ぼんやりとした頭でシャワーを浴びる。
体は非道く重たくて、あちこちがやたらと軋むように痛い。
本当はちゃんと洗った方がいいのだろうけれど、手をあげるのも怠くって、流すだけ流して出てきてしまった。
体を拭いて、そのまま着替え、部屋を出ようとする間際に声をかけられる。
「…塔矢?」 「先に行く。キミももう起きた方がいい」
わかったとも、わからないとも判断しかねる唸るような声がして、でも進藤は片手だけ上げてひらひらと振った。
いつものように帯坂を上り、重いガラス戸を押して棋院に入る。
エレベーターに乗って記者室に行き、しばし待っていると古瀬村さんが来た。
「塔矢くんおはよう。進藤くんはまだなの?」 「さあ、そのうち来るんじゃないですか」
にっこりと笑って愛想良く言い、でも心の中では間に合うかなと思った。 彼は結構寝起きが悪い。
約束の時間を10分過ぎても来ないので、仕方なくしばらく古瀬村さんと世間話をする。30分を過ぎた頃にどたばたと足音がして乱暴にドアが開いた。
「ごめっ、遅くなりましたっ!」
走って来たのだろう進藤が息を切らせて入って来た。
「あー、もうヤバ。目ぇ覚めたら9時過ぎてんだもん」 「だらしないな。昨日ちゃんと時間を確認しただろう」 「おれはおまえと違って、夜中どんなに遅く寝ても決まった時間に起きれるようには出来て無いんだよ」
軽口の応酬をして、それからどっかりと椅子に座りかけるのを申し訳無さそうに古瀬村さんが遮る。
「あ、申し訳無いんだけど進藤くん。写真…先に撮らせてもらっちゃってもいいかな」 「いいですけど、別に」 「窓側だと逆光になっちゃうから、そうだね壁の方に二人並んで立って貰える?」
塔矢くんもと促されて立った瞬間ぼくは一瞬動きを止めた。
つ…と熱いものが足に流れる感触が確かにあったからだ。
血かなと思い眉を寄せ、でも出かける前にシャワーを浴びたことを思い出す。
(ああ、そうか)
彼の残滓だと思った瞬間、猛烈に目の前にいる進藤が憎らしくなった。
「なんだよ、なんで睨むんだよ」 「別に―」
そして黙って壁の前に行き、彼と二人で並んで立った。
「はい、じゃあ何枚か撮るからね。塔矢くんもう少し柔らかい表情をして貰えるかな」 「すみません。これが地顔なもので」
苦笑されつつ写真を撮られ、そしていざインタビューという前にふと進藤がぼくの腕を掴んだ。
「何?」 「いや、ちょっとおれトイレ」 「それで?」 「だから、まあいいじゃん。連れションてことで」
そして呆気に取られている古瀬村さんを残して彼はぼくを記者室の外に連れ出した。
「何馬鹿なことを言ってるんだキミは」
出た所で睨みつけると、進藤は黙ってぼくを本当にトイレに連れて行った。
「ごめん、おれ夕べ散々やったから」
だから残ってるんだろうと言われてカッと頬が熱くなった。
「キミにして貰わなくても自分でちゃんと処理出来る」 「うん、それでもさ」
やっぱりおれが悪かったからごめんなと、ぎゅっと抱きしめられて腹が立った。
立ち上がったはずみに流れた液は左足の膝の裏側まで伝っている。
スーツのズボンに染みていないかそれだけが不安でちらりと見たら、進藤も一緒に同じ場所を見ていた。
「染みて無い。大丈夫」
読んだかのように言われて思わずその頬を叩いた。
「聞いて無い」
そして彼を残して個室に入る。
べとついた、夕べの名残は青臭くて、でも悲しいかな愛しかった。
「塔矢」 「うるさい」
綺麗にして個室を出たらまずもう一発彼を殴ろう。それで気が治まらなかったらもう一発殴る。
多分彼は大人しくされるままになるだろう。
「ああ…本当に」 「なに?」 「写真を先に撮っておいて良かったよ」
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たぶん、棋聖戦か天元戦かその直前の取材なんですね。なにやってるんでしょうねこの人達は。
| 2011年02月15日(火) |
(SS)チョコレートに非ず |
「出せ」
帰るなり短く言われて手を出された。
「はいはいはいはい」
溜息をつきつつ紙袋を手渡すと、途端に塔矢はにっこりと笑顔になった。
「味噌にお塩にお砂糖に洗剤にサランラップ。これだけあったら当分買わなくていいね」
お味噌も塩も砂糖も取り寄せた良いものをくれている。本当に有り難いなと言いつつ機嫌良く台所にそれらを運んで行く。
