呆れる程の早さで、黒雲が空を覆って行った。
さっきまではそよとも吹いていなかった風が足元を掬うように強く吹く。
その風に向かって大股で走っていたヒカルは、足元のアスファルトにぽつりと黒く点が出来たのを見て舌打ちした。
「やべぇ」
ぽつ、ぽつぽつぽつぽつと、見る間に足元の点が増えて行き、やがてザッと音をたてて雨が降り始めた。
「あー、もうまったく、後五分くらい待てよな」
誰に言うともなく文句を言って、ヒカルは辺りを見回した。
少し先に閉店したパン屋の店舗を見つけ、軒下に走り込む。
ザーッと追いかけるように雨脚が更に強くなった。
全身びしょ濡れ、髪からも服からも、鞄からも冷たい滴が滴り落ちた。
「まったく…塔矢アキラ様の怒りは覿面過ぎて腹立つな」
今朝、出がけの言い争いを思い出してヒカルは溜息をつきつつ苦笑した。
『降水確率は10パーセントだけど、夕立があるかもしれないって天気予報で言っていた』
だから絶対傘を持って行けと言うのを嵩張ることを嫌ったヒカルは断ったのだ。
『いいよ別に、本当に降るとは限らないし、もし降ったとしても、ちょっとぐらいなら濡れたって平気だし、おれ』
『そんなこと言って、この前もびしょ濡れで帰って来たじゃないか』
あれからしばらく長引く風邪で苦しんだのをもう忘れてしまったのかと、アキラの目は静かに、けれど怒っている。
『荷物が増えるのが面倒とか、そんなつまらないことで体調を崩すなんて愚の骨頂だ』
『そこまで言う?』
とにかくもう温かいし、平気だし持って行かないったら持って行かないと最後は怒鳴り合いのようになって、ヒカルは家を飛び出したのだった。
そして。
出先の用事が終わる午後3時まで空は気持ち良く晴れ渡っていた。
(ほら、天気予報なんて当てにならないじゃん)
そんなことを思いつつ、本屋とCDショップに寄り道して店を出たら、空はいきなり怪しい色に変わっていた。
「…マジかよ」
一目で雷雲とわかる雲が空の真ん中辺まで広がっていて、それは更に風に乗って広がりつつあった。
なので、後はもうどこにも寄り道せずにヒカルは大慌てで家に帰ることにしたのである。
けれど、広がる雲の方がヒカルの足よりずっと早かった。
「これで帰ったら、それみたことかって言われるんだろうなあ」
ヒカルが自分の言うことを聞き流して失敗した時のアキラは容赦が無い。
普段はヒカルに甘いことが多いけれど、身を案じて忠告したことを無視されるのはさすがに腹が立つのだろう。冷ややかを通り越して、永久凍土のような冷たさで言葉をぶつけてくることが多かった。
「キミは学習能力というものが無いのか、また今度同じようなことをしたらその背中に傘を紐で括りつけるぞ!…ぐらい言うかな」
睨み付けるその眼差しまで容易に思い浮かべることが出来てしまって、ヒカルは軽く嘆息した。
「あー、もう雨は上がらないし、家に帰れば塔矢が怒って待ってるし、まったくろくなことねえ」
そのろくなことが無いのが自分のせいなのは、取りあえず今は棚上げである。
「塔矢どっかに出かけててくんないかな」
そうして出来れば自分が帰って、濡れた服を着替えるまでは帰って来ないで欲しいと、そんなことをつらつらと考えていた時だった。
ヒカルは我が目を疑った。
どしゃ降りの中、すぐ目の前をアキラが傘も差さずに走って行ったからだ。
「――え?」
アキラは片手に傘を握りしめ、けれど何故かそれを差さずに走っているのである。
「塔矢っ」
大声で呼ぶと、随分先に行ってから、くるりとアキラが振り返った。
「塔矢、おれだってば!」
ここ! ここ! と手を振るとやっと気がついたらしく、今度は同じ勢いで戻って来た。
「良かった―キミ、ちゃんと雨宿り出来ていたんだね」
軒下に入るなり、アキラはヒカルを見てほっとしたような顔で笑った。
「曇ってから降るまでが急だったから、どこかで立ち往生しているんじゃないかって」
はあはあと息を乱す、アキラの方が余程ヒカルより濡れている。
「…そんなことより、おまえ何で傘持っているのに差さないんだよ」
大体こんな雨の中、大急ぎでどこに行くつもりだったのだと尋ねたら、アキラは一瞬きょとんとした顔になった。
「どこって…だから、キミを迎えに行く所だったんだけど」
ここで会えて良かったと言う。
「って、おまえ、今朝喧嘩したのもう忘れた? おれ、今朝おまえが傘持って行けって言うのをぶっちぎって出て来たんだぞ」
自業自得、いい気味だとは思わなかったのかよと言ったら、アキラはヒカルの顔をじっと見詰め、それから苦笑したように笑った。
「…思うわけ無い。それはバカだなとは思ったけれど、キミが濡れていい気味だなんて、そんなこと思うわけが無い」
「思うんだよ、普通は」
