| 2011年05月30日(月) |
(SS)名前を呼んで |
「進藤」 「あ、ごめん、進藤」 「進藤、さっき言い忘れたことがあったんだけれど」
意識していたわけでは無いのだけれど、ぼくは普段かなりの頻度で進藤の名前を呼んでいるらしい。
「進藤、いいかな」
呼び止めたらいきなりぷっと笑われた。
「なに?」 「なんでも無い」
聞いたら進藤はにやにやとしながら、でも何で笑ったのか教えてくれない。
「そういう態度は良くないな。後悔したくなかったら今すぐに言え」 「って、おまえマジで睨むなって」
実はさと、しつこく尋ねてようやく教えて貰ったのは、ぼくがその日彼の名前を三十四回も呼んだということだった。
「バカな! そんなに呼ぶわけが無いだろう」 「いーや、呼んだね。おれずっと数えていたんだから間違い無いよ」
よくもまあそんな暇なことをと思ったけれど、心当たりが全くないわけでも無いのできまりが悪い。
「それは…ぼくは確かにキミを呼ぶことが多いかもしれないけれど、だからって一日でそんなに多くは呼んでいないと思う」 「そうでも無いよ。もっとたくさん呼んでくれることもあるし」
他の日にも数えていたのかと、カッと頬が熱くなるような気持ちで進藤を見詰める。
「うん、確かに数だけ聞くと多いかもしんないけどさ、これ夜の分もカウントされてるから」 「夜?」 「そ。12時回ってから今まで全部を数えて三十四。あれ?…だったらもっと多いよな?」
おまえ、あの最中にずっとおれの名前呼びっぱなしだもんなと言われて思わず殴ってしまっていた。
「もう二度とこんなくだらないことはするな!」 「えー?」 「やったら今度はぼくが、キミがぼくの名前を呼ぶ回数を数えてやる」
それも夜から全部だと言ったら進藤はぷっと吹きだした。
「いいよ? 数えて」
つかむしろぜひ数えて欲しいな。そうしたらおれがどんなにおまえのこと好きかわかるからと言われて、ぼくは再び彼の頭を思い切り殴ってしまったのだった。
※※※※※※※※
昨日が名前を呼んでも気がついて貰えない話だったので、今日は気がついて貰えてる話。バカっぷるの惚気とも言う。
街中で進藤を見つけた。
そこに居るとは知らなくて、でもあの特徴のある髪は見逃さない。
「進藤」
彼は非道く気が抜けた感じで、少し肩を丸めて足先1メートル先くらいを見詰めるようにして歩いて行く。
「進藤っ」
雑踏の中、行き交う人に邪魔されて中々近づけない。
逆に彼はあんなだらだらとした歩き方でも慣れているらしく、上手く人を避けて先に進んでしまう。
『だからおまえがトロいんだよ』
いつだったか笑って言われたことがある。
『運動神経悪く無いのに、どうしてそんなに人混み歩くのが苦手なんかな』
でもそういうのもおまえらしいと、バカにされたにも関わらず腹が立たなかったのは、そう言った彼の表情がとても優しかったからだった。
「進藤、待っ―」
幾ら呼んでも振り向かない彼にぼくの声はだんだん大きくなる。
「進藤っ!」
とうとう怒鳴るようにして叫んだら、彼では無く彼の周りの人がびっくりしたように振り返った。
(どうして気がつかないんだ)
聞こえていないはずは無いのに、それとも無視されているのだろうかと段々悲しくなって来て、思わずぎゅっと唇を噛む。
呼んでも呼んでも振り返って貰えない。見える程近くに居るのにどうしても距離が縮まらない。
それはぼくと彼の関係を暗示しているかのようでとても胸に痛かったのだ。
「―っ」
このまま離れてしまうのは嫌だと、人をかき分けるようにして強引に彼の近くに走り寄る。
「進藤、キミ、聞こえ無いのか!」
ぐいと腕を掴んで引っ張ると、驚いた顔で彼が振り返った。
「あ…何? 塔矢?」
そして次に彼がした行動でぼくは呆気に取られて脱力してしまった。
彼はぼくを見るなり、嬉しそうな顔をして、耳にしていたイヤホンを外したのだった。
「なんかの帰り? すげー偶然だなあ」
にこにことなんの屈託も無く話す彼にさっきまでの自分の焦燥を思い赤面する。
「何? なんか顔赤いけど、もしかしてどっか具合でも悪いん?」 「……悪いのは気分じゃなくて機嫌だっ」
どうしてこんな時に音楽なんか聴いているんだ。ぼくが何回呼んだと思っていると一気に怒鳴ってぺちりと叩いた。
「―――痛ぇ」 「奢れ」 「は?」 「なんでもいいから夕食を奢れ。ぼくは奢ってもらう資格がある」 「なんなんだよ−、おまえマジわけわかんねぇ」
ぶたれた頭をさすりながら、でも進藤はまんざらでもなくぼくの顔を眺めている。
「…そっか、何度も呼んでくれてたんだ」
それは悪かった、ごめんなと、そしてにっこりと極上の笑顔で笑ってから「奢るよ」とぼくの耳元に囁いたのだった。
| 2011年05月28日(土) |
(SS)それとこれと、これとそれ |
キスがしたいなと思って、すぐに喧嘩中だったと思い出した。
(今度はなんで喧嘩したんだっけ)
進藤とはあまりにもよく喧嘩をするので、時々ぱっと思い出せないことがある。
「ああ…そうか」
今回の喧嘩の原因はまたしてもとてもつまらないこと。前日に彼が打った一局を並べ直して貰っていて、ぼくがケチをつけたからだった。
『また、こんな所に打って…相変わらず乱暴で考え無しだな』 『なんだと、だったらおまえはもっと上手く捌けるのかよ』 『出来るよ』
そして本当に彼よりも上手く並べて見せたので、一気にご機嫌が悪くなってしまったわけだ。
『それにここの見落とし、どうして今更こんな初心者みたいな見落としが出来るのか不思議だ』
ぼくとしては本当に不思議でそう言ったのだが、プライドの高い彼のこと、カチンとしたようでそれから雪崩れのように喧嘩になった。
「でも…今更だ」
あんな喧嘩いつもだし、たぶん彼も二、三日したら何事も無かったかのように話しかけてくる。
(それでまたきっと程度の差はあれ喧嘩になるんだろうな)
こんなことを言ったら進藤に怒られてしまいそうだけれど、ぼくは彼と喧嘩するのが好きだった。
もちろんその場ではムッとするし、こんなバカ二度と顔も見たく無いと思うのだけれど、でも何の気がかりも無く怒鳴りあえるのは気持ちがいい。
彼はいつも真っ正直で嘘が無いからぼくも遠慮なく意見が言える。そんな相手は彼だけで、だから彼はぼくにとって大切な人だった。
碁に於いても人生に於いても。
碁敵であり、友人であり、一生かけて同じものを追いかけるライバルであり、そして恋人でもある。
その恋人部分もいつも順調というわけにはいかないが概ね幸せで、だからこうして未だにムカっ腹をたてていても、ごく自然なこととしてキスしたいなどと思ってしまったりするのだった。
「…あ」
思わず声を上げたのは、進藤が偶然階段を上がって来たのに出くわしたからで、目が合った瞬間、彼は露骨に嫌な顔をして目を逸らした。
「おはよう」 「…はよっ」
たたっと軽く駆け上がって来た彼は、ぼくの隣で立ち止まると、そこでぴたりと上にも下にも行かなくなった。
彼にそうされるとぼくもまた動けなくなって横を見る。
唐突にいきなり腕を引かれ、顔が近付いて来たなと思ったら噛みつくようにキスをされた。
「なにするんだ」
して欲しかったことをされて嬉しかったけれど、まだ喧嘩モードのままなので不機嫌な声で言い放つ。
「したかったんだからいいだろ」
進藤もまた自分からしておいて不機嫌な顔で返した。
「もー、無茶苦茶腹立ってんのに、なんかすげーキスしたくなったから」
そこにおまえがのこのこ現われやがったんだから、したって別に構わないだろうと、実に非道い言い様で言う。
「なんだよ、文句あるかよ」 「あるよ、大ありだ」
いざ再戦スタートという感じで身構えた彼にムッとした顔のままで言う。
「キスしたいと思っていたのはぼくの方だ。真似なんかされたく無いね」
途端にきょとんとした顔になって、次に進藤は笑い出した。
「は! そりゃーおまえがのろまなのが悪いんだって」
悔しかったら今度は先におまえがしてみと、挑戦的に言って再び階段を上がり始めた。
「上等だ。今度は絶対ぼくの方が先にキミにキスしてやるから」 「期待しねーで待ってるよ」
ひらひらと手を振って去って行く。その後ろ姿が本当に憎たらしいなあと思いながら階段を下り始めたぼくは、でも自然に口元がほころび笑っている自分に気がついたのだった。
あまりにも馬鹿馬鹿しいし恥ずかしいことではあるけれど、それでもはっきりと言葉に出して聞いてみなければ解らない。
「進藤」 「んぁ?」
ぼくが右隅に置いた手にどう応じるか考えていた彼は、ぼくが声をかけてもどこか生返事だった。
「いきなりで申し訳無いんだけど、キミ…ぼくのことが好きか?」
ちらり、目だけ上げてぼくを見ると、進藤はなんでもないことのように言った。
「好きに決まってるじゃん。言ったら悪いけど、おまえかなりな性格悪だぜ? いっくら碁が強いからって、好きじゃなきゃこんなに長いこと付き合ってなんかこれない」 「そう。ぼくもキミが好きなんだけど、キミの好きはどれくらいの好きなのかな」 「せーそーけん突き抜けるくらい」
今度は目線もくれず、うーんとうなりながらぽつりと言う。明らかに頭の中は目の前のことで一杯という感じだった。
「そうか…」
やはりそんなものなのかな。それが当たり前だとは思うけれど、真面目にもとって貰えないとは思わなくて落胆する。
「おまえはどーなんだよ。おれのこと好きってどんくらい?」 「そうだね、ぼくも成層圏突き抜けるくらいかな」
苦い笑いをこめてそう告げる。
「実はね…ぼくは結構前から縁談がたくさん来ていて、ずっとそれを断っていたんだ」 「へえ、さすがおぼっちゃま」 「でもさすがにはっきりとした理由も無く断るのにも無理が来て、そろそろ断れないような状況になってきた」
父の健康が思わしく無いこともある。母は元々子ども好きでぼくの子どもを早く見たいという気持ちが強く、二十歳を過ぎた頃からはっきりと『孫の顔を見たい』と言うようになってきた。
「今、来ている縁談は父に縁のある人からで、相手の女性も知ってる。結婚する相手としては…碁打ちにも理解のある、非の打ち所が無い人なんじゃないかな」 「ふーん」 「今週末、その人と会う。そして会ったらたぶんそのまま話を進めることになると思う」 「それで?」
まだうんうん唸りつつ、進藤は言った。
「それでおれに何を言いたいん?」 「キミが、それをどう思うか知りたい」 「いいんじゃねーの、おまえが良いんなら」
確定だ。本当に彼はぼくに対してそういう気持ちを持っていないんだと悲しい反面、いっそ清々しいような気分にぼくはなった。
「そうか…うん、そうだね」
じゃあキミには結婚式でスピーチを頼もうかなと言ったら、初めて進藤ははっきりと姿勢を正してぼくを見た。
「あのさ」 「なに?」 「おまえはそれでいいわけ?」 「だって…仕方無いだろう、断る理由が無い」 「あるじゃん立派に」
言われてえっと見詰め返した。
「おれはおまえのこと好きだよ? おまえもおれのこと好きだって言ったじゃんよ。なのに見合いして結婚するのか。へー、びっくりだ」 「…びっくりって、キミは今それを勧めたじゃないか」 「おまえが良いならって言った」
おれはもちろん全然良くはねーよと、今度ははっきり声に怒りが含まれている。
「大体さ、おまえちゃんと聞いてんのか? おれはおまえのこと成層圏突き抜けるくらい好きって言ってんじゃん。もっと言って欲しいなら、突き抜けて宇宙半周して戻って来てまた行ってくるくらい好きだよ。なのにそれでどうして平気で捨てて行けるかな」 「それ…冗談で言っているのかと思った」 「冗談で野郎のダチにそんなこと言うのか、おまえ」
そもそもなんでも無いと思っている相手に『ぼくのことが好きか』なんて聞くのかおまえはと、おれはそこまでバカじゃねーよと怒鳴られて、怒鳴り返したい気持ちになったけれど、それ以上に嬉しくて口元が笑ってしまった。
「…解り難いんだよ、キミは」
冗談も本気も判別がつかない。それくらい本音が見え難いから。
「それ、そっくりそのままおまえに返す。で、どーすんの。おれの答えを引き出しておいて、なのにさっさと見合いしておれにスピーチなんかさせんの?」
したら殺すぞと、穏やかでは無く言って進藤は、やっとぱちりと石を置いた。なかなかにいい妙手だった。
「断る」 「断られたって殺す」 「いや、そっちじゃなくて、縁談のこと」
はっきり意志がないと断るよと言ったら、彼はほっとしたような顔で笑った。
「だったら最初から聞くんじゃねーよ、バカ」 「聞かないと解らないから聞いたんだ」
バカと言い返して思わず笑ってしまった。
良かった。
言って良かった。
あまりにも陳腐で恥ずかしかったけれど、そしてただの友人としては気持ち悪がられる内容の質問だったけれど、思い切って言葉にして良かったと思った。
「次…おまえだけど」
長考? と笑われて笑みで返した。
「いや、考えるまでも無い」
ぱちりと力をこめてツケコシて返したら進藤は「げっ」と小さく叫んだ。
「おまえって本当ーに性格悪いな」 「でも…それでも好きでいてくれるんだろう」
確かめるように尋ねたら、進藤はぼくを睨んで、それからにやっと口元だけで笑った。
「あったりまえじゃん」
そしてその後はもう何事も無かったかのように再び盤面に没頭し始めたのだった。
| 2011年05月25日(水) |
(SS)一緒に居たのがキミだから |
今までに何度か塔矢が痴漢を捕まえた所を見たことがある。
それはもちろん本人が被害に遭っていたわけでは無く、近くに居た女性が…というパターンだったのだけれど、助けを求められた時もそうでは無く自分で気がついた時も塔矢は実に凛としてびしりと相手を恫喝していた。
さすが王子様は男らしいなあと感心したりもしていたのだけれど、ある日、一緒に電車に乗っていて塔矢がぴたりと喋らなくなった。
まあ、混雑120%の混みようだし、人に阻まれて微妙に距離も空いてしまったしで無理して喋らなくてもいいかなと思っていたのだけれど、見ているとなんだか様子がおかしい。
なんだか、らしくなく半べそのような顔をして唇をぎゅっと噛みしめているのだ。
「塔矢…」
おまえどうかした? と尋ねた瞬間に弾かれたように顔が上がる。でもすぐに伏せられてしまったその顔は微妙に頬が赤かった。
もぞもぞと落着かないその様子にはっと気がついた。
(もしかしてこいつ)
駅で止まって人が降りるのに合わせて無理矢理塔矢を引きずり下ろす。
