ゴウっと風に髪が乱されて、指で直して顔を上げたら隣に誰か立っていた。
ちょうどホームの反対側に各駅が到着した所で、そこから降りて来た人が、乗り換えでこちらに来たんだろうと、そう思って更に視線を上げたら見覚えのある横顔があった。
「進藤」
思わず言葉をこぼしてしまったら、相手も気がついて驚いたような顔をする。
「塔矢」
けれどすぐにムッとしたように口を噤み、そのままぷいっと横を向いてしまった。
(子どもっぽい)
いつまでも根に持っているのだと思いながら、ぼくもまた憮然とした面持ちで反対側に視線を流した。
少し前、北斗杯の予選がきっかけで喧嘩をし、そのまま会わなくなって一ヶ月が経つ。
棋院ではたまに姿を見かけるが言葉を交わすことは無く、希にばったり出くわしてもこんなふうに不機嫌な沈黙になるのが常だった。
(春までこんな状態なのか)
会えないだけでも堪えるのに、あからさまに避けられるのは気持ちが沈む。
もちろん進藤がぼく自身を嫌ってしているのでは無いということは重々承知している。
ライバルなのだから、このくらい緊張があって当たり前で、仲良く穏やかに過ごすことが出来ないのも百も承知だ。
でも、それと寂しいと思うことは別だった。
長い間焦がれて、やっと当たり前のように会えるようになったのに、いきなり絶縁とはどういうことだ。
腹が立つけれど自分側からはどうにも出来ず、待つだけしか出来ないのが非道く悔しい。
(大体、ぼくだって好きで予選をパスしたわけじゃない)
若手の中での成績が現在トップで、そういう立場に在る物がシードになるのはタイトル戦でも同じだからだ。
進藤だってそれをちゃんと解っている。解っているけれど、それとこれとは別なのだろう。彼はいつでもぼくと同じ場所に居て、追い抜きたいと願っているから。
「おまえ、今日なんかあったっけ?」
唐突に進藤が口を開いた。
「ちょっと事務方に用があって…。キミは?」 「おれは控え室に忘れモンしたから」 「そう」
そして再び沈黙になる。
ちらりと見上げる表示では、まだ電車は最低でも後五分は来ない。
その五分間、こうして黙って立ち続けているのは苦痛だなと思った。
「おれ、あっち行こうか?」
しばらくしたらまた進藤が言った。
「え?」 「おれと居んの、ムカつくんだろ。無理してこうしていること無いし、おれあっちに行くから」 「いや…なんで?」 「溜息ついてる」
さっきからでっかいのを三つもついたと言われて、無自覚の行動に赤面した。
「ごめん、気がつかなかった。でもキミが離れることは無いから」
むしろぼくが向こうに行くと言ったら進藤は即座に「なんでだよ」と言った。
「だってキミ、怖い顔をしているじゃないか。ぼくが側にいるのが不愉快なんだろう?」 「別に愉快じゃないけど、不愉快でもねーよ」
だから別に移動する必要無しと言われて動けなくなった。
電車はまだ前の駅も出ていない。いつもは小まめに来るくせにどうしてこんな時だけ間が開くのだろう。
風は強くて、寒いくらいで、でもその寒さに救われていると思う。
そうでなければきっと情けない顔をしてしまっていた。
「あのさ」 「キミ―」
まったく同時に言葉を発し、そのタイミングに驚いて口を閉ざす。
「なんだよ、先言えよ」 「キミこそ先に言えばいい」 「…別に特別話すことなんか無いし」 「そう。だったらぼくも特別にキミと話すことなんか無い」
突き放すような言い方は性格故で、でももっとマシな言い方は無いのだろうかと自分で自分を情けなく思う。