「じゃあぼくはきっと普通じゃないんだな。キミがまた風邪をひいたらって、そのことばかり考えていた」
笑うアキラの顔に邪気は無い。全くの素直な言葉だったのでヒカルは顔が赤くなるのを押さえられなかった。
「おまえ…バカなんじゃない?」
「そうかもね。キミのことになるとバカになってしまうんだ」
ぼくはぼく自身よりもキミの方が大事だからと、しれっと言われた強烈な殺し文句にヒカルは顔の赤さが首筋まで広がるのを感じた。
「…だからって、それで自分が濡れてちゃ仕方無いじゃん」
ぽたぽたと滴を垂らす前髪の下、ヒカルを見詰めるアキラの瞳はいつもより大きく無邪気に見えた。
「慌てていたんだ。早く届けなくちゃって。自分の傘のことまでは考え無かったな」
にっこりと笑って言われてもうダメだと思った。
「…鞭と飴」
「え?」
「なんでも無い。おまえには敵わないって、ただそんだけ!」
ヒカルは言って、アキラをぎゅっと抱きしめた。
いきなりの行為にアキラは驚いたような顔をしたけれど、すぐに嬉しそうに自分もヒカルの体を抱き返した。
「…濡れてる」
「おまえだってびしょ濡れじゃん」
「だってキミが傘を持って行かなかったから―」
あー、わかったわかった、わかりましたとヒカルは言って更にぎゅっとアキラの体を強く抱きしめた。
空からはまだ激しい雨が落ち続け、時折低い雷鳴が響く。これは当分止みそうに無い。
「これからはおれ、おまえの言う通りにするから」
「何だ、いきなり?」
「おまえが朝持って行けって言ったら、傘でも槍でもなんでも絶対持って出る」
もう二度と聞き流したりなんかしないからと言うヒカルの言葉にアキラは笑った。
「ぜひ、そうしてくれ」
そうしてくれればぼくの心も平安だと言われてヒカルは苦笑した。
なんだな、結局の所もしかして、おれはこいつにこうやって調教されて行くのかもしれない。
(でもいいや)
シアワセだからそれでもいい。
面倒臭いとかそういうことより、アキラがびしょ濡れにならないことの方が大切だ。
だってアキラは本当にヒカルのためなら平気でバカになれそうだったから。
「帰ろうか?」
「もう少し…」
もう少しこのままで居て欲しいと、珍しくアキラが可愛いことを言うので、ヒカルは思わず嬉しくなって、アキラの頬にキスをした。
雨宿りしている濡れ鼠。
長々と抱擁を楽しんだ後、ヒカルはアキラと二人して、一つ傘の中、肩を並べて入りながら仲睦まじく帰ったのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※
いつでもどこでも、いちゃいちゃしていればいいよと思います。
それは近年の囲碁界に於いて、最早伝説になっている。
ある若手同士の交流会でのこと、堅物で有名な塔矢アキラ七段の所にしたたかに酔っぱらった一人の女流棋士がやって来た。
場所の決まっていない立食タイプの会食では無く、一人一人場所が決まった宴会形式だったので、塔矢アキラの前に座るということは、間違いなく塔矢アキラに話しに行ったということになる。
同い年の進藤ヒカル六段は、誰彼壁を作らずにざっくばらんに話すタイプだったので、その時も少し離れた場所でかなりな人数に囲まれていた。
その女性はそこからいきなり離れると塔矢アキラの前に座ったのである。
「あのー」
少々ろれつの回らない口調で、一人黙々と飲んでいた塔矢アキラに彼女が話しかける。
「あのー、私、前々から塔矢アキラ七段に言いたいことがあったんですけどぉ」
普段、彼にこんな話しかけ方をする者は無く、彼女もまた酔っていなければ絶対にしなかっただろうと思われる。
「なんですか?」
一人でゆっくり楽しんでいたのに邪魔をされたと言わんばかりの顔で塔矢アキラが答える。
「何かぼくに用でも?」 「進藤六段のことなんですけど、ちょっと塔矢七段は独占し過ぎなんじゃないんですか?」
実は彼女は少し前から進藤ヒカルにかなり熱を上げており、何度も告白し、誘いをかけては断られるを繰り返していた。
塔矢アキラは知らなかったが、実はこのちょっと前にも人前でやんわりと、 でもきっぱり食事の誘いを断られたばかりだったのである。
「いくらお誘いしても、進藤六段、いつも塔矢七段とのお約束があるからって断るんですよ。そうでなくても普段もいつも一緒だし…男同士なんですから、そんなホモみたいにつるんでないで、少しは私達にも進藤六段を貸してくれませんか?」
酔った口調ながら彼女の物言いはかなり真剣な物が入っており、塔矢アキラはむっとしたように眉を寄せた。
「貸すも貸さないも、それは彼が決めることでしょう」 「そんなこと無いです。私ずっと見てましたけど、どちらかというと塔矢七段が進藤六段を離さないように見える。だからこうしてお願いしているんですってば」
