| 2014年06月30日(月) |
(SS)じゅーんなぶらいど |
毎年6月も終わりに近づいて来ると、進藤は決まって大きな溜息をつく。
「あーあ」
今もまたカレンダーを眺めつつ、ふて腐れたような顔をしているので尋ねてみた。
「キミ、そういえばいつもこの時期はそうだけど、何かあるのか?」
「いや、だってもう6月が終わっちゃうからさ」
「別に大きな棋戦とか、何か催しがあったりとかするわけじゃないじゃないか」
それともぼくの知らない彼にとっての大事な何かがあるのかと思い、更に突っ込んで尋ねてみれば、進藤はぼくを見詰めて膨らんだ頬をもっと膨らませた。
「おまえにも関係あることじゃん」
「ぼくにも?」
「そう、だって6月過ぎちゃったらもうジューン・ブライドになんねーだろう?」
おれ、おまえには絶対シアワセになって欲しいからケッコンするなら6月って決めているんだと至極真面目に言われ、一瞬言葉を失った。
「あ…でも…」
「今年はなんとかって思ってたんだけど、まだおまえより段位低いし、金貯まってねーし」
「いや、進藤」
そもそも男同士で結婚は出来ないし、万一出来たとしてもぼくは花嫁では無いからジューン・ブライドにはならないしと頭の中を数多の言葉が駆け巡ったけれど、どれ一つ口に出すことは出来なかった。
「まあ、来年は頑張るから期待して待っててくれよな」
頑張って勝って、おまえのこと速攻で追い越してプロポーズするからと、あまりにも嬉しいことを言ってくれてしまうのでそれを壊すのが惜しかったのだ。
「そうだね、うん。期待している」
でも悪いけどぼくもキミに負けたくは無いからと言ったら進藤は心外そうに「なんでだよ?」と叫んだ後に、「だったら再来年」、「再来年だったら絶対だ」と自信満々でぼくに宣言したのだった。
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法律が変わって同性同士でも結婚出来るようになればいいよ。
塔矢アキラのカバンの中身が面白いと、ある時棋院で話題になった。
雑誌の取材中、ふと思いついた記者にせがまれ、テーブルの上に並べた中にメロンパンとカレーパンがあったからだ。
「お好きなんですか?」
「いえ、特には」
素っ気無い返事に、では何故入っているのだとは記者は尋ねず、けれどそれはばっちり写真入りで雑誌に紹介されたのだった。
以来、アキラは出先でパンを出されることが多くなった。
無類のパン好きと認定されてしまったからである。
その日も指導碁先で茶菓子は煎餅だったのでほっとしていたら、帰り際に紙袋を手渡された。
「塔矢先生はパンがお好きとのことですので。近所の小さな店ですが中々美味いパンを焼くんですよ」
禿頭の老人に、にこにこと渡されてアキラは微笑んで受け取ったけれど内心は困ったなと思っていた。
同じような経緯で貰ったパンが食べきれずに冷凍庫の中にぎっしりと詰まっていたからだ。
「ありがとうございます。でもどうかお気を遣われませんように」
紙袋の中からは香ばしい香りが立ち上る。確かに美味いパンなのだろう。
(でもぼくはご飯の方が好きなんだ)
仕方無く朝食時や休日などに食べているけれど、実際はアキラはご飯党だったので閉口していた。
だったら何故カバンにパンを入れていたのか。
それはヒカルのためだった。
甚だ燃費の悪いタイプのヒカルはすぐにお腹が減ってしまい、減ると機嫌が悪くなるのだ。それだけならまだしも身動きも取れなくなってしまう。
そのためにいつ頃からかアキラは荷物の中にパンを忍ばせるようになったのだった。
握り飯で無いのは必ずそういうシチュエーションになるとは限らないからで、パンなら次にも持ち越せるからだ。
夏場にも傷むことが無く安心して持ち歩けるし、便利なことこの上無い。
その上ヒカルはそこらのスーパーで百円前後で売っているようなチープな総菜パンや菓子パンが好きで、ベーカリーなどで売っている物はあまり好きでは無かった。
