| 2011年06月27日(月) |
(SS)マイノリティ・続き |
こんな物で騙されないよ。
そう言ったのに進藤は、「まあいいじゃん」と笑いながらぼくの指におもちゃの指輪をそっとはめた。
二人で買い物に来て、ほんの少し喧嘩っぽいことになり、けれどすぐに仲直りをして買い物を終えた。
その帰り際、彼は急に思いついたように出入り口の所にあった機械に向かったのだった。
「なに?」 「んー、ガチャ」
昔やらなかった? と言われて指さされたのは百円玉を入れてダイヤルを回すとカプセルに入ったおもちゃが出てくるという物で、見たことはあるけれどやったことは無かった。
「ぼくの家は厳しかったから」
そういうのはやらせて貰えなかったなあと言ったらふうんと彼は生返事をした。
「…やるのか?」
どれも大の大人が欲しがるような物では無いと思えるのに、進藤は頷くとポケットから財布を出して百円玉をその機械の中に落とし込んだ。
ガチャガチャ、ガチャポン、ガチャ。
色々な呼び方をされているということだけは知っているそれは、名前の通りガチャリと音を立てるとカプセルを一つ吐き出した。
「ん、こんなん出た」
振り返った進藤が見せてくれたのはキラキラと輝く小さなピンクの石のついた玩具の指輪で、どうするんだこんなものと反射的に思った。
「おまえにやるよ、これ」 「え?」 「婚約指輪…なんてな」
ああ、最初からそういうつもりでやったのかと、ぼくはぼんやりと思った。
というのは買い物途中でした喧嘩のような物は、彼とぼくが生涯正式には『夫婦』になれないということから来ていたものだったからだ。
「いらないよ、そんな…小さい女の子がするようなものじゃないか」 「でも、後ろでサイズ調節出来るし、おまえ指そんなに太く無いから出来るんじゃね?」
噛み合っているようでまるで噛み合っていない会話にぼくは少し苛立った。
「あのね、そんなもので騙されないよ」 「何が?」 「そんな玩具の指輪でぼくが喜ぶとでも思っているのか?」
機嫌を取るにしても随分安すぎると言ったら進藤は一瞬きょとんとしたような顔になって、それから苦笑のように笑った。
「なんだよ、マジな石の付いたのが欲しいのかよ」 「違っ…」
じゃあそれは今度手合い料が入ったらなと、やはり彼はぼくの言葉をちゃんと聞いてはいない。
(それとも解って言っているのかな)
さっきの話の続きだ。
例え給料の三ヶ月分を使って指輪を買って婚約指輪だと言っても、きっと誰も認めてはくれない。
婚約も結婚も公に認められることは決して無く、指輪はただの指輪で、婚約指輪になることは無いのだ。
ぼく達の関係はそんなふうに、真面目に話せばどうしても儚いものになってしまうから。
「…そういう事を言ってるんじゃない。元々ぼくはアクセサリーは嫌いだし」 「まあそう言うなって」
きっとこれ、おまえに似合うからと有無を言わさず手を引いて、ぼくの指にはめてしまう。それも左手の薬指にだ。
「ほら、ぴったりじゃん」
似合う、似合うと嬉しそうに言うのを軽く睨む。
「どうしてキミはそうやって人の言うことを聞かないんだ」
苛立ちを隠さない声だったのに進藤は怯まず、逆に思いがけず真面目な顔で見返された。
「だっておまえがおれの言うことを聞いてくれないから」 「ぼくが?」 「さっき話したばっかりじゃん。誰に認めて貰えなくてもおれ達が自分らで『夫婦』って思ってたらそれで夫婦って」
だから指輪も、玩具でもなんでもおれが婚約指輪だって言えば婚約指輪なんだよと進藤は言った。
「もしホンモノが欲しいんだったらちゃんと後で買ってやるよ」 「…ぼくは指輪なんか欲しく無い」 「なんで?」 「そんなもので繋ぐことなんか出来ないじゃないか」 「それでもおれ、贈りたくなったから」
伴侶であるおまえに、今すぐに形のあるものを渡してやりたくなったからと言われてぐっと胸に来るものがあった。
「いいじゃん? こんなちゃっちい指輪でもさ。きっといい思い出ってヤツになると思うし」
形があれば今こうして話したことも思い出せる。何年経っても、記憶は薄れずに、今この瞬間の気持ちと共に残るのだと。
「…仕方無いな」 「お、素直にはめて帰る気になった?」 「はめては帰るけど、でもそれだったらキミもだ」 「は?」
首を傾げる彼の前でぼくは自分の財布から百円玉を取り出して、目の前の機械に落とし込んだ。
そして少し硬いそのダイヤルをゆっくりと回す。ガチャリと音がしてカプセルが一つ吐き出された。
「ほら、指貸して」
出て来たのはぼくが彼に貰ったのとよく似た緑色の石の指輪で、ああこの色なら彼に似合うとこっそり思った。
「指って…なんで??」 「貰いっぱなしって言うのは嫌なんだ。キミがこれを婚約指輪だって言うならぼくだってキミに婚約指輪を贈りたい」
もちろん受け取ってくれるよねとにっこり笑って迫ったら、進藤は一瞬情けない顔になって、でも嫌だとは言わなかった。
「ちぇーっ、仕方無いの」
そして観念したようにぼくの前に左手を差し出すので、ぼくは苦笑しながらその薬指に指輪をはめてやった。
「お揃いだ」 「うん。そうだな」
こそばゆいような顔をして、進藤は指輪のはまった指を見た。
人が見れば滑稽だろう。大の大人が二人して、競い合うように玩具を出して、それを互いの指にはめ合うなんて。
でもぼくは満足した。こんなすぐに壊れてしまいそうな安っぽい玩具の指輪なのに、それでも贈ったら非道く心が満たされたのだ。
「…なるほど」
彼の言う通り、形のある物も良いものなのかもしれない。だって間違い無くぼくは、この指輪を見るたびに今のこの満足した気持ちを思い出すだろうから。
「キミの気持ちが少しだけ解ったような気がする」 「だろ?」 「でも…だったらキミもそんな不満そうな顔をするんじゃない」 「悪かった。おまえに婚約指輪を貰えて光栄デス」 「バカ」
本当にバカだなと睨みながら足を蹴る。
その彼の足元には5個入りのティッシュがあり、ぼく達が手に下げているのはスーパーの袋だった。
なのにそのぼく達の指には玩具でも婚約指輪が光っていて、そこだけが日常からほんの少し浮いていた。
(でも、これでいいのかもしれない)
滑稽なら滑稽でそれで上等。
指輪が玩具でも気持ちが本物ならばそれでいい。
だってぼく達はままごとでは無く、真面目に愛し合い、現実を二人で生きているのだから。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※
昨日の続きです。まあもう一緒に暮らしていて、事実上も気持ち上も夫婦なんだから婚約指輪も何も無いですが、まだ何も交わしていない二人なので取りあえず。
| 2011年06月26日(日) |
(SS)マイノリティ |
日曜の午後、食べる物が無いことに気がついて進藤と二人で買い物に出た。
行ったのは駅の近くのスーパーで、そういえばと不足していた物をあれこれと買った。
「明日の朝は、パンにするメシにする?」 「パンにしようか、このところずっと朝はご飯だったし」
じゃあ、パンなら牛乳買って行こうぜ、そうだバターも切れていたんだと進藤が言うのに思わずくすりと笑ってしまった。
「何?」 「…まるで夫婦みたいな会話だなあと思って」
言ってから、あっと思って口を噤んだ。
確かにぼく達は一緒に暮らしていて、でも夫婦になることなんか永遠に無い。それなのにどうしてそんなことを言ってしまったんだろうと、針で突かれたような気分で居たら、進藤に指で額を弾かれた。
「なんでそこで黙るん?」
いいじゃん、おれら夫婦じゃんとさすがに周りに気を遣い小さい声で言ったけれど、ぼくの耳には、はっきり聞こえるように彼は言った。
「なんでそんな後ろめたいみたいな顔してんの。別に誰に認められなくても、人に夫婦って呼んで貰えなくてもいいじゃんか」
おれらは一緒に暮らしてる。そしてこれからも暮らして行く。
日々を共に過ごして行く伴侶が『夫婦』なら、間違いなくおれ達は夫婦なんだからと、言ってから少し照れたように笑った。
「あ、それともおれだけ? おまえは違った?」
おれなんか、頼りなくてとても亭主だとは思えない? と聞かれたので再びくすっと笑ってしまった。
「…確かにキミを『亭主』だとは思っていないけれどね」
でも、ぼくにとっても間違いなくキミは生涯の伴侶で、だからぼく達は夫婦だと思うと。
今度は言い終わっても口を噤むこと無く「好きだよ」と小さく付け足したら進藤は嬉しそうに笑った。
「…なら、いいんじゃん」 「そうだね、ごめん」
スーパーの中、買い物をしているのは、たくさんのごく普通の家族連れや夫婦で、ぼく達がそれに含まれることは無いけれど―。
(でも、それが一体なんなんだろう?)