進藤六段は女性にかなり人気がある。彼女以外にも誘いたいと思っている女性がたくさん居るのに塔矢アキラのせいでそれが出来ないでいるのだと言うのだ。
「親友同士、仲が良いのもいいですけれど、それだといつまでたってもどちらもご結婚出来ないんじゃないですかぁ?」 「くだらない」
呟いた声は小さかったので、相手の耳には届かなかったらしい。彼女は更に言葉を重ねた。
「だから、どうかお願いします。進藤六段をお一人で独占しないでください」 「嫌だ!」
この時の声は決して大きなものでは無かったにも関わらず、会場全てに響き渡った。
「嫌だって…」
ここまではっきりと断られるとは思わなかったのだろう、狼狽する彼女に情けも容赦も無く塔矢アキラは言った。
「あなたのようなくだらない女性と時間を潰すよりも、ぼくと打った方が彼にとって余程有意義です」
だから譲れと言われても絶対に譲らない、今後二度とそんな口もきいて欲しくは無いと、見下ろす目は零下三十度を思わせるように冷たいものだったので彼女は言い返すことも出来ず、ただ顔色を青く染めた。
「失礼。酒が不味くなったのでぼくは帰ります」
しんと静まりかえった中、すっと一人立ち上がって振り返りもせずに去って行く。
その後をすかさず、遠くからずっと見つめていた進藤ヒカル六段が追いかけた。
「あーあ、まったく、逆効果になったじゃないの」
二人の姿が消えて後、件の彼女は仲間からバカなことをしたと散々罵られた。
塔矢アキラは女心の解らない無粋者だ。
自己中で冷酷で男としてあるまじき失礼さであると、その後塔矢アキラ七段の評判は地に落ちた。
けれどそれで懲りたのだろう、進藤ヒカル六段に言い寄る女性はがくりと減って、でも親友同士の二人の仲は更に深まったらしい。
あの日、あの宴会場から塔矢アキラ七段が去った後を追いかけて行った進藤六段がこれ以上は無いくらい幸せそうな顔をしていたことは通りがかった一部の人間しか見ていない事実である。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※
※アキラも人気はあるはずですが、怖くて誰も声をかけられない状態。この件以降、更に縁遠くなり、ヒカルもまたアキラが怖いからという理由であまり声をかけられなくなります。二人にとっては好都合です。
| 2011年04月27日(水) |
(SS)PRINCESS PRINCESS |
そんなことがあるわけが無い。
あるわけが無いと言ってもなってしまっているのだから仕方が無い。
今この瞬間、塔矢アキラは人生で最大に困っていた。
「…有り得ない」
対局場には前にも後ろにもびっしりと人が集まり、じっと見つめられている中、あろうことか足が痺れてしまっていたからだ。
ひっきりなしにフラッシュが焚かれているのは、たった今アキラが挑戦者であるヒカルを負かして王座の地位を守ったからで、この後はすぐにインタビューや写真撮影、そして一呼吸置いて、再び並び直しての検討が待ち構えているはずだった。
(なのに)
ぴっちりと几帳面に揃えて正座したアキラの足は両方とも感覚が無いくらい痺れ、身動きすらままならなかった。
どうしてこんなことにと思う間もなく、「それじゃ、先に塔矢くんから感想を聞こうかな」と、何も知らない『週間碁』の古瀬村さんに、にこやかに尋ねられ、アキラは顔が引きつるのを感じながら、それでも当たり障りなく答えた。
「いつも苦しいですが、今回もずっと苦しかったですね」 「それは進藤くんが相手だから?」 「いえ、そういうわけではありませんが、でも彼は時に思いがけない手を打って来ますから」
一瞬たりとも気が抜けない。抜いたらそこに食らいつかれるからと、それは本当に心からの感想だった。
「今回も複雑で、最後まで難しくて…正直、まだ勝てたという実感がありません」 「挑戦者の進藤くんはどう?」
話とともにカメラも人の視線もヒカルの方に向いたのでアキラはほっとして少しだけ足をずらしてみた。でもその瞬間、思い切り後悔した。思わず呻きそうになるくらい激しい痺れが体の中をかけぬけたからだ。
「えー? 負けたおれにも聞くんですか?」
ヒカルは仏頂面のまま、それでも少しだけ緊張を解いた顔で喋っている。
ああ、負けて悔しいんだ。でもその不機嫌な顔もぼくは見るのが大好きなのに、悲しいかな今はその余裕が一ミリも無い。
「―って進藤くんは言っているけど塔矢くんは?」 「は?」
まるっきり聞いていなくて、思い切り間抜けな声をあげてしまった。
「あ…ええ、そうですね」
どうしよう、なんて答えようかと悩んでいるうちに、アキラの異変にたった一人だけ気がついた人間が居た。