「どいつだ?」
下ろしながら尋ねると、塔矢は目線で自分の後ろに居た男を見た。ぱっと見、四、五十代のリーマン風のその男はおれ達の視線に気がついて、慌てて一歩後ずさった。
「解った、ちょっとおまえここで待ってろ」
一駅先まで行ってから戻って来るからと、入れ違いのように乗り込んで、おれは塔矢を残して再び電車に乗り込んだ。
「進藤」
ドアが閉まる間際、塔矢が心配そうにおれを見たけれど、おれは笑って手を振った。
「さーてと、どうしよっかなあ」
ぼそっと言ったその声が果たして相手に届いたか否か――。
約30分後、おれは塔矢の待つ駅に戻った。
言われた通り同じ場所でおれを待っていた塔矢はおれを見るなりほっとしたような、それでいて困ったようなそんな顔をした。
「キミ―」 「おれ、別になんにもしてねーから安心していいよ」
ぱっと塔矢がおれを見る。
「たださっきの電車にさぁ、いい年して色ボケたおっさんが居たから、今後二度とおかしな気ぃ起こさないように、じっくりみっちりお話ししてきた」 「ぼくは別に―そんな」 「ん? 何? おまえもさっきの電車で何かあったん??」
尋ねてみたら「いや」と言った。
「なんでも無い。何も無かった」 「だろ。待たせちゃってごめんな。お詫びに何か奢るからそれで勘弁して」
塔矢がらしくなく、半泣きになっていたのは痴漢に遭っていたからだった。
普段のこいつなら臆することなく対処出来るはずなのに、どうして何も出来なかったのかはよくわからない。
でもたぶん、男の自分が痴漢に遭ったということに驚いたのと、そのことで自分を恥じてしまったんだろうと思った。
時に女性と間違われる、母親似の自分の容姿は塔矢にとってコンプレックスであることをおれは知っていたから。
「ラーメンか、ハンバーガーか、回転寿司までなら奢れるけど?」 「…ラーメンでいい」 「へえ、珍しい」 「それからキミは奢らなくていいよ、ぼくが出す」 「なんで?」 「別に何でも無いけれど」
嬉しかったからと塔矢は聞こえ無いほど小さな声で呟いて、おれの袖をそっと掴んだ。
恥ずかしかったんだ。
よりにもよって、キミの前であんな目に遭っていることが恥ずかしくてたまらなくて声を出すことも出来なかったとは、ずっと後になってから塔矢がおれに話してくれたことである。
※※※※※※※※※※※※※
そりゃーヒカルには言えないわな。
もともと食に関しては意識の薄い方だったから、食べないでもあまり苦痛を感じなかった。
疲れていたり、忙しかったりしたら平気で何食か抜くこともしていたし、だから平気だろうと思っていたのに、気がついたら体を起こせなくなっていた。
「うわ、何やってんのおまえ」
這うようにして携帯に手を伸ばし、やっとの思いで進藤に電話をして、駆けつけてくれたはいいが、彼はぼくを見るなり『呆れた』を隠しもしない顔で言った。
「いつから食って無いんだよ、つか、なんで起きれなくなるまで食わないで居られんの?」
ぼくとは逆に進藤は空腹に弱い質で、移動中でもなんでもお腹が空くと子どものように『腹減った』と言って憚らない。
食べている姿も始終目撃して、よく太らないものだと思っていたけれど、あれはあれで必要なことだったんだなと改めて思った。
「えーと、いきなり固形物はマズイよな。じゃあスープかなんか行く?」 「ああ。うん。それくらいの方が有り難い」
何やらたっぷり買い込んで来たらしいスーパーの袋をがさがさと言わせて、進藤は缶のコーンスープを取り出した。何気無くラベルを見たら有名ホテルブランドの物だったので驚いた。
「インスタントの粉ので良かったのに」 「おまえに食わせんのにそんな適当なモン買えるかよ。ちゃんと栄養あるのにしないとだし」
そして更に驚いたことに生クリームも取り出した。
「少しだけ足すと美味いんだよ、これ。カロリーも増えるし丁度いいんじゃん?」
そしてぼんやりと横たわっているぼくを置いてキッチンに行くと手際よく鍋を出してスープを温め始めた。
一人暮らしを始めた当初から、進藤には合い鍵を渡してある。艶めいた意味では無く、家を出る時に父に釘を刺されたからだ。
誰でもいい、心から信頼出来る人に一人、鍵を渡しておきなさいと。もし何かあった時に一人暮らしでは助けを求めることも出来ないではないかと言われたのは、つまりはこういうことだったのだろう。
病気や何か、ぼくはたぶんさほど親しく無い人には頼るという意識が無い。
実家に居る時にはほぼ一人暮らし状態でも、荷物が届いたり、人が訪ねて来たりということが多く、常に人の出入りがあった。セキュリティ会社とも契約していたので、いきなり何日も扉の開閉が無くなればおかしいと察しても貰えたのだ。
でも一人暮らしのマンションではそれが無くなる。そこを心配されたらしい。
(さすがに、お父さんはぼくのことをよく解っている)
何かに気を取られたり、疲れたりすると途端に生活の方が手薄になる。だからこそ今こうして情けない姿を晒していたりするのだ。
「出来たけど、塔矢、起きられる?」
少しして進藤がマグカップにスープを入れて戻って来た。その方が飲みやすいだろうという配慮だったのだが、悲しいかなぼくは起き上がれなかった。
「ごめん、無理だ」 「そっか、やっぱ無理か」
じゃあしょーがねーなあと、進藤はぼくの傍らに座るとスプーンでそっとひとさじすくって、冷めるのを待ってからぼくの口にスープを運んでくれた。
「熱くない? 大丈夫?」 「…大丈夫。美味しい」
スープにはパセリも散っていて、じゃあこれも買って来たんだなと思ったら、たかがスープに随分散財させてしまったと申し訳無く思った。
他には一体何を買って来てくれたんだろう? ゆっくりと何度もスープを飲ませて貰いながらぼくはぼんやりと考えた。
「桃缶」 「え?」 「後、桃缶買って来た。病気じゃないけど、そんくらいの物の方がいいだろ」 「ああ…ありがとう」 「スポーツ飲料沢山と、それからおかゆ。卵もあるからだし巻き作ってやってもいいよ」 「へえ…豪勢だな」 「プリンとヨーグルトと、それからもうちょっと元気になったらもっとイイもんも作ってやるから」 「って…キミいつまでここに居るつもりだ?」 「ずっと。んー。取りあえずはおまえが元気になるまで。大体さぁ、一昨日棋院で会った時にはおまえ元気そうに動いてたじゃん?」
それでいきなりこうなるかよと言われてくすりと笑ってしまった。あの時も既に食事を抜いて何日か経っていたからだ。
「…まあ、ちょっと目の下に隈があったから気にはしてたんだけどさ」
こんなことになるって解っていたらちゃんと声をかけて物食わしたのにと言われて「嘘つき」と言ってしまった。
「一昨日会った時だって、キミ、ぼくの方をろくに見もしなかったじゃないか」 「それは仕方無いだろ。あんな派手に喧嘩した後でさぁ」
言いかけて進藤はスープを運ぶ手を止めた。
「あの…で、こんな時になんなんだけど、もう勘弁してくんない?」 「何が?」 「あん時はおれが悪かった。とにかくもう本当に悪かったって」
おまえが鬼のように怒っても仕方無かったし、その後も怒り続けていても仕方が無い。
「でも呼んでくれたってことは、ちょっとは怒りが収まったってことだろう」 「そうかな…そうかもね」 「だったらここで仲直りにさせてくんないかな。おれマジ今回びびったわ」
いくら喧嘩して腹立ったからって起きられなくなるまでメシ抜くか? どんなハンガーストライキだと言われて薄く笑って返すことしか出来なかった。
「そんなつもりは無かったよ。ただその気にならなくて食べなかっただけだから」 「だから余計に怖いんだって。あー、もーっ、これでもしおまえが死んでたりなんかしたら、おれ一生おまえのこと恨んだからな」
仲直りもさせてくんないで、当てつけがましくメシ抜いて死んだって、ずーっとずーっと恨みまくってやったからと言われてまた笑ってしまった。
「…あれはキミが悪かったんだよ」 「うん。だからそう言って謝ってる」 「じゃあ仲直りだね」 「おまえが許してくれるんなら」
運ばれるスープはとても美味しい。滑らかで濃くて、でも空腹だった胃にもとても優しい。
「命のスープだな」 「は? 何?」 「いや、そういうのがあるんだよ。で、ぼくにとってはキミが作ってくれたこれがそうだなって」
ふふと笑ったのに進藤はぎょっとしたような顔をして、でも再びスープをぼくに飲ましてくれた。
「こんなもんで良ければいくらでも作ってやるからとにかく早く元気になってくれ」 「解った。なんだか良い物も作って貰えるみたいだしね」
ひとさじ、ひとさじ、与えられるスープで体が満ちる。
ああこれは栄養と言うよりも愛情に飢えていたんだなと独りごちる。意外にもぼくは彼との衝突に弱いらしかった。今までもストレスで食べないことはあったのに、ここまで長く食べないでいたことは無かったから。
「まったく、おまえはなんかこう、色々薄いんだよ。もっと強烈に食いたいとか、したいとかそーゆーの思え!」 「…頭の隅には置くようにする」
あははと笑って口を開ける。雛鳥みたいだなと思いながら、でも恥ずかしいとも何も思わず、されるままずっとスープを飲み続けた。
温かくて優しくて、そしてたまらなく嬉しい。
マグカップ一つ分の熱いスープを飲み干した頃、ぼくの体は隅々まで愛情が行き届いて、ようやく手足がまともに動かせるようになった。
よく冷えた桃缶の桃を食べ終わる頃には半身起きられるようになり、スポーツ飲料を飲ませて貰ってからはソファに腰掛けられるようになった。まあそこまでで、それ以上はまだ無理だったのだが。
「どうする? もうちょっと何か行っとく?」
心配そうにぼくの顔をのぞき込む彼に、好きだなあと思いながら両手を伸ばしてその首に腕を回す。
「デザートを貰おうかな」 「おう、プリン? ヨーグルト? あ、でもおまえ桃缶食ったじゃん」 「もっといいものがあるだろう」
そんな物より甘くて美味しい。キスが欲しいなと言ったら進藤は一瞬真っ赤になって、でもすぐにぼくに欲しいものをくれたのだった。
※※※※※※※※※※※※ いやー…食べないと本当に体動かないですよね。体温下がるし。
自分が子どもの頃を思い出すと恥ずかしくなる。
どうしてあんなにバカなガキだったのか。何も考えていなかったし、言うことやること全てが自己中心的で赤面する。
なのにそれを恥ずかしいとも思っていなかったことがまた恥ずかしい。
十代の頃、深い考えも無く、ちゃんと他に好きな人が居るにも関わらず、とっかえひっかえ女の子と付き合ったこともそうだし、更に遡ってその好きな人と出会った時の自分がまた最低だった。
よくもまああんなに無知で無神経でいられたことか―。
記憶を遡れは佐為のことにも行き着くが、あれはまた別で、後悔とかそんな生やさしい言葉では片付けられないものなので、この場合は省かれる。
(おれ、あいつによくあんなこと言えたなあ)
知らないということは恐ろしい。囲碁を尊く、命と同等に考えている相手に、侮辱としか思われないような言葉をヒカルは随分吐いている。
過去を消せる消しゴムが…という話はよく出てくるものだけれど、もし本当にあれば、まずあの自分を消してしまいたい。自分と自分の言った言葉を消せるものならばと思わずにはいられないのだ。
(あ、でもダメだな)
悶絶するような気持ちで思い出を辿っていたヒカルは、途中でふと気がついた。
(あの頃のおれがバカだから、今こうやっているんじゃん)
そもそもその人とも、その当時の自分が居なければ今こうして近しい距離になっていなかったようにも思う。
自分があまりにもバカだったから。バカで考え無しだったからこそ、その人は怒り、忘れられず、拘り続けてくれたのだろうと思うのだ。
ヒカル自身にしても、そういう未熟な自分を思い知ったからこそ反省し、生き方を改めて今日にたどり着いたのだ。
「でも…だからってやっぱりなぁ」
大好きなその人とはたぶん一生の付き合いだ。頭も良くて記憶力もいいからあの頃のこともきっと忘れてはくれない。
そう考えるとヒカルは、やはりほんの一部分でもいいから、あの頃のバカな自分を消してしまいたくなってしまった。
「え? 過去を消せる消しゴム?」 「うん。よく言うじゃん? もしあったらおまえ、消したいものなんてある?」
後日、ヒカルはその「好きな人」であるアキラに尋ねてみた。
「過去を消せる…ね」
そんなもの無い。消したい過去など一つも無いと男らしくきっぱり言われるものと思っていたら、意外にもアキラはきまりの悪そうな顔になった。
「なに? おまえにもそんなのあるんだ」 「それは…ぼくも人間だからね。キミこそ消したい過去は無いとでも言うのか」 「いや、あるよ。ありすぎてもうギブアップ。でもおまえは何も無いと思っていたからさ」 「あるに決まってるじゃないか。特にキミと出会った頃の自分なんて…」
思い出すだけでも恥ずかしいと、本当に目の下をほんのりと染めてまで言ったので、ヒカルはかなり驚いた。
「おまえ何か恥ずかしいこと言ったりやったりしたっけ?」
ヒカルには自分の方がとにかく恥ずかしかったという意識しか無いので、アキラに対しては何も無い。むしろ真面目で一生懸命で褒められるべき子どもだったと思うのだが。
けれどそれを面と向かって言ってやったらアキラは益々赤くなり、嫌そうな顔でヒカルを見た。
「キミ、それ本気で言っているのか?」 「本気も本気、大本気だけど?」 「ぼくは思い出したくも無い。思い込みが激しくて、その思い込みだけでキミのことを追いかけまわして、随分恥ずかしいことも言ったし、キミにも他の人にも形振り構わない所を見せた」
あまりにも幼稚だった。恥ずかしすぎるよと俯くように言われて、ヒカルはへえと感心した。
「じゃあ、その頃の自分とか、言ったこととかを出来るんなら消したいと思うんだ」 「思うよ…でも…ああ、消せない」 「ん?」 「あの頃の自分が幼稚だったから、たぶんきっと今こうしてキミと居られるんだ」
あの頃からの積み重ねが今の自分とヒカルとの関係を形作っている。
だからどんなに恥ずかしくてもあの頃の自分を消すことは出来ないと、思いがけずアキラはヒカルとほぼ同じ結論に達したのだった。
「…なんだ、じゃあおれ達消しゴムいらないんじゃん」 「そうだね、そういうことになるね」
まだ赤い頬をさすりながらアキラが言う。
「大体、今更過去を取り繕ったって…」