だから経済的にも全く負担にはなっていなかったのだが、記事を見た人々は仮にもタイトルホルダーがそんな駄菓子のようなパンを食べているのは許せないと思ったらしくせっせと高いパンを貢いでくれるので溜まってしまう一方なのだった。
「だったら今度はカバンの中にステーキ肉でも入れておけばいいじゃん」
全ての元凶であるヒカルはアキラがため息をつきつつパンの袋を持て余しているのに笑って言った。
「それかマグロ。大トロの寿司でも入れておけば次からは絶対それが来るから」
肉やトロならおれも好きだし協力するよと悪びれなく言うのでアキラはヒカルを殴りたくなった。
「キミね、大体だれのせいで…」
「だったら別に持って歩かなくてもいいのに」
「そんなこと言って、キミはお腹が空くとダメになってしまうじゃないか」
「おまえが言う程非道くは無いと思うけどなあ」
嘯きながらヒカルはアキラにはいと手を出した。
「なんだ?」
「腹減った。今日は何パン持ってんの?」
アキラは今日もしっかりとカバンを提げている。
「―――クリームパンだ」
ため息をつきながらそう言うと、ヒカルはぱっと嬉しそうな顔になった。
「やった! おれクリームパン好き。それともう一つくらいは持ってるんだろう?」
「コロッケパン。でもキミ、どうせ食べるなら今日頂いたこっちのベーカリーのパンの方を食べてくれないか?」
「やだね。そういうパンて変に固いし雑穀やら何やら入ってるんでおれ苦手なんだよ」
そしてアキラの手渡したスーパーで買ったごく普通のパンをビニールを破いて嬉しそうに食べ始める。
「まったく…」
キミのおかげでぼくはもうずっと朝食にご飯が食べられないと、そう思いながらもアキラは明日は何パンを買って来ようかとヒカルを眺めながら考えたのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※
塔矢家の冷凍庫パン貯金が増える一方です。ヒカルも責任取ってちょっと食べてやればいいのにと思います。
体中がギシギシと痛い。
痛いと言えば受ける側になったアキラの方が遙かに負担が大きかっただろうと思うのだが、それでも動くと呻きたくなる程に節々が痛み、昨夜のことがそれ位特別だったのだとヒカルは改めて痛感した。
いつかアキラと結ばれたい。告白もしない内からヒカルはずっと思っていた。
あいつを抱きしめて思い切り深くキスをしてと、想像するだけで体中が熱くなってじっとしていられなくなったことを昨夜は本当にやってしまった。
大好きな相手の肌に触れる。それがどんなことか触れてみるまでは解らなかったし、触れてしまったら後はもう何も解らなくなってしまった。
アキラの体は綺麗でそのことにとても感動したし、今まで見たことも無い表情や聞いた事の無い声を聞いて興奮した。
(でも、そっちじゃ無いんだよなあ)
どんな本にもネットにも『する』前のことと最中と、後のことは載っていた。
リードする側がすべきこと、相手に対する思いやりや、行為の甘美さは嫌という程書かれていた。次に行う時の注意点まで書かれていたくらいだ。
でも『する』ことで、自分がどう変わってしまうかまではどこにも一行も書かれてはいなかった。
(こんな風になるなんて)
冷蔵庫からスポーツ飲料を取り出そうと屈んだ時に腰に回された腕を思い出した。
スーツを着れば肩口に爪の感触を思い出し、地下鉄の中でガラスに映った自分の顔を眺めていたら重なるように眉をしかめていたアキラの顔を思い出していた。
(苦しそうだった)
でも決して止めてくれとは言わなかった。
好きだと、愛していると囁かれた言葉は思いがけない時に脳裏に蘇り体をカッと熱くさせた。
(まるであいつがおれん中に居るみたい)
アキラを知る前の自分にはもう戻れないんだとぼんやりと思い、戻りたくなんか無いと即座に強くそう思った。
「愛してる…か」
これがそういうことなのかなと、右腕の内側についた歯の跡を撫でながらヒカルは今日一日が早く終わってまたアキラを抱きしめたいと思ったのだった。