進藤が居て、ぼくが居て、それで愛し合っているならば、周りは何も関係無いじゃないかと改めて思った。
「帰りに隣の薬局にも寄って行こうか」 「え? 何? 積極的」 「バカ! ティッシュがもうじき無くなりそうなんだ」 「えー? でもそれってそういうことでもあるんじゃねーの?」 「違うっ!」
ごく、ごく平凡な、でもなんという幸せ。
顔を見合わせ笑い合うと、ぼく達は再び日々に使う細々としたものを選ぶために、ゆっくりとスーパーの中を回り始めたのだった。
※※※※※※※※※※※※
何気無い日常の方にマイノリティが傷つくものが含まれていると思う。
案外直後には平気なものが、ずっと後になってから効いてくることもある。
進藤と会ったのは昨夜のことなのに、家に帰ってシャワーを浴びている時、体の下の方に熱いような痛みを感じた。
(待てと言ったのに待たないから)
異性間では無いので、潤滑剤を使ってもいきなりというのはかなりキツい。
それが昨夜はそれも無く、ほぼ抱き合ってすぐに挿れられたので痛かった。
『――っ』 『あ、ごめっ…』
でも、もうおれ我慢出来なくて。ごめんなと言いながら進藤はぼくを軽く揺さぶった。
『ダメ? 一回抜いた方がいい?』
そんなこと思ってもいないくせに、それでもぼくの機嫌を伺う。
『いいよ…このままで』
結局の所自分もそれだけ切羽詰まっていたということで、だったらこれは当然の報いとでも言うべきものなんだろう。
「…でも凍みる」
湯の熱さが擦れた部分に染み入って、じくじくと痛い。
「色狂いの天罰か」
見下ろす胸には花びらのように赤い痕が散っている。
今度からは間が空いたとしても、理性は残しておかなくてはならない。
(泊りの仕事じゃなくて良かった)
いや、でも、もし翌日あるのが泊りの仕事だったとしても昨夜のように抱き合ったのではないか。そう思って苦笑する。
「けだものめ」
キミもぼくもけだものだと思いながら、ぼくは体に残る彼の香を洗い流すのが惜しくなり、途中でシャワーを止めたのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※ 裏…にするほどではないかなとこちらに載せましたがどうなんだろう。
| 2011年06月24日(金) |
(SS)完全室内飼い |
「おれ、もしおまえが猫だったら、家ん中閉じ込めて一生外に出さないかも」
のんきに動物が出てくるテレビ番組を見ていたかと思ったら、進藤はいきなり振り返るとぼくに言った。
「なんで?」
独占欲が強いのは知っているけれど、自由まで拘束するタイプでは無いと思っていたので意外だった。
「だってさ、なんか猫って交尾したらほとんどの確率で子どもが出来て、しかも腹ん中の子どもが父親違うってのもアリなんだろ」
おまえはおれだけのものなのに、明らかにおれの子どもじゃない毛色の子どもが混ざってたら、絶対そんなの許せないからと、途中から人と猫の話がごっちゃになっていることに、本人は気がつかないまま怒っている。
「そもそも発情期のメスって来る者拒まずみたいじゃん」 「ストップ」
止めないとしょうもない妄想がどこまでも続いてしまいそうだったので止めた。
「そもそもどうしてぼくがメス確定なんだってことは置いておいて、なんでキミはぼくが複数と交尾するなんて思うのかな」 「だって美人だし、他のヤツ絶対放ってなんかおかないと思うし」
みんな行列作って交尾に来るぜと大まじめに言うので笑ってしまった。
「それでも、キミはぼくを信用しなさすぎる。ぼくは例え猫だったとして、理性で押さえられないようなそんな発情の時期だったとしても、絶対にキミとしか交わったりしないよ」 「…でも」 「でももクソも無い。だからもしぼくが猫で子猫を出産したとして、それは全部虎猫だから安心しろ」
一生涯、キミの子どもしか生むことはないよと言ってやったらやっとほっとした顔になった。
「…あ、でもなんで虎柄?」 「キミ、若虎なんだろう。だから猫になってもきっと全身虎柄だ」
良かったな、ぼくは虎柄の猫は可愛くて好きなんだと言って頭を撫でてやったら進藤は一瞬不満そうな顔をしたけれど、すぐに満面の笑みになった。
「それって、おれのこと大好きってこと?」 「さあね、どうだろうね」 「好きだよ。だってそうでもなけりゃ、一生涯なんて言うわけねーもん」
つまり、おまえは一生おれとしかえっちしない。
おれ以外を絶対好きになったりしないって言ったのと同じだもんと、それこそじゃれてくる子猫のようにぼくに抱きつくと、いかにも幸せそうな顔をしたまま、それでも子猫では無い証拠に、ぼくと『交尾』をするために、手と口を使い始めたのだった。
※※※※※※※※※※※※※ 変な話ですみません。
どちらかと言うと犬と呼ばれることの多いヒカルだったが、最近はアキラの方が犬なんじゃないかと思うことが多い。
先日、和谷達と飲みに行ったヒカルは、終電に揺られて家に帰る途中だった。
何駅目かで止まった時、吐き出される人混みの中にヒカルは思いがけずアキラを見つけた。
接待でもあったのか、きっちりとしたスーツ姿のアキラの横顔に、ヒカルはほとんど反射的に声をかけた。
「塔矢」
気がついても気がつかなくてもいい、そんな気持ちだったけれど、アキラはすぐに気がついてヒカルを見ると驚いたような顔をした。
そして何を思ったか、その場でくるりと踵を返すとたった今下りたのであろう電車に再び乗り込んでしまったのだった。
プシュッと、呆気なくドアは閉まり電車が走り出す。
一連の出来事を見ていたヒカルは慌てて人をかき分けるようにしてアキラが乗り込んだドアの前まで移動した。
「塔矢っ!」
半ば怒鳴るようなヒカルの言葉をアキラはきょとんとした顔で見詰めている。
「進藤、キミこの路線も使うんだな。珍しい」 「珍しいってのはこっちのセリフだって。おまえ何下りてんだよ。さっきの駅で乗換えなきゃいけなかったんじゃないのかよ」 「うん、そうだけどキミが呼ぶから」
何か用があるのかなと思ってと、あまりにも暢気な言葉に肩の力が抜けてしまった。
「おれはただ…おまえ見つけたから声かけただけだよ」
おやすみとか、またとか、そんな軽い気持ちだったんだと言われてやっとアキラも納得したらしい。苦笑したような笑顔になった。
「そうだったのか。でも用が無かったならそれはそれで良かったよ」
用があって、それで会えなかったのだとしたらその方がずっと嫌だからと言われて、ヒカルはなんだか胸の奥がむず痒いような気持ちになった。
「でも…どうするんだよ。これ終電だぞ? もうこの先で乗換えなんて出来ないだろ」 「次で下りてタクシーでも拾うよ。週末じゃないし、そんなに待たないで乗れるだろうし」 「ってか、だったらおれんち来て泊れよ。…散らかってるし、別に何も無いけど、それでも一応風呂と布団と着替えくらいはあるから」 「…だったら甘えてしまおうかな」 「おう、甘えろ、甘えろ」