背後には何度も各駅停車が停まる。なのにどうしてこちらにはいつまで経っても電車がやって来ないのだろう。
目に映るのは薄汚れた線路と、その向こうに生えている雑草。
風は相変わらず強くて、手も足も心も凍えてしまいそうだとそう思う。
(せめて春なら良かったのに)
春ならば、この場所から見える景色ももう少し違っていただろう。吹いてくる風も暖かだし、こんな風にホームで寒い思いをすることもたぶん無い。
「おまえ、おれが負けると思ってんだろ」
また進藤だ。どうしてこういきなり口を開くのか。
「思って無いよ」 「どうだか。おれなんか選手に選ばれないってきっと思ってる」 「キミはどうなんだ?」 「あ?」 「キミは自分ではどう思っている。勝てないと、選手になんかなれないってそう思っているのか」 「まさか、なって見せるって言ったじゃん」
うん、そうだね。そう言って、キミはぼくと会わない宣言をしたのだから。
「だったらぼくに聞くことなんかないじゃないか」 「なんだよ、それ」 「勝てると思っているなら、キミは勝つ。ちゃんと選ばれてぼくと一緒に北斗杯の選手の一人になると思う」
少なくともぼくはキミが勝つことを疑ったことなんか一度も無いよと言ったら進藤は黙った。
「キミはぼくのたった一人のライバルだもの。こんな所で負けたりなんかしない」 「こんな所って…」
微かに苦笑した気配があった。
「おまえって相変わらず、すげえ失礼大魔神なのな」
言い返そうとした瞬間、ホームに電車が滑り込んで来た。
再びの突風に髪が乱されて、思わず目を閉じる。
「……た」
ふと耳元で進藤が何かつぶやくように言ったのが聞こえた。
顔を上げると進藤は前を見ていていつもと何も変わらない。
でも確かに今、小さな声でつぶやかなかったか。
『来ちゃった』 『まだ来なくていいのに来ちまいやがった』と。
目の前でドアが開き、どっと人が降りて来る。その人たちを避けて、それから躊躇いつつも乗り込もうとしたら、いきなりぎゅっと手首を掴まれた。
「え?」
振り返ると進藤が思い詰めたような顔をしてぼくの手を握っている。
「何?」
どうしてと尋ねようとした瞬間にドアが閉まった。
ゆっくりと走り去っていく車両を見送ってから改めて進藤を見る。
「いいじゃん」
ぼそっと横を向いて進藤が言った。
「どうせおまえ暇なんだろ。だったら今のに乗らないでも、次の次の次ぐらいでも」
それくらい後の電車で帰ったって別に問題無いだろうと言われて、驚いて次に口元がほころんだ。
「でもキミは? 帰らなくてもかまわないのか?」 「別に―そんな急いで帰らなくても親もいつものことだって思っているし」
で、どうだよ。おまえは急いで帰りたいのかよと言われて、ぼくは微笑みながら彼に返した。
「別にぼくも――」
次の次の次の次の、そのまた次の次でも乗るのは全然構わないよと。
「おまえ、次が多すぎ」
進藤が笑い、ぼく達は顔を見合わせた。
冷たい風の吹くホーム。
それからぼくは進藤と、本当に久しぶりに笑い合うと、突っ立ったまま一時間以上、その場所で二人で過ごしたのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
えーと、描写を一切入れられなかったですが、双方制服姿です。そういう絵面の話を書きたかったので。
例のアレ、碁会所に来ない宣言した後の話のつもりです。
どうしてもその人で無ければいけないの?