進藤ヒカルだった。
ヒカルは後一歩という所で足りなくてアキラに負け、王座になれなくて怒り狂っていた。
愛しているけれど、負けたくはない。大好きだけれどいつだって勝ちたい。
そんな複雑な関係にある恋人を今この瞬間のヒカルは間違いなく憎んでいて、だから腹立たしさをこめて睨み付けたのに、いつもなら返るはずの冷たい視線が返って来なかったからだ。
それどころかアキラは上の空で、もぞもぞと落着かなく身をよじっている。
変だ。
こんなアキラは今まで一度も見たことが無い。
ヒカルの怒りは急速に萎み、代わりに不安に取り憑かれた。
(具合でも悪いんじゃないか、こいつ)
長い緊張を強いられる対局だったので体力、精神力共に相当削がれているはずだった。
実際アキラは以前にもヒカルとの対局の後に倒れたことがある。だから今回もそうなのではないかと思ってしまった。
「ちょっと待って」
再び水を向けられたアキラが絶句した瞬間、ヒカルは間違い無いと思って立ち上がった。
そしてアキラの側に寄ると、こそっと耳元に囁くようにして尋ねた。
「どうした? もしかして気分でも悪い?」
アキラは一瞬眉を寄せ、迷ったような表情を見せた。
「……ない」 「え?」 「…立てないんだ」 「はあ?」
蚊の無くような声で言われた言葉を理解した時、ヒカルは思わず大声を出してしまった。
「なにそれ」 「…足が痺れて身動きするのも辛いんだ!」
小さい声ながら、きっぱりはっきりとアキラは言った。
(嘘だろ?)
自分ならともかく、小さい頃から厳しく躾られているアキラは正座なんかへっちゃらだった。いつでもすっと綺麗な姿勢で背筋を伸ばし、何時間座っても正座を崩さない。
余程座り方が上手いのか、痺れたことなど無いのだと言う。
「助けてくれ、進藤」
すがりつくような目で見つめられてヒカルはこんな時なのにドキリとした。
こいつ、こういう時は泣きそうな子どもみたいな顔になるんだよな。 心細そうで頼りなくて、普段滅多に見られない「甘え」に近い表情になる。
「このままだとぼくは転ぶ、絶対に転ぶ」
どうにかしてくれと繰り返し言われて慌てて頷いた。
確かにこんな大勢の前で足の痺れで転んだら、いい笑いものになってしまう。それだけならばまだいいけれど、たった今戦った充実した一局さえ笑い話にされてしまうのは嫌なのだと、その気持ちはヒカルにもよく解った。
「大丈夫、なんとかする」
ヒカルはアキラに言い切ると、何事かと注視している皆を振り返った。
「えーと、あの、すみません。なんかこいつ具合が悪いみたいなんですけど」 「ええっ? 大丈夫、塔矢くん」
古瀬村さんが近付いて来ようとするのをさりげなく態度でヒカルは止めた。
「貧血かな? このままだとブッ倒れるかもしれないから、おれこいつのこと部屋に連れて行きますね」
検討は無し、インタビューと写真撮影は明日でもいいですねと、一応聞いている形ではあるけれど、その口調には有無を言わさないものがあった。
「あ、ああ。じゃあ誰か人を…」
呼びましょうかと言いかける人の声をヒカルは完全に無視してアキラに向き直った。
そして誰が何を言う間も与えず、腕をその体に回すと抱きかかえ、一気に持ち上げたのだった。
「しっ…進藤」
その場にいた全員が凍る。
お姫様抱っこ。
それは世間一般にそう呼ばれる抱き方だった。
「おっ、下ろしてくれっ!」
誰よりも仰天したのはアキラで、慌てて逃れようと藻掻いたが、ヒカルはそれを許さない。
「や、だっておまえ立てないんだろ? だったらこうして運ぶしか無いじゃん」
けろりと言うヒカルには、まったく悪気の欠片も無い。
「倉田さんや緒方センセーだったら重くて一人じゃ無理だけど、おまえ細くて薄くて軽いからな」
おれ一人で充分と、さり気なく失礼なことを言っている。
「つーことで、おれこいつを部屋に置いて来ますから」
これもまた決定事項、誰も文句をつけるなよなという雰囲気ありありで言ったものだから、部屋中の全員が頷いた。
「あ…はい。よろしくお願いします」
ふんふんと機嫌良く鼻歌を歌いながら、ヒカルはアキラを抱きかかえて対局場を後にした。
そしてそのまま廊下に出る。
老舗ホテルの別館はこの対局のために立ち入り禁止で人の姿は無かったが、本館に入った途端に従業員や一般の客の目がたくさんあって、そのいたたまれなさにアキラは赤面した。
「進藤、もういい。頼むから下ろしてくれ」 「ダーメ、おまえおれに頼んだんじゃん。『どうにかしてくれ』って」
まだ足は痺れているはずで、こんな所で下ろしても無様にコケるに決まってる。それが解っていて下ろせるかと言われ、ぐっと詰まった。
「だからってこんな…」
もっと他に方法は無かったのだろうか?
