SS‐DIARY

2011年09月30日(金) (SS)そんな日


泥のように疲れてその日帰った。

いや、泥などと生やさしいもので無く、ヘドロのように粘りつく疲労に苛まれながらヒカルは家に帰ったのだった。


「…信じられねぇ」

そうでなくても気を遣う地方での対局の後、負けたというダメージの上塗りのように帰りの電車は尽く乗り継ぎが上手くいかず、挙げ句に新幹線が架線事故とかで五時間も中に閉じ込められた。

どこかの駅に停まっている時ならまだしも、どこともしれぬ線路の途中で閉じ込められるのは苦痛以外の何物でも無く、辛うじて座ってはいたものの、すし詰め状態の車内は空気も悪くてヒカルは眠ることすら出来なかった。

なのに東京まで帰って来たら来たでタクシーは長蛇の列、ここにもまた一時間以上並ぶはめになったのである。

「あー…」

足を引きずるようにしてようやくマンションの自分の住む階にたどり着いたのは零時過ぎ。ドアの鍵を開けた時、ヒカルは正直ほっとした。

でも、もはや靴を脱ぐのも面倒なくらいで、持っていた荷物を上がってすぐに落とすように置くと、そのまま明りも点けずにリビングに行ってソファに倒れ込んでしまった。

「も…無理」

何が無理とかそういうことでは無く、とにかくもうこれ以上何一つ出来ないという気持ちで呟いた。

体中汗でべったりとしていたし、腹は減りすぎて気持ち悪いくらいだったけれど、ヒカルはソファに体を沈み込ませると、そのまま上着を脱ぐこともせず眠ってしまったのだった。




翌朝、目が覚めたのは朝というより昼に近い時間だった。

オフであるから何処に行く予定も無く、慌てる必要も無いはずだったが、目の前のサイドテーブルに、サーモマグとラップにくるまれたサンドウィッチが置いてあるのを見て飛び起きた。

気がつけば着たままだったはずのスーツが脱がされてちゃんと壁にかけてある。

ネクタイも外されて襟元も開けてあり、ご丁寧に靴下も脱がされた体には冷えないように毛布がかけられていた。

「いや、でも、まさか」

有り得ないとヒカルが慌てに慌てたのは、昨夜帰宅したこの部屋に自分以外の誰かが居るとは思っていなかったからだ。

帰って来た時も部屋の中は真っ暗で物音一つ聞こえ無かったし、気配というものも無かったように思う。

それより何より、かなり早い時間にヒカルはアキラに連絡をしてその日の内には帰れない旨と、だからまた別の日に会おうと約束したのである。

でもこんなことをするのは、恋人であるアキラ以外にはいない。

本来はその日に会うはずだったけれど、アキラは翌日手合いがあったし、正直負けた後に会いたくは無かった。だからヒカルが連絡したのは乗り継ぎに呪われ、新幹線に閉じ込められるよりもずっと前のことだったのだ。

アキラは察しが良いし、こういう時はお互い様ということもよく解っている。だから素直に帰宅したはずだったのに、どういうわけか昨夜はここでヒカルの帰りを待っていたらしい。

「マジかよ」

だったら帰る前にひとこと声かけて行けばいいのにと思いつつも、気遣って黙って出て行ったのだろうことも容易に想像出来た。

「…なんだかなあ」

そろそろと手を伸ばしたサーモマグの中には温かいコーヒーが入っていた。

普段はミルクも砂糖も入れないそれに今日はたっぷりと入っているのは疲れを考えてのことで、これを飲んで元気を出せということかなと思ったら知らず口元が笑ってしまった。

サンドウィッチは朝食のはずだけれど、ヒカルの好きなローストビーフと随分しっかりした具になっていて、これもまた甘やかしてくれているんだなと顔が緩んだ。

そしてとどめ、それらの脇に置いてあったヒカル自身の携帯電話に気がつけばメールの着信があって、確かめてみたら短いメールが届いていた。

『お疲れ様』

ただひとこと。それ以外余分な言葉は何一つ無かった。

けれどヒカルにはそのひとことがアキラから直接言われたかのように体の隅々まで染みた。

確かに昨日は非道かった。非道すぎてこの世の何もかもを呪ってしまいそうな程気持ちがささくれだっていた。

でもその全てが今綺麗に消えて行くのを感じる。


自分を大切に思ってくれる誰か。その誰かが居るということがこんなに幸せだと思ったことは無い。

だから今は恐らく対局中で見られないと知っていて、それでもヒカルはアキラに返信せずにはいられなかった。

『ただいま』

これもまたひとこと。それで充分通じると思った。

(それでまた、終わる頃にメールするんだ)

来てと、待って居るからと。アキラはたぶん疲れていても来てくれるだろう。

「そしたら今度はおれがおまえにコーヒーいれて、それで何か美味いもん作っちゃるから」

そして二人で食事をしながら、昨日の自分の悲惨な話をアキラに聞いて貰うんだと思った。

対局後だし、アキラは決して優しくしてはくれないだろうけれど、それでも自分の話を聞いてくれる。

苦笑しながら黙って聞いてくれるだろうと思ったらヒカルは幸せで一杯になった。

「…甘」

おまえいくらなんでも甘過ぎと、サーモマグに口をつけ、でもその甘さが恋人の自分への甘さなのだと思ったら嬉しくて、ヒカルはしみじみと噛みしめながら、温かいコーヒーを飲み込んだのだった。


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表立って甘やかさないけれど、表立たない所ではヒカルを甘やかすアキラってことで。


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