「アキラ」
名を呼ばれて立ち止まる。
振り返ると、人混みの向こうから進藤がこちらに駆けて来る所だった。
「進藤、キミ遅くなるんじゃなかったのか?」
「午後からの指導碁が向こうの都合でキャンセルになっちゃってさあ」
暇になったから買い物がてら走っていたのだと言う。
確かに彼は小ぶりのデイパックを背負っていて、一食分の材料くらいは楽に入りそうだった。
「元気だな」
「いや、だって鍛えないと」
対局も最後には体力勝負になる。
スタミナ切れで誰かさんに負けたくないからと笑って言う進藤に、こちらは何も鍛えるようなことはやっていないのにと苦笑で返す。
「それでもおまえ、体力不足の所を気力でねじ伏せちゃうじゃん! 全然油断がならないからさ」
「キミみたいな体力バカと対峙するんだから気力くらいは勝っていないとね」
実際進藤は日を跨いでの勝負にとても強い。気力はもちろんだがそれを支える体力が図抜けているからだ。
「だったらおまえも走る?」
「いや、こんなに暑いのに汗だくになるのは勘弁だ」
「ちぇっ、つまんねーの。でもいいや、実はさっきそこの魚屋でつい鯵を買っちゃってさ、傷まない内に帰らなくちゃって急いでた所だったんだ。おまえ帰るならそれだけ先に持って帰ってくれないか」
「いいよ。今日はタタキ? それともアジフライ?」
「どっちでも。つか、両方でもいいんじゃね?」
デイパックの中から新聞紙にくるまれ、更にビニール袋に入れられた鯵を取りだすと、進藤はぼくに手渡してにっこりと笑った。
「帰ったらおれが作るから」
「ランニングの後で? 疲れてるんじゃないか?」
「いや全然! 何しろおれ、『体力バカ』だから」
対局帰りのおまえのがよっぽど疲れてると思うよと言われて笑みを返す。
「それじゃあ、お言葉に甘えようかな」
「ん。それとご飯炊いておいて」
「わかった。お味噌汁も作っておくよ」
「マジ? ありがと。じゃあおれ、もう少し走ってから帰るから」
そして進藤はくるりと身を翻すと軽快な足取りで去って行った。
ぼくは渡された鯵をぶら下げながらゆっくりと歩き始めたのだが、ふと何か違和感を感じて立ち止まった。
(……何か今)
変では無かったかと。
そして呼び止められてから別れるまでを脳内で何回も再生してようやく気づく。
『アキラ』
最初、進藤は間違いなくぼくを下の名前で呼んだ。
実はぼく達は恋人になり、一緒に暮らし始めてからもう何年も経つのに未だに名前で呼ぶことが出来ず、お互いに名字で呼び合っていた。
何度か試したことはあるのだが、照れくささと恥ずかしさでどうしても呼ぶことが出来なかったのだ。
「進藤」
慌てて振り返ると、人混みの向こうを進藤がもの凄い勢いで走って行くのが見えた。
こちらからは小さくなる背中しか見えないが、たぶん顔は真っ赤に火照っていることだろう。
ぼくも思わず赤面し、熱くなった頬を手で擦った。
(やってくれる)
不意打ちとは卑怯だと思いつつ、ぼくは遠く遙かな彼の背中を目で追って、それから小さく「ヒカル」と呟くように呼んでみたのだった。
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下の名前呼びが出来ないヒカアキというのが、もう、すごーーーーく個人的に萌えなんです。一緒に暮らして男夫婦になってもずっと名字で呼び合っていて欲しいなと思いつつ、でもどこかでふと下の名前呼びが出来るようになっている二人も良いなと思います。
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