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大体同じことを考えているわけですが、でもヒカルの方が若干甘味成分が多い感じでしょうか。
それから痛み。アキラは精神的な痛みの方が大きくて、ヒカルは肉体的な痛みの方が大きかったと、そういう感じです。
ふとした折に体の奥底が、ずくりと鈍く疼いた。
痛みにも似たそれは、嫌でもアキラに昨夜から今朝にかけてのことを思い出させた。
物を取ろうと手を伸ばせば腕の内側にヒカルの指の感触を覚え、俯けば耳元に吐息を感じる。
足首には握られた手の強さが蘇り、背中には這わされた舌のざらつきが残っている。
ならばいっそとじっと動かずにいれば胸の内側からしこりのような熱いものが迸りそうになった。
どうにも落ち着かないそれは、突き上げられヒカルから放たれたものが自身の中に広がって行った時の感覚によく似ていた。
焼けるような熱さが内側からじわりと自分を侵して行く。それが未だ続いているような感じなのだ。
昨夜体内に染み渡ったものがまだ残っているとは考え難い。
終わった後シャワーを浴びたし、しなくて良いと言ったのにヒカルは中まで綺麗に洗ってくれたからだ。
けれど『何か』が確かにアキラの中に残っている。
(…進藤がぼくの中に居る)
疼きに首筋を赤く染めながらアキラは静かにそう思った。
抱きしめ合い、狂ったように唇を重ねて肌を合わせた。
本来そうでは無い場所で深く繋がり、互いの熱を与え合った。その結果がこうである。
『する』ということがどういうことなのか知識と実際は天と地ほど違うとアキラは思った。
(こんなに本質から変わってしまうことだったなんて)
もう自分は元の自分には戻れない。そしてこれからも更に変わって行くのだろう。
足下が崩れる程に怖く、同時に笑い出したい程嬉しくもあった。
「天気雨…」
ぽつりと呟いた言葉はそのままアキラの気持ちを表していた。
晴れた空から降り落ちる、眩しくも美しい番狂わせの雨。
アキラは這わされた指の感触をなぞるようにのど元をゆっくりと撫でながら、ヒカルは今頃何をして何を考えているのだろうかと思ったのだった。
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またかよ←セルフツッコミ。相変わらずのお初話ですが、書いたものはいつもと違うものを書いたつもりです。←どこが(セルフツッコミ2回目)
進藤父は悩んでいた。
長年営業職を務めて来たこともあり、コミュニケーション力というものに多少は自信を持っていたのだが今回ばかりはどうすれば良いかわからなかったからだ。
「あの…」
声をかけるとちらりと視線が向けられる。
「きょ…今日は良い天気で良かったですねえ」
「そうですな」
座っているだけで圧するような雰囲気がある。
一人息子のヒカルが結婚した相手の父親は自分とそう年は変わらないはずなのに社の会長並の威厳があった。
そもそもどうして息子婿の父と二人きりで顔突き合わせることになったかというと父の日のせいだった。
日頃の感謝を込めて両家で食事会をと、息子達の気配りは嬉しかったし、縁あって親戚になったのだから親しくなりたいとも思っていた。
しかし都会のど真ん中の高層ビルの中にある中華料理店で皆で和気藹々と食事をしたまでは良かったのだが、その後茶でもということになった時、妻は相手の奥方と途中で雑貨の店に引っかかってしまった。
「すみません。すぐに行きますから、皆さんで先に行って席を取っておいていただけます?」
「あなたすみません。私進藤さんとちょっとここを見てから行きますね」
女同士ということで普段から電話のやり取りもしているという二人は仲の良い女友達然として楽しそうに店に消えて行き、後には男ばかり四人が残された。
と、唐突に息子であるヒカルがその隣にあるブランドショップを見て言ったのだった。
「あ、あのシャツちょっとイイと思わねえ?」
そこにはいかにも息子が好きそうな大柄の派手なシャツがかかっていた。