ヒカルは負けた時の不機嫌はどこへやら、上機嫌でアキラを抱いたままゆっくりとホテルの中を歩き回る。
「キミ…どうしてエレベーターを使わないんだっ」 「どうしてわざわざ遠回りをする!」 「今、部屋の前を通ったじゃないか、どうして通り過ぎるんだっ!」
アキラがどんなに文句を言っても聞く耳持たずで返事もしない。
「進藤っ! いい加減にしろっ」
たまりかねて、肩を叩いたらじっと見下ろされてきっぱりと言われた。
「大人しくしてねーと、おまえは貧血じゃなくて、足が痺れて立てなくなってたんだってバラすぞ」
天下の塔矢アキラ様が足の痺れで悶絶していたんだと言いふらされても構わないのかと言われてアキラは絶句した。
「ひ…卑怯」 「その卑怯者に頼んだおまえがバカなんだもーん」
まったくもってその通りだ。ヒカルになど助けを求めた自分がバカだったのだと、結局ホテル中をもれなくお姫様抱っこで連れ回されてアキラは悟った。
もう二度とすがるまい。今後一切何があっても絶対に進藤ヒカルにだけは助けを求めたりしないようにしよう。そう心に決めたものの、もしもまた同じ状況に陥ったら自分がヒカルを頼るのは解っていた。
(最低だ)
ヒカルが最低なら、そのヒカルしか信じ頼ることが出来ない自分もまた最低だとアキラは思った。
「いやー、おれ得しちゃったなあ。こんないい目見させて貰えるんだったら王座もそんなに惜しくないかも♪」
ヒカルはそんなアキラの心の内を知ってか知らずかご機嫌で、ようやく部屋に戻してベッドの上に下ろしてやってからも恥ずかしげもなく、正当な要求としてアキラにちゅーをしたりしたのだった。
その後、敗北した挑戦者であるヒカルが意気揚々とホルダーであるアキラを抱きかかえている写真が『週間碁』の一面や囲碁雑誌の表紙を飾った。
『結婚か?(笑)』 『世紀のカップル誕生?』
等々、笑うに笑えないふざけた見出しをつけられたアキラは、しばらくの間大のマスコミ嫌いになり、取材を一切受け付けなくなったのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
やっぱりお姫様抱っこは鉄板ですよね!
| 2011年04月25日(月) |
(SS)「抱く」ならば良かったのか? |
「保坂っているだろ? あいつこの前、院生の××ちゃんと寝たんだって」
土曜の和谷の研究会。終わった後の飲みで、なんとなくそういう話になった。
「えー!マジかよ、勿体ねえ」 「保坂、上手くやったなあ」 「あー、おれもあやかりたい」
冴えねえなあ、ここに居る誰もそーゆー話は無いのかよと和谷が言うのでおれは言った。
「おれこの前、塔矢と寝た」 「…進藤、そーゆー話じゃねーんだって」
これだからお子様はと皆にバカにされ、その後も散々笑われたけれど、どうして誰も隣に居る塔矢が赤面して俯いていることに気がつかないんだろうか。
とにかく実際本当に、この前の夜、おれは塔矢と寝たのだけれど。
「白い花がいい」
ほろ酔い気分で歩いていると、ふいに塔矢が道の端を見て言った。
「何が?」 「花の色。赤やピンクや色の濃い花は夜には目立たなくなってしまうけれ ど、白い花はこんなに綺麗に見える」 「ああ、そういえばそうだな」
桜も終わり、心なし木々の緑も濃くなった今、確かに濃い色の花びらは茂る緑に埋もれてしまってよく見えない。
代わりにぽつぽつと灯る明りのように、白やそれに近い色の花びらだけが夜の景色に浮かび上がって見えるのだ。
「綺麗だと思わないか?」 「昼間だとまるっきり逆なのにな」
明るい日差しの下では白は平凡に景色に溶けて、鮮やかな色ばかりが目立つのに、夜は色の無い方がずっとくっきり目に映る。
それがとても不思議だった。
「…こんな風に生きられたらいいな」 「え?」 「どんな美しい色で咲くよりも、夜に映える白い花で咲くことが出来たらその方がいい」 「月下美人ってあったっけ?」 「あれも白だけど、でも、あんな派手な花じゃなくていいんだ」
なんでも無い、ごく普通の変わりばえの無い白い花。
「それでもこうやって、暗い中で綺麗に咲けたらそれでいい」
それだけでいいんだと言う塔矢の瞳は、酔いのせいか少しとろりとしている。
「おれにとっては、おまえは夜も昼も関係無く、いつだって鮮やかに咲くすごく綺麗な花だけど…」
それでも、どちらかを選べと言われたらおれも白を選ぶとそう思った。
