予定していた指導碁が相手の都合でキャンセルになり、思いがけず早く帰ることとなった。
いつもなら進藤に連絡するのだけれど、電車の乗り継ぎが異様に良くてそれも出来ず、それならいっそ驚かしてやろうかと思った。
音をたてないように鍵を開けてそっと家の中に入る。
進藤は何をしているだろうかと足音を忍ばせてリビングに向かったら思いがけず甘酸っぱい香りがした。
(苺)
ああ果物を買ったのかと思いながら中を覗き見たら、進藤はソファに腰掛けてテレビを眺めながら苺を食べている所だった。
傍らのサイドテーブルの上には牛乳パックと砂糖壺。そしてチューブ式の練乳が置いてあるのを見て少々驚く。
(いつもはそのまま食べるのに)
あろうことか進藤はそれらを皆、思い切りたくさん苺にかけて美味しそうに食べているのだった。
「…そうか」
本当はそうして食べるのが好きだったのに、いつもぼくに合わせて何もかけずに食べてくれていたのかと思った。
「進藤、キミね」
内緒で帰って来たということをすっかり忘れ、声をかけながらリビングに踏み入ると進藤は飛び上がらんばかりに驚いた。
「わっ、なっ、なんでおまえいるんだよ!」
そして一瞬で赤くなる。
「こっ、これはたまたまっていうか…こうしたら美味いって和谷が言うからっ」
慌てふためき言い訳するのを無視してぼくは言った。
「いや、別にいいよ。そうするのが好きならそう言ってくれたら別に良かったのに」
でも幾ら何でもそれは甘すぎだから健康のためには少しかける量を抑えた方がいいと言ったら進藤はしゅんとした様子で項垂れた。
「…わかった」
「別にかけるなと言っているわけでは無いよ?」
ぼくも小さな頃にはそうして食べていたからと言ったら、進藤は更に真っ赤になって「追い打ちをかけるな!」と何故かぼくに恨めしそうに言ったのだった。
「ああ、アレだろ? 昔、若獅子戦の時に塔矢がやったヤツ。すげえ迫力でびっくりしたよなあ」
「あの時の塔矢、鬼みたいな顔で怖かったわよ。進藤もまったく罪よねえ」
「確かあの時のことですよね? 進藤が欠席して、それで塔矢が…壁に穴が開いたかと思いましたよ」
「…怖かった、とにかくものすごく怖かった」
皆一様に口を揃え、同じことを言う。
巷に「壁ドン」という言葉が流行始めた時、棋院の関係者のほとんどがその意味を変な風に取り違えていて、おれは何故か塔矢に「キミのせいだ」と散々罵られたのだった。
| 2015年03月12日(木) |
(SS)肉を切らせて骨を断つ |
テレビを観ていた進藤が、いきなりぼくを振り返った。
「なあ」
「嫌だよ」
即座に返すと不満そうに頬を膨らませた。
「なんだよ、まだ何も言ってないだろ」
「伊達に長く一緒に暮らしていないからね、キミが何を言いたいのかぐらい聞かなくても解る」
テレビでは最近恋人同士でペアルックが流行っているということをやっていたのだ。
「えー、いいじゃん。モロじゃなくても靴とか鞄とか色違いとかそーゆーんでも」
「嫌だよ、そんないかにもなお揃いなんて恥ずかしい」
元々進藤はそういうベタなものを好む傾向があるのでぼくとしては容易にうなずけないのだ。
(一度甘い顔をすると際限が無いからな)
最初はささやかな『ペア』で満足していても、その内にもっと露骨なお揃いを要求してくるのに決まっている。
「とにかく悪いけれどぼくはどんなに好きな相手とも同じ格好をしたいとは思わないから」
どんなにごねても絶対にうんとは言わないよと一分の甘さも無く突きつけるように言ってやったら口を尖らせたまま黙ってしまった。
「…なんだよ、塔矢のケチ、ドケチ、石頭」
朴念仁だのなんだのとしばらくはグチグチ言われたけれど、無視し続けたら終いには何も言わなくなった。
(勝った)
いつもなんとなく進藤の押しに負けてしまいがちなので、折れずに済んでぼくはささやかながら満足した。
(これからも無理な要求は飲まないようにしよう)
そう決心したぼくは、けれど後日非道いしっぺ返しをくらうことになる。
ペアルックの攻防から半月ほど経った頃、ぼくは信州の老舗旅館の一室に居た。
天元戦五番勝負の第五局。
2勝2敗で今日決着が着くというその日、タイトルホルダーのぼくは挑戦者の進藤を待っていた。