長い話し合いの後にそう言われた。
『まだあなたは若いし、初めての恋を一生のものだと勘違いしているのかもしれない。この先にも出会いはたくさんあるのよ?』
ああ確かに出会いはあるだろう。でもこいつとの出会いはただ一つしか無い。
『ごめん。それでもおれには恋は一つだ』
一生でたぶんこいつにしか恋出来ないと言った瞬間に隣に座っていた塔矢が泣いた。
『ごめんなさい』
ぼくにとってもきっとそうですと、もうここに来て何度繰り返したかわからない謝罪の言葉を繰り返す。
『許して下さい』
それでもぼくはどうしても進藤が好きなんですと。
出会った最初からきっとお互い好きだったんだ。
一目見て焼き付いて、それから二度と脳裏から消え去ることが無かった。
これから先どんなたくさんの人に出会ったとしても、こんなに強烈で鮮烈な出会いは、たぶんきっと絶対無い。
そしてそれはきっとこいつにとってもそうなんだろう。
『許して下さらなくてもぼくは進藤と別れません』
別れられないですと、『イイコ』のこいつはその後自分の両親にもはっきりと言った。
『親不孝でごめんなさい』と。
ああ、そうだ。おれ達世界一親不孝だよなとは帰り道に話したことで、でもそれに微塵の後悔も無い。
それを外道と言うなら言え。
塔矢は自分を鬼だと言った。自分の欲望のためにはおれの意志すら考え無いかもしれないと。
(でも、それならおれだって同じだよ)
きっとおまえが嫌だと言っても、耐えられないと言っても、他に好きなヤツを見つけたとしても触れてしまったその体をもう離せないと思うから。
世界中の誰にも認められない。けれどこういう堕天ならシアワセだと思いつつ、おれは泣いている塔矢を強く抱きしめたのだった。
「お願いします」と深く頭を下げられて、「ごめんなさい」としか言えなかった。
その瞬間までぼくは、自分がこんなにも自己中心的な人間だとは思っていなかった。
それなりの傲慢さや我の強さ、心の醜さは持っていると思っていたけれど、同時に人としての情と言う物も少しは併せ持っているものだとばかり思っていた。
例えば己が助かりたいが一心で蜘蛛の糸を掴むため、他者を踏みつけ蹴落とすようなことは出来ないと。
でもそれは買いかぶりであったらしい。
実際に命の選択に匹敵するようなことを問われた時、ぼくはなんの迷いも無く、自分だけの蜘蛛の糸を掴み取った。
進藤のご両親に、彼とは絶対別れないと情け容赦も無く告げたのである。
籍を入れないでも良いのではないか、公にしないでも良いのでは無いかと、すがるような言葉にも頑強に頭を横に振り、彼との関係を隠すつもりは無いときっぱりと言い切った。
だって日影のような関係では意味が無いでは無いか。
ぼくは彼が好きで、彼もまたぼくを好きで、そこに何の偽りも無い。それなのにどうして人に隠して添わなければならないのか。
人は一人では生まれて来ない。
独り立ち出来るまで、どれだけの苦労をかけ、どれほどの愛情を注がれて育って来たか。それを解っていて、それでもぼくは切ない願いを聞き入れることが出来なかった。
そして返す刃で自分の親をも切り捨てたのだった。
『ごめんなさい』
ぼくの言葉を両親はどんな想いで聞いただろうか?
『ごめんなさい、それでもぼくは―』
彼を選ぶことしか出来なかった。
「まだ落ち込んでんの?」
お互いの家を訪ねた帰り道、黙りこくっていたぼくの顔を唐突に進藤がのぞき込んだ。
「ここ、眉ん所皺が寄ってる」
とんと眉間を指されて言われる。
「キミが可哀想だと思って」 「ん?」
どちらの家でも散々だった。ぼくの両親に至っては二度と家の敷居を跨ぐなとまで言われてしまった。
事実上の絶縁宣言だった。
「なんでおれが可哀想なんだよ」 「だってこんな心の冷たい人間にこんなにも執着されてしまっているんだから」 「それっておれには嬉しいばっかりだけど?」
進藤の返事は屈託が無い。
「むしろおまえのが可哀想なんじゃねーの? おまえお父さん子ってヤツだったじゃん」 「そんなこと無い」 「あるよ、見てれば解る。お母さんのこともすっごく大事にしてた」
それでもぼくは両親を泣かせても進藤と生きることの方を望んだ。