おれが声かけちゃったせいでこんなことになったんだしさと、半分申し訳無く思いながらヒカルは言った。
半分というのは、いくら呼ばれたからと言って、後先考えず来てしまうこいつもバカだと思う気持ちもあったからだ。
そしてよくよく考えてみると、こういうことは今までにも何回もあったような気がするのだ。
ヒカルはそんな大した理由も無く、軽い気持ちでアキラを呼ぶ。又は軽い気持ちでアキラを探す。するとアキラはもれなく他の全てをぶっちぎってでもヒカルの元に来てしまうのだった。
それはまるで忠犬が、名を呼んだ主人の元に駈け寄るかの如く。
「…これからはおれ、もうちょっと注意するわ」
家に向かう途中、夜食とか言ってコンビニで買ったおでんの袋を揺らしつつヒカルは言った。
「何が?」
これも又、泊らせてもらうんだからと翌日の朝食用のパンなどを買った袋を揺らしつつアキラが答える。
「おまえのこと気軽に呼ぶの止めようってこと。だっておまえ、なんも考え無いでほいほいおれの方に来ちゃうじゃん」
こんな終電に乗りそびれるくらいのことならばいい。もっと何か深刻な事態でうっかり呼んでしまったなら―そうヒカルは考えてしまったのだ。
「迷惑か?」 「いや、そういうことじゃなくてさ、例えば変な話、おれが死にかかってたとして、それでおまえのこと呼んだりしたら、それでもおまえ今みたいに来ちゃいそうじゃん。気持ちよく三途の川とか渡って来そう」
そんなの絶対ダメだからとヒカルが言った言葉にアキラは「なんだ」と返した。
「それは呼ばなかったらむしろ怒るよ」 「え?」 「ぼくはキミといつも居たい。もしも万一そんな時があって、それで呼んでくれなかったとしたら、一生、永遠にキミのことを恨んで暮らすね」
いや、死んでからも絶対に許さない。恨んで恨んで恨み続けてやると言われてヒカルは絶句した。
「………って、おまえって怖ぁ」 「そうかな」
それでも本当に呼ばなかったら怒るからと笑う笑顔は艶やかで綺麗だ。
その笑顔が好きで、でも恐ろしいとヒカルは思った。
恐ろしいけれど、たまらなく好きだ――とも。
「じゃあ、なるべくそういうことにならないようにする」 「死なないように?」
笑いながらアキラが言うのに苦笑しつつ答える。
「おまえより一分一秒でも長く生きられるように心がけることにする」 「ふうん」
まあ、それはそれで殊勝な心がけだよねと言いつつ、それでもきっともし本当に自分に何かあったなら、そしてその時に自分がひとこと呼んだなら全てを捨てて来てしまうんだろうなとアキラを想い、例え恨まれても憎まれても絶対に呼ぶまいとヒカルはそっと決めたのだった。
※※※※※※※※※※※※※ いや、呼んでやれよヒカル。
一体何がいけなかったのかと言えば、うっかり飲み過ぎて進藤の部屋に無理矢理泊らせてもらったことが悪かった。
最近恋人が出来たらしく、めっきりおれ達を泊めなくなった進藤だけど、今日はその相手がいないらしく、そしておれがあまりにも正体不明になっていたので帰らせるのを断念して連れて来て泊めてくれたのだった。
「おい、起きろよ和谷」
朝、起きた時にはまだ二日酔いで頭ガンガン。
けれど同じ仕事で出かける予定の進藤はもうとっくにスーツに着替えていて、おれを情け容赦無く揺さぶり起こした。
「もう八時五分前だっての。早く行かないと遅刻すんぞ」
そしてまだ呻いているおれに胃薬と冷たい水を渡してくれた。
「おれのスーツ貸してやるから今日はそれ着ていけよ。今日は無理だろ」
食べこぼしやらなんやらで染みになってるし、洗濯して後で返してやるからと言われて恩にきる。
「悪ぃ…マジ助かるわ」
薬を飲んでよろよろとスーツに着替える。
進藤とおれは元々そんなに体型が違わず、最近憎らしいことにちょっとばかり進藤のほうが胸板が厚くなってきているけれど、まだ大差は無いので貸し借りが出来る。
(これが伊角さんだと足の長さが違うから借りれないんだよなあ)
などなど、しょうもないことを考えながらどうにかこうにか体裁を整えた。
今日あるのは若手を集めた雑誌の取材で、手合いだったらあんなに飲まなかったのに、取材だからと気を緩めたのが覿面に来た。
「あ−、おれ今日手合いだったらマジボロ負けだった」 「だから言ったじゃん。ほどほどにしとけって」
最後に飲んだ升酒がいけなかったんだよと進藤に説教されるのは悔しいが、へべれけのおれを介抱して泊めてくれた恩義があるので逆らわない。
そしてようやくたどり着いた棋院。
同じ取材を受ける伊角さんや越智、奈瀬はもう来ていて、そこにおれ達が合流してそのまま取材が始まった。
対談形式のインタビューと写真撮影。
テーマが『院生』ということで、院生時代からの知り合いが集められたというわけだ。
雑談風に気軽に話してくれていいからと言われて喋ったものの、実際何を言ったのかろくに覚えていない。
一秒ごとに襲って来る吐き気と頭痛を堪えるのに必死で、取材が終わった時もしばらくそれに気がつかなかったくらいだ。
「おい、和谷。この後みんなで昼メシ食いに行くんだけどおまえどうする」 「無理…おれこのままここでしばらく寝てる」
記者室のソファに縮こまるようにして横たわると、進藤が溜息をついておれに上着をかけてくれた。
「帰りになんか食べやすいもんとポカリ買って来るから、それまでここで待ってろよな」 「サンキュ。頼むわ」
そして眩しいのが嫌で借りた上着を頭から被って横たわっていたら、しばらくしてふいに記者室のドアが開いた。
進藤が言い忘れでもして戻って来たのかと思ったのでそのまま動かずにいたら、ゆっくりと足音が近付いて来て、ソファの背に手がかけられたのが、きゅっという合皮のしなりでわかった。
「進藤」
ぽつりと呼びかけて来たのは塔矢の声で、ああそういえば塔矢にも別口で取材があるとか言っていたなと、さっき話していた記者の人の言葉を思い出した。
「進藤、寝ているのか?」
うるせーなー、おれ進藤じゃないってわかんねーのかよと思いながら、でも頭の痛さに返事が出来ず、身動きだけで返したら息を飲んだような気配があった。
「…まだそんなに怒っているのか」
しばらく黙った後、塔矢が言う。思いがけず萎れたような声にあれっと思った。
(なんだよ、こいつらまた喧嘩でもしたんかよ)
そういえば昨日の飲み会にも進藤は塔矢を連れて来なかった。
おれが迷惑と言い張っても、機会があれば当然のように連れて来るので不思議だったのだが、なるほどそういうことだったのか。
「…この間のことはぼくが悪かった」
おいおい、塔矢おれだって気がつかずに謝り始めちゃったよ。まあ確かに今のおれは上から下まで進藤の借り物を着ている。しかも蹲った状態に頭から上着じゃ誤解するのも無理は無いかもしれない。
「あれからずっとキミから連絡が無くて…それが」
寂しかったと言われた時に、何故だか背筋がざわっとした。
あれ? あれれれ? なんかこの雰囲気おかしくないか?