「なあー」 「なんだ?」 「おれ、このままずっとこういうバレンタインじゃ無くちゃダメなわけ?」 「そうだよ」
何を当たり前なと言わんばかりに即座に言う。
「チョコはぼくも貰って来るし、それだけで充分じゃないか」
食べ過ぎて太られても困るし、だったら日用品の方がずっといいと。
いつからだったか、そう言う理由を持ち出して、塔矢はおれにバレンタインにチョコレートを貰って来るのを禁止した。
『えー? おまえだけ貰うの狡いじゃん』 『だったらキミはチョコレートの代わりに日用品を貰ってくれ』
調味料とかサラダ油とか家計の助けになる物を積極的に貰って来て欲しいと言われて渋々頷く。
確かに塔矢の言うことには一理ある。
男二人でチョコレートだけたくさん貰っても食べきれないで毎年持て余してしまうのが常だったからだ。
「だからってなあ…」
色気が無い。
まったくもって色気の欠片も無くて貰っても嬉しい気がしない。
最初の頃、チョコレートを断って出来れば次から洗剤とか味噌とか醤油にして欲しいと言ったら半分は怒って、半分は笑った。
『本当にそんなものでいいんですか?』 『いいんだ…うちの鬼がそう言っているから』 『え?』 『いや、なんでも無い。うん。そうして貰えたら助かる』
そして今や進藤ヒカルはバレンタインにチョコでは無いものを欲しがる珍しい棋士ということで定着してしまった。
『進藤さんて面白い方ですよね』
でもあげ甲斐がありますと言って、利尻昆布や名店の佃煮や海外のハチミツなど、自分で美味しいと思うものをわざわざ用意してくれる人も居て、それはそれで嬉しいのだけれど、それでもやっぱりつまらない。
「あーあ、おれもチョコレート欲しい」 「ぼくのだけじゃ満足出来ないと、そういうことなのかな」
思わず呟いた言葉を耳ざとく拾って塔矢が睨む。
「キミはそんなにぼく以外の人からチョコが欲しいのか」 「いや、そんな滅相も無い」 「だったらいつまでもそんな文句を言っていないでこっちに来て手伝え」
せっかくいい物を頂いたのだから久しぶりにちゃんとした夕食を作ろうとおれを誘う。
「ここの所、忙しくて簡単なもので済ませてしまっていたからね」 「うん…まあ、いいけど」 「赤味噌だからなめこのお味噌汁がいいかなあ」 「おれはなんでもいいけど」 「ジャムもあったから、明日の朝はパンにしようね」 「はいはい」
それでもやっぱり腑に落ちない。
リビングの隅、紙袋二つ分に山盛りになった、塔矢が貰ったバレンタインチョコを横目で見ながら、おれは騙されているのじゃないかと思わずにはいられなかったのだった。
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アキラの真意は本文下から十五行目と十七行目。 単にヒカルがたくさん貰うのがムカつくとそれだけです。
| 2011年02月13日(日) |
(SS)酒と涙と男と男(2) |
度を超して飲んだ。その自覚はある。
初めて会う相手と普段行かないような店に行った。
いつもなら自制してほどほどで止めておく所を浴びるように飲んでしまったのは、気がすすまない仕事絡みの飲食であったことと、その前に進藤と派手に喧嘩をしていたからだった。
どちらもよくあることではあるけれど重なるとキツイ。
『もうそのくらいにしておいた方が…』 『それは度数が高いお酒ですから』 『少し飲むペースが早いんじゃないですか』
等々。
宥めるように相手が言う言葉も効かずガブ飲んだ。
そして一軒では気が済まず、逃げ腰の相手を引きずるようにはしごをして、何軒目かのバーのカウンターで潰れた。
『大丈夫ですか?』 『タクシーを呼びますから』
心配そうな言葉に乱暴に手を振って、半分眠ったようになりながらまだ飲んだ。
途中から進藤への愚痴をこぼしていたような気もするが、それもよく解らない。
いや、実際は愚痴というよりも泣き上戸のように泣きながら自分の胸の内を切々と語っていたようにも思う。
どうせもう二度と会うことも無い相手だろうからと、その辺りで自制が緩くなったのは否めない。
会ったとしても自分が喋ったことを迂闊に言いふらして回ることは無いだろうとそう踏んだこともある。
とにかくぼくは浴びるように飲んで、喋りまくった。
喋らなくていいようなこと、喋った内容を知られたら――特に一名には死んでも知られたく無いことを喋って喋って喋りまくった。