今現在だって決して完璧なんかじゃない。幼稚な恥を積み重ねて生きているようなものなのだからと言われてヒカルは苦笑してしまった。
「そうか。そうだよなあ…」
それでもやはりあの頃の自分は非道かった。謝りたいと心から思う。
ガキでゴメン。無神経に引っかき回してゴメンナサイ。
そして――。
「一生を変えちゃってゴメン」
ぽつんと呟いた言葉はそれだけで、前後を知らないアキラには意味がわかろうはずも無い。
なのにアキラは苦笑のように笑うと、ヒカルの手を愛しそうに掴んで言ったのだった。
「それはぼくのセリフだよ」と。
未来は続く。
恥ずかしい過去の積み重ねでどこまでも先に伸びて行く。
いつかまた、無性に過去の自分を消してしまいたいこともあるのかもしれないけれど、その時に今こうしているように目の前にアキラが居てくれるならそれもいいと、ヒカルはしみじみと思ったのだった。
| 2011年05月22日(日) |
(SS)知る人ぞ知る |
塔矢アキラは多くの人々に潔癖症であると認識されていた。
そもそもが人との不要な接触を嫌がる質であり、それは飲食にも現われていて、人が口をつけた物には絶対に箸をつけなかった。だから同じ箸でつつきあう鍋はNGだったし、中華などの大皿料理も好きでは無かった。
親しい者同士がよくやるような、「ちょっと一口」というような行為も、子どもの頃からの付き合いである兄弟子達とすらしなかったし、ジュースの回し飲みなど考えられないといった雰囲気を漂わせていた。
それが案外そうでも無いらしいというふうに変わって来たのは最近のこと。
進藤ヒカルとの間で、今まで有り得ないと言われていたことをアキラがするようになったからだ。
「あ、塔矢何飲んでんの? おれも飲みたい」
アキラとは逆に犬のようだと評されるヒカルは誰に対しても人懐こい性格だったが、それはアキラに対してもそうで、実に気軽に懐きに行く。
「なあなあ、一口飲まして」 「いいよ、でも別にただのお茶だよ?」 「新製品じゃん。二十八茶って何と何が入ってんだ? おもしれー」
そしてアキラが飲みかけていたペットボトルの茶を取り上げて、ごくごくととても一口とは思えない量を飲み干して顔を顰める。
「うわ、苦っ、よくこんなの飲むな、おまえ」 「キミは炭酸飲料の飲み過ぎだよ。これは体にいいものばかり入っているんだから」
たまにはキミもこういうものを飲めと、随分減ってしまったにも関わらずアキラは腹をたてた風も無い。
又ある時は、打ち掛けの時珍しく連れて行かれたのであろうハンバーガーショップで、物欲しそうにアキラが食べているチキンバーガーをヒカルは見詰めていた。
「…何?」 「それ、美味そうだなあと思って」 「だったらキミも同じものにすれば良かったのに」 「だって今日は絶対、照り焼きの気分だったんだよ。朝からそう決めてたんだって」
でもおまえが食べてるのを見たらすげー美味そうで食いたくなったと。暗にどころかはっきりと顔が食わせてとねだっている。
「…食べる?」 「うん。その代わり、おまえもおれの一口食っていいから!」
そしてヒカルはアキラのチキンバーガーに齧り付くと、いかにも美味しそうに咀嚼してから飲み込んだ。そして自分の囓りかけの照り焼きバーガーをぐいと勧める。
「はい。おまえも食えよ」
アキラは一瞬躊躇ったかのように見えたけれど、すぐに嬉しそうににっこりと笑って上品に一口囓り取った。
「美味しいね」 「な? な? 照り焼き最高だろ」
ヒカルはもう上機嫌で残りの照り焼きをあっという間に平らげた。
などというような光景を日々見せつけられるようになり、皆はなんとなくアキラは実はそういうのも大丈夫な性格だったのだと思うようになっていた。
それが間違いであることにほとんどの人間は気がつかなかったが、やがて思い知らされることになる。
最初にそれを思い知らされたのは和谷だった。
五月というには真夏のような暑さのその日、棋院での指導碁を勤めていた彼は休憩時間に控え室に戻り、自販機で買ったお茶を飲んでいた。
隣にはやはり同じ指導碁を担当していたアキラが座っており、偶然にも同じお茶を飲んでいたのだけれど、疲れてぼんやりとしたせいもあり、和谷はうっかりアキラのお茶を自分のと間違えて飲んでしまった。
口をつけて飲み込んでからあっと気がつき、「悪い」と悪びれずに謝った。
「悪かったな、塔矢、間違えておまえの茶、飲んじまった」 「…ああ」
振り返って事態を察したアキラはにこやかに微笑んで気にしないでと言ったけれど、次の瞬間立ち上がってしたことに、その場にいた皆は一斉に凍った。
アキラはまだ半分以上残っているお茶をそのままゴミ箱に捨ててしまったのである。
「ちょ…塔矢っ」
汚いモノ扱いされたようでムカっ腹をたてた和谷が思わず怒鳴ると、アキラは和谷とゴミ箱と両方を見比べ、それから気がついたように「ごめん」と言った。
「そうだね、中身を捨ててから捨てるべきだった。ぼくとしたことが申し訳無い」
そして一度捨てたペットボトルを拾い上げると、トイレに行って中身を流し、改めてゴミ箱に捨てたのだった。
もう和谷も何も言えない。
そして次に被害に遭ったのは門脇で、地方での仕事でたまたまアキラと一緒になり、その冷ややかさに嫌という程当てられたのだった。
不幸にして彼は和谷以上にアキラのことを表面的なこと以外何も知らず、お上品ではあるものの、あの進藤ヒカルと仲良く付き合っているくらいだから、中身も同程度なんだろうと認識してしまっていた。
アキラが年下であることも手伝って、だから良く言えば気さくに、悪く言えば非常に馴れ馴れしく振る舞ってしまったのだ。
「お、塔矢くんだっけ。今日はよろしく」
朝一番、肩に手をかけた瞬間に嫌な顔をされたのは幸運にも門脇は気がつかなかったけれど、側に居た何人かは気がついた。
触らぬ神に祟りなし、何事も起こりませんようにと祈っていたかどうかはわからないけれど、それは昼間、休憩時に皆で食事をしている時に起こった。
「君、何食べてるの?」
門脇はカレー、アキラは季節のメニューだとか言う海鮮丼を食べていた。
「さあ、よくわかりませんけれど、鯛と甘エビと他にも色々入っているみたいですね」 「鯛? ひょーっ、高級魚だな。昼から随分豪勢なこった」
豪勢も何もホテル内の食堂のメニューなのだから、値段もたかが知れているのだけれど、門脇は生意気だとひょいとアキラの海鮮丼に箸をつけると鯛を一切れ持ち去った。
「若いうちから分不相応な良い物を食べていると、ろくな大人にならないからな、おれが代わりに食べてやる」
そして皆が呆気に取られている中、二切れ目に箸を伸ばした時、門脇はアキラの視線に気がついたのだった。
にこりとも笑わないその顔は「よくも人の食べている物に手を出したな」とはっきり言っている。
「っと……あれ? もしかして怒った? 悪い悪い。じゃあおれのカレー食ってもいいからさ」
噂ではアキラはヒカルとは日常的にそういうやり取りをしてるはずである。これで帳消しと思った門脇はカレー皿を差し出してアキラを見てから「うっ」と呻くことになる。
アキラの顔はさっきより更に険しくなっていて、「あなたの食べかけの物をぼくに食べろと?」と言っていたからだ。
怖い。
はっきり言って山道でヒグマに遭ったよりも怖いと門脇は思った。
「す…すみませんでした」
思わず負けましたと言いかけて慌てて言い直したけれど、動揺はそのまま残ったらしい。午後に予定されていたアマチュアとの対局で、門脇はプロとしては有り得ない非道い打ち方で、ボロ負けをしてしまったのだった。
そして同じような出来事が様々な場面で繰り返され、人々は嫌という程知ることになる。
塔矢アキラは確かに潔癖症では無い…のかもしれない。
誰かと食べ物を分け合ったり、一つのペットボトルから回し飲みをしたりもする。最近では鍋も食べられるようだし、中華の大皿や取り分けて食べる料理も平気になったらしい。
しかしそれは進藤ヒカル限定で、それ以外の人間には決して許さないのだと。
「塔矢、なあ、おまえの食ってるプリン一口食わせて」
ヒカルがねだるのにアキラは微笑む。
「いいよ、キミが食べている唐揚げ串をぼくにも食べさせてくれたらね」
知る人ぞ知る。知らない人は全く知らない。それは奇跡の光景であった。
※※※※※※※※※※※※※※
「一口」が苦手な人も居ますが、私は好きなタイプです。
そういうのが苦手な人には言わないし、個人的に好きな人にしかそもそも持ちかけもしませんが、人生に於いて親しく付き合いたいと思う人は、概ね相手も「一口」が好きな人が多いように思います。
一緒に食を楽しめるか否かは結構重要なポイントだと思います。
| 2011年05月21日(土) |
(SS)上と下と昼と夜 |
何気無くテレビを点けたら動物番組をやっていた。
はっとしてすぐに消したのは、マウンティング行為を取り上げていて、その解説が耳に入ったからだ。
『雄雌に関係無く行われ、自分の優位を相手に示すために行われます―』
つまりは、自分が相手より強いと態度で思い知らせ、された方はそれを認めれば無抵抗で従うと。
なんとなくむっとしたのは昨夜の出来事とマウンティングのポーズが重なったからで、ということはぼくは彼に負けを認めていることになる。
(こんなに負けたく無いと思っているのに)
彼と所謂そういう関係になって、自分がされる側になったのは、何故と言われれば彼が望んだからに他ならない。
黙って見ているだけでも良いと思っていたぼくに、はっきりと怒った顔をしながら踏み込んで来たのは彼の方だし、気持ちをはっきりさせたのも彼だった。
『これで壊れてもいいってくらいの覚悟で言ってんだからおまえも正直に言え』
こんなにも剥き出しの感情をぶつけられたのは初めてで、その迫力に気圧された所も無いとは言えない。
でも実際にぼくは彼が好きだったし、心の奥底には交わりたいという願いもあった。
だから受け入れた。
好きの度合いに優劣は無いと思うけれど、情熱に優劣があるとすれば彼はぼくより勝っている。
欲しいから、したい。だからさせて欲しい。
そうはっきりと言い切れる程、ぼくは肉体に関してまだ熟してはいなかったんだろう。
下になることに全くの抵抗が無かったと言えば嘘になるけれど、逆をするという感覚は未だに無い。こうなって初めて自分は受け身だったんだなと自覚したりもした。
(でも、それ以外では譲る気持ちなんか無いのに)
これほど、憎むほどに勝敗に拘る相手はいないし、他の誰に負けるより進藤に負けることがぼくにはたまらない。
逆に勝てば他の誰に勝つより嬉しいし、碁打ちで良かったと心から思う。
そう、自分も愛する相手も碁打ちで良かったと本当に嘘偽りなく思うのだ。
その気持ちと夜の自分との食い違いが胸をもやもやとさせ、進藤がぼくを無意識にでも服従させるつもりで背後を取っているのかもと考えたら煮えくりかえる程腹が立った。
なのでまだベッドで眠っている彼の元に戻って、加減をせずにぺしりと頭をぶったら驚いたような顔で彼は起きた。
「…なんだよ、なんでいきなり殴るんだよ」 「キミは優位を保ちたくてぼくを下にしているのか」 「は?」
寝起きの頭に唐突な問いは理解出来なかったのだろう、間の抜けた顔に更に腹が立ってもう一度ぺちりと殴ったら、ようやく目が覚めた顔になった。
「何いきなりわけわかんないこと言ってんの?」 「マウンティング。犬や猿がやるだろう」
そして今見たテレビのことをむっとした声のままで話す。
「考えたことも無かったけれど、もしかしてキミはそういうつもりでやっているんじゃないのか」
最初から上以外するつもりも無かった。それはつまりぼくを下に見ているからではないのかと一気に言ったら進藤は黙った。
すぐに否定されるかと思ったので、ではやはりそうだったのかと軽くショックを受けていたら、「違う」と少ししてぽつりと言った。
「そういうオス的な気持ちが全くないとは言わないけどさ、でも…うーん、おまえを負かしてるとか、力で制服したいからとか、そういう気持ちは全然無いよ」
そしてまた黙る。沈黙が起こるのは彼が一生懸命考えているからだと気づき、ぼくは彼の側に腰を下ろすとじっとその答えを待った。
「なんか…ホント、マジで上手く言えないけど、でもたぶんおれのがおまえのこと好きなんだよな」 「そんなことは―」 「無いって言いたいのわかるけど、これはおれは譲らないぜ」
おまえのこと好き。死ぬほど好き、考えただけでどうかなってしまうんじゃないかと思うくらい好きなこの気持ちは絶対に負けて無いとそう思うと。
「だから、好きだからしたい。とにかくもうなんでもいいからおまえにしたいの。触りたいし、挿れたいし、無茶苦茶やってひーひー言わせたい」
だからお願いしてさせて貰ってんだってと言われて一瞬きょとんとした。
「ぼくは相互の意志でやっているのだと思っていたけれど?」 「だから、その『相互の意志』ってのが、おまえがおれの『お願い』を受け入れてくれてるってことなんじゃん?」
そもそもが塔矢アキラ様が同じ男と寝るなんて有り得ない。その上、される側に甘んじているのもまた有り得ない。
ではどうしてそれが成り立っているのかと言えばそれを『許して』くれているからだと進藤は言った。
「…それを服従って言うんじゃないのか」 「違うね。それって逆らったら勝てないって思っているから従うわけだろ?おまえはそうじゃないもん」
もしもしたくないと思えば指一本触れさせないことだって出来る。
それどころか『会いたく無い』『別れよう』のひとことで永遠におれを拒絶することだって出来るのだと。
「なのにそれをしない。おれのしたいようにさせてくれてるってのは…」
言い淀んでぼくの顔を見てから進藤は急に照れたような顔でぽつりと言った。
「おまえのおれへの『好き』…なんだよな?」
そうなのだろうか? そんな可愛らしい気持ちをぼくは持っているのだろうかと考えていたら、胸の内を読んだように進藤が言った。
「あ、それ違うから」 「え?」 「しおらしく言うこときいてあげていたのか、なんて考えてるんだったら、それは絶対違うから安心しろ」
おまえは偉そうに威張って、おれにさせてくれているだけなんだからと言って進藤は笑った。
「意味がわからない」 「つまり、主導権はそっちにあるんだって」
上も下も関係無く、関係自体の主導権を握っているのはぼくの方なんだと進藤は言った。