「キミが許してくれなくても仕方無いけれど、でも…頼むから機嫌を直してくれないか」 「と」
塔矢、違う、人違いおれだから! 進藤じゃねーからと言いかけた言葉を思わず飲み込んだのは、塔矢がとんでも無いことを言ったからだった。
「ぼくはキミが好きだよ。ずっと…ずっとキミだけが好きだから」
だから許してくれるなら今夜は家に入れてくれないかと。
そして言いたいことだけ言って、塔矢は部屋を出て行ってしまった。
コツコツと足音が遠ざかり、完全に聞こえ無くなってから上着を外す。
「まっ」
マジかよ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ。
確かにあいつら出来てんじゃね? とか思ったこともあるけれど、まさかマジでそうだったとは。
そして進藤が部屋におれらを呼ばない理由が、さっき言ったように塔矢がしょっちゅう入り浸っているからだったなんて。
(信じられねえ)
いや、有る意味信じられると言えば信じられるんだけど、どうしてもびっくりしたが先に来てしまう。
「…でも、あいつでもあんなしおらしい声出すんだなあ」
普段見かける進藤達はいつも怒鳴り合っているばかりなのに、二人だけの時にはおれ達の知らない顔で笑い合っていたりもするのかもしれない。
「だからって…なあ?」
いきなり知らされた事実の重さに再び頭痛に襲われていると、元気のいい足音と共に進藤が皆と一緒に戻って来た。
「和谷、どうだ? 少しは良くなったか?」 「いや…最悪。もう死ぬかも」
色んな意味でと思いながら進藤を見る。
「ヨーグルトとプリンと、後なんかカットフルーツの詰め合わせとサンドイッチ。後ポカリも買って来たからどれでも好きなもん食えよな」 「ああ、サンキュ。後もう少ししてから食わして貰う」 「なんだよ。まだそんなに悪いんかよ。なんだったらまた今日もおれんち泊るか?」
げっと心の中で叫んでおれは断った。
「いや、いい。マジでいい。今日はおれ帰るから。この服も後でクリーニングして返すからおれの服もそのうち手合いの時でも持って来て」 「いいよ別にクリーニングなんて。そんな大層なもんでも無いし。それよか本当に泊っていかなくて大丈夫か?」 「大丈夫! それよりおまえこそ今日はどこにも寄らずにまっすぐ帰れ。それでたまには大人しく夜遊びせずに家にいろよな」 「なんだよそれ?」 「なんでもいいから言う通りにしろっ!」
おまえのためを思って言ってやってるんだからと言うのに、何かぴんと来るものがあったらしい。進藤はにやっと笑っておれを見た。
「…よくわかんねーけど、じゃあ言う通りにしようかな」 「ああ、しろしろ」
おれのためにもそうしてくれと懇願するように言ったら進藤は緩んだ顔のまま、じゃあ帰るわとおれに言った。
「そうだ…」 「なんだよ」 「うん、まあ、気のせいかもしんないけどさ、もしも…うん。もしなんか『と』がつくヤツのことでなんかあったんだとしたら後で詳しくおれに教えて」
了解とおれは言ったのか言わなかったのか。
とにかく激しくなる一方の頭痛と吐き気に悩まされてもうまともな思考は出来なくなっていた。
でもとにかく絶対にこれだけはこれから気をつけようと思ったことが一つ。
今後一切、進藤の部屋には遊びに行くまい。そして飲み過ぎてやむなく泊らなければならないような事態も起こすまい。
らしくなく可愛らしくなった塔矢アキラと、亭主ヅラした進藤があの部屋でいちゃついている所に乱入なんておれは死んでもしたく無いから。
| 2011年06月15日(水) |
(SS)ホームページに載っていた |
「キミ…生年月日は?」
必死に平静を装いながら、ぼくは目の前で退屈そうに雑誌を眺めている進藤に尋ねた。
「そんなん、おまえと同じ年だし」 「せ・い・ね・ん・が・っ・ぴと言ったんだ。月と日を聞いて無い」 「9月20日。そういえばおまえは?」 「ぼく?」
思いがけず聞き返されて声がうわずる。
「12月14日」 「冬生まれなんだ。ふうん…なんかイメージそのまんまな感じ」 「イメージって?」 「冬将軍って感じじゃん。あれ? それとも雪の女王だっけ」 「どっちでも無い」
ぼくは将軍でも泣ければ女王でも無いよと思わずつっけんどんに言い返したら。そうそうそういう所と笑い返されてしまった。
「キミは…夏生まれのイメージだったけど」
秋だったんだねと言ったら、おうよと何故か自慢そうに返された。
「おまえより三ヶ月お兄さんだもんね。少しは敬え」 「たった三ヶ月でそんなに威張られる筋合いは無いよ」
でもそうか、三ヶ月だけ進藤はぼくより年上になるんだと、それがなんだかこそばゆかった。
「ところで、何それ」 「え?」 「生年月日ってなんでいきなりそんなこと聞くん?」 「ああ、それは」
ドキリとしながら考えておいた答えを言う。
「この前行った研究会でそういう話になったから」 「おれの生年月日の?」 「いや、当たり年とかそういう意味合いの」
人生の先輩方が、新人の生まれ年の豊作とか不作とかを話されていて、それでぼくの生年月日を聞かれ、キミのも聞かれたのだけれど、そういえば月日を知らなかったと思ったからと。
あまり上手な言い訳では無かったけれど、幸い進藤は疑うことなく、機嫌よくぼくに笑いかけた。
「じゃあ言ってただろ? おれらの年は豊作だって」 「えっ?……ああ、うん…まあ」
しどろもどろ答えるのには気がつかない。
「おまえがいて、おれが居るんだもんな、すげえよな」
囲碁界にとっての僥倖だよなと、使い慣れない言葉まで使って喜んでいるのに、胸の奥がちくりと痛んだ。
(ごめんね、本当はそんな話は出なかったんだ)
嘘をついてごめんねと、でもそれでも有る意味、キミの生年月日を聞けたのはぼくにとっても僥倖だから許して欲しいと密かに思った。
だってずっと聞きたくて、でもどうしても聞くことが出来ずにいたことだったから。
「…9月20日」
なんでも無かったその日は、今日からぼくの特別な日になった。
キミが生まれた日。
これからずっと忘れずにいるんだと、そっと胸の中で甘い気持ちを噛みしめていたぼくは、目の前に居る彼が、実はその時自分と全く同じことを考えていたことをずっと後になってから知ったのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※
そんな苦労しなくても棋院のHPに載っていたのに…と後で二人軽く凹みます。
実際にそんな出来事は無かったのに、ふとした時に頭をよぎるイメージがある。
それは雨の中、進藤とぼくが傘も差さずに歩いている光景だ。
ぼくは海王の制服を着ていて、彼もまた葉瀬中の学ランを着ている。
雨はどしゃ降りで、なのにぼく達は傘を持たず、二人で手を繋いだまま無言で歩き続けているのだ。
進藤がぼくの少し先を歩き、ぼくはその彼の肩を見詰めながら歩いている。
引っ張られるように、でもぼくもまた彼を離すまいと絡める指に強く力をこめていた。
「…でも、そんなことは無かったんだ」
制服姿のぼく達が一緒に居る機会は非道く少なかった。その中で更にどしゃ降りの中、手を繋いで歩くなんてことがあるわけも無く、もし万一あったならば、いつどんな時と忘れるわけが無かった。
「おれもそーゆーのした記憶無いなあ」
手合いの後、待ち合わせていつものようにカフェに流れ、温かい飲み物を飲みながらぼんやりと語る。
蒸し暑いこの時期、外にいると冷たいものが飲みたくなるのに、こうしてどこか店に入ると温かいものが欲しくなるのは何故だろう。
「そもそもキミ、その頃にぼくと手なんか繋いでくれなかったよね」 「それはおまえの方だろ。おれはずーっと繋ぎたいと思ってたけど、おまえ一分の隙もねーんだもん」 「だってそれは―」
お互いが同じ気持ちだなんて知らなかったから。
そもそもあの頃は、まだ進藤に対する気持ちも自覚はあったけれど淡かった。
「それが今は、あーんなことや、こーんなことまでする仲なんだもんな」
すげえよなおれ達と、にこっと言われてテーブルの下で足を蹴る。
「下品だな、相変わらず」 「恋人同士で下品もクソもないだろ」
かっこつけとかそういうの、無駄な次元で結ばれちゃってるんだからさと言われ、今度は蹴らずに苦笑した。
「まあ…そういうことにしておいてあげてもいいよ」
ぼくもまた、友達以上の関係になって彼の深い部分を露わに見て来た。汚い部分も美しい部分も、そしてその全てがひっくるめてとても愛しいということも今はよく知っている。
「たぶんさ」
しばらくたって、ふっと思いついたように進藤が言った。
「なに?」 「さっきのおまえのイメージって、たぶんおれが思うにさ、ここまで来るまでのおれらのイメージなんじゃねーの」
出会って、意識して、それからなだらかでは無い道を歩いてここまで来た。