「キミに似合うとは思うけど、サイズはどうかな。ちょっと試着させて貰う?」
「そうだな。ってことで父さんと先生すみません、おれらちょっとあそこで買い物してから行きますんで」
二人で先に行っていて下さいと息子二人はさっさとそちらに行ってしまった。
そして父親同士残されて進藤父はいきなり困ってしまったのだった。
今までは妻や息子達を含めて大勢での会話しかしてこなかったので気にならなかったのだが、二人きりになるとこの相手方の父親は話しかけにくいことこの上無かったからだ。
「そ、それじゃ先に行っていることにしましょうか」
必要以上にへこへことなりながら取りあえず予定していた店に行く。
予約はしていなかったが運良く人数分の席は空いており、見晴らしの良い窓際の席に案内されたまでは良かったのだがその後がいけない。
面と向かった時、何を話したら良いのか全くわからなくなってしまったからだ。
賑やかな周囲のテーブルとは反対に、重苦しい沈黙がテーブルの上を支配する。
(まあ、でもすぐに美津子達も来るだろうし)
気楽に考えて十分、二十分。
三十分経っても来ないに至って進藤父は沈黙の重さと何か話さなくてはいけないというプレッシャーに逃げ出したいような気分になった。
何しろ相手は囲碁界の重鎮で『先生』と呼ばれる存在である。対するに自分は一介のしがないサラリーマンに過ぎず囲碁にも全く明るくは無い。
所謂お屋敷町と呼ばれる所に広大な家を構えている資産家でもあるらしいし、海外での暮らしも長いという。
どう考えても共通の話題というものが見いだせないのだ。
その上、外見からして相手方の父は違った。この蒸し暑い中きっちりと和服を着こなして汗一つその顔には浮いていない。
厳しい眼光は百戦錬磨という言葉がぴったりで、いよいよ何を話せば良いのかわからなくなって来る。
(ヒカルもアキラくんも何をしているんだ。それに美津子! 向こうの奥さんと一体そんなに何をゆっくり見ているんだ)
取りあえずで頼んだ茶を飲み干して、それでもまだ誰も来ないという状況に進藤父は心の中で少なくとも百回以上、妻と息子達に助けを求めた。
と、今まで話しかけたことに答えるのみだった相手の父、塔矢行洋氏がヒカルの父を見て言ったのだった。
「ヒカルくんに聞きましたが、進藤さんは営業職が長いとか」
「は? え、ええ、はいっ」
先生に指名された生徒の如く背筋を伸ばして答えてしまう。
「それでは若い方達と話す機会も多いでしょうな」
「はあ…まあそうですねえ」
確かに他の部署よりも新人が多く配属されているとは思う。
「でしたらぜひご教授願いたいのですが」
改めたように向き直られて進藤父はぎょっとした。
「は? な、なんですか?」
「“推しメン”とは一体どういうものなのか」
恥ずかしながらと和服姿の相手父は苦笑のような笑顔を見せた。
「私は昔から囲碁一筋で世間のことには全く疎くて。最近若い人達と話をしていると、この言葉がしばしば出て来るのですがさっぱり何のことかわからんのですよ」
かと言って尋ねるのは無知を晒すようで恥ずかしい。
「何しろ誰もが知っていて当たり前の言葉のようですからな」
気軽に皆、『先生の推しメンは誰ですか?』などと聞いて来るらしい。
「家の息子も似たタイプなので頼りにはなりませんし、何やら女性に関係する言葉らしいので妻にも聞けない。ヒカルくんならよく知っていそうですが、何しろ彼は子どもの頃から私のことを棋士として尊敬してくれているようなので、やはりこんなことは聞けんのですよ」
なので今回進藤さんとお会い出来ると知って渡りに舟と思っていたと言われて進藤父は目を丸くした。
「いや…そんな私は特には…」 「進藤さんもご存知では無い?」
がっかりしたような顔になるのを慌てて言葉を足す。
「いや、解ります。解ります。“推しメン”くらいは私にも―」
その途端ぱっと相手父の厳つい顔に微笑みが広がった。