「さっきの優劣を示すってヤツ? だからおれらには当てはまらない。だってどこの世界に『頼むから怒らないで好きなようにさせて』って思いながら敗者の背中に手を置く勝者がいるんだよ」
いつだって、どんなときだって、最初から優勢に立っているのはおまえの方だと言われて思わず笑ってしまった。
「そうだったのか、知らなかった」 「知らないって辺りがもう余裕だよ。おれなんかいつも必死なのにさ」
碁でもプライベートでも満足して貰えなかったら捨てられちゃうんじゃないかとびくびくしている。そんな気持ち知らないだろうと言われて、「うん」と頷いたら頭を抱えられた。
「これだから―」
これだから天元様はよぅと、拗ねた言い様に苦笑した。
「一緒にするな」 「するよ、だって全部一緒だもん」
碁も、レンアイも、夜のえっちも全部一緒。
「おれ、おまえには絶対負けたく無いんだよな」
そう言われてぼくも即座に返した。
「ぼくだってキミには絶対負けたくなんか無いよ」
世界で一番憎らしい相手だと言ったら進藤は少しだけクサった顔をして、でもすぐに嬉しそうな笑顔になると「上等じゃん」と言ったのだった。
※※※※※※※※※※※※※
男×男同士のそれで上下ってやっぱり重要だと思う。
でもヒカルは下は考えたことも無いだろうと思うし、アキラはヒカルがそうなんだろうなと理解している。ヒカルだからっていうのはやはり愛があるからでしょう。
この二人に関してはポジションと優劣は無関係です。
キミが好きで好きで。
もうずっと前から好きで。
好きで好きで好きで好きでもうどうしようも無いくらい好きで。
こんなにキミのことばかり考えていたらぼくはきっとおかしくなる。キミのこともダメにする。
そう思ったら悲しくなった。
「って、どーしてそこでネガティブ行くかな」
俯いてようやく言った(言わされた)ぼくの気持ちを聞いた後、進藤は呆れたように笑って言った。
「どうしてそう、なんでもかんでも悪い方に行くなんて思えんの?」 「だって、キミを好きになったって誰にも言えないし、一生一緒に居ることだって出来ないし」
誰もぼくがキミを好きだということを知らない。知ったらきっと遠ざかってしまうと、半べそのように言ったら鼻先をぴんと弾かれた。
「バーカ」
おまえバカなんじゃない? と進藤は苦笑のような顔でぼくを見る。
「そんなこと、自分らの気持ちがしっかりしてればなんとでもなることと違うか?」 「そんな簡単なものじゃないだろう」 「簡単だよ。おまえはおれが好き。それでおれも―おまえが好き。大好き」
先に言われちゃって悔しいなあと、そこだけは本当に悔しそうに言う。
「おれだってさあ、おまえのことバカみたいに好きで、いっつもおまえのことばっかり考えてて、好きで好きでどうしようも無いくらい好きで」
このまま行くと犯罪者にでもなっちゃうんじゃないかと怖かったのにと言われて少し驚いた。
「…なんで犯罪者?」 「そりゃーおまえ、アレだよ。我慢出来なくて襲っちゃったりとかさ、もしおまえが誰かとケッコンしたりしようとしたらさ」
辛くて、悲しくて殺してしまったかもしれないと、進藤は怖いことをたまらなく切ない口調で言う。
「そのくらいおまえのこと好きなんだ」
だれにも渡せないくらい好きだからと。
「…だったらもう少し、解るようにしてくれたら良かったのに」 「うん、ごめん。でもおれ、それだけが怖かったから」 「何が?」 「おまえがおれのこと、タダの友達としてしか見てなかったらって、受け入れて貰えなかったらって、それだけが死ぬ程怖かった」
だから匂わすことも出来なくて、それでここまで来てしまったと、それはごめんなと進藤はぼくに謝った。
「でも、だから平気なんだよ。おれにとって一番怖いのは人の目でもハブられることでもなんでもなくて」
おまえに拒まれることだったから―と。
「ご両親はどうするんだ?」 「理解して貰えるように努力する。ダメなら絶縁されても構わない」 「碁は? 打てなくなったらどうするんだ?」 「構わない。だっておまえがいるじゃんか。おまえと死ぬまで嫌って言うほど打つよ」
だから平気、おれは平気。好きだという気持ちの先に怖いもんなんか何一つ無いと言われて目が覚めるような気持ちになった。
「…キミはどうしてそんなにポジティブなんだ」 「名前のせいかな?」
ヒカルって、いかにもバカっぽくて明るそうじゃんかと言われて笑ってしまった。
「じゃあぼくは…物事をはっきりさせないと気が済まないって言うことになるよね」 「あー? うん、でもそれ当たってるんじゃん。いや、子どもに名前をつける時は考え無いとマズイよなあ」
いつの間にか、俯いていたぼくの顔は上を向いている。
足先だけを見詰めて、死にそうに苦しかった胸はもうどこも痛く無い。
(そうだね)
お父さんが怒って、お母さんが泣いて、今までも持って居た全ての物を無くしてもキミが居ればそれだけでいい。
(それだけで…いいんだ)
「ありがとう」
ぼくの言葉に進藤は笑った。
「何が?」 「なんでも無いけどありがとう」 「それを言うならおれの方だろ」
好きになってくれてありがとうと、そして照れ臭そうに笑ってから小さくひとこと付け加えた。
「おれもホント、マジでおまえのこと大好きだから」
一生大事にするから一生一緒に生きていこうと言われてぼくも幸せで笑った。
二人なら大丈夫。何があっても大丈夫なんだと、目の前で笑う進藤の笑顔を見たらぼくは信じることが出来た。
好きは辛い。
好きは切ない。
好きは怖くて、時に痛い。
でも通い合う好きはどんなものより強いんだと、この日ぼくは知ったのだった。
※※※※※※※※※※※※
全国のヒカルさんすみません。そんなこと思っていませんから!
そして、出だし「片恋」と似た感じになってます。お対ではありませんが、ちょっと共通するものがあるかもです。
しばらくの間会わないと言われて、悲しさのあまり目の前が暗くなった。
「どうして、しばらくってどれくらいぼくと会わないつもりなんだ」 「そんなの解らない。って言うか、おれ、おまえにフラれたんだぞ。なのに 平気な顔して顔合わせて打つなんてそんなこと出来るわけねーだろ」
少なくともおれは出来ない、だから平気になれるまではおまえとは会えないよと言われて足元がふらついた。
「どうして…」
理由は聞いた。でも解らない。
どうして『それくらいのこと』で、ぼくはキミに会えなくなってしまうのだろう。
そう言いたくて、でもさすがにぼくもそれを言ったら永遠に進藤に会えなくなるだろうくらいのことは解る。
「ま、そういうことだから、しばらく素っ気なくてもごめんな」
フラれても堂々としてられる大きな男でなくてゴメンナサイと、苦笑のように笑って去ろうとする進藤の服の裾を気がついたらぼくは掴んでいた。
「何?」 「嫌だ」 「嫌だって何が?」 「キミに会えなくなるのは嫌だ」 「だって…仕方ねーじゃんよ」 「仕方無くても、それでも嫌だ」
いつかって、それはいつだ?
ずっと前、会ってくれない彼を待ち続けたように、今度はぼくはどれ程の時間を待ち続けなければいけないんだろう。
「おまえさ…ちょっとは思いやりってもんがあってもいいんじゃねーの?」
恋愛対象としては見られない。そういう意味での付き合いも出来ない。でもだからって会えなくなるのは嫌だって言うのはあまりにも自分勝手で我が侭なんじゃないかと。
「そうだよ、ぼくは自分勝手で我が侭だ」
でも、それでも会えなくなるのはとても辛い。今こうしているように話せなくなると考えることは身を裂かれる程ぼくには辛い。
「おれは?」 「え?」 「傷心のおれのことはおまえどーでもいいわけ」 「どうでもいい」
きっぱりと言った瞬間、進藤の眉が顰められ、一瞬ぼくは彼に殴られるのでは無いかと思った。
でも彼は振り上げた腕をぼくに向かって振り下ろさなかった。
「…なんで?」
代わりにゆっくりぼくに尋ねる。
「なんでおれにそんなに非道いの?」
彼の声は切なく、胸を抉られるような響きを持っていた。
「なんでって…キミだから」
じっとぼくを見詰める彼の瞳を見つめ返しながら、ぼくは答えた。
「キミは…だって…ぼくのものだから」
会いたい時に会えないのは嫌だし、話したい時に話せないのは嫌だと言ったら進藤は驚いたように目を見開いた。
「なんだそれ」 「わからないけど、そう思うから」
だからキミはぼくにフラれたけれど、だからって誰とも付き合ってはいけない。ぼく以外の誰かを好きになってもダメなんだと言葉を足したら見開いた彼の目はゆっくりと苦笑のような笑いになった。
「…それでもおれとは付き合ってくれないんだ」
おれの好きも受け取ってはくれないんだ? と囁くように言われて思わず俯く。
「付き合え無い。キミの気持ちも受け取れない」
それでもキミはぼくのものだから。一生永遠にぼくだけのものだからと繰り返し言ったら大声で笑われた。
「一つだけ確認いい?」 「いいよ」 「それって、おれは確保しておいて、おまえは誰か他のヤツと付き合ったり結婚したりするってこと?」 「まさか! ぼくは誰とも付き合わないし結婚もしない」
一生独身で過ごすつもりだと言ったら彼はわかったと言った。
「…うん、了解。おれはおまえにフラれたけど、一生他の誰も好きにならない」
そして一生おまえの側に居て、永遠におまえと打てばいいんだよなとぼくの言葉をなぞるように言った。
「そうだよ。そうでなければ許さない」 「…傲慢」
傲慢で最低で我が侭で非道い。
でも最高に嬉しかったから、一生おまえの側に居てやるよと、進藤は言ってぼくの体を拒む間も無く、そっと包むように抱いたのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※
解り難くてすみません。アキラがまだちゃんと自覚出来て無いってだけの話です。 自覚出来て無いけど、ヒカルは自分の!他の誰にも絶対にやらないと思っている非道い話です。
床に落ちていたスーツの上着を拾い上げる。
どうしてせめて椅子にかけておくぐらいが出来ないのだろうと思いつつ、ベッドを見たら、いかにもここで力尽きましたという感じで進藤が眠っていた。
いびきはかかないが、それでも子どもみたいな寝息をたてて眠るのが常の彼が、今日はそれすら聞こえ無い程、静かに深く眠っている。
「…そんなに疲れたのか」
疲れたよねと思い、履いたままの靴下をそっと脱がしてやった。
ワイシャツは体の下に敷いたまま、スーツのズボンは履いたままで、これはもうクリーニングに出しても皺が綺麗に取れるかどうかわからない。
(でも仕方無い)
それが許せてしまうくらい、今日の彼はすごかった。
盤の前に座り、すっと背筋を伸ばした姿からは鬼神の如き気配が立ち上り、一手一手置く石の音も空気を割らんばかりに響いていた。
見ていてぞくぞくするほどの集中力と精神力。
そして剥き出しで隠す気の欠片も無い闘争心。
ああ、キミとやれて本当に良かった。今のこのキミの前に居るのが他の誰でも無いぼくで本当に良かったとそう思った。
横浜の、海が見える綺麗なホテルで行われた棋聖戦七番勝負の最終局。
削ぎ落とし、注ぎ込み、互いに相手ののど笛を狙って石を置き続けた二日間の後に、待っていたのはぼくの半目勝ちだった。
「ちっ…くしょう」
進藤が本当に悔しそうにそう言ったのだけは覚えている。
でも後は何もわからない。本当に何もわからなくなってしまった。
疲れて、でも心は充実して、夢うつつのままインタビューして、進藤と検討したような気がする。
挑戦者だった彼は、最後までぼくに「おめでとう」とは言わなかった。
「結局またおまえが棋聖かよ」
そう憎々しげに呟いただけで、祝福めいた言葉は何一つ口にしなかった。それを大人げないと言う人もいたけれど、もしこれが逆だったらぼくもきっと彼に祝福なんか告げない。
「それじゃおれは先に帰るから」 「ああ…うん」
ぼくは後援会の人達に簡単な祝賀会を開いてもらうことになっていたので進藤の言葉にただ頷く。
「お疲れ様。気をつけて」
進藤は何も答えず、くるりと背中を向けたその後ろでひらひらとぼくに手を振った。
それが約四時間前。
二人で住むマンションに戻ってみたら、進藤は案の定一人で先に眠っていた。
思ったほど部屋は荒れていなくて、たぶんベッドに直行したのだなと散らばった服などを拾いながらそう思った。
そして見つけたベッドの上、彼は深く眠りこけていて、ほっとしたような、気が抜けたようなそんな気持ちになった。
「せっかく早く抜けて来たのに」
そんなにぼくに負けて悔しかったのかと言ったら「当たり前だろ」と眠っていたはずの進藤がぼそっと言った。
「悔しくて悔しくてはらわた煮えくりかえりそう」
なのによくもぬけぬけとおれの前に顔出せたなと、ふてくされてはいるけれど、薄く開けた進藤の目はぼくを愛しいものとして見詰めている。
「とにかく、おれ傷心だから!」 「はいはい」 「このまま寝るし、何もしないし」 「解ったよ」 「でも、おまえはここにいて」
一晩中、ねちねち嫌味を言ってやるんだから、おまえはおれの側にいなくちゃダメと言われて思わず笑ってしまった。
「ぼくだって疲れてる」 「でも勝ったじゃん」 「そうだね、勝てたのがキミにだからとても嬉しい」
キミ以外の人に勝ってもね、ここまで嬉しくは無いんだよと言って側に座ったぼくの腰に彼が腕を回す。
「性格悪っ」 「うん、キミもね」
それでもぼく達は恋人同士だし棋士だし、誰よりも一番戦う機会の多い敵でもあるしと続けた言葉に彼が笑った。
「王座貰った」 「え?」 「棋聖取り損ねたから、王座はおれが貰うから」
それから名人も天元も碁聖も、おまえが持ってるのも持って無いのも残りは全部おれが貰うからと、子どもみたいに口を尖らせて言う。
「いいよ別に」
出来るならねと言ったら進藤は一瞬本当にムッとした顔をして、でもすぐに笑顔になった。
「よーし本気で取っちゃる」
その時になって泣いて後悔しても遅いんだからなと言われてぼくも笑った。
「泣かないよ」
キミが相手なら後悔もしない。
心からの愛しさに肌が震えるのを感じながら、ぼくは彼の頭をかき抱いて、「取りに来いよ」と返したのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※
出来上がって一緒に住んでる二人。こういう事は日常茶飯事です。大変だよね。
風邪のひき始めなのかもしれない。