その象徴みたいなものが偽の記憶となって焼き付いているのではないかと彼は言う。
「なんでそう思う?」 「んー、なんでかな。いつのおまえも好きだけど、なんかやっぱりおれにとって一番印象強いのって、あの制服着た中学の時のおまえだからかな」
ふうんと頷いて、ああぼくもそうだなと思う。
「あの頃のキミ…非道かったし」 「だからおまえも相当だったって言ってんじゃん」
おれにマジで非道かったよと、お互い様なことを言い合って、それから笑った。
何年後か、それとも何十年後か。
「またもっと年を重ねたら思い出すイメージも変わって来るんだろうか」 「さあね、変わるかもしんないし、変わらないかもしんないし。そんなの年とってみないとわからないじゃん」
でもきっと、一緒に居るのだけは変わらないよと進藤は笑ってテーブルの下でぼくの手をそっと握った。
包み込むような大きな手は、テーブルの上にあるカフェラテのホットよりもずっと温かく優しかった。
「…それは確定なんだ?」 「確定。ガキの頃に出会って、それから死ぬまでずっと一緒におれ達はいんの」
歩む道はどしゃ降りかもしれないし、もっと厳しいものかもしれないし、逆に穏やかな春の日のようなものかもしれない。
「落雷もありかな」 「氷河期もあるかもなあ」
くすくすと笑って、でも決して手は離さない。
見つめ合い、幸せに愛を確かめ合いながら、ぼくはふいに過去の気持ちを張り詰めたぼく達に言ってやりたくなってしまった。
大丈夫。
そう遠く無く、ぼく達はもう少し優しい関係になれるからと。
キッチンのカウンターに乗せたままの携帯を充電器に戻すことをせずに放置する。
もしここで鳴ってもぼくの耳には届かないし、そもそもマナーモードにしているので震動しか伝わらない。
その震動も寝室に届くわけもなく、だからキミがぼくにどんなに連絡を取りたいと思ってもぼくが電話に出ることは無いんだと、少しだけ溜飲を下げたような気持ちでベッドにもぐりこみ、ざまみろと呟いた。
今晩一晩苦しめばいい。
どうして出ないと苛立って、そして悶々と眠れずに過ごせばいいのだ。
喧嘩は日常茶飯事で、しない方がおかしなくらいいつも彼とは言い争ってる。
プライベートでも碁のことでもお互い我慢をしないから、気がつくと結構激しい言い合いになっていて周囲がどん引くことも多い。
「大体進藤がいい加減なのが悪い」
ぼくが言ったことを平気で破るし嘘をつくし、そのくせ反省というものをしないから結局同じ所で躓くんだと胸の内で散々文句を並べ、けれどしんと静まった寝室に逆上せたようだった頭がゆっくりと冷えて行くのを感じる。
今日は喧嘩さえしなければ一晩共に過ごすはずだった。
久方ぶりの逢瀬をとても楽しみにしていたのに結局一人で眠ることになるなんて…。
鎮まった怒りの代わりにこみ上げて来たのは寂しさだった。喧嘩して、自分は間違っていないと今でもそう思っているのに、進藤が居ない寂しさにもう折れそうになっている。
何度も何度も寝返りを打って、真っ暗な部屋の中、どれだけ長くぎゅっと目を瞑っても眠ることが出来ない。
「電話…」
もしかして電話をかけて来ただろうかとふと思い、思ったらもう確かめに行かずにはいられなくなった。
女々しいと自分を笑いつつ行ったキッチンの、カウンターの上に携帯はそのまま乗っていたけれど、着信があった気配は無い。
その瞬間、自分でびっくりするほど落胆した。
「…意地っ張り」
そうかそんなに怒っているのかと思ったら、腹が立つより悲しくなった。
こんなふうに、結局一人で寂しくなっている自分が哀れで悲しいし、そんなぼくの気も知らず、怒りに任せてふて寝でもしてしまったのだろう彼が恋人であることがまた悲しい。
この恋は大丈夫なのか。
このままぼく達は続けて行けるのか。
(もし…)
もしもこのまま永久に電話が鳴らず、メールも何も来なくなって気持ちが離れて行くのだとしたらそれはどんなに恐ろしいことだろうかと、考えて震え、気がついたらぼくは自分で自分の体を抱いていた。
「バカだな…ぼくは」
こんなにキミを好きでバカみたいだと呟いた時、唐突にカウンターの上の携帯に着信があった。
(進藤だ)
嬉しくて反射的に手を伸ばし、けれどまだ残っている一欠片の意地に、躊躇っているうちに電話は切れてしまった。
「…あ」
またかかってくるだろうか、それとももうかかって来ないだろうか、自分からかけるべきか迷っている内にもう一度手の中の携帯が微かに震えた。
今度は電話では無くメールだった。
『まだ怒ってんの?』 『おれ』 『下に居るから』 『怒って無いなら部屋に入れて』
思わず窓に駈け寄って、でもそこからは下が見えないことに気がついて電話をかけようと携帯のボタンを操作する。
「―いや」
(進藤が下に居るのに)
直接話さずどうするんだと、ぼくは携帯をカウンターの上に置くと、パジャマのままサンダル履きで外に出た。
いくら住んでいるマンションでも人に見られたら恥ずかしいしみっともない。だらしないことこの上無いし、見ようによっては不審者だ。
でもそんなことも気にならないくらいに気持ちが急いていたから、エレベーターが上がってくるのも待て無くて階段を駆け下りる。
「進藤」
オートロックのドアの向こう、佇んでいる影は明らかに彼で、そう思ったらつまらない意地なんか吹き飛んでしまった。
「進藤っ」
飛び出したぼくを見て進藤は驚いた顔をした。
「…塔矢」
でもそんな彼を見た瞬間、ぼくはさっき感じた寂しさと、それを凌駕する嬉しさとに苛まれ、何も言うことが出来なくなって、黙って彼に抱きついたのだった。
※※※※※
とにかく早く部屋に戻れや。
| 2011年06月10日(金) |
(SS)マイナートランキライザー |
夢見は最悪、何か叫んで目を覚まし、胸を押さえながら周りを見た。
真っ暗な中、最良の精神安定剤を探したのに、すぐに空虚な隣にそういえば進藤は居ないのだったと思い出す。
(島根だっけ)
帰って来るのは二日後で、それまではどんなに恐ろしい夢を見ても一人で耐えなければならない。
(どんな夢を見たのだったかな…)
空いた隣を見詰めながらぼんやりと記憶をたぐる。
「…ああ」
それは彼女の夢だった。
もう何年も会ったことは無いけれど、かつて何回か顔を合わせたことがある進藤の幼馴染み。
その彼女に面と向かって罵倒される夢だった。
『男同士なのに気持ち悪い』 『お願いだからヒカルを取らないで! 私に返して』 『私の方が塔矢くんなんかよりずっとヒカルを幸せにしてあげられる』
カッとして言い返したのだけれど、夢なのでなかなか言葉が声にならず、藻掻き苦しんでようやく叫ぶように言ったのだった。
『進藤はぼくのものだ!』と。
「…浅ましい」
彼女には現在付き合っている恋人がいるらしいと進藤伝いに聞いている。
実際、彼と彼女が連絡を取り合うことも希になっていたし、今更気にすることも無いと解っているのに、それでもまだこんなふうに夢に出る。
「キミが居ないのが悪い」
ぽつんと遠く離れた場所に居る進藤に向かって呟いた。
「キミが側に居ないからぼくは不安になってしまうんだ」
カワイイな。おまえホントカワイイよな。おれがおまえ以外好きになるわけ無いじゃん。だから寝ろ。安心して寝ろよと今この瞬間猛烈に彼に言って欲しかった。
「それはただの夢だよって、言って欲しいのに」
居て欲しい時には居ないんだなと逆恨みのように思う。
「…キミは今頃、明日の夢でも見ているのかな」
ぼくのことなど思い出しもせず、頭の中を今現在向き合っている対局で一杯にしている。それはお互い様なのに、今はとても寂しかった。
「…進藤」
ふと枕の上に置いて寝た携帯を見て視線が止まる。
もしかかって来たらすぐ出られるようにと、こんな場所まで持って来たそれが、微かに点滅している。着信があった証拠だった。
慌てて開いて見て見ると電話では無くメールが彼から届いていた。
書いてあったのはその日のつれづれ。おやつにどら焼きを希望したのに団子を出されたとかくだらないことから、対局相手の小憎たらしい打ち回し、そして見学に来ている緒方さんに、いらんプレッシャーをかけられて閉口したこと等々。
お前が居なくて寂しいとか、いつもの甘口の言葉も羅列されていて、読みながらほっと息を吐いた。
『大好き』 『浮気すんなよ』 『一人で寝るのはつまらない』
そして最後に一つだけ、あっと思うひとことがあった。
『もし怖い夢見ても、おれとおまえは繋がってるから』
だから全然怖くなんか無いよと、その一行を読んだ時にぼくは不覚にも泣いてしまった。
「…うん、そうだね」
見透かしたようにこんなメールを送ってくる。確かに彼とぼくは誰にも解らない深い所でしっかりと繋がっているらしい。
「ありがとう、おやすみ」