ぼくは気持ちを整えるため早めに入るが、進藤はいつもギリギリに来る。今日も開始五分ほど前になってからやって来た。
一緒に住んでいてもこういう大切な一戦の時には日をずらして現地入りをしたり、同じ日に出立するにしても時間をずらす。
今回はお互いに前日入りしていたけれど、ぼくは彼よりも半日早くこちらに着いていた。
深夜に到着したという彼とはもちろん顔を合わせることも無く、ようやく今相見えたわけなのだが、彼が襖を開けて入って来た途端ぼくは思わずうっと呻いてしまった。
「おはようございます」
にこやかに立会人や記者達に挨拶する進藤は、あろうことかぼくと全く同じ色柄、形のスーツを着、シャツはもちろんネクタイまで同じ物を締めていたのだ。
「あれ? 進藤九段、塔矢天元とよく似たスーツですね」
「そうですか? よくある色だし、大体スーツなんてみんな同じようなもんでしょ」
「そうかもしれませんが、ネクタイまで同じストライプなんてまるでペアルックみたいですねえ」
「いやあ、おれのは量販店の吊しのヤツだし、塔矢のお高いスーツとは値段の桁が違いますから」
一緒にされたら迷惑だよなあとにっこりと微笑まれてぼくは思わず彼を睨み付けてしまった。
「何が吊しだ。最近の量販店は三越の中に出店してるのか」
碁盤を挟み、目の前に座った彼に小声でぼそぼそと言う。
「生地と仕立てを見ればどこのものか解る。どうしてそういうつまらない嘘をつくんだ」
「別に嘘なんかついてないし」
ぼくの視線などどこ吹く風で進藤はやけに機嫌がいい。
「盤外戦か? それでプレッシャーでもかけたつもりか」
そもそも今日ぼくがどのスーツを着るかどうして解ったのだと尋ねたら進藤はよくぞ聞いてくれましたとばかりに、にやりと笑った。
「そりゃあ伊達に何年も一緒に暮らしてませんし?」
「クローゼットを確かめたのか」
「馬鹿にするな、おまえの勝負服なんか見なくても解るっての」
こういう時、ぼくがどんな色のどんなスーツを着るのか手に取るように解るから、それに合わせて同じ物を仕立てて貰ったのだと、進藤はにやにや笑いのまま言った。
「それにしたってネクタイまで…」
「解るよ。おまえの好みくらい。ついでに言うと靴も同じの買ったからな」
言われて思わず確認しようと立ちかけてしまった。
「塔矢天元、どうかなさいましたか?」
「あ、いえなんでもありません」
立会人に尋ねられてはっと正気に戻る。
ぼく達がいつまでもぼそぼそと話し合っているので皆不審に思っているようだった。
「どうしてキミ、そういう―」
「そりゃあやってみたかったから」
「なにを」
「ペアルック」
満面の笑みで言われて全身から力が抜けた。
「正攻法で仕掛けたっておまえ絶対やってくんないから、ちょっと強引にさせて貰った。今日のこれネットでも配信されるし新聞にも雑誌にも載る。注目の一戦だもんなあ、みんながおれらを見ると思うぜ」
どこからどう見ても絶対にペアルックの二人の画像が公に配信されるというわけだ。
「ま、それでもギリギリまでちょっと不安だったけど読みが当たってほっとした」
これで今日は気持ち良く全力で打てると言われてぼくは思わず彼の頭を叩いてしまった。
ざわと皆がざわめく中でぼくは彼をはたと睨んだ。
「それくらいで勝ち誇るな。今日はぼくも全力を振り絞ってキミを負かしてやる」
絶対に天元の座は譲らないからなと気がつけば大声で叫んでしまい、それはそのまま後に新聞の見出しになった。
「塔矢天元、暴力は…」
「あ、大丈夫です。単なるコミュニケーションですから」
とは頭を押さえながら進藤が言った言葉で、ぼくはまだ赤い布を見せられた牛の如くいきり立っていた。
(絶対に絶対に絶対に勝ってやる)
そしてこんなつまらないことに心血注いだ彼を謝らせてやるのだと固く心に誓ったぼくは、心身削る二日碁の後、宣言通り進藤をこてんぱんに負かしてやったのだった。
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いやー、流行ってるらしいですね?ヒカルは負けましたけれど「我が人生に悔いは無し」だそうです。
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