そして、目を覚ました時ぼくは何故かソファーに寝せられていて、すぐ側には進藤の顔があった。
「あ、起きた。大丈夫、おまえ気分悪く無い?」 「どうして…」 「昨日、高塚さんから電話あってさぁ、おまえが荒れてて手がつけられないから引き取りに来てって泣きつかれてさ」
それで銀座まで拾いに行ったとこともなげに言う。
「高塚って…」 「おまえ、自分が飲んでた相手の名前も覚えてねーの? あの東北支部の人。おれ前に一度会って名刺交換したことあるから。昨日はおまえが接待係だったんだって?」 「いや……」
あれを接待と言ってしまっていいものか。
「それで迎えに行ったらおまえべろんべろんでさぁ」 「あの…それ、どれくらい…」 「さあ、まだ電車動いてたし、12時前だと思うけど?」 「それでぼくは…何かキミに…」
言った瞬間にやりと笑われた。
「いや、そうだな、うん。中々興味深いことを色々聞かせて貰った」
これからはもっとおまえのこと大事にするよごめんなと言われて頭を抱えた。
「…最悪だ」 「いや、おれは最高だったけど?」
邪気無く言われて沈没する。
もう、もう二度と…酒は飲んでも飲まれまい。
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これもまた前にも似たような話を書いた記憶がほんのり。 すみません、すみません。サ×エさんのようなものだと思って勘弁して下さいね(^^;
| 2011年02月12日(土) |
(SS)酒と涙と男と男(1) |
『お願いです、助けて下さい』
夜中かかって来た電話は、一度だけ会ったことのある東北支部の人からだった。
「はあ? どうしたんですか?」 『実は今、塔矢棋聖と銀座で飲んでいるんですが』
話によると塔矢がらしくなく、荒れて荒れて手がつけられないらしい。
『もう言っていることも支離滅裂で、でもまだ帰らない、飲むと言ってきかないんです』
そもそもがこれは東北支部のその人を塔矢が接待するという役割だったはずなのに、逆に酔っぱらいの介抱をするはめになってしまっている。明日は早いしもうホテルに戻りたいのに戻れないと嘆かれては仕方がない。
「じゃあこれからおれ、迎えに行きます」 『本当ですか? すみません』 「でも…なんでおれなんですか?」
おれよりも親しい人がたくさん居るだろうにどうしてほとんど付き合いの無いおれに連絡をして来たのかが不思議だった。
『それは…』
言いにくそうに言葉を濁す。
「何か?」 『あの…塔矢棋聖と進藤十段は親友同士と伺っていましたし、塔矢棋聖もさっきからずっと進藤十段の話ばかりしているものですから』 「おれの?」
どんな? と尋ねても今度は決して口を割らなかった。割らないと言うことは差し障りのある内容なんだろう。
「わかりました、いいですよ、とにかくすぐに行きますから」 『ありがとうございます』
相手の声はもうすがらんばかりだった。
電車を乗り継いで銀座の店まで行く間、おれは色々考えていた。
塔矢とは昼間派手に喧嘩をしたばかりだったのだ。
喧嘩なんていつものことだけれど、今回はかなり深刻でこれは当分口もきい て貰えないんだろうなと思っていた。
それが飲んで荒れているというのだから、原因はもうそのことしか有り得ない。
(だったらおれの責任でもあるよな)
でもだからってどうしておれがという気持ちもある。もやもやとしたまま店に行き、平身低頭するその人と交代して取りあえずカウンターで潰れている塔矢の隣に座った。
「おい――」 「酒!」
声をかけた瞬間、どんとグラスで催促された。
「もう止めておけよ、飲み過ぎだって」 「進藤が!」
伏せていた顔を僅かに上げて塔矢が怒鳴る。
「あ?」 「進藤がいけない」 「あー、はいはい」
ああ本当に酔っぱらいだ。それも相当質が悪い酔い方をしている。
「進藤くんの何がいけないのかな?」
溜息をついて促してみたら、塔矢はこちらを見もせずに再びカウンターに突っ伏して言った。
「ぼくの気持ちに気がつかないのが悪い」 「えーと?」 「ずっと、ずっと好きなのに、どうして彼は解らないんだろう」
茶化したような気持ちで聞いていたのが一気に顔が赤くなる。
(こいつ、おれだって解ってねえ)
解っていないどころか素面だったら死んでも言わないようなことをべらべら喋ってしまっている。