携帯に向かって呟いて、それから思い直して口づける。
再び元の場所に置いて目を閉じて、でも不安も寂しさも、もう身のうちには欠片も無かった。
怖い夢は見ない。
もし見ても彼とぼくは繋がっているのだから大丈夫だと、そう心から思えたから。
明日になったら返信しようと思いつつ、ぼくは非道く安らかな気持ちで、一人眠りに落ちたのだった。
進藤と住んでいるマンションは、入り口から道路まで整えられたアプローチがあり、庭木や植え込みが綺麗に配置されている。
数ヶ月ごとに剪定されてはいるのだけれど、この時期、一度雨が降ると枝葉の伸びは非常に顕著で、ぼんやりしていると張り出した枝に髪を掬われることになってしまう。
意識していなかったけれど、ぼくはアプローチを通り抜けて道路に出る時、ほぼ同じコースを歩いているらしい。
そして歩き出した瞬間、もう何か先に待っていることを考えていることが多いので、何度も同じ枝にぶつかってしまうのだった。
「おまえさぁ、気をつけないとそのうち目をやるぞ」
一緒に歩いている時、ばさりと頭に葉が当たったのを見て、進藤が呆れたように言ったことがある。
「平気だよ、そこまでぼんやりとは歩いていないし、そのうち剪定も入るだろうし」 「って、もう何度目だよその枝にぶつかるの」
そして大きな溜息をつかれてしまったので、しばらくは気をつけていたけれど、すぐにまたぼんやりと歩いてつっかかるようになってしまう。
そもそも住んでいる場所の敷地内でいつもそんなに気を張っているのが無理なんだと自分で自分に言い訳しつつ、ぼくは結局は無頓着に日々歩いていたように思う。
その日、やはりアプローチを歩いていて、ばさっと音がしたのに頭に何も当たる感覚が無かった。
あれ? と思って見ると隣に居た進藤が、伸びた枝を手で払うようにしてぼくを庇っているのだった。
「ごめん」 「別に―」
自分も通るのに邪魔だったからだからと、でも彼の位置に枝は届かない。
それからほとんど毎日のように、ぼくは彼の腕がぼくを庇うのを感じた。
「いいのに」
避けて歩くからいいよと言っても彼はやめない。
「おまえこそ一々気にするのやめろよ」
おれはマジ、自分のためにやってるんだからと言われて、でもそれを鵜呑みにするほどバカでは無い。
「子どもじゃないんだから、本当にそんなに気を遣ってくれなくてもいいよ」 「だから気なんて遣って無いって言ってんじゃん」
ぼくも彼も頑固だから、それで危うく喧嘩になりかけたこともある。
そんなある日、ぼくは彼より少しだけ遅く帰って来て、彼がアプローチの例の枝の前でなにやらぶつぶつ言っているのを見つけた。
「進―」
声をかけようとして、真剣な口調に思わず黙る。
「いいな、とにかくへし折られたく無かったら、いい加減おれのモンに気安く触るんじゃねーぞ」
驚いた。
口を尖らせ睨みながら、彼は大まじめに庭木に向かって話していたのだ。
「マジ今度触ったら、その葉っぱむしるからな」
覚悟しとけよと捨て台詞のように言うのに笑いそうになって、慌てて口を手で押さえる。
バカだなあ、本当にキミはバカだなあ。
思いながら胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
こんな意識して触れているわけも無い庭木にまで嫉妬する。そんな彼が愛しくてたまらない。
「とにかく、今日の所は許してやっからな」
ぽんぽんと枝葉に触れて去って行く。
愛してる、大好きだよと駈け寄りたくて、でも彼がぼくに見られたことを喜ばないことは解っていたから植え込みの影にそっと身を顰めた。
「進藤…」
完全にその姿がドアの向こうに消えるまで見送って、それからぼくはアプローチを辿って件の枝の側に立った。
真下に来るとやはり触れそうになるのでそっと避け、それから「好きだよ」と囁く。
「進藤…大好き」
本人には絶対言うことが出来ないから、キミが代わりに聞いてくれと、さっきの進藤と同じように枝葉に囁きながら、ぼくは幸せに笑ったのだった。
紫陽花の中に突き飛ばされた。
まだ葉も伸びきって居なくて花も緑。時期には少し早い紫陽花は、ぼくの体を受け止めて大きくしなり、その中にぼくは半ば埋もれた。
何をするんだとか、危ないじゃないかとか色々言葉はあったはずなのに、いきなりそんなことをされたことがあまりにもショックで、ぼくはしばし目を見開いたまま瞬きすることすら出来なかった。
そしてぼくを突き飛ばした当の本人である進藤も、そんなことをしておいて非道く驚いたような顔をしていた。
「キミ―」
ようやく声が出て呼びかけると、はっとしたように進藤が駈け寄って来る。
「ごめん、怪我しなかった?」 「大丈夫。これが薔薇の茂みだったらとんでもないことになっていたと思うけれど」
紫陽花は柔らかだから大丈夫だったと、でも乱暴なことをされた怒りはある。
「なんでいきなりこんなこと」
お得意の悪ふざけかと尋ねても進藤は眉を寄せて口を開かない。
「キミはいつもこんなふうに、一緒に歩いている人をいきなり突き飛ばしたりするのか」 「…しねえよ、そんなん」 「だったら何故」
ぼく達は緑豊かな公園の側をゆっくりと話しながら歩いていた。
話していたことも喧嘩になるようなことでは無く、他愛無い世間話のようなもので、だからいきなり突き飛ばされて驚いたのだ。
「わかんねえけど…」
理由を聞くまでは許さないと睨んだままでいたら、しばらくして進藤が渋々口を開いた。
「ホント、よくおれにもわかんねーんだけど」
綺麗だったからと、ぽつりと呟くように進藤は言った。
「綺麗って…何が」 「喋ってて、ふっと顔を上げたらおまえが笑ってて、そうしたらそれが」
背景になった紫陽花の緑に映ってとても美しかったのだと。
「だからって、どうしてそうなる」 「わかんねーんだって。マジ自分でもどうしてあんなことしたのかわかんねーけど」
でも、そうせずにはいられなかったのだと。
「…あのまま、押し込めて…そのまま閉じ込めておきたくなった」
言ってから慌てて、「でもそんなこと本気で思ったわけじゃないからな」と進藤は言ったけれど、でもあの瞬間の瞳の色は確かにそんな狂気を帯びていたように思う。
「閉じ込めて、それでどうするつもりだったんだ」 「わかんない」
わかんないけど、でも少なくともそれで、おれ以外の誰もあんな綺麗なものを見ることは無くなるんだと言ってから気まずそうに口を閉じる。
「…ごめん」 「謝らなくていいよ」 「それでもおれ、かなり変じゃん」
おまえに乱暴なことしたしと、今ではかなり冷静になって自分のしたことを後悔しているらしい。
「もしキミが」 「ん?」 「もしキミが他の人にやったのだとしたら絶対に許さないけれど、ぼくだけにしたのなら怒ったりしない」
キミのためにならいつでもぼくは囚われになるよと言ったら、進藤は大きくその目を見開いて、一瞬嬉しそうに笑いかけ、でもすぐにそれを打ち消すと「もう二度としない」と静かに言ったのだった。
※※※※※※※※※※※ 独占欲の現われというより、衝動。
| 2011年06月06日(月) |
(SS)first mission |
怖い。
とにかく怖い。
正座している足が震えて、裸足で逃げ出したくなるくらい怖かった。
どんな高段者と対峙してもこんな気持ちにはならなかったのに、今進藤ヒカルを前にしてアキラは恐ろしくてたまらなかった。
「じゃあ、おまえシャワー浴びて来いよ」 「いや、キミが先でいい」
不満げに去られて、でも少しほっとした。
どうしよう。これからどうなるのかと考えたら、もうとても座ってはいられない。
けれどもし逃げ出したりなんかしたら、どれ程ヒカルを傷付けるかと思うと逃げ出すことも出来ない。
ずっと好きだった相手と気持ちが通じ合い、目出度くそういうことをすることになって、喜ばしいはずなのにアキラは怖くてたまらなかった。
まずすることが怖いし、それでどうなるのか考えると怖い。上手く行かなかったらと思うと憂鬱な気分になるし、万一これが元で壊れたらと思うと体中の血が凍るような気分になる。
(やっぱり、頷いたりなんかしなければ良かった)
おまえのことが好きなんだけど、おまえはおれのこと好き?までは良かった。
おずおずとぎこちないキスをして、壊れ物を包むように抱きしめ合った、ここまではいい。でもその後で思い詰めたような顔で「させてくんない?」と言われた時には断れば良かったと思っている。
そう、少なくとも今はダメだと断れば良かった。
今までそういうことを考えたことが無いではないが、でも今、現実として直面して気持ちが全く追いついて来ない。
ヒカルの方はどうだかわからないけれど、自分ははるか後ろに置いてきぼりにされた気分だ。
(なのにこのまま始まってしまうんだ)