「キミは何も解っていないんだ。ぼくは冷たい。冷たくて自分のことしか考えていない。キミはぼくがキミのために親を捨てたと思っているかもしれないけれど、それは誤解だ。ぼくはぼくのために親を切り捨てたんだ」
大切に慈しんで育ててくれた親を捨てた。それなのにそれに微塵の後悔も無いなんて。
「ぼくは信じられない程の自己中なんだ。もしキミが別れたいと言っても、ぼくが別れたいと思わない限り解放してなんかあげないよ?」
それでキミが傷ついたり、滅茶滅茶になったとしてもきっとキミを離さないと話すぼくの顔を彼は黙って見詰めている。
「キミのご両親にだってあんな非道いことを―」 「あのさ」
ふいに進藤が遮るように言った。
「おまえの言うことも解るし、それを否定したりなんかしないけどさ、おれは別にそれでいい。おれの意志に関係無く、したいようにするって言うならそれでいいと思うし、それでおれがボロ布みたいになったとしても絶対におまえを恨んだりしないよ」
「ぼくは鬼だ、心の冷たい鬼なんだ」 「うん、いいよ、鬼でもいい」
進藤はぼくの肩に手をかけるとそのままぐいと引き寄せて抱いた。
「でもさ、おまえ知ってるか?」 「…何を?」
温かい胸の中に抱き込められて体の力がすっと抜ける。
「鬼はさ、そんな風に泣いたりなんかしないって」 「泣いてなんか」
後はもう声にならない。
この日ぼくは彼と二人、人の道から外れたのだった。
| 2012年04月11日(水) |
(SS)Kiss me |
初めてキスをした夜、いつまでたっても眠れなかった。
触れ合った時の唇の感触、温かさや心地良い湿り気や、普段有り得ない程近づいて漂って来た相手の肌の香りが思い出され、もじもじと腰が落着かない。
『好き』
掠れるように耳に囁かれた声は今でもはっきり思い出され、けれど思い出すと胸の奥底に火がついたように熱くなる。
「進藤…もう寝ただろうか」
きっとぼくとは違って、気持ちよくさっさと眠りに就いてしまっただろうと考えると憎らしい。
「ぼくは天地が返る程の一大事だったのに」
キミにとってはさほどのことでは無かっただろうと、そう思うのもまた悔しい。
「でも」
(震えていた)
肩に置かれていた彼の手は確かに微かに震えていたと思う。
『ごめん、させてっ』
思い詰めたように突然言ったあの時の顔はとても切羽詰まっていた。
「聞かなくてもぼくは別に良かったのに」
いつだって触れてくれて良かったのだと思いながら、けれど未だ唇の熱さに寝付けずにいる。
このままだと夜を明かしても気持ちが落ち着くことは無さそうだった。
(今日したばかりなのに、またもうしたいっていうのはおかしいだろうか)
自分はそんなに好色なのかと恥ずかしく思い、でもどうしても今すぐにでもまた彼とキスをしたいと思う。
「ぼくだって…好きだった」
ずっとずっと好きだったと、布団の中にくるまって苦しい想いを息と共に吐いたら、唐突にコンと窓が鳴った。
「…誰?」
こんな真夜中に、しかも庭から入って来るような者があればそれは悪人であるのに違い無いのに、ぼくは布団をはね除けるようにして飛び起きていた。
「…進藤?」
恐る恐る尋ねた声に窓の向こうから返事があった。
「うん」 「どうしたんだ、こんな時間に」
飛びつくように窓を開け、そこに立っている彼の姿を見て何故か泣きたいような気持ちになる。
「えーとさ、あのさ、おまえにしばき倒されるの解ってるけどさ」
来ないではいられなかったのだと進藤は言う。
「どうして?」 「うん、あのさ、もう一回キスさせて」 「そんなことのために来たのか?」
沸き上がる喜びを押し殺して責めるように言う。
「だってダメなんだ。どうしても今日のこと思い出して眠れない。おまえのこと欲しくて欲しくて一睡も出来ないんだって!」
まだキスでこんなじゃ先が思いやられるよなと苦笑しながら言う進藤は、でも昼間のように切羽詰まった顔をしている。
「ダメ?」
たぶん彼の瞳に映るぼくも同じ顔をしていることだろう。
「ダメなわけ無いだろう」
ぼくもキミに会いたかった。
キスがしたくてたまらなかったと、でも言葉で言うのは恥ずかしくて、ぼくは身を屈めると彼の唇を迎えるために、そっと両手を延ばしたのだった。