「おまえ…ちょ…」 「大体、いつからぼくが彼のことを好きだったか知ってますか!」
もうずっとですよ、ずーっと、出会った時からたぶんきっと好きだったんだと塔矢は言う。
「好きで、でもこんなこと言えるわけ無いから黙っていたのに、それを解っているのだかいないのだか人の気持ちを踏みにじるようなことを平気でするし」 「あー、女の子と出かけたりとか?」
心当たりを言ってみるとぴくりと肩が震えた。
「…そんなのいつもだ」
いつもいつもいつもいつも、彼の周りには女の子が居て、仕事絡みで会った人ともほいほい平気で会ったりするし節操が無いのだと言われてムッとする。
「でもそんなの普通じゃ―」 「解ってる! 解ってるけど、でも」
そして後はすすり泣きになった。
「好きなのに、こんなに好きなのに、どうしてぼくじゃダメなんだろう」 「いや、ダメってことは…」 「何も知らないくせに!」
進藤は本当に女性に優しい。マメだし遊び好きだし、携帯だって頻繁にやり取りしていると。
「…ぼくになんか滅多に連絡して来ないくせに」 「それはおまえが迷惑かと思って」 「何か?」 「あー、いやなんでも無い。なんでも無いから全部ドロ吐いちゃえ」 「苦しくて…苦しくて…もう、どうにかなりそうだ」
もしこれをおれが来る前からやっていたとしたらそれは言葉を濁すだろう。支離滅裂と言われても仕方無いだろうなと思った。
(一応おれ達親友同士ってことになっているしな)
でもそうか、こいつはこんなことを思っていたのかと目の前で醜態を晒している姿を見たら切なくなった。
だっておれも塔矢のことが好きだったから。 好きなのに、それを伝えられなくてずっとずっと我慢していたから。
「とにかく吐いて吐いて吐きまくれ」
そうしたら後でちゃんとおれの気持ちも教えてやるからと耳元にそっと囁くように言う。
「うるさい!」 「ああ、うん。うるさいな。もうなんでもいいから―」
好きなだけおれを罵れよと頭を撫でてやりながら塔矢に言った。
「ちょっと! ちゃんと聞いてますか?」 「聞いてる聞いてる」 「どんなにぼくが彼のことを好きか!」 「うんうん。聞いてるから安心して喋れ」
泣き上戸で絡み上戸で怒り上戸。
今までも見たことも無い塔矢の姿を見詰めながら、おれはそれから小一時間、塔矢が完全に潰れるまで、カウンターで自分への愛情に満ちた愚痴を嫌という程聞かされることになったのだった。
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アキラ酔っぱらいネタ。同じようなシチュで前にも書いたことがありますが、まあ気にすんな! ってことで。
| 2011年02月06日(日) |
(SS)photograph |
ネットを巡っていて、ふと見た写真が忘れられない。
『新たな法制度の制定により、長い間連れ添った彼らは正式に結婚した』
ごく普通に神の御前で式を挙げる金髪碧眼の新郎二人。
気張ってもいず、気負ってもいず、ただただ自然だった。
もしもぼくと彼が―――。
日本に同性同士の婚姻を認める法律が出来ることはたぶん永遠に無いだろう。
永遠では無くても、ぼく達が生きているうちにそんなものが出来ることは無いだろうと思う。
「進藤…」
キミ、日本以外の国でぼくと籍を入れたいかと尋ねようとして黙った。
意味が無い。
だってぼく達はずっと日本で日本人の棋士として打ち続けて行きたいと思っているのだから。
(それに絶対)
進藤は結婚するならばここで、日本でしたいと言うに決まっている。
知り合いも誰もいないような所でこっそりと夫婦になるのでは無く、知っている人達に囲まれて、どんなに時間がかかっても理解を得て生きていきたいと。
(真っ直ぐだから)
どんな時も前だけを見て生きている彼だから、他所の国で結婚するということを望むはずは無いと思った。
それでも―。
彼がどんな感想を持つのか知りたくて、リビングでテレビを見ていたのを改めて呼ぶ。
「進藤」 「何?」 「この写真―」
パソコンの画面を指して見せると、進藤は少しだけ目を見開いてまじまじとそれを見た。
かなり長い間無言で見た後、ゆっくりぼくを振り返ってにっこりと笑った。
「すげーいい写真だな、これ」
他人事なのに、まるで自分の知り合いでもあるかのように、非道く嬉しそうに笑う。
「良かったよなぁ」
シアワセそうと、そうしてからふっと黙って、小さな声で言った。
