして」
「は? 犬?」
「ええ。一度持ち帰った菓子をあげたら、せがまれるようになってしまって」
失礼を承知で持ち帰らせて貰っていたのだとぼくが言ったら、相手は途端にほっとした顔になった。
「そうですか。わんちゃんが。さすが先生が飼っていらっしゃるだけあって味の解るわんちゃんで」
「いえ、しつけがなっていなくてお恥ずかしいです」
「それではわんちゃんには別に用意致しますから塔矢先生はどうぞそれを召し上がってください」
「そんな! そんなつもりでは―」
「いえいえ、どうぞお召し上がり下さい。何、菓子を買う時に1つだけということは無いのですよ。先生にもわんちゃんにも食べていただけるならその方が私も嬉しいですし」
「それでも、そんなことをして頂いては申し訳が……」
「わかりました。それでは先生には2つ菓子をお出しすることにしましょう。それを両方召し上がるも、1つ残されて1つ持ち帰りになるのも先生のご自由ということで」
もちろん2つとも残されても構わないのですよ? とにっこりと人好きのする顔で言われてはそれ以上逆らうことも出来ない。
結局ぼくは1つを美味しく頂いて、残り1つを今まで通りハンカチにくるんで持ち帰ることにした。
そしてそんなことが他の場所でも何回か繰り返される内、あっという間にぼくはどこに行っても食べる用と持ち帰り用、2つの菓子を出されるようになってしまったのだった。
「あれ? なんでおまえの菓子2つなん?」
その日ぼくは進藤と企業主催の囲碁イベントの打ち合わせに出掛けていた。
通された部屋で目の前に置かれた茶と茶菓子を見て、進藤がびっくりしたように声をあげた。
「あ……これは」
ぼくは出先で菓子を複数出されるようになった経緯を進藤に話していない。
いつもさり気なく余った風を装って持って帰っていたからだ。
「あれー? 秘書さんもしかして人数勘違いした?」
でもお茶は合ってるんだよなあとしきりに首をひねっている進藤に、テーブルの向かい側に座っている主催者が微笑んで言った。
「いいんですよ、進藤先生。塔矢先生にはいつも2つお出しすることにしているんです」
「なんで? おまえそんなに甘いもん好きだったっけ?」
知らなかったなあと感心したように言われて顔が赤く染まる。
「違いますよ、塔矢先生は1つをわんちゃんに持って帰られているんですよね?」
「は……はあ」
ぼくが進藤と一緒に暮らしていることは碁界の一部の人間しか知らない。
別に秘密にしているわけでは無いが、特に触れ回ることでも無いので知らない者の方が多いのだ。
この主催者もその一人で、ぼくと進藤が同居しているとは夢にも思っていなかっただろう。
だからフォローのつもりでか、こう言葉を続けたのだった。
「進藤先生はご存知ではいらっしゃらなかったのですか。塔矢先生は甘いものが大好きな、大きなわんちゃんを飼っておられるんですよ」
「えーっ、そうなのか? おまえおれに内緒でいつの間に犬なんか飼ってたんだよ!」
非道いじゃんか教えろよと、心底驚いた顔をしてぼくに食ってかかる進藤をぼくは思わず殴りたくなった。
(一体だれのせいだと―)
天然にも程がある。
ここまで言われて、どうしていつもぼくが持ち帰っている菓子との関連が思い浮かばないのだと罵りたくなってしまった。
けれどにこにこと見守る主催者の手前、殴ることはもちろん罵ることも出来なくて、ぼくは黙って菓子を1つ進藤の方へ押しやると、気づかれないようにこっそりと、テーブルの下で彼の足を思い切り蹴ってやったのだった。
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アキラがヒカルに甘いものを持ち帰る話は以前にも書いたような気がします。甘いものに限らず、美味しそうだと思う物もアキラは持って帰りそう。
あ、動物に人間の食べ物をあげるのはNGですよ〜。甘い物なんて以ての外。でもヒカルはアキラの『飼い犬』だけど、人間だから良いですよね?
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