昨日の夜から頭が痛く、体の節々が痛い上に寒気がする。歩くのも億劫で怠くて怠くてたまらずに、出来るものなら布団の中で眠っていたいと思ってしまった。
(でも、だからってそう易々と休めるか)
ぼくにとって打つことは人生そのものであり、そのまま、生きる糧を得るための仕事でもある。
アマチュアならともかく(それでも許せなかったと思うけれど)仮にもプロが、風邪で手合いを放棄出来るものかと、くらくらする頭を押さえながら市ヶ谷に向かったら、電車を下りた所で進藤に出会った。
「あ、塔矢じゃん、おはよう」
こういうタイミングで会うのは珍しいよなと、にっこり笑われた瞬間、一秒前まであまりの苦痛にしかめっ面をしていたぼくは、ぱあっと笑顔になっていた。
「おはよう。そうだね、キミはいつもギリギリに来るから」 「そんなことねーよ、おまえがいつも早すぎるんだよ」
拗ねたように口を尖らせる様を見ながら思わず微笑む。そして微笑めたことに驚いた。
(なんだ風邪だと思ったけれど、そうじゃ無かったのかな)
進藤に会った途端気持ちの悪さが吹き飛んで、代わりに弾むような喜びが体一杯に沸き上がった。
もう頭も痛く無い。体のどこも痛く無い。引きずるような気怠さも無くなって、ぼくは非道く爽快だった。
「おまえ、今日は誰と打つの」 「川上七段。ほら、この前芹澤先生の研究会でキミが打った人だよ」 「ああ、あの人。そうかー、結構粘り強い碁を打つ人だよな」
頑張れよと言われて頑張るよと気負わずに返す。
「キミは誰だっけ?」 「おれ? 越智。へへへ、あいつと打つの久しぶりだからすっごく楽しみ」 「そうか。じゃあ終わったら並べて見せてくれる?」 「いいぜ、おれ明日何も無いし、なんだったらうちに来て泊まりがけで検討する?」 「ぼくも明日は何も無いし、もしキミがそれでいいなら」 「じゃ、約束な」
にこにこと笑いながらぼくは彼と控え室で別れた。
そして順調に打ち進め、昼は彼と彼の友人達と近くのファミレスで食べて、そして午後も快調に打った。
「…ありません」
中押し勝ちで勝った時、ふうと満足の息が漏れ、彼はまだ少し時間がかかりそうだったので、今の一局をゆっくりと検討した。
そして――。
「悪い、待たせたな」
元気いっぱい駈け寄って来る進藤と待ち合わせて一緒に彼の家に行って、そして楽しく検討をするはずだったのだけれど…。
そこから先の意識が無い。
進藤が言うにはドアをくぐって靴を脱いだ所で、ぼくはばたりと倒れ伏したらしい。
「おまえバカ?」
気がついて進藤に最初に言われた言葉がこれだった。
「どこの世界に三十九度ぶっちぎりで熱があるのに、へらへらと検討しにくるバカがいるんだよ」 「そんな…熱があるなんて知らなかったし」 「計らなくても体調激悪だっただろう! 頭痛いとか、くらくらするとか」
そもそもこんなに熱があったら、普通に立って歩くだけでもかなりしんどいはずだぜと言われてしばし考えた。
「そういえば来るまでは、ずっとそんな感じだった」 「だろ? なのになんで手合い終わってすぐに帰らなかったんだよ」 「だってあの時は気分が良かったし…」
何故だろう、朝進藤に会ってからぼくは苦痛を忘れていた。それどころか彼の笑顔を見て、最高に良い気分になっていたのだ。
「あ」
ぼくの呟きに進藤が「なに?」と顔を寄せた。
「きっとぼくは風邪じゃなく、進藤ヒカル欠乏症だったんだよ。だからキミに会えて嬉しくて元気になって―」 「阿呆」
即座に言われた。
「裏の小児科の先生に頼み込んで往診に来て貰って言われたもん。風邪! おまえ、ただの風邪」
それも結構こじらせちゃってる困った風邪っぴきなんだよと言われて「へー」と思った。
「とにかくこのまま明日も安静。先生明日も来てくれるって言ったから、とにかくおまえは眠っとけ!」 「でも、折角キミと居るのに何も出来ないなんて」 「いーから、とにかく何もしなくていーから!」
このおれが心をこめて看病してやるから、おまえは明後日までに体治しとけと言われて首を傾げた。
「明後日何かあったっけ?」 「おれもおまえも手合いがあるからだよっ!」 「ああ―」
そういえばそうだったと呟くぼくに彼は額を手で覆った。
「もう、やっぱおまえ変。有り得ないことべらべら喋ってるし…とにかく寝ろ。頼むから寝てくれ」 「…了解」 「後で何か食わしてやるから、今はとにかく少しでも熱が下がるように眠って体休めてくれって」 「…わかった」
そしてとろりと目を瞑る間際、進藤がそっとぼくの額に手を当てた。
「…あっついなあ。どうしてこんなに熱いのにわかんねーんだよ、おまえ」 「だって…」
本当に気分の悪さは消えていたから。
進藤に会い、笑顔を見た時に無くなった。つまり彼に会った嬉しさが、体調の悪さを凌駕したということなんだろう。
そう気がついてくすっと笑ったぼくを進藤がじろりと睨め付けた。
「何がおかしーんだよ、何が」 「ぼくはキミのことがものすごく好きなんだなあと思って」
しみじみと心からそう言ったのに進藤は真っ赤に顔を染めると大声で怒鳴った。
「だから! バカ言って無いで寝ろってば!」
病人に向かって言うには随分だとは思ったけれど、ぼくは素直に布団の中で目を閉じた。顔の側に置いた手をそっと彼の手が握る。
その瞬間、熱っぽく熱かった体が楽になった。少しだけ荒くなっていた呼吸も楽になる。
「ありがとう」 「ん?」
やっぱりキミはぼくにとっての特効薬だと言いたくて、でも言ったらきっと彼はまた真っ赤になって怒鳴るので、ぼくは賢く何も言わず、市販薬の何十倍も心と体に覿面な進藤の温かい手にそっと頬を寄せたのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※ 平熱になった後、若先生悶死。
棋士もまあ人間なので、時にムカつくこともあればガキみたいな殴り合いの喧嘩をしたりもする。
そもそも才能でぶつかりあっているのだから、手が出ないのがおかしなくらいで、みんな自制心が強いんだなあと、その方面にあまり強固な鍵のかかっていないおれは感心してしまったりする。
その日、打ち掛けが終わって戻って来たら、喧嘩だと皆が走って行くのに出くわした。
「何? 誰と誰が喧嘩してんの?」
今日は何があったっけなあとぼんやり考えていると、「塔矢が」と思いがけない声が聞こえた。
「塔矢が対局相手の六段と殴り合いの喧嘩をしている」
嘘だろ? マジかよと急いでかけつけて見ると、控え室で確かに塔矢がとっくみあいで喧嘩をしていた。
碁打ちになってほぼ十年、その間に自分を含め色々な喧嘩を見て来たけれど、塔矢アキラ様の野蛮な喧嘩を見るのは初めてで、しばし呆然と眺めてしまった。
「ちょっと、進藤! あんた塔矢くんと仲いいんでしょ」
止めなさいよと奈瀬にどつかれて改めて見る。
塔矢は上に乗られ思い切り頬を殴られていた。でもその瞬間に相手の鳩尾に思い切り蹴りも入れている。
「…結構やれんじゃん、あいつ」
決して強くは無いし、喧嘩慣れもしていないけれど、たぶん人が思っていたよりもずっとまともに喧嘩出来ている。さすがだなあと変な所で感心していると今度は伊角さんに揺さぶられた。
「止めた方がいいんじゃないのか、そろそろ事務の人達が来る頃だと思うし」 「あー…そうだな」
いくらまともにやれているとは言っても、相手の方が体力的に勝っていて、このままだと塔矢は結構痛い目を見てしまいそうだった。
それはやっぱり嫌なので、伊角さんと手分けして喧嘩を押さえる。
「ちょっ…離せ、進藤」
相手も相手で伊角さんに噛みついている。
「離せ、伊角。どうしてもこいつに思い知らせてやらなくちゃ気が済まないんだ」 「それはこっちのセリフだ、あれだけ無礼なことを言っておいてよくも」
負けずに怒鳴り返す塔矢をどうどうと宥めて引き離す。
「とにかく落ち着けって。もうすぐ打ち掛け終わりだし、このままじゃ手合い中止になっちゃうぞ」
喧嘩両成敗で両方負け、そんなの嫌だろうおまえと言ったら、いつもは絶対に黙るはずの塔矢が即座に言った。
「別に構わないさ、彼に謝罪させられるんなら」 「って、そんな熱くなるなよ。珍しいな。あいつ一体何言ったん?」 「それは―」 「進藤なんて大したこと無いって言ってたみたいよ」
奈瀬がぼそっと囁いた。
「は? おれ?」 「私も最初から聞いていたわけじゃないけど、進藤なんか全然大したこと無い、あんなヤツ、運とコネだけでここまで来てるって怒鳴り散らしてたもん、あいつ」
そうそうと他のギャラリーも口を出して来て、纏めてみると、あの六段は塔矢に向かって最初は「思っていたほどでもない」と当てこすりのように言ってきたらしい。
まあ盤外戦の軽いのみたいなものだから塔矢は完全無視していたのだけれど、それが気に入らなかったらしくしつこく絡まれてしまったようなのだった。
『噂の塔矢アキラがどれほどのものかと思ったら、結構平凡な手を打ってくるんですね』 『これでリーグ入り常連なんて詐欺みたいなもんだ』
親の七光りだの、元名人の子は得だとか散々言われてスルーして、そうしたら今度は話の方向がおれに向いてしまったのだという
『そういえば、あなたのライバルだと言う進藤ヒカル』
あれもそんなに大したことは無いと、その瞬間に顔色が変わったとギャラリーの証言に塔矢がムッとした顔になった。
『下手くそだし、考え無しだし、あれでよく勝てている』
ついこの間リーグ入りをかけて戦った、その勝ちも本当は譲られたものではないのかと、言われた瞬間に塔矢は相手を殴っていたのだと言う。
『よくもそんなことが言えたものだ。進藤の方があなたよりずっと尊い碁を打っているのに』
そしてその後は手も足も出るとっくみあいの喧嘩になって今に至るというわけだ。
「いや…でも、らしくないじゃんおまえ」
そんなことで怒らなくてもと言った瞬間おれは思い切り怒鳴られた。
「そんなこと? キミは自分を貶められてそんなことなんて言えるのか」
信じられない、許せない。少なくともぼくは絶対に許さないと憤った言葉に嬉しくなった。
「なんで? だっておれ、そんなに慎重な碁でも無いしさ」 「それでも、キミの碁は素晴らしいのに」
この間の一局も本当に一秒も目が離せなくて、相手が自分では無いことに歯噛みするほどだったというのに、そんな至高の一局を見て、くだらない感想しか抱けない、そのことに心底腹が立つのだと言った。
「大体、大したこと無いってなんだ。あの人よりキミの方がずっと強いよ」
それを汚すようなことを言われて黙っていられるかと、囲碁界の王子様は鼻息が荒い。
「まあ、それでもいいよ、もう」 「信じられない腰抜けだな、キミは!」 「いや、そうじゃなくて、もう午後の手合い始まるし」
もう散々手で殴ったんだから、今度は盤の上で叩きのめしてやればいいじゃんと、言ったおれの言葉に塔矢の瞳が少し鎮まった。
「盤で?」 「そ。そっちのがおまえ得意だろう。二度と刃向かって来ないくらい徹底的にやっちゃえよ」 「…わかった」
それでもまだ不満そうな色を残して塔矢はすうと息を吸った。
「打てるな? 普通に」 「当たり前だろう。キミじゃあるまいし」
打つよ、碁でこの落とし前はつけてやるよとまだ通常モードとはほど遠い神経らしい。
「伊角さん、そっち大丈夫?」
離れていた相手側に声をかけると「ああ、大丈夫だ」と返事がかえった。
「落ち着いたから平気だろう」 「こっちも平気」
にっこり笑って掴んでいた塔矢の腕を離す。
「ほら、行って来いよ」 「言われるまでも無い」 「勝てよ、きっちり」 「だからキミに言われるまでも無いって言っている」
そして塔矢は肩を怒らせたまま対局室に歩いて行った。少し前、先に行った相手の背中を睨み付けたままで。
「なあ、あれホントに大丈夫なの?」
二人が去ってしまってから、奈瀬が呆れたように声をかけて来た。
「まだ二人ともやる気満々みたいだけど」 「碁で晴らすだろ。二人とも碁打ちなんだし」
それにもし、万一それで収まらなかったら今度はおれが加勢するさと言ったら、あーあとお手上げのような声をあげられた。
「塔矢くん変わったわよね。絶対にあんたの影響だわ」 「そうか? 元からあいつあんなもんだぜ」 「そんなわけ無いでしょ、王子様が」
確かにあいつは王子様で、静かで真面目で礼儀正しい。
(でもおれにはずっとあんなだったよな)
最初からずっとあんなふうに直情で激しかったと思い返しながら、おれは自分のことで塔矢が怒ってくれたことを今更ながらにしみじみと、嬉しく幸せに思ったのだった。
※※※※※※※※ 若先生は直情短気。
「ただいま」と言った声の調子で、あ、こいつ機嫌悪いと思った。
「おかえり、言ってたより全然早かったじゃん」 「…途中で抜けて来たから」
疲れたように言って、持っていた紙袋を重たそうに床に置く。
「何それ」 「知らない」
知りたくも無いという雰囲気でさっさと奥に行ってしまうのに肩をすくめて中を見る。
「あっ、これ吉祥寺の有名なケーキ屋のケーキじゃん」
それと他に高そうな紅茶の缶とジャム、それにワインまで入っていた。
「今日指導碁に行ったのって、食品会社の社長さんだっけ?」 「違う」
××電機の重役の人だよと言いながら、バサッと布の音がするのは、着ていた服を乱暴に脱ぎ捨てているかららしい。
いつも几帳面でどんなに疲れて帰って来ても脱いだ服をそのままにしておけない塔矢がそんなことをしているということは、それだけ嫌な目に遭ったということなんだろう。
「どーしたん?」
真っ暗なままの寝室をそっとのぞき込んでみたら、塔矢は下着姿でベッドの真ん中に少し背を丸めるようにして寝そべっていた。
「何? 脂ぎったオヤジにセクハラでもされた?」 「違う。園田さんはお父さんの代からの知り合いで、そんなことをする人じゃないから」 「だったらなんでそんなに怒ってるんだよ」 「ぼくは別に怒ってなんか――」 「怒ってるだろ? 眉間に皺寄せちゃってさ」
それ、おまえが怒っている時の癖だからと言ったら塔矢はじろりとおれを睨んだ。
「解ったふうに言われるのは好きじゃない」 「へいへい」 「でも、利用されるのはもっと好きじゃない」
ぽつりと呟かれた言葉にえっと思って促すと、塔矢はおれから視線を外し、またぐったりしたようにベッドに頭をつけて息を吐いた。
「今日、指導碁をしたのは園田さんなんだけどね、その部屋に知り合いだとか言う議員も来ていて」
その人も碁が好きだからと一局打つはめになったらしい。