| 2012年04月08日(日) |
(SS)我が侭姫の朝 |
朝、早く目が覚めて、一人シャワーを浴びに行く。
頭から浴びた熱い湯が、体を伝って足まで下りて、繋がっていた所に染みて顔を顰めた。
「…っ」
痛いというか、熱いというか、それほど擦れてしまっているのかと、その原因を考えて情けないような、悔しいような複雑な気持ちになる。
昨夜、夢中になって貪り合ったその代償がこれなのだから自業自得と言えなくも無いが、自分だけが後に残る苦痛に耐えなければならないのが腑に落ちない。
「起きろ」
ずぶ濡れのまま戻って、ベッドで眠る進藤を足で蹴る。
「んぁ? なんだよ、朝から元気だな、おまえ」
何? と聞かれて不機嫌に「拭け」とタオルを投げつける。
進藤は少し驚いたように目を見開いて、でも可笑しそうに笑って起きあがった。
「なんだ、朝からご機嫌ワルイんだ」
そんなに体に響いたかと尋ねられてむっつりと無言で返す。
「はいはいはいはい、おれが悪かった。ぜーんぶおれが悪かったから早く機嫌直せよ」
そしてタオルでぼくを拭いて、そのまま入れ替わるようにベッドにぼくを寝かせた。
「朝飯作るから、おまえはもう少しゆっくり寝てろよ」 「当たり前だ」 「うん、で、その当たり前ださんは卵はどうして欲しいんだ?」 「スクランブル」
言って、でもすぐに気が変わる。
「サニーサイドアップで」 「へいへい。了解」 「それからフルーツも欲しい」 「りんごでいいなら」 「コーヒーも飲みたい。インスタントじゃなくてちゃんと煎れたやつ」 「それも了解。他には?」 「パン、焼きたてのベーグルが食べたい」 「ベーグルかぁ、そりゃ買いに行かないとねーわ」
でも駅前の店なら7時から開いてるから売っているかなと、言いながらもう着替え始めている。
「その分遅くなるけど文句は言うなよ?」 「十分で帰って来い」
うへえと言いつつ、でも進藤は怒らない。
普段はここまでぼくの我が侭を黙って聞いていることは無く、途中で怒り出すことも多いのに、抱き合って眠った朝はとても優しい。
優しすぎて腹が立って仕方が無いくらいだ。
「駅前に行くなら、売店で新聞も買って来て」 「うちで取っているヤツじゃダメなんかよ」 「経済新聞が読みたい」 「わーかーりーまーしーたー」
そして更に追加されるのを恐れてか、そそくさと外に出て行った。
バタンと閉まるドアの音、静まりかえった部屋にぼくだけが一人残される。
(…温かい)
横たわるベッドは進藤の温もりがまだ残っていて気持ち良い。
「ごめん」
理不尽な怒りだとは自分でも解っている。でも進藤にそれをぶつけずには居られない。
だってやはりぼくの体が辛いのはキミのせいでもあるのだから、愛しているなら精々ぼくに尽くしてくれないとと、進藤にはとても聞かせられない可哀想な言葉を思いながら目を閉じる。
朝の光の中、まだ眠い目をこすりながら歩いているだろうキミ。
「…帰って来たらたくさんキスをしてあげるよ」
呟いたらやっと気が済んで、ぼくは心地良さに身を委ねると、ゆっくりと二度目の幸福な眠りに落ちて行ったのだった。
もともと進藤は空腹に弱い。
食べるとすぐに元気になるが、お腹が減ってくると目に見えて元気が無くなるタイプで、しおしおと萎れて行くのが可笑しくて解りやすい。
ぼく自身はたぶん空腹に強いタイプなのだと思う。食べなければ食べないで過ごせてしまうタイプなので、進藤のそれも可愛いなあと思うくらいでそれほど気にはしなかった。
それがある日、ふと目にした光景で軽くショックを受ける。
事務室に用事があって棋院に出向いた帰り、寄り道をしながら駅に向かっていると、ふと何かが目に留まったのだ。
それは道の端に立ち止まっている二人連れで、正直言うと最初に目に留まったのは和谷くんのGジャンの背中だった。
(そうか、今日は)
森下先生の研究会の日だったと思い、そして次に何をしているんだろうと思ったら、すぐ側に居る進藤に気がついたのだった。
進藤と和谷くんはごく近い距離で笑いながらハンバーガーを食べていた。
見ればすぐ横はファストフード店で、買ってすぐに店内では無く道端で立ち食いしているのだと解った。