「良かった。いや、お聞きしようと決めたくせに、こんなことも知らないのかと笑われそうで口に出すまでかなり勇気がいったのですよ。…それではよろしくお願いいたします」
深々と頭を下げられて進藤父は呆気に取られ、同時に今まで抱いていた相手父へのイメージが変わるのを感じていた。
取っ付きにくく堅苦しい。別の世界の人だと思ってしまっていたが―。
(仲良くなれそうな気がする)
いや、ぜひこの人と仲良くなりたいと思いながら進藤父はにっこりと笑い、営業で鍛えたその口で尋ねられたことの説明を始めたのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
異色の父×父話。(ノーカップリング)
二人で仲良くなって、双方の妻に内緒で握手会とか行けばいいよ。
等々力という若手が少々やんちゃである。それはヒカルも伝え聞いていた。
何度か実際に見かけたこともあり、確かにイイ面構えをした野郎だなあと苦笑したりもした。
けれどヒカルは基本的に碁打ちは碁が強ければ他はどうでもいいというスタンスで、だから他の者よりは等々力に対して寛容だった。
自分のことを大したことが無いと陰口を叩いていると聞いた時も、そういうことを言うならば碁で勝ってからにしろと思うだけでさほど気にもとめなかった。
ヒカル自身、行儀作法や服装などで散々説教された身であったのと、生意気だと随分叩かれた経験から外側から判断したくないという気持ちがあったのかもしれない。
けれどある時打ち掛けから戻って来て、その等々力が居残っていた他の若手ととっくみあいの喧嘩をしているのを見てさすがに顔色を変えた。
「お前ら何やってんだ!」
「うるせえ!!」
怒鳴り返したのは等々力で、相手に対して拳を振り上げながらヒカルをギンと睨み付けた。
「あんたにゃ関係無いだろっ! 無関係なのがしゃしゃり出てくんなド アホ!」
先輩棋士に対してのあまりの言動に周囲は色めきだち、ヒカルもはっきりと表情を険しくした。
「どういう口のきき方してんだ、てめえ!」
正に売られた喧嘩は買うが如く大声で等々力を怒鳴りつけると、ヒカルは一気に詰め寄って等々力の腕をねじり上げた。
「こんなクソ狭い所で掴み合いなんかやりやがって! ペットボトルが倒れて中身が下にこぼれちゃってるだろーが!」
は? という空気が辺りに広がった。
「無糖ならまだしも、ミルクたっぷりコーヒーなんかこぼしやがって! 早く拭かねーと畳の目に染みこんで取れなくなるぞ!!」
しかもこういう物は余程しっかり拭かないと、後でベタベタして腐った雑巾みたいな匂いがするんだとねじり上げた手に無理矢理ティッシュを持たせて等々力に畳を拭かせる。
「それにおまえバカか? どうして皮のジャケットなんて着たまま取っ組み合いしてんだよ。皺寄るし傷がつくし一つもいいこと無いっての!」
喧嘩するなら脱いでからやれと、呆気に取られる等々力の体からジャケットをはぎ取ると形を整えてハンガーにかけてしまった。
「そしておまえもおまえだ、どうしてメシ食ってる途中でこのバカと喧嘩なんか始めるんだ」
ヒカルの追求は等々力の相手にも及んだ。
「え、いや…でも、等々力がいきなり…」
「店屋もの頼んで半分も食って無いなんて、お店の人に土下座して謝れ!」
怒鳴りながらヒカルは荒れた室内をてきぱきと綺麗に片付けてしまう。そうしてから改めて喧嘩していた二人を睨み付けた。
「大体なんでおまえら拳なんか使ってんだ。棋士なら棋士らしく正々堂々碁で勝負しやがれバカ野郎!」
叩きつけられた言葉に場はしーんと静まりかえった。
いつもなら食ってかかってくるはずの等々力もすっかり毒気を抜かれたように黙って畳の染みを拭き続け、相手もまたぽかんとした顔で放置していた店屋ものの続きを食べ始めた。
後に等々力は友人達に、『わけがわからないけれど、何故か妙に恐ろしくて従わざるを得なかった』とこの一件の感想を漏らし、以来ヒカルに対して従順になった。
生意気なのは変わらなかったが、ある程度は人の意見や注意も聞くようになったのである。