「なんだよ、契約違反じゃん。だったらそのおっさんの分も指導碁料貰えばいいのに」 「くれたよ。ぼくは断ったんだけど、無理にお願いしたからって園田さんが自分の分を倍にして払ってくれた」
それもぼくは不満だったんだけどと、言い淀んで塔矢は再び眉を寄せた。
「その人と打っている所を写真に撮られた」 「写真?」 「そう。後援会の会報に載せるんだって…。塔矢棋聖と打ったなんて滅多に あることじゃないから記念に載せさせて欲しいって頭を下げられてしまってね」
嫌だったけれど断れなかったと言った。
「えーと、それって」 「よくあるんだよ。選挙の前とか、大企業のトップが代わる時とか」
政界にも財界にも囲碁を嗜む人は多い。だから元名人の塔矢行洋を知る者は多く、その二世である塔矢アキラと繋がりがあるということはプラスイメージになるのだという。
「でも、おまえが知ってるのはその、園田さんて人の方だろ?」 「そうだよ。でも会報に載った時にはきっと違う書き方をされる。いかにもぼくと親しくて、日頃から打っているように紹介されるんじゃないかな」
それがとても嫌なんだと塔矢は言った。
「親しくも無い、知り合いでも無い人のためにぼくとぼくの碁が利用される。鳥肌がたつほど不愉快だ」
けれど昔からの知り合いの手前、無下にも出来ない。それが更に不快なのだと塔矢は言ってから目を閉じた。
「…疲れた」 「お疲れ」
側に座ってぽんと体に手を置いたら、塔矢はその手にぎゅっとしがみついた。
「ぼくはぼくを利用する人と付き合いたくなんか無い」
なのにどうしてもそうせざるを得ないのが悔しいと、すがられて本当に可哀想になった。
「おれはそんなの無いもんなあ。おまえ、先生のこともあるから大変だよな」 「お金を出せば、手土産を持たせればそれでいいと思ってるんだろうか」
ぼくも随分安く見られているものだよねと、声が自嘲気味になって来たので唇に指で触れて止めた。
「だったら断れよ」 「だからそれが出来ないんだって言ってるじゃないか!」 「それでも、こんなに消耗するほど嫌なんだったら、その場ぶっちぎって出て来いよ」
おまえ本来そーゆータマじゃんと言ったら心なし口先が尖る。
「キミじゃあるまいし、そんなこと出来ない」 「うーん、そうか…」
立場とか環境とかしがらみにグルグル巻きにされている塔矢のイメージが浮かんで苦笑した。
(まあ確かにおれとは違うもんなあ)
それだけで無く、塔矢はとても真面目だから。真面目で優しいから、どんなに不快でも親の代から付き合いのある人に失礼な態度を取るなんて出来ないんだろう。
「んー、じゃあさ」
寝そべったその頭をそっと撫でてやりながら言う。
「じゃあ、また今度そういうことがあったらすぐにおれに電話しろよ」 「キミに?」
キミに電話して何になるんだと唇が皮肉に歪むのをまた指で止める。
「うん。そうしたらどこに居てもすぐに飛んでって、おまえのことかっさらって逃げてやるから」
そうしたら自ら断らなくても嫌なことしないで済むじゃんかと、言ってやったら塔矢は黙った。
「おまえは何にもしなくていいよ。おれが無理矢理連れ出すんだから、誰もおまえを悪く言ったりしないだろう?」
塔矢先生の面子が潰れることも無いしと言ったら、塔矢はゆっくり目を開いておれを見た。
「…そんなことをしたらキミが悪く言われる」 「いいよ、別に」 「別に犯罪犯すわけじゃないし、おれ、怒られるのなんか慣れてるし」 「怒られるぐらいで済むわけ無いじゃないか――バカ」
キミは本当にバカだなあと、塔矢の声は呆れたように溜息と共に吐き出され、でも決して本気で呆れてはいなかった。
「そういう人達には碁界に援助してくれている人だってたくさんいるんだよ? もし機嫌を損ねてそれを打ち切られたら囲碁界は大きな痛手だ」 「囲碁界のプリンスが、嫌な目見て調子落とす方がよっぽど痛手だと思うけど?」
少なくともおれは嫌、おまえがこんなふうに弱ってしまうなんて絶対嫌と言ったら塔矢は笑った。皮肉では無く、素直に嬉しそうな笑みだった。
「だからってキミにそんなことさせられない」
させるくらいなら嫌なことには目を瞑ると塔矢は言った。
「そのたびにこんなに疲れちゃうのに?」 「そのたびにキミがこんなに優しくぼくを甘やかしてくれるんだって解ったからね」
ぼくにとっては関係無い、好きでも嫌いでも無い誰かに利用されることよりも、そっちの方が重要かもと言っておれに手を伸ばす。
さらりと撫でるように頬に触れて、それから首に腕を回した。
ゆっくりおれを引き寄せて、小さな声でぽつりと言った。
「…本当に攫いに来てくれる?」 「行くよ、もちろん」
即座に返した。
「速攻で行って、メーワクオヤジども蹴散らしてやる」 「…ありがとう」
たぶん絶対呼ばないと思うけれど万一の時はよろしくと言って、塔矢はおれに抱きついた。
「キミがいるから生きていける」
大袈裟なようだけれど、それはたぶん塔矢の心からの言葉なんだろう。
小さい頃から人の何倍も重たいものを背負って来た。そのくせ誰に助けてとも言えない。痩せた背中が痛々しかった。
「本当に呼べよな」 「…うん」
実際にまたそういうことに遭っても、きっとこいつはおれを呼ばない。
呼ばないで我慢してしまうんだろうなと心の中では思ったけれど、少しでも背負った重荷を軽くしてやりたくて、おれは塔矢を抱き返すと、「絶対に絶対に本当に呼べよな」と何度も繰り返し囁いたのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※
んー、なんつーか、利用されるのは嫌いです。 アキラにも碁だけさせてあげたいな。
| 2011年05月11日(水) |
(SS)百万倍もいい匂い |
夜遅く帰宅してエレベーターの昇降ボタンを押したら、降りて来たそれには人が乗っていた。
同じマンションの住人らしい若い女性がすれ違うように出て行って、代わりに乗り込んだ時、あっと思った。
(いい匂いがする)
女の子が居ると、大抵は化粧品や香水のいい匂いがするものだけれど、これは後者であるらしい。
爽やかできりりとした香りは結構好みのものだった。
「そーいや、そんな感じの子だったな」
ちらりとしか見ていないが、この香水が似合いそうなさっぱりとしたタイプだった。
「美人だったし。モテるんだろうなー」
そう呟いて部屋に戻る。
鍵を開けてドアを開けた瞬間、ふわりと漂う香りがあって、さっきとは桁違いの「あっ」が漏れる。
「塔矢、来てんの?」
少し前、一人暮らしを始めたおれは真っ先に塔矢に鍵を渡した。
他の誰にも渡して無い。おまえだけだからいつでも好きな時に来てと言ったものの、塔矢はまだ来たことが無かったのだ。
それが今日は珍しく来てくれたらしい。
「おかえり」
奥からやって来た塔矢はおれを見るとにっこりと笑った。
「何か食べて来た? もしまだだったらシチューがあるけど」 「って、え? 作ってくれたの?」 「お腹が空いたから。もしキミがまだ当分帰って来ないようなら先に食べるつもりでいた」 「食べる。もうすぐに食べたい。お腹ぺこぺこ」
おれの言いように塔矢は笑って、それじゃ着替えておいでと子どもに母親が言うような優しい口調で言った。
「キミが来たなら、サラダも作るからゆっくりシャワーでも浴びてくるといい」 「…うん」
おれはお言葉に甘えてゆっくりシャワーを使って、それから着替えて塔矢の元へ戻った。
「食べる?」 「うん」
言いながらぎゅっと抱きしめたら「そっちじゃない」と軽くこづかれた。
「解ってるって。でもちょっと抱きしめさせて」
だってなんだかすごく、すごーく嬉しいからと言ったら塔矢は笑った。
「これくらいで大喜びだな」 「喜ぶよ、そりゃあ」
二泊三日の伊豆行きは、十段戦の三局目でこれを取ったら勝てたのに、つまらないミスで負けてしまった。
後二局あるから挽回出来ないわけじゃないけど凹んだのは確かで、そんなおれを心配して、たぶん塔矢は来たんだろう。
でもそんなことはおくびにも出さない。
「シチューが焦げる。火にかけたままなんだ」
照れからから少し邪険におれを払うのをまだもうちょっとと抱き寄せる。
「んー、いい匂い」
首筋に顔を埋めてくんくん嗅ぐと「犬め」と小さく笑われた。
「こんな躾がなってない犬にした覚えは無いんだけれど」 「躾られてるって。だから押し倒して無いんじゃん」
でも良い匂い。ドアを開けた途端すぐに解った。
たぶん本当は煮込んでいるシチューの匂いの方が強く感じられたはずだった。でもおれの鼻はそこに混じったこいつの肌の香りをちゃんとしっかり感じていた。
「おまえなんかつけてる?」 「いや?」 「そーだよな。でもいつも凄く良い匂い。おれ、おまえの匂い大好き」
ふわりと甘くて、でも甘過ぎなくてきりっとしてて、そういえばさっきエレベーターで嗅いだ、あの女の子の香水の匂いとちょっと似てる。
(でも塔矢のが百万倍いい匂い)
いい匂いすぎてあまり嗅いでいると変な方向に気持ちが向くのが難点だが、今この瞬間はおれに溢れるような幸せだけを感じさせてくれた。
「ほら、いい加減にしないとシチューが台無しになるから」
ぐいと押されて仕方無く退く。
でもまだ香りはおれの体についていた。
優しく甘い塔矢の匂い。
「うん、やっぱこれに勝るものは無いよな」
思わずぽつりと呟いたら、なに?と振り返り尋ねられたけれど、おれは黙って手を振って、なんでもないと答えたのだった。
※※※※※※※※※※※※※
珍しくヒカルを甘やかし放題のアキラです。これで相手が自分だったらきっと会いもしないんでしょうに。
| 2011年05月10日(火) |
(SS)誠心誠意で愛してる |
「で、あのスミマセン。スル方がやりたいんだけどやらせてくれる?」
お互いに好きだということが解って、次に進藤が拝むようにして言ったのがこれだった。
「おまえ男らしーし、下とかプライド的に許せないものがあると思うし、絶対嫌だとか思っていると思うんだけど、おれは圧倒的にされるよりしたい…デス」
とにかくしたい。おまえにいろんなことしたくてもう気が狂いそうなので、出来ればお腹立ちを収めてそうゆうことにしてくれませんかと、進藤にしては珍しくただひたすらにお願いをするので可笑しくなった。
「別に…いいよ」
そもそも、最初からする方という意識が無かった。
進藤ならしたがるだろうし、されて当たり前的な感覚があったので彼がどうしてそんなにも恐縮しているのか解らない。
「いいの? 本当に?」 「キミがどう思っているか知らないけど、ぼくは別に拘りは無いし、キミがしたいようにしてくれたらそれが一番嬉しいと思ってる」
どうしてだろう。碁だったら絶対に譲らないと思うのに、碁を離れるとぼくは進藤に大して非常に受け身だ。
押しには勝てないという意識があるのと、たぶん彼には喘ぐより、喘がせてくれる強さを自分は望んでいるのだろうと思う。
「えーっと、それじゃよろしくお願いします」 「対局じゃないんだから」
思わず吹きだして笑ってしまったけれど、どうして普段は無礼なのにこんな時に真面目なのか。
(でもそれはきっとぼくのことが好きだからだよね)
彼なりの悩みに悩んだ勝負手をぼくはこれ以上無く快く思った。
(そもそもぼくの方がキミのことをずっと、ずっと好きなんだから、その時点でもうキミに勝てるわけがないんだ)
言ってやるつもりは無かったけれどこれは紛れも無い本音だった。
「進藤」 「なっ、なに?」
ごそごそとぼくの服を脱がしにかかっていた進藤はびくっとして顔を上げた。
「何? おれなんかマズイことした?」
やらかしちゃった? と狼狽えているのでまた笑った。
「マズイも何もまだ何もしていないじゃないか」 「そ、そーか。そーだよな」
でも手が震えちゃってと言うその顔に愛しさが溢れる。
「で、何?」 「まだ言っていなかったなと思って。キミが好きだよ」
にっこりと笑って言ったら進藤は呆れる程はっきりと真っ赤になった。
「なにそれ、心理戦?」 「違う、心からの言葉だ。キミが好きだから何をされても構わない。それだけ覚えていてくれたらと思って」 「あっ…」
ありがとうございマスと耳まで赤く染めながら進藤はバカ丁寧にぼくに言った。
「誠心誠意、大切に頂かせていただきマス」 「バカ―」
本当に本当にバカだなあと思いつつ、それでもそんな彼が大好きで、愛しくて嬉しくてたまらないので、ぼくはまだ手の震えでボタンを外せないでいる彼の代わりに自分から進んで、服のボタンを外し、ぎゅっと彼を抱きしめたのだった。
※※※※※※※※※※※※※※ 緊張のあまりテンパって、有り得ない敬語が連発になること請け合い。 「ご満足いただけますよう、更なる精進を続けたいと思います」 「フツツカ者ではありますが、今後も(見限ること無く)よろしくお願いいたします」等々。
| 2011年05月08日(日) |
(SS)覚悟のススメ |
猫と小鳥の動画を見た。
生まれた時から一緒に居るので、互いに食うか食われるかという仲だと解っていないのかもしれない。
特に鳥の方が何の警戒心も抱かずに猫に近付き、つついたりさえずったりしているのにひやひやとした。
ほんの少しあの口が噛めば一瞬で細い首は折れるんだろうに、ほんの少し猫がその気になってひっかけば爪で引き裂かれるんだろうに、鳥は全く無頓着で、だったらいっそ少し思い知らせてやればいいと思ってしまう。
「なあ、これ、鳥がバカなん? それとも猫がバカなん?」
パソコンの画面から顔を上げ、塔矢に聞いたら「なに?」という顔をされた。
「なんつーか、これって捕食する側と捕食される側なわけじゃん? なのにまるでそんなことなんか無いみたいに鳥は猫に近付くしさ、猫は猫で手ぇ出さないしで、両方バカ過ぎると思わないか」
どれどれと覗きに来たので最初から見せてやる。塔矢はじっと画面を見た後、そうだねと苦笑して小さく言った。
「別にどうでもいいんじゃないかなあ」 「なんで? 一歩間違ったら結構悲惨なことになるぜ?」
どっちにとっても悲劇だと口を尖らせるのに涼しく笑う。
「うーん、だってそもそもそういう育てられ方をしていないし、お互いに相手がどういう生き物なのか本質を解っていないし、それでいつも側に居たら友達だって思ってしまったって仕方無いだろう」
「でも、それでも猫は猫、鳥は鳥じゃん。いつ猫が本性出して鳥のこと『美味そう』って思っちゃうかもしれないのに」 「ああ」
気がついたように言って塔矢は笑った。