「まあ、随分贅沢な望みだけどな」 「そう?」 「だってさ、色のない世界で唯一の色になりたいって言っているんだぜ」
それって結構すごく無いかと言ったら塔矢は小首を傾げ、しばし考えてから苦笑した。
「そうか…だったらぼくは傲慢だ」 「いいじゃん傲慢でも」
潔くておれは好き、大好きだと言ったら塔矢は笑った。
「だったらキミは月になれ」 「月?」 「うん。白い花を照らすのは、同じように白い月の光だけだろう」
だからキミは月になれ、絶対になってくれと繰り返し言われて微笑んだ。
「なるよ、そうお前が望むならね」
なる。
なりたい。
なれたらいい。
どちらも昼は目立たなくて、でも夜には闇の中で周囲を照らす。
標のようなそんな対になれたらいいなとおれが言ったら、塔矢はおれに抱きついて、「なれるよ絶対」と嬉しそうに返したのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※
本当にそんな風に生きられたらいいと思う。
| 2011年04月19日(火) |
(SS)その時浮気は絶対にしないと |
「プリン味」
キスをした後、唇を外したら、塔矢がくすっと笑ってそう言った。
「え?」 「キミのキス、プリンの味がした。昼間にでも食べたんだろう」 「いや…昼は食べて無いけど」
午後に打ち合わせで会った雑誌の記者の人と食べた。
正確にはその人の食べていたプリンが美味そうだったのでそう言ったら、 『一口どうぞ』と言われたのだ。
本当なら断るべきものなのだけれど、なんとなく断れない雰囲気があって仕方なく一口頂いたのだけれど、その後味が残っているとは考え難い。
「なあ…マジでプリン味だった?」
改めて聞いてみると、塔矢はおれの顔を見て「そうだけど?」と笑った。
「ちなみに昨日は苺ショート、一昨日はチョコレート味だった」
キミは随分甘い物が好きなんだなと笑いながら言われてぞっとした。
今言われた物は同じようなシチュエーションで、居合わせた女性から貰って食べたものだからだ。
「いや…えーと、そんなことも無いけど」
でも太っておまえに嫌われると嫌だから今後絶対間食はしない。ああ絶対しないともと宣言すると、塔矢は更に笑って、「その方がいいかもね」とそっとおれを抱きしめたのだった。
======================
※セブンセンシズ!いや…ヒカルが恋人だと結構大変だと思うわけですよ。
誰でも人生に一度はモテ期というものがあるらしいけれど、おれにとっては正に今がそれらしい。
今年に入ってから結構立て続けに告白まがいなことをされ、それは春になっても止まらなかった。
「羨ましいなあ、進藤。どんな詐欺な手を使ったらそんなに告白されんだよ」
とは、ごく親しい友人達のお言葉で、でもおれ自身にとってはそれはあんまり有り難いと言える事態では無かったりした。
何しろ、おれは既に心から好きな相手がいる。だから当然告白に対してはお断りしなければならなくて、そうなれば当然悪人である。
それも一度や二度ならいいが、あまりにも続くと「あいつは何様のつもりだ」と同性からの反感も著しい。
そして一番困るのがその告白をされるタイミングが大抵はおれのその、心から好き…だけど打ち明けることも出来ないでいる相手の前でされる確率が大きいだからだ。
そう、つまり塔矢の前で。
今日、手合いが終わり、いつものように一階で待ち合わせていた時も同じようなことになった。
おれの方が先に終わり、手持ち無沙汰に塔矢を待っていると、待ち伏せしていたような女の子に思い詰めた顔で声をかけられた。
「あの…進藤五段」
うわ、来た。
申し訳無いけれど、続く言葉がもう容易に想像出来てしまったので、おれは咄嗟に心の中で身構えた。
「すみません。進藤五段には、好きな方がいらっしゃるんだって皆から聞いているんですけれど、それでもどうしても気持ちを伝えたくて」
その皆って誰だよと溜息をつきながら待ち構えていると、タイミング悪くエレベーターが降りて来た。
そして開いたドアの向こうにいたのはこれまたタイミング悪く塔矢一人で、目の前の光景を見た塔矢は一瞬で事態を把握したらしい。途端に顔がむっとしたものになった。
しかも更にタイミング悪く、女の子の方は真剣なあまり塔矢の存在に気がついていない。
「あの…私、進藤五段のことが好きなんです。好きな方がいらっしゃるっていうなら遊びでもいいんです。どうか付き合っていただけませんか?」