ったく、バカじゃねーのとか、んだよ、てめえにいわれたか無いよとか、小突きあっているのが口の動きで解る。
通り過ぎる人達は全くのスルーで、彼らもまた周囲を気にしない。ぼくだけがただ、人混みの向こうから彼らをじっと見詰めていた。
こんなふうに道端で物を食べた経験はぼくには無かった。ファストフード自体、つい最近まで入ったことが無く、親には立ち食いは行儀が悪いと許されていなかった。
確かに行儀がいいとは言えないが、けれどこうして見て居る限り、それは意外な程悪い印象を与えなかった。楽しそうで美味しそうで、いいなとすら思ってしまった。
『足りたか? それとももう一個行く?』
ふと唐突に和谷くんの声が聞こえて来た。
『いや、いいよ。充分』 『まったくおまえって面倒臭いよな』
その燃費の悪い体質をどうにかしろと言いながら、和谷くんはゴミをくしゃりと手の中で潰し、二人は何事も無かったかのように人の流れに紛れて去って行ってしまった。
バカのように一部始終を突っ立って見ていたぼくは、あることに非道く納得し、あることに非道く不愉快になっていた。
というのは進藤は突然、道端で物言いたげになることが時々あるのだ。大抵は昼過ぎや夕方などで、急に無口になったなと思うと何か言いたそうになって、でもやめてしまう。
ずっと何だろうと思っていたのだが、あれはきっと『お腹が空いた』と言いたかったのだ。
頼む、何か食べさせてと言いたくて、でもぼくには言えずに口を閉ざした。
(なのに和谷くんには言えるのか)
平気で言えて、あんなふうに二人で物を食べたりするのかと思ったら非道く腹が立ったのだ。
「どうせぼくは堅物だし」
道端で物を食べるなんてとんでも無いとでも言いそうに見えたのだろう。
(でも)
もし言ってくれたなら、別にダメだと突っぱねたりはしなかった。ましてやあんな笑顔が見られるのにどうして無下に却下したりするだろうか。
進藤にとってぼくがそんなことも言えない存在だということが非道く不快でむかついて仕方無かった。
「えーと、あのー」
夕暮れの市ヶ谷、ファストフード店の前で進藤に待っていてと言ったら、彼は非道く驚いた顔をした。
「なんで?」 「なんでもいいから、ちょっとここで待っていて」
そしてぼくは店内に入ると適当にハンバーガーとポテトを見繕って買って出て来た。
「はい」
手渡すと更に驚いた顔をされる。
「何? おれにくれんの?」 「だってキミ、すごくお腹が空いた顔をしていたじゃないか」
いつもの如く、手合いの後にどちらかの家に行くことになり、けれど進藤はお帯坂を下った辺りから突然無口になってしまった。
そしていい匂いのするファストフード店の近くまで来たら、口を尖らせてちらりと店の中を覗いたのだ。
(ああ、お腹が空いているんだ)
今日はお互い検討が長引いて、でもそのすぐ後で移動しようとしているから何も腹に入れる余裕が無い。
寄り道しようと言えばそれだけ帰る時間が遅くなり、だから言えないのだと解った途端、自然に足が止っていた。
「食べていいよ。無理して我慢することなんか無いんだから」
何が好きか解らなかったので、バーガーは二種類買って来た。進藤は結構健啖家だから二つとも食べてしまうかもしれず、でも別にそれでいいと思った。
「…サンキュ。実はすっげえ腹減ってた」
恐る恐る受け取って、進藤はぼくににこっと笑った。
「おまえに奢って貰えるとは思わなかったなあ」 「そりゃあ、あんなに物欲しそうな顔していたら」 「うん、でもさ、こういうの嫌いなヤツは嫌いだろ」
実際行儀の良いもんじゃないしと、そう言いつつ嬉しそうにバーガーを一つ取りだして包みを取る。
そのままかぶりつくのかなと思ったら、進藤はそれをぼくに向かって差し出した。
「ほい、おまえも食えよ」 「え? ぼくは別に―」 「おまえも腹減る頃じゃねーの? 一人で食うのは寂しいし」
言われて、黙ってバーガーを受け取った。
「頂きます」 「いただきますっ」
ぼくの言葉に彼も言う、なんだかまるで打つ時みたいだなあと思いながら生まれて初めて道端で物を立ち食いした。
「あー、生き返る。マジおまえ天使だわ」 「大袈裟な」 「だっておれ、今日は昼も食べて無かったからさあ」 「そうなのか?」 「うん。打ち掛けん時、古瀬村さんに捕まっちゃって、それで昼飯食いっぱぐれちゃって」