「なんだキミは結構優しいんだな」 「何が?」 「安心して側に来て、食われてしまったら鳥が可哀想だと思っているんだろう」 「…当たり前だろ。どう見ても鳥のがひ弱いし」 「でもその代わりに飛べる。その気になればずっと高い所にとまったまま、降りて来ないことだって出来るんだ」
もし万一猫がそういう雰囲気を出したら、いくら鳥だって飛んで逃げるさと塔矢は言った。
「それでもさぁ」 「それでも逃げなかったとしたら…気配を感じても甘んじて牙を受けたのだとしたら、それは合意ってことになるんじゃないかな」 「合意?」 「そう。猫は後で悲嘆にくれるかもしれないけれど、鳥の側には食べられても別に恨まない。後悔しないって意志があったのかもしれない」
だから心配しなくていいんだよと言われてぐっと言葉に詰まった。
「それ…もしかして例え話?」 「いや? でももしそうキミが思ったならそうかもしれないね」
でも少なくともぼくは食われて文句は無いし、それを後悔してもいない。案外そういうものだよとさらりと笑う。
「でもそれって…」 「まだ何か?」 「いや、なんでも無いデス、もういいデス」
敵わない。
そのきっぱりとした揺るぎ無い意志にはいつまで経っても敵わないなあと、おれはそれが悔しくて、それこそ拗ねた猫のようにちょいと塔矢を引っかけると、無理矢理抱きしめてみたのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
そこらへんをちゃんと描いた「あらしのよるに」は名作だと思うんですよねえ。
あ、弱ってる。
塔矢を見てそう思った。
困っているとか、難儀しているとかそういう意味の「弱る」では無く、本当 に体調がどうかして苦痛を感じているらしい「弱る」だった。
(でもあいつ、そういうの気付かれるの死ぬ程嫌がるからなあ)
他人にはもちろんで、一応恋人であるヒカルに気遣われるのもアキラは非道く嫌がった。
ましてや初めて呼ばれた研究会ではそうだろう。
「和谷、ちょっといい?」
ヒカルは悪友を呼び出して何やら低い声で言葉を交わした。
「ああ、うん。いいぜ」
じゃあ任せたとぽんと言われて、ヒカルは何食わぬ顔で座に戻るとそれから隣に居るアキラの袖をくいと引いた。
「付き合えよ」 「え?」 「今日は近所の店休みで出前が取れないんだ。だからおまえとおれが買い出し係」
おまえは今日からの新入りなんだからみんなの分奢れよなと、しれっと言われてアキラはむっとした顔になったものの、そういうものかと納得はしたようだった。
「何がいいの?」
顔だけ和谷を向いてそう尋ねる。
「何でもいいよ。進藤が詳しいから聞いて」 「解った。それじゃ、もう行った方がいいのかな」 「いいんだよ。だからおれが行こうって言ったんじゃん」
そしてそのまま腕を掴んで連れ出した。
「どこまで買いに行けばいいんだ?」 「んー、もうちょっと先」
尋ねてものらりくらりとはぐらかされ、連れて行かれた先がヒカルの住むマンションだったのでアキラは思い切り顔を顰めた。
「どこか店に買いに行くものだと思っていたけど」 「買いに行ってもいいんだけどさ、この前実家に帰った時、肉の塊もらったの思い出してさ」
ちょっと炙ってローストビーフを作るから、それでメシだけ買って帰ればいいだろうと言う。
「あ、メシも炊いちゃえば金が浮くな」 「そのくらい別にぼくは出し惜しみなんかしないけれど?」 「節約って言葉おまえ知ってる? おまえと違っておれらはみんなびんぼーなの。だからこうやって買って来る代わりにおでん作って持って来るってのもあるんだから」
黙って言う通りにしろと言われて口を閉ざした。
「それで? どうすればいいんだ」 「おれが作るからおまえちょっとそこで待っててくれる」
ヒカルは冷蔵庫から大きな牛肉の塊を取り出すと、アキラの方を見ないままで言った。
「大体1時間くらいで出来るから、その間おまえはテレビでも見てて」 「ぼくは別に」 「テレビが嫌なら雑誌でもなんでも見ててくれていいよ」
好きにしてての声に仕方なくアキラが足元の囲碁雑誌を拾い上げるのをヒカルはちらりと見た。
「―塔矢」
10分程が過ぎ、ヒカルが小さく声をかけた時、アキラから返事は無かった。
そっとのぞき込んで見るとアキラはヒカルのベッドの上で伏せるようにして眠っていた。
「…まったく我慢強いのも問題だよな」
しんどかったんだろうに一言も言いやがらねえと、溜息とともに言いながらヒカルはそっとアキラの体に薄い掛け布団をかけてやった。
それでも起きない。
それくらいに弱っていたのだと思って更にもう一度溜息をつく。
「おれの前くらいでは素直にバテてくれればいいのになあ」
いつかそうならねえかなと呟きながらヒカルは和谷にメールした。
『やっぱり塔矢具合が悪い。後で差し入れするから今夜はおれら抜けさせて』
そして返事を待たずに携帯を置く。
「さて、どーすっかなあ」
口実ではあったがローストビーフは本当に作り始めている。肉ではあるけれどそんなにしつこく無いものだから具合が悪くても塔矢はこれは食べられるかもしれない。
「後、なんか野菜のイッパイ入ったスープでも作るか」
もし肉がダメでもスープなら喉を通るだろうと、ヒカルはよしと頷いて、それからアキラの額にそっと触れた。
触れる前からもう解っていた熱さが指にはしっかり伝わったが、アキラはぴくりとも動かなかった。
「…おやすみ」
小さく囁いて部屋を出る。
明りを消した中、アキラの寝息が規則正しく響くのをヒカルはしばらく聞いていて、それからくるりと背を向けると、これ以上無い程優しい顔で微笑んで、料理の続きをするために静かにキッチンに戻ったのだった。
※※※※※※※※※※
アキラはどんなに具合が悪くても人に弱みを見せるくらいなら死んだ方がマシと思っているタイプ。
でも、ヒカルがこじ開けて行くから段々ヒカルだけには素直になって行くことでしょう。
| 2011年05月06日(金) |
(SS)将来の夢は専用主夫 |
昼はチャーハンにしたから夜はパスタにしよう。
冷蔵庫に鮭の切り身があるから翌朝はそれにご飯とみそ汁で、野菜が無いと言われたらトマトでも切って出してやればいい。
その次の昼は焼きそばにしようか、いっそ外に出て食べてもいいなと、そこまで考えてヒカルは失笑した。
「…おれは主婦か」
主婦でも主夫でも無いけれど、恋人が促さないと積極的に食べない性質なのだから仕方がない。
まだベッドで眠っているはずの恋人―アキラは、昨夜も今朝もあまり多くは食べていない。
『もう少し食わないと体が持たないって』 『そんなことは無い、腹八分目って言うだろう』
「…八分目どころか三分目くらいしか食って無いじゃん」
疲れているのだと、それはヒカルも解っていて、でも解っているから余計に少しでも食べさせたくなる。
「別に痩せてんのはいいけど、顔色悪いのはこっちが見てて堪えるんだよなぁ」
手合いが続けば更に削げる。
やつれたなと思うと、休ませること無くその体を抱いている自分がまるで鬼 畜のようにも思えてくる。
「とにかく、そうだな。やっぱ明日の昼は外で食べよう。この前門脇さんに教えて貰ったフレンチなら、塔矢も結構好きだと思うし」
そしてそれからその後は―。
「ちょっとだけ買い物して、後はご褒美に好きなだけ打ってやるかな」
何しろあいつの大好物は、おれよりも食いモンよりも碁だもんなあと苦笑しつつ、ヒカルは目の前の棚からオレンジを取り上げると無造作に籠の中に放り込んだ。
「ビタミンも大事、あいつには」
あれもこれも足りない、どれもそれも摂らせたい。
つらつらと考えながら食材を眺める。
独身男のするこっちゃ無いなと思いながら、それでもこうしてアキラのために色々考えて買い物をする。それがヒカルにはとても楽しく、シアワセだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
専業ではありません。あくまで「アキラ専用主夫」です。
| 2011年05月03日(火) |
(SS)ひまわり男と月下美人 |
囲碁ファンとの交流会で、進藤はたくさんの若い女性に囲まれていた。
こういう時、取っつきにくいぼくにはほとんど声がかけられることは無く、放っておいて貰えるので有り難いが、彼がなかなか戻って来ないのには閉口する。
『だってさー、ファンです。応援してますって言ってくれてるのを邪険に振り払ってくるわけにも行かないじゃん』
前に同じようなことになった時、少々の皮肉をこめてキミはモテていいねと言ったら進藤はむっとしたような顔でぼくを見た。
『大体、おまえが悪いんじゃん。綺麗だけど怖い顔してるし近寄るなオーラを出してるから、その分おれの方に来ちゃうんだって』
半分は絶対おまえのファンだと言われて、それは違うなと思った。
進藤は子どもの頃と違って背も伸びて、随分見た目が良くなっている。恋人であるとの欲目を抜いても格好いいと思うし、顔立ちもいいとそう思う。その上碁でも成績が良く、初タイトルまで後少しという状況なのだから、放って置けという方がおかしいだろう。
『それでもさ、別におれ、嬉しいわけでもなんでもないし』
ぼくの不機嫌をうっすらちゃんと理解していて、まんざら弁解でも無くそう言っていたけれど、今この瞬間目の前でやに下がった顔で笑っているのを見ているとそれも少々疑問に思える。
「ただいま」
30分程して、ようやくぼくの元に戻って来た彼は、疲れた、やっと抜け出せたとしきりにぼやいて溜息をついた。
「打つ子はまだいいけどさ、みんなそんなに打たないらしいのに、どうしておれなんかと話がしたいんだろうな?」
「それはキミと親しくなって、付き合いたいと思っているからだろう」
付き合って、恋人になって何れはこの男を手に入れたい。そういう気持ちがあるからこそ綺麗に着飾って、最上の笑みで彼に笑いかけるんだろう。
「キミだって満更でも無さそうだったじゃないか」
「え? おれ??」
囲まれている間何も口に出来なかったと、通りがかったウエイターからカクテルを受け取っていた進藤はぼくの言葉に素でびっくりした顔をした。
「は? え? おれが? どうして???」
「なんだ気がついていなかったのか。キミ、でれでれと鼻の下を伸ばして、ものすごく緩んだ顔で笑っていたぞ」
「え? あっ! あー…」
言われて心当たりがあったのだろう、進藤はカクテルを口に運びながらにやっと笑った。
「あれね。うん、確かにおれ、笑ってたかもな」
「ほらみろ、今日は何人に携帯のアドレスを教えたんだ」
「教えて無い。誰にもそんなの教えて無いよ」
だってそんなの、ちょっとでもこっちも気があるみたいに思われるじゃんかと進藤はさらりと言ってぼくを見た。
「おれにはちゃんと好きな人がいる。だから誰とも遊びでも付き合うことは出来ませんって言ったらちゃんと解ってくれたよ」
「へえ?」
「おまえどう思っているか知らないけど、おれはこれで結構真面目で誠実な男なんですけど」
「まあ、そういうことにしてあげてもいいけれどね」
その割にいつまでたっても彼の周囲から女の子の姿は消えないなと、これは胸の中だけで苦く思う。
本当に、彼が不実だとは思わないけれど、好きで好きでたまらない相手に若く綺麗な女性達が群がって行くのは正直不安だし面白く無い。
「おまえさ」
知らず考えていたことが表に出てしまっていたのだろう、のぞき込む進藤に顰めた眉をつんと突かれて笑われた。
「さっきおれが笑っていたって言ったじゃん?」
女の子達に囲まれて、非常にだらしない、やに下がった顔で笑っていたと言ったよなとさっきぼくが言ったことを繰り返す。
「そこまでは言っていない。鼻の下が伸びていたと言っただけだ」
「いいよ、どうでも、もう。あれってどうしてだと思う?」
「どうしてって、言わせたいのか? 殴っていいならこの場で殴るぞ」
「なんで? おまえのこと考えてたのに」
「え?」
思いがけないことを言われてびっくり顔になったぼくを進藤はさも可笑しそうに見詰めている。
「この子達、それなりにレベル高いし可愛いんだろうなあって思ったんだけど、おまえの方が百万倍も一億倍もずっと綺麗で可愛いって、そう思ってたんだ」
そしてそんな美人でカワイイ恋人が自分のことでむっとしているなんて幸せ過ぎて死ぬかもしれないとそうも思っていたのだと言われて頬がじんわりと赤くなった。
「…そんなくだらないことを考えていたのか」
「うん。目の前の誰もまともに見たりしてないよ。だってほとんど上の空で早くおまえん所に戻りたいなーって思ってたから」
そして戻って来てみれば嫉妬にかられたおまえにこうしてねちねち苛めて貰える。
「そりゃ、顔だってだらしなくデレるって」
「ば――――――」
ぬけぬけと言われてさも嬉しそうに見られて、ぼくは本当に呆れてしまった。
「臆面もなくそういうことを言うのは感心しない」
「でも、そんなおれが好きなんだろ?」
あそこに居た女の子達、端から全員ぶち殺したいって思うくらい、おれのこと深く愛しちゃってるんだろうと言われてひっぱたこうかと思ったけれど止めた。
「…そうだね。そこまでは考え無かったけれど、後五分、でれでれと笑っているつもりなら殺してぼくだけのものにしてしまってもいいかなとは思ったよ」
「怖ーっ」
言いながら、でも進藤は笑ってる。
「おれ、いいよ。おまえなら」
「やらないよ。そんなことしたらもう打てない」
「ちゅー出来ないじゃないんだ」
はっきりとがっかりしたように言われてぼくも笑った。
「それはおまけみたいなものだから」
「ひでーっ!」
碁も体も顔も、このしょうもない性格も全てひっくるめて愛している。キスはとても重要だけど、彼とぼくとの関係を形作る行為の一つでしか有り得ない。
「携帯貸して」 「ん? はい」
躊躇無く渡してくれる素直さに飼い犬の忠実さをぼんやりと思った。
「…確かに誰ともアドレス交換して無いみたいだね」
「信用して無かったのかよ」
「信用してたよ。でも念のため」
キミのために見たんだと言ってやる。
「なんでおれのため」
「さっき言っただろう。ぼくは案外嫉妬深いからね。そんなぼくにキミがうっかり殺されないように見てやったんだ」
「ふうん」
ならいいよ、携帯見てもおれのこと殺してもおまえなら全部何もかもOKだからと、言いながら不用意にまたファンだという子に捕まった。
本当にこれは本人の同意も得られたことだし、殺してぼくだけのものにしてもいいのではないか?