うわあ最悪。
「いや…あの…ホント悪いんだけど、おれそのつもり無いし、それにそもそも遊びでっていう感覚はわからないから」
付き合うなら本当に好きなヤツとしか付き合え無いからごめんなと、それでもなるべく言葉を選んで言ったつもりだったのに案の定相手は泣きだして、そのまま立ち去ってしまったのだった。
「…人非人」
ぼそっと言われてうへえと思う。
「追いかけなくていいのか? 彼女泣いていたぞ」
ゆっくりと歩み寄って来ながら塔矢が言う。
「好きでも無いのに、そんな気をもたせるようなことしてどうするんだよ」 「へえ、じゃあキミは好きな相手だったら残酷に振っても追いかけるんだ」 「なんだよそれ、そもそも好きな相手だったら振るわけ無いじゃん」
言い終わった時、ちょうど塔矢が目の前に来た。
じっと、怖い程じっと見つめられて、ああこれはまた説教一時間のクチかなと思った。
「キミは…」
言いかけてふと口を噤む。
「なんだよ言えばいいだろ。もう何回目だとか、それでも人としての感情を持ち合わせているのかとか、ぼくはいい迷惑だとかなんでも好きなこと言えばいいじゃん」
半ばやけくそのように言って塔矢を見据える。
「なんでも…か」
ふいにするっと塔矢の腕がおれの腕の下を通り過ぎた。そしてそのまま思いがけず、ぎゅうっと強く抱きしめられる。
「キミが好きだ」 「え?」 「ずっと、ずっと前からキミのことが好きだった」 「塔…」 「キミが告白されるのを見続けて来て、本当はずっと怖かった。いつかキミが誰かに『うん』と言うんじゃないかって」
そうしてから抱きついて来た時と同じくらい唐突に離れた。
「軽蔑してくれてもいいよ。嫌ってくれてもいい」
でもどうしても言わずにはいられなかったからと、そしてそのまま呆然とするおれの脇をすり抜けて、塔矢は出口に向かって歩いて行った。
「ちょ…おまえ、おれを置いて帰る気かよ」 「当たり前だ。今までのキミの動向を見て来て告白された時の断り方はよく知っている。それを自分に繰り返されて、そのまま平然と食事をしたり検討したりなんか出来るわけが無いだろう」
万一ぼくが出来たとして、キミの方が出来ないだろうと苦笑のように笑って踵を返す。
「ごめん、我が侭だって言うのはわかっているけれど、その気が無いなら本当にこのまま放っておいてくれないか」
少なくとも気持ちを伝えることが出来たのでぼく自身は満足だからと。そして更に「今後二度と迷惑をかけることは無いから」とまで付け加えた。
「ちょ…」
すたすたと、どうしてそんな迷い無く歩いて出て行ってしまえるのか。
それはおれ自身が招いたことでもあるのだろうけれど、その迷いの無さに腹が立った。
「って、ちょっと待ておい、こらっ!」
おれはもうとうにドアの外に出てしまっている塔矢に向かって大声で怒鳴ると、もちろん思い切り『その気がある』ので、猛然と追いかけるため走ったのだった。
=========================
※進藤ヒカルのモテ期、実はこの先もずっとモテ期。そりゃそうだ、男っぷりは上がるは段位も上がるはで、モテ期終了になるわけが無い。アキラは万年モテ期ですが本人はヒカルしか見ていないのでそのことに気がついていません。そしてヒカルのモテ期に常にもやもやさせられるという。可哀想です。
| 2011年04月13日(水) |
(SS)さくらさくら |
「おれ、おまえに出会って良かったな」
はらはらと花びらの散る川べりを歩きながら、ヒカルは振り返ってアキラに言った。
「なんだ? 唐突に」
花見をする暇は無いし、気分でも無い。でも花を見に行くぐらいはしてもいいよなと誘われて打ち掛けの短い時間、昼もそこそこ散歩に来た。
もともとそんなに場所が無く、桜の綺麗な所は傾斜ばかりなので花見客で賑わう場所では無いけれど、それでも昼食を花の下で食べようとやって来たOL達がぱらぱらといる。
その中を歩きながら、ふいにヒカルが言ったのである。
おまえと会って良かったと。
「だっておれ、すごくいい加減でバカなガキだったから、おまえに出会わなかったらきっと、今こうしていないと思う」
何かに真剣になるということを知らず、ただ適当に日々を流して生きていただろうとヒカルは苦笑のような顔で言う。
「勉強なんか大嫌いだったし、じっとしているのも苦手だったし、何かを真面目に考えるなんてもっと嫌いだった」