等々力に手を焼いていた棋院のお偉いさん達はほっと安堵の息をこぼし、乱れていた若手の空気も落ち着いた。
しかし最大の功労者であるヒカルはこの日以来「おまえ塔矢によく躾けられてんなあ」と皆に感心したように言われるようになり、大層クサることになったのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
アキラはヒカルの影響を受けて変わり、ヒカルもまたアキラの影響を受けて変わっていたという話のはずだったのが、何故かアキラの躾が徹底しているという話になりました。変だなあ…。
「最近、若手の風紀が乱れているようだが」
集まりの途中で緒方が面子を見渡して渋い顔で言った。
「等々力とか言ったかあの小僧、具体的にどうなんだ」
視線で促されて何人かが小さく頷く。
「等々力くんはとにかく遅刻が多いですね。今の所手合い開始後十分間の内に来ているのでギリギリセーフということにしていますがあまり続くようなら不戦敗扱いも考え無ければなりません」
答えたのは篠田師範で更に事務の者も言う。
「等々力くんは少々口のきき方というか言葉が乱暴ですね。服装も派手で棋士としての自覚が欠けるというか…」
「そんなことよりあの子はちょっと見境がなさ過ぎです。セクハラ紛いのことを言ったりしたり、女流からも随分苦情が出ています」
わざわざ挙手して言ったのは桜野で、等々力に対する不満がかなり大きいらしい。
とにかく出た意見を総合すると、昨年プロ試験に合格して上がって来た等々力という若手が服装もまずければ言葉使いや礼儀作法もなっておらず、一番困るのは同僚だという自覚も持たず女性と関係を持ちたがるということだった。
「進藤にも随分手こずらされたが…でもあいつは女には手を出さなかったからな」
苦い口調で緒方が言葉と共に煙草の煙を吐き出した。
「何度か呼び出して指導しているんですが一向に正される気配が無いですねえ」
篠田師範が大きく深いため息をついた。
学校や企業の中に係や委員会があるように、日本棋院内にも運営をスムーズにするための様々な委員会組織が存在し、今日集まって話し合っているのは、若手の指導をメインとした風紀委員会だった。
委員長は緒方で、それに院生を束ねる篠田師範などが面子として加わっている。
「もっと何か大きなペナルティを科した方がいいのか…ふむ」
緒方が考え込んだ時だった、すぐ隣で黙って話を聞いていたアキラがぽつりと言った。
「軽くシメればいいんじゃないですか」
アキラも風紀委員の一人だったのである。
居並ぶ面々は一斉にぎょっとしたような顔になってアキラを見つめた。
「あ、もちろん暴力的な意味では無く囲碁的な意味です」
視線に気がついて穏やかに訂正したけれど凍り付いたような場の雰囲気は変わらない。
「…おまえ」
少しして緒方が困惑したような顔で言った。
「最近、進藤に似て来たな」
「失敬な、似てなんかいませんよ」
アキラは憮然とした顔で返したが、居合わせた面々は皆一斉にその通りだと頷いたのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
昔、棋院の組織図だったかなんだったか見ていたら委員会というものが存在していて(風紀はありませんでした)面白いなあと思ったのですが、今回これを書くに当たって確認しに行ってみたらどこにもそれが見当たりませんでした。えー???幻だった? でも確かに見た覚えがあるんですよう。
とりあえずアキラバージョン。ヒカルバージョンも書けたらいいな。
| 2014年06月10日(火) |
(SS)もっけの幸い |
「キミ、ぼくと結婚したいんだって?」
棋院の六階、エレベーター横の自販機で飲み物を買おうとしていたヒカルは背後から声をかけられてビクっと肩を持ち上げた。
「なんだよ、誰に聞いたんだよ」
「誰って…みんな言ってるよ。キミがぼくと結婚したがっているって」