やはりダメだ、だってもう手足の震えは体中まで広がって、息をするのも難しい。
このままもし始められてしまったら自分は死んでしまうんではないかと、普段理性的な割にあまりにも極端なことをアキラは考えていた。
「…やっぱり逃げよう」
怒られるのは覚悟。怒鳴られるのも覚悟。傷付けて嫌われてしまうかもしれないけれど、こんな気持ちで始めるよりはよっぽどいい。
ということで、市場に引かれていく牛のような気持ちで連れて来られたホテルから卑怯にもアキラは逃げだそうとした。
すると、水音で気配が分かろうはずも無いのにいきなりバスルームの扉が開いてヒカルが大声でアキラに怒鳴った。
「逃げるなっ!」
ひっと思わず喉の奥で悲鳴を上げてしまったくらい、それは激しい怒声だった。
「今、体拭いて出てくから、それまで絶対そこで待ってろよ。もし万一おれのこと置いて逃げ出したりなんかしたら、おれは一生おまえと口もきかないし、目も合わせてやんないからな」
人生に置いて最も軽蔑する人間リストのトップに名前を載せてやるとまで言われてはアキラももう出て行くことは出来なかった。
市場に引かれて行く牛改め、今度は叱られる前の子どものような気持ちでベッドの端に腰掛けて待っていると、やがてヒカルが戻って来た。
素っ裸で戻って来るのではとそれも少し恐れていたが、ヒカルは備え付けのバスローブを纏っている。
「あのさ」
ずかずかと歩いて来て、アキラの隣にどかりと座っていきなり言う。
「あのさ、わかんないでも無いんだけどさ、おれだってマジ怖いんだから置いてかないでくれる?」 「え?」 「こんなこと、生まれて初めてするんだぜ? 怖く無いわけ無いじゃん。なのにおまえはずっと死にそうな顔でさあ、隙見て逃げだそうって気が満々でさ」 「だって、こんないきなり進むとは思わなかったから」 「だからって進まなかったらきっといつまでも進めないだろ、おれ達」
こういうことにはタイミングがある。それを逃したらたぶん出来ないままずるずる伸びる。
それが嫌で勇気を振り絞ったのだと言われて、アキラはようやくヒカルを見た。
「あの…ごめん」 「いいよ、もう」
いいと言いながら、でも口調は拗ねている。
「ものすごく怖くて、じっとしてなんかいられなくて…ごめん」 「そんなのおれも同じだし」
怖くて怖くてお前の顔も見られないのに、どうしてそんな冷たいことが出来るのか解らないと言ってからぼそりと付け足した。
「こんなんだったら、七番勝負のがずっと楽だ」
少し前、アキラとそれを戦ったヒカルは五キロ痩せた。アキラに至っては薄くなりすぎて入院してしまったくらいだから、それを楽だと言う今がどれだけキツいのかがよく解る。
「…それでもしたいんだ?」 「それでもしたいよ」 「あんまり良いものじゃないと思うけど」 「そんなの全然関係無いよ」
繋がりたいってそれだけで他に何も望まないと、それはぶっきらぼうだったけれど、アキラの胸には腑に落ちた。
「それでも…どーしても嫌かよ」
溜息と共に尋ねられてアキラはほうっと肩の力を抜いた。そうだよ、これは別に戦いじゃないじゃないか。
有る意味戦いではあるのかもしれないけれど、どちらかというと慈しみ育て上げる共同行為に他ならない。
(だったらこんな態度じゃ失礼だよね)
踏み出してくれたヒカルにあまりに失礼だと、そう思ったら割り切れた。
「…シャワー浴びて来る」 「えっ?」
その驚きように苦笑する。
「シャワーを浴びて来るって言ったんだ。すぐに戻って来るから…」
だから逃げ出さないでそこで待っていろと言ったらヒカルは大きく目を見開いて、それから笑み崩れてアキラを見た。
「待ってる。じっと大人しく待ってるから」
だから速攻で戻って来てと甘える声でねだられて、アキラはふっと口の端を緩めて優しい笑みで返したのだった。
※※※※※※※※※※※※ 最初はギャグのつもりだったんですが、なんとなく真面目に落ち着きました。
| 2011年06月05日(日) |
(SS)プロポーズの日 |
指輪、給料三ヶ月分無理。ウエディングドレスそもそも無理。だったらタキシード、間に合うわけが無い。
(つか、おれらそもそも月給じゃねーし?)
じゃあ年収を十二で割ってその×三って言うことなのか。
でもそれだと結構ものすごいごっつい指輪になるんですけどと、思わぬ所で思いがけず今日がとある記念日系であることを知ってしまったヒカルは、つらつらと考えつつアキラを見た。
「なに?」 「別になんでも」 「そう…」
若干アキラがぽやっとしているのは手合いの後で疲れているからで、でも昔はこんな顔おれに見せなかったなあとヒカルは思った。
(いつもビシッっと気を張った顔で、どっちかって言うと睨んでたよな、あれは)
他の人には外面仮面でそれなりにそつのない顔をしても、アキラは自分には顔を作らなかった。
いつも素のまま無愛想なままで、なのにいつからこんな気の抜けた顔をするようになったんだろう。
「やっぱりキミ、何かぼくに言いたいことがあるんじゃないのか?」
あからさまでは無かったものの、それでも結構しげしげと見詰めてしまっていたらしい、アキラは不審そうにヒカルを見て言った。
「いや…空気抜けてんなあと思って」 「は?」
人の少ない夜とは言え、逆に人の少なさ故に声は店内の隅々まで広がる。
「そんな、びっくりしたような声出すことねーだろ」 「だってキミが変な事を言うから…」 「今日の手合い、疲れた?」 「疲れるに決まっているだろう。もし疲れていなかったとしたら相手の方に失礼だ」 「うん、まあそうだよな」
一手、一手に心を込めて自分の持てる限りの頭脳を持って盤面に向かう。それで疲れないはずは無い。
「キミは疲れなかったのか?」 「いんや、疲れた」
マジ疲れたわと言いながら、実際に自分が非道く疲れていることに今更ながらヒカルは気がついた。
「なんかこう、全身脱力って言うか…でもこれ、気持ちいい疲れだよな」 「それ、負けても言えたかな」
くすくすと笑ってアキラが言った。
「キミ、今日はほとんど押せ押せで勝ってしまったからね」 「言えるって!負けても……うーん、でもやっぱ、言えないかな?」 「キミは本当に負けず嫌いだよね」 「それ、他の誰に言われてもおまえにだけは言われたく無いなあ」
しばし黙っていたのが嘘のように軽口の応酬になる。そして唐突にまたふっつりとお互いに黙り込んだ。
(前はこういう沈黙が気詰まりだったっけ)
相手が退屈しているんじゃないか、自分の話が面白く無いからなんじゃないかとつまらない気を回して無理にでも話題を探したこともある。
(でも今、そういうの無いな)
黙っていても別に平気。喋りたければ喋るし、黙りたければ黙る。その時間にほんの少しの気まずさも混じらない。
(むしろなんだ…こう)
「安心するよね」 「え?」
唐突に言われて今度はヒカルが頓狂な声をあげてしまった。
「キミと居ると安心する。何も言わなくても別に構わないんだって思えるから」 「ああ…うん。今おれも同じこと思ってた」
ふんわりと笑うとアキラは椅子の背にもたれて目を閉じた。本当に自分で言ったように安心しきった顔だった。
「…こういうのって」 「ん?」 「こういうのって、なんだか少し夫婦みたいだよね」
お父さんとお母さんもあまり話はしないんだ。でもだからって心が離れているようには見えない。とても仲の良い夫婦だよと。
「キミともずっとこんな関係でいられたらいいな」 「って、おまえさ」
ヒカルはテーブルの上に肩肘つくと、頬杖をついてアキラを見詰めた。
「今のって、それ無自覚だと思うけど、プロポーズになってんぜ」 「え?」 「だってそういうことじゃん、『お父さんとお母さんみたいな夫婦になりたいね』ってそういうことだろう」 「そっ、そういうわけじゃ」
はっとしたように目を見開いて姿勢を正したアキラの顔が、みるみる赤く染まって行く。
「あーあ、先に言われちゃうと結構凹むなあ」 「だから! そういうことじゃないって―えっ?」
今キミなんて言った? と尋ねて来るのにニッと笑う。
「うん、実はさ、今日って―」
プロポーズの日って言うんだってさと、ヒカルは聞きかじったことをアキラに話す。
「まあ、バレンタインもホワイトデーも、ちょっと前にキスの日とかもあったよな。ああいうのにまんまと乗せられるのもバカみたいだと思うけど」
イイことなら乗らない方がむしろバカだと思うと言って、ニッと非道くいい笑顔でアキラを見た。
「急だから指輪もドレスもタキシードも何も無いけどさ、おまえさえ良かったらさっきのマジで実行しない?」 「さっきのって?」 「塔矢先生みたいな夫婦になるっての」
うん、まあつまりはおれと結婚してくれないかってことなんだけどと、改めて先を越されたプロポーズをアキラの耳元に囁いたら、アキラは一瞬絶句して、でも黙って小さく頷いたのだった。