その上午後も目一杯頭使ったもんだからもうエネルギーほとんど残って無いと言われて気の毒になった。
「それは…確かにお腹が空くね」
一局打つのはそれだけで、マラソン並に体力を消耗するものだからだ。
「だからおまえがこれ買ってくれてすっごく嬉しかった。ありがとうな」 「別にこんなこと…」
なんでもないことなのにと思う。
「本当はこういうの嫌いだろ? でも店ん中入っちゃうとなんだかんだで時間食うから」 「嫌いじゃないよ、誰とでもするってわけでは無いけれど」
キミと一緒に食べるのなら大丈夫、いつでも言ってくれていいよと言ったら進藤は上目使いにぼくを見た。
「そっか? この前ここで和谷と食ってたら、おまえ鬼みたいな顔で睨んでたから、てっきり行儀悪いって怒ってるんだと思ってさぁ」 「気付いていたのか」 「気付くよそりゃあ」
あんなおっかない顔で睨んでいたらと言われて、顔から火が出るような気持ちになった。
「違う、あれは」 「うん。おまえも腹減ってたんだな。今それ解った」
だから今度からおまえも腹減った時は遠慮せずにおれに言えよと、今度はおれが奢ってやるからとまで言われ、訂正することが出来なかった。
「…うん、ありがとう」 「でもさ、なんだな。誰と食っても美味いけどさ」
おまえとこうして立ち食いするのが一番美味いかもと言われて、顔が茹でたように真っ赤に染まった。
「なんか一緒にワルイことしてる感がたまらないよな」と、深い意味など無く言っているのが解っているのに、それでもぼくはもう進藤の顔を見られない。
むせそうになるのを必死で堪え、でもとても幸せな気持ちでハンバーガーの残りを食べたのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※
※天然アキラキラー六段、進藤ヒカル。
| 2012年04月02日(月) |
(SS)エイプリルアフター |
毎年、嘘がつけずにこの日が終わる。
別につかなくていいようなものだけれど、誰かさんに小さな嘘で騙され続けているので、たまには意趣返しをしたいと思うのだ。
けれど生来そういうセンスに恵まれ無かったようで、どんな嘘をつこうか考えているうちに四月一日が終わるのが常だった。
今年もそうで、昼間は散々進藤に騙されて悔しい思いをしたというのに結局何一つ返すことが出来なかった。
「…まあ、こんなこと嬉々としてやっているのは進藤くらいだし」
そもそも無理に嘘なんかつかなくてもいいわけだしと自分で自分を慰めながら布団を敷いて床に就こうとしてふと思いついた。
「そうだ、これならどうだ」
『緒方さんと一緒です』
送信して、でもやはりあまりにも見え透いた嘘だったと苦笑した。
進藤からの返事も無くて、呆れて寝てしまったのだろうと思った。
けれどそれから一時間後、ものすごい勢いで玄関のチャイムを鳴らされて飛び起きた。
誰だ今頃と警戒しながら行って見たらシルエットでもう進藤だということが解り、不審に思いながら鍵を開けたら転がるように入って来た。
「緒方センセーは?」 「え? いないけど」 「だっておまえメールに緒方センセーにやられそうって」 「そんなこと書いていない。それにあれはエイプリルフールの嘘だし」
言った瞬間、進藤が全身脱力したように座り込んだ。
「騙されたのか? まさか」
あんな嘘でここまで駆けつけて来たのかと思ったらおかしくなった。けれど進藤は笑うどころでは無く、大層な剣幕でぼくに言ったのだった。
「四月一日じゃねえ!」 「え?」 「あのメール来たの十二時過ぎだって!」
エイプリルフールなんかとっくに終わってるんだよと言われて、慌てて携帯を確認した。
「あ、本当だ」 「もう、信じられねえ、有り得ねえ」
もう二度と嘘なんかつくなと怒鳴られて、確かにぼくに嘘のセンスが無いことを身に染みて知った。
でもこんな夜中に駆けつけてくれる恋人の愛情の深さも解ったので、そんなに悪い嘘でも無かったかなと胸の中では思ったのだった。
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