振り向いた先に立っていたのはアキラで、ヒカルは昨夜の飲み会の席で酔っぱらって軽くなった口で、ついアキラと結婚したいと言ってしまっていたのだった。
『もう好き♪ 大好き♪ 出来るならおれあいつと結婚したい♪』
思い出すだけでヒカルは昨夜の自分を本気で殺したくなったけれど言ってしまったことは戻らない。
幸い居合わせた者達はそれを本気とは思わず、酔った上でのふざけた冗談として受け止めたようで、大笑いに笑った後漏れなくその場でLINEとツイッターに上げたのだった。
(くっそ、呪われろ和谷、それに冴木さんと門脇さんと後えーと…)
遅かれ早かれアキラの耳にも入るだろうと覚悟はしていたのだけれど、実際にこうして来られると心臓への負担が半端無い。
「それで、あれはキミのいつもの冗談なのか? それとも本気で言ったことなのか?」
怒鳴られるならともかく、静かな口調なのが恐ろしい。
「本気だよ、悪かったな! 本気でおまえと結婚したいと思ってるよ!」
もうどうにでもなれとやけくそ半分に言うと、アキラはふうんと呟いた。
「いいよ」
「え?」
「ぼくは別に構わない」
キミと結婚してもいいよと、そしてふわりと微笑むと呆気に取られたヒカルを残して階段に向かって歩いて行った。
「ごめん、これから上で雑誌の取材なんだ。でも返事だけはしておきたくて」
「え…あ、………うん、またな」
半ば呆然としたままヒカルはアキラを見送った。
惰性のように買いかけていたコーラを自販機で買って、取り出し口から取り出した所で唐突にその動きが止まる。
「―――――――――え?」
麻痺していた感覚が一気に熱を持って蘇った。
(今のって、今のって、今のって)
「ちょっと待て、今のもう一度言って行けーーーーーっ!」
我に返ったヒカルが怒鳴った時、当然ながらアキラの姿はとうになく、空しく声だけが辺りに響き渡ったのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「結婚して!」に「いいよ」とさらりと答えるアキラもいいなあと思います。
まだ6月だと言うのに、週末の温度は真夏日のそれだった。
「…くっそ暑い」
額から流れ落ちる汗を拭いながらヒカルが忌々しそうに呟いた。
「梅雨もまだだってのにマジかよこの温度」
問いかけたわけでは無かったけれど、耳元で言われたアキラは苦笑したように笑って言葉を返した。
「そんなに暑いなら離れればいいじゃないか」
アキラの首筋からも背中へ汗が流れ落ちている。
八畳の寝室のダブルベッドの上で、冷房も入れずにもうずっと長いこと二人は裸で抱きしめ合っていた。
冷房を入れないのはアキラが冷房の風の冷たさを嫌うからで、でもさすがに暑さには勝てなくて窓は全開に開けてある。
風は一応吹いてはいたが生ぬるく、まともに思考が出来なくなるくらい部屋の空気は暑かった。
「キミ、暑いのは嫌いだろう」
「嫌いだよ。でもおまえは好きだから」
だから離したく無いんだと、素肌に汗を伝わらせながらヒカルが言う。
「おまえだっていい加減暑いんじゃねえ?」
「暑いね。気が遠くなりそうだ」
「だったらおまえこそ離れればいいんじゃねーの」
言葉とは裏腹にぎゅっとアキラの背に回した腕に力を入れながらヒカルが言う。
「嫌だよ」
即座にアキラが言った。
「暑いのは不快だけれどね、キミはとても心地良いから」
「なんだよ、それ」
おれのパクリかよと言ってヒカルが笑うとアキラも笑った。
壁にかけられた温度計の温度は32度。
下手したら熱中症になるのではないかという暑さの中、けれど二人は汗だくのままどうしても離れることが出来なくて、日が暮れるまでの長い時間、固く抱きしめ合っていた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※
いや、すぐに窓を閉めて冷房を入れた方がいいと思いますよ。 そして水分を補給した方がいいと思いますよ。
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