※※※※※※※※※※※※ キスの日やったらプロポーズの日もですよ。これはもうヒカアキ者としての使命ですよ。
| 2011年06月04日(土) |
(SS)仲直りの仕方募集中 |
世間一般ではよくある話らしいけれど、我が身に起こるとは思わなかった。
一週間の遠方での仕事を終えて帰って来たぼくは、自分のスーツと一緒に進藤のスーツもクリーニングに出してやろうと考えてポケットを探った。
そうしたら出て来たのが風俗店の女性の名刺だったのだ。
「…え?」
五秒考えて理解出来ず、更に十秒考えて理解出来なかった。
妻の留守に夫が遊ぶ。そういうことはよくあることだと酒の席で人生の先輩方に、感心しない武勇伝を散々聞かされ育って来たけれど、でもそういうことは愛し合う夫婦には無いものだと思っていた。
(別にぼく達は夫婦じゃないけれど…)
おまえのことだけ好き。おまえしか一生愛さない。浮気も遊びも絶対しないと言われ続けてそれを信じきっていた自分がおめでたくて笑えて来た。
「…どうしよう」
こういう場合、見て見ぬふりをして流すのが一番良い方法らしい。けれどぼくの性質的にそれは絶対に出来ることでは無く、仕方無くぼくはまだ寝ている進藤を起こしに行った。
「進藤、悪いけれど起きてくれないか」 「んー…何?」
半分眠ったままぼくを抱きしめようとするのを払って座り、憂鬱な思いでひとことを言う。
「キミ、最近風俗店に行ったのか?」 「そんなん行くわけねーじゃん」 「だったらこれは?」
寝ぼけているその鼻先に名刺を突きつけてやったら、進藤は目をしばたかせながらそれを見詰め、それからぼそっと「知らね」と言った。
「それ何? マジ知らないし」 「キミのスーツの胸ポケットに入っていたんだけど」 「知らない、知らない。きっとどこかで紛れ込んだんだろう」
はい終了。もう問題解決と言わんばかりに目を閉じて気持ちよく眠りに入ろうとしている進藤の頭をぼくは思い切り殴ってしまった。
「そんなわけ無いだろう。何をどうやったらこんな物が胸ポケットに紛れ込むんだ。そんな状況があるとしたらそれを教えて貰いたいね」 「………もしかしておまえ妬いてんの?」 「妬いてなんか―――」
ぶちりと理性の何かがキレる音がして、その後ぼくは半泣きになりながら進藤を罵り続けた。
裏切り者、軽薄、八方美人の軟派男、言いたい放題言いまくって、随分殴ったようにも思う。
その挙げ句言い訳の一つも聞きもせずぼくは実家に帰ってしまったのだけれど、数日後棋院で会った和谷くんに衝撃の真実を聞かされることになる。
「塔矢ぁ、悪ぃけどちょっといいか?」 「何?」
ぼくを嫌っているらしい彼が珍しいと足を止めて待っていると、内緒話をするように顔を近づけて彼は言った。
「進藤の顔のアレさ、やっぱ彼女とやり合ったのかな?」 「さあ…ぼくは彼のプライベートのことはよく知らないから」
嫌なことを思い出させられムッとした気持ちで答えると、彼は驚くようなことを言った。
「うーん、やっぱマズかったかなあ、アレ」 「…何?」 「いや、実はさ、ちょっとした茶目っ気で、この前あいつのスーツに風俗の名刺入れておいたんだけど、もしかして洒落になんない事態になっちまったのかなあって」
えーと、それはつまり進藤は潔白で、それをぼくが一方的に罵倒して責め立てたと、そういうことなんだろうか。
「やっぱ、修羅場にでもなったんかな?」
悪気無くそう尋ねて来る和谷くんを瞬間的に撲殺したくなりながら、それでもなんとかぼくは答えた。
「…そうだね、かなりの修羅場になったよ」
もう既に取り繕う気持ちも無く、最初に知らないと言ったことも忘れていた。
「あー、そうか。マズったなあ。正直に言ったらあいつ許してくれっかなあ」 「…大丈夫じゃないかな」
彼が怒っているのはたぶんぼく一人に対してで、それはこの悪戯を告白されても変わらないだろうと思えた。
それくらいぼくは彼に非道いことを言ったのだ。
『信じねえのかよ、おまえ』
真っ直ぐに見詰められ、怒った声で聞かれたことにぼくは即座に返していた。
『信じない。信じられない』 『ああそうか、だったらもう疑ったままで一生いろよ』
勝手にしろと最後はそういう別れ方だったか。あの時はとんでも無い開き直りだと思ったが、今になればどんな気持ちで言った言葉かよく解る。
「…どうしよう」 「なあ、ほんと、マジ、おれ、どーしよっかなあ」
悩んでいる和谷くんを見詰めながらぼくもまた、どうやったら進藤に許して貰えるのかを真剣に考え始めていた。
※※※※※※※
誤解だった、ごめんと素直に謝ればヒカルは速攻で許してくれると思う。 内心、焼き餅妬いてくれたことを喜んでいると思いますよ。
| 2011年06月03日(金) |
(SS)一度やってみたかった |
魔が差したとしか言いようが無い。
どういうわけかふっと、進藤を脅かしてみようかなと思ったのだ。
当の彼はぼくから少し遅れて後ろを歩いて来ており、このホテルの造りは中庭を囲んだ回廊方式だった。
角に隠れて待っていればすぐに進藤が来るはずで、そこを脅かせば簡単だろうと思ったのだ。
「おい、塔矢、待てよー」
大浴場で温泉に浸かった帰り、彼は自販機でスポーツ飲料を買った。いつもなら待っている所を悪戯っ気を起こして先に歩き出したのが、まずきっと拙かったのだろう。
「塔矢、ちょっ…置いて行くなよ」
ぱたぱたとスリッパの音が追いかけて来る。
ちょっと前に振り返った時には彼の他には誰もいなくて、間違えをするはずも無かった。
だからじっと息を潜めて角で待って、ギリギリまで引き付けてから飛び出した。
「わっ」
驚いた進藤の顔を見るのを楽しみにしていたぼくの目に映ったのは、見ず知らずの禿頭のおじさんで、その少し後ろにやはり驚いた顔をした進藤がぼくを見て突っ立っていた。
「すみません、すみません。申し訳ありませんでした」
人生でこんなに謝ったことは無いのではと思うくらいひたすら謝り倒して許してもらい、ほっと息をついていたら嫌な視線に行き当たった。
「おまえ…」
にやにやとぼくを見ている進藤が居る。
「何だ!」 「いや、おまえってホントカワイイよなあ」
おれ今日のこと一生忘れ無い。おまえが可愛かった記念日に認定するわと言われて頬が染まる。
「忘れろ!」 「だって…『わっ』って」
真似をされて耳まで赤くなった。
「進藤っ!」 「怒ったって怖くねーよ。だっておまえ滅茶苦茶カワイイって自分で証明した後なんだから」
その後彼はそれをネタにぼくを散々良いようにし、挙げ句に本当にずっと忘れ無かった。
仕事でもプライベートでもホテルに行くたび必ず言われる。この日のことはぼくの人生の永遠の汚点となったのだった。
| 2011年06月01日(水) |
(SS)名前を呼んで2 |
「進藤」
呼ぶ声にはいつも一筋の甘さが混じり込んでいる。
「キミ、今日は早いんだな」 「別にこのくらいフツーだろ」 「いつももっとギリギリに来るじゃないか」
今日くらい余裕を持って来た方がいいよと、なんでも無い会話に胸が膨らむのは、塔矢の言葉がおれを好きだと言っているから。
たぶん無自覚で、考えてやっていることでは無いんだろうけれど、こんなにも感情が声に出るものなのだとは、こいつに出会うまでは知らなかった。
ガンガンに怒鳴られるのもいつもだし、冷徹に論破されるのもいつものことだし、本当に憎らしいヤツだと思うのに、それでも嫌いになれないのは、その声にやはり『好き』が含まれているからだと思う。
「進藤」 「ん?」 「来週お父さんが帰って来るんだけど、キミに会いたいって言っていたよ」 「へえ、塔矢先生が」 「もし時間があるなら来て、一局お相手願えないかって」
もちろんぼくもキミが来てくれたなら嬉しい。お父さんだけに独占されてはたまらないからぼくとも打てよと笑う顔はとても可愛くて、天然でこれは卑怯だよなと思う。
「いいよ、行く。たぶん1日くらいは行けるから」 「そうか、良かった」 「それでもちろんおまえとも打つから」 「―ありがとう」
ぱあっと花のように嬉しそうに微笑む。
ああ、嘘がつけないヤツには勝てないなと心から思った。
「じゃあ、帰国の日にちがはっきりしたら教えてくれる?」 「うん、すぐに連絡するよ」
好きだよ。
キミが好きだよと、聞こえ無い声がこだまする。
おれもこんなふうに伝えることが出来るだろうかと思いながら、塔矢の好きに応えるように気持ちをこめて名前を呼んだ。
「塔矢」
塔矢は少し驚いたような顔で振り返るとおれを見詰め、それからゆっくりと、その白い頬を染めたのだった。
※※※※※※※※※※ 続けるつもりは無かったのですが、何となく続いてしまった名前シリーズ。 これで終了。
ずっと照れ照れと呼び合っていればいいと思う。
|