彼の飲みかけのカクテルを取り上げて続きをそのまま飲みながら、女の子相手にだらしなく笑う、彼の顔をぼくはほろ苦い想いで眺めたのだった。
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和谷くんや伊角さん、冴木さんも結構モテます。アキラは女嫌いが定着してるし、恐れ多すぎて誰も近づけないんです。
| 2011年05月02日(月) |
(SS)房総半島の暴走 |
韓国語を習ったのは、そもそも北斗杯のせいだった。
北斗杯が無くてもいつか習ったとは思うのだけど、せっかくの棋戦、通訳を介してでは無く直接会話して検討したいと思ったからだ。
そしてそれはある程度叶い、じっくり話し合うことは出来なくても、対局の後、もどかしい思いをすることなく直前に打った一局について話をすることが出来た。
長い会話になるとまだ覚束ないが、それでもレセプションでも挨拶程度の会話は出来て、まあ習った甲斐はあったかなと自分では思っていた。
それから数年、北斗杯は主催企業のイベント自粛で開催されなくなってしまったが、対局した海外の棋士達とぼく達の間では未だにやり取りがされていた。
ほとんどはネットを通じての棋譜や情報のやり取りだったけれど、進藤は全く韓国語が出来ないにも関わらず、洪秀英が日本語が出来るためにあまり苦労無くそれ以外の話もしているらしい。
何を話しているのかはしらないけれど、たまに電話で直接会話までしているのには驚かされる。
『や、だって通じないことがあってもニュアンスで解るじゃん』
そう言って、彼は時にあんなに毛嫌いしていた高永夏とも話をしているらしいのだった。
『んー、確かにあいつ嫌いだけど、話してみたらそんなでも無かったっていうか』
それよりも間違い無く強いヤツと情報交換出来る方が重要だからと進藤の答えは潔い。
「…だからって、わざわざたまの休みに会いに行かなくてもいいのに」
ぼくが朝からずっと不機嫌だったのは、進藤がこの連休を利用して韓国に行ってしまったからだった。
連休とはいえ、棋院では催しもあり棋士がほいほいと海外に行っていいわけは無かったのだが、進藤は上手く時間をやりくりして、一泊二日という強行スケジュールで韓国行きを決めてしまったのだった。
「ぼくだって行きたかったのに」
『でもおまえ、この日程だと無理だろう?』
前の日も次の日もびっちり予定が入っているんだから無理だよと、彼の言うことは正しいのだが腹が立つ。
どうしてぼくを置いてあっさりと韓国になんか行けるのか、そう言いたくてもプライドで言えず、ぼくは苛々と彼抜きの時間を過ごしていた。
それでもたかが一泊、我慢していればすぐ過ぎると思って目の前の仕事に集中していたのだけれど、帰って来る予定の日、いきなり彼からぼくに電話がかかって来たのだった。
『塔矢?』
悪い、ゴメンと矢継ぎ早に謝るので何かと思ったら、どうも乗る予定だった飛行機がエンジントラブルで欠航になってしまったらしい。
『すぐ他の便を探したんだけど、何しろ今って連休じゃん?』
どうにか席を見つけてチケットの手配をしたものの、一日帰国が遅れることになってしまったと。
『だからゴメン、棋院へもこの後電話するけどその前におまえに言っておきたくて』 「いいよ、解ったから」
焦らずに帰っておいでと腹の中では大不満ながら、それでもぼくは感情を殺してそう言った。
(韓国にもう一泊?)
また一日ぼくを放っておくつもりかと、理不尽であるとは解っていても彼と彼と共に居るはずの韓国棋院の棋士達に怒りを覚えずにはいられない。
『ほんとごめんな。帰ったら埋め合わせするから』 「いいって、別にぼくは大丈夫だから。それより電話代がもったいないからキミは早く棋院に連絡するといいよ」 『わかったよ、ちぇーっ、もっと寂しがってくれればいいのに』
口を尖らした風の彼の電話が切れて、ほうっと溜息をついた時だった。まだ持ったままの電話がいきなり鳴った。
「……もしもし、進藤?」
あまりに間が無かったので、何か言い忘れがあって彼がかけて来たのかと思ったのだ。
ところが受話器から流れて来たのは彼のものでは無い声で、しかもそれは韓国語だった。
塔矢アキラかと、ぶっきらぼうな物言いにむっとして、でも韓国語だから決してそうなわけでは無いんだろうなと思い直した。
「そうですけど、あなたは?」
記憶力を総動員してなんとか韓国語で返事をすると、おれが誰かは関係無い。ただひとこと言っておきたくてとまたしてもぶっきらぼうに返された。
「…何を?」
シンドウヒカルはこちらにとても馴染んでいる。なかなかに強い棋士だし、折角だからこのままこちらにもう少しいるように勧めてみるつもりだと言われた。
「は?」
日本にいるのは勿体ない。韓国棋院で貰うことにすると言われた声に別の声が重なった。
『永夏、誰と電話してるの?』
それは間違い無く洪秀英の声で、ではこの相手は高永夏だと解った。
いいな、とにかく貰ったぞと、念を押して電話はぷつりと切れてしまった。
電話は切れたが切れたのはぼくも同じだった。
進藤を貰う? 韓国棋院に? カッと頭に血が上った所までは覚えているのだけれど、その後はあまりに怒りすぎていて実はよく覚えていない。
けれどぼくは財力と父のコネをフル活用して、この時期空席など無いはずの飛行機の便に席を作ってねじ込むとそのまま韓国へ向かったのだった。
普段のぼくなら絶対にやらない、したいとも思わない強行手段。
それでもそれをしてしまったのは、進藤を奪われてたまるかという、ただその一念に尽きると思う。
空港に着いて、タクシーに乗って、脇目もふらずに韓国棋院に着いて、名乗って中に入ってぼくがまずしたことは彼の姿を探すこと。
「あれ? 塔矢??」
なんでこんな所に居るのと、奥で打っていた彼を見つけた時、ぼくは彼よりも彼の隣に居る人物の方を凝視していた。
忘れもしない、すらりと背の高い韓国の棋士。
高永夏の前につかつかと歩みよると、ぼくは息を吸い込んで大声で怒鳴った。
「返せ!」
たぶん韓国棋院中に轟いたであろうぼくの日本語。
そう、ぼくはあんなに練習したはずの韓国語では無く、日本語で怒鳴っていたのだった。
一拍おいてしんとなって、きょとんとしたように全員がぼくを見て…それからのことはもう思い出したくも無い。
でも一つだけ、進藤がこれ以上無い程嬉しそうな顔をしてぼくに抱きついて来たことだけは唯一の慰めとして記しておくことにする。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
行くのは行けたものの、帰りの便まで手配出来るはずも無く、結局二人揃って連休明けに帰って来ます。
子ども囲碁大会欠席。かなり非道く怒られます。 ヒカルはともかくアキラは特に念入りに。
己の直情さにしばらく立ち直れません。あ、もちろん永夏が電話で言ったことは嘘でただの意地悪です。
囲碁普及の一環として、ブログを書けと棋院側から言われた。
もちろん強制では無いけれど、案外年配の方でも書いている方が多く、なのに若手のぼくが書かないのはおかしいと言われてしまったのだ。
正直、囲碁以外に時間を割くのは面倒臭い。面白みの無い人間なので書くことも思いつかないし、それを人に読ませる趣味も無い。
「いいじゃん別にそんなに堅苦しく考え無くても」
こぼしたら進藤はあっさりと言った。
「桑原先生や緒方先生みたいに、人生の機微を感じさせるようなブログなんて書く必要ないし、大体みんなその日の棋戦とか行った場所のこととかそのくらいしか書いてないぜ」
そういう進藤は随分前から書いていて、結構閲覧者が多いらしい。
らしいというのはぼく自身は見に行ったことが無いからで、でも面白いらしいとは聞いていた。
「和谷や越智もやってるけど、でもほとんど自分の結果の記録代わりにしているし、おまえもそんなんでいいんじゃねーの?」
「そうか…そうだね」
あまりに頑なに拒むのも大人げないような気がして、それからぼくは渋々とブログを始めた。
あくまで記録、自分用のメモ代わりなのだけれど、それでも見に来る人がいるのが不思議だった。
「おまえのブログ、必要最低限って感じで面白いのな」
それからしばらくたって進藤に言われた。
「だってぼくのは本当にメモ代わりだから」
「うん、でもだからって、何時何分の新幹線に乗って、隣の席の人にサインを求められたまで書かなくてもいいと思うぜ」
しかもそれが箇条書きで書いてあるんだから最高だと失礼なぐらいに笑われてしまった。
だったらキミは余程上手に書いているんだろうなとむっとしたぼくは、家に帰って真っ先に彼のブログを覗きに行った。
棋院のホームページからリンクしてあるそこに今まで行かなかったのは、なんとなく彼の私生活をのぞき込むようで恥ずかしかったのと、なんでも知っていると思っている彼の、実はよく知らない部分を見せつけられることが嫌だったからだ。
(でも今日は見なくちゃ)
見て、読んで、それでどれだけ面白く書いているのか吟味してやると勢い込んで見たぼくは、読み進めて早々に止まってしまった。
『今日は塔矢の対局をネットで見た。相変わらず強引だけど上手い手を打つ』
何を偉そうにと思いつつその先を見ると今度は『塔矢に電話したけど出なかった』などとどうでもいいようなことが書いてあった。
「なんでキミのブログなのにぼくの名前が出て来るんだ」
気安く書かないで欲しいなと思いつつ更に過去に遡って読み進めて行ったら、そこは『塔矢』のオンパレードで、ぼくは途中で見るのが恥ずかしくなって画面を閉じかけてしまった。
勘ぐられるようなことは書いて無い。
でも彼のブログには日々のぼくのほんの些細な日常が、自分の日常に折り込まれて書かれていて、読んだ人にはぼくと彼が親しいというのが嫌という程わかる文章だったのだ。
『塔矢と喧嘩、もう当分口きいてやんない』
コメント欄に気がついて覗いてみたら、そんな書き込みのあった日には心配したファンらしい女の子から大丈夫なんですか? とコメントが入っていた。
『大丈夫。おれと塔矢の仲はちょっとやそっと喧嘩したくらいじゃ壊れないから』
ナイロンザイルより強くて太い絆があるから大丈夫だよと冗談めかして書いているが、ぼくには彼がどんな表情でそれを記したのかはっきり見えるくらいによく解った。
あのいつもぼくに『大好き』と言う時と同じ、自信と喜びに満ちた顔で返答したに違い無いのだ。
「…自惚れ過ぎだ」
何よりこんなぼくのことばかり書いてあるブログは許せない。もう二度と絶対に見てやるもんかと思いつつ、それでもどうしても閉じられなくて結局最後まで読んでしまった。
そしてしばらく考えた後、ぼくは自分のブログを開いて新しい書き込みをした。
『進藤はバカだと思う』
思いつくまま一行書いて、それから数行開けてまた一行書いた。
『バカだけど、大切で掛け替えの無い存在です』
きっと読めば大喜びするだろう、そして鬱陶しさ爆発の電話なりメールなりをしてくるに違い無い。
でもぼくは自分が笑っているのを感じていた。嬉しくて、無性に嬉しくて何かをせずにはいられない。
その気持ちと勢いのまま、ぼくは自分のブログから彼のブログにリンクをした。
面白みの無いぼくのブログと、ふざけきった彼のブログがこの日こうしてしっかりと手を繋ぐように繋がった。
やがてお互いのコメント欄を行き来するようになり、読者が心配するような口喧嘩をコメントで始めてしまうのはもう少し後の話である。
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だから? と聞かれたら、それだけですと答えるしか無い、それだけの話。 読者放りっぱの痴話喧嘩がいつもコメント欄で繰り広げられています。
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