少しでも楽をしてだらだらと過ごすことの方を望んでいただろうとそう思うと。
「そんなことは無いだろう」 「あるんだなあ、それが」
はらりと頭にかかった花びらを払いながら、ヒカルはまだ苦笑のような顔のままでアキラを見つめた。
「おれ、本っ当にいい加減だったからさ」 「ぼくだって別に…真面目なんかじゃ無い」 「そうか?」 「そうだよ。ただ単純に他のことに興味が無かったから真面目に見えただけで、学校の授業なんてほとんど上の空で聞いていたもの」
それで海王であの成績かよとヒカルは大袈裟にクサって見せた。
「それ、他のヤツに言ってみ? ただの嫌味に取られるから」
ただ昼の息抜きの散歩にしては、随分遠くまで歩いて来てしまった。もう暢気に桜を見ている人の姿も無い。
「そろそろ引き返すか」
ヒカルは頭上の桜を見上げ、眼下を流れる川面を見、そして最後にアキラを見た。
「すっげえ綺麗」 「そうだね、もう充分に桜は堪能したね」 「違うよバカ、おまえのことだってば」
ヒカルは言ってアキラの手を取る。
「こんな昼日中から邪なことを考えているわけじゃ無いだろうな」 「無い、無い、ただ手ぇ繋いで帰りたいだけ」 「それだって―」 「大丈夫。人が居る辺りになったらすぐ離すから」
そしてそのまま来た道をゆっくり戻り始める。
「…進藤」 「ん?」
歩きながらぽつりとアキラが言った。
「さっきの話」 「ああ、真面目がどうのってヤツ?」 「うん。ぼくは別にキミはぼくに出会わなくても真剣に生きることを知ったと思う」 「買いかぶりすぎだって」 「買いかぶってなんかいない、キミはきっとそうだよ」
誰に出会わなくても、例え囲碁に出会わなかったとしても、きっと別の何か、真面目に打ち込めることを知って、真剣に生きることをしたと思うと。
「そうかな?」 「そうだよ」
でも、だからこそキミが誰かに出会う前に出会うことが出来て良かったとアキラは言った。
「他にあったかもしれないたくさんの選択肢の中の人達には悪いけれど、その人達よりも先にぼくがキミに出会って、そしてキミが囲碁に出会ってくれていて良かった」
本当に良かったとしみじみと言う。
「やっぱおまえ、おれのこと買いかぶり過ぎだと思うけどなあ」
振り返るとアキラは笑っていた。先程のヒカルのような苦笑いのような顔で そっと笑っていた。
「…何?」 「いや、なんでも無い」
ぱらぱらと散る桜の花びらが、アキラの黒い髪の上に落ちる。
それを払ってやりながら、ヒカルはそっと身を屈めると、掠めるようにアキラの唇にキスをした。
「怒らないじゃん」 「他に歩いている人も居ないから」
怒る理由が無いと、アキラは言って今度は苦笑では無く笑った。
「動機が不純なんだ」 「は?」 「キミと打ちたくて、キミに勝ちたくて、それでずっとここまで来てしまった」
その上今はキミ自身も欲しくてたまらない。限りなく動機が不純だと思わないかと言われてヒカルは目を丸くしてアキラを見つめた。
「そう? それが純粋って言うんじゃねーの?」
そしてイコール、クソ真面目。
にっこりと笑いながらヒカルはアキラに失礼極まりないことを言った。
「やっぱおまえって、泣けて来る程クソ真面目なのな」 「それはけなしているのか? それとも万一もしかして褒めているのか?」 「それはもちろん」
褒めているに決まっているとヒカルは笑い、しっかりとアキラの手を握り直すと歩く歩調を少し早めた。
風が吹くたび雨のように花が降る。その中を二人黙々と歩く。
例えばもしも、出会っていなかったら、今この瞬間をこうして過ごすことは無かった。
日々、体と心をすり減らすように切磋琢磨して競い合うことも無かっただろう。
「うん、やっぱつまんないな」 「え?」
いつの間にか視界の先に、見慣れた市ヶ谷の風景が迫る。
「だーかーらー、最初から言ってんじゃん。おまえと出会って良かったって、そう言ってんだよ」
ヒカルが言って手を離すと、アキラは一瞬きょとんとした顔になって、それからいきなり自分からヒカルの手を掴み直した。
「おい、もう駅前」 「いいじゃないか桜の下を歩いている間くらいは」
そして溜息のように息を吐くと、小さな声でぽつりと言った。
「ぼくだって」
ぼくの方がキミに出会えて良かったのだ――と。
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