「おれらもシアワセになろうな」 「え?」 「絶対シアワセにするから、おれのこともシアワセにして」
いつかこんな風に誰が見てもシアワセと思えるような結婚をしようと言ってぼくの頬にキスをした。
もう一緒に暮らし始めて何年になるかわからないのに、まるで初めてするかのような少し照れたキス。
「当たり前だ」
シアワセになろうと、ぼくも微笑んで返して、それから改めて愛情に満ちたキスを何度も彼と繰り返したのだった。
※※※※※※※※※※
法的に結ばれることよりも、隠さずに認められて生きることに意味がある。 そう思っているんじゃないかな。
あくまで日本で、この場所で、生きる。
「考えてみれば、おまえと碁抜きで会うのって初めてじゃん」
進藤に言われて、確かにそうだなと薄く笑った。
休日に用事を頼まれ街中に出たぼくは、帰り道、偶然進藤に会って呼び止められた。
「塔矢じゃん」 「進藤、キミ、こんな所で何をしているんだ」 「それはこっちのセリフだよ、おまえこそ何やってんの」 「ぼくはお父さんに頼まれたことがあって」 「おれは買い物。でもまあ、そんなに欲しいってわけじゃ無かったから別に買わなくてもいいんだ」
そして進藤は続けてぼくに言ったのである。
「おまえ暇なら茶でも飲まない?」
いいよと答えたのは実際ぼくにはその後の予定が無かったからだった。
精々帰って碁の勉強をするくらいしか予定が無いので、折角会った進藤と話をするのもいいと思った。
「あ、でも今日は打てないからな。おれ何にも持って来て無いし」 「ぼくも何も持っていない。用事が終わったらすぐに帰るつもりだったから」 「ふうん。じゃあ今日は碁抜きなんだな、珍しいよな」
そして近くにあったカフェに入った。
彼は少しお腹が空いていると言うのでパニーニのセット。ぼくはそんなに空腹では無かったのでホットのカフェラテだけを頼んだ。
日の当たる。でも、眩しくは無い窓際の席に二人で座って何ということは無いことを話す。
彼とぼくは会っているようで、会わない時は全く会わない。
棋戦の関係もあるのだが、同じ世界で生きていても結構顔を合わせる機会は少ないものだなと今更のようにぼんやりと思った。
「キミ、そういえば何を買いに来たんだ?」 「何ってそんな大したもんじゃねーよ。冬物のジャケット、もう2年も着てるしそろそろ新しいのが欲しいかなって」 「そうなのか。でも…それ似合っているのに」
捨ててしまうのは勿体無いと素直に思う。
「それでも結構傷とかついちゃってボロくなって来たからさぁ…」
言いかけてふっと思い出したように言う。
「おまえは?」 「え?」 「おまえの用事はもう済んだのかよ」 「うん。ぼくは届け物をするだけだったから」
先方も先方で午後から予定があるらしく、だから長っ尻にならないように適度な頃合いを見計らって帰って来たのだ。
「でも、少し疲れたな。キミに会えて休憩出来て良かったかも」 「おれも。腹減ってたし、いい加減一人で見て歩くのもつまんなくなって来てたし」
混んでいるとまではいかないが、そこそこに席が埋まった店内は、温かくて和やかで非道く居心地が良かった。
「パニーニって美味しい?」 「んー…ちょっとパサついたパン?」 「なんだそれは。褒めているのか? けなしているのか?」 「どっちでも無い。好きなヤツは好きで、そうじゃないヤツはあんまり好きじゃないかもってそういうこと」 「キミは?」 「おれはもう少し水分がある方がいいかも」 「じゃああまり気に入らなかったんだね」
素直にそう言えばいいのにと思わず声を出して笑ってしまった。
「おまえはラテ美味しい?」 「そうだね、本当は紅茶の方が好きなんだけど、温かいし甘いし、飲めないことは無いよ」 「って、それ全然褒めて無いし」
からからと進藤が笑い、ぼくもまた微笑み返した。
他愛無い言葉遊びのような会話の後、進藤がふと呟くように言った。
「そういえばおまえと碁抜きで会うのって初めてかも」 「そんなことは無いだろう?」 「いや、碁で無い時を探せと言われたら困るくらい、おれはおまえと打ってるよ」
でも打たなくても楽しいもんだなと言われて「そうだね」と返した。
実際彼と居るのは盤を挟まなくても楽しかった。
落ち着くというかしっくりくると言うか、とにかく向かい合っているだけでとても楽しい。
「たまにはこういうのもいいね」 「うん、まあな」
窓から差し込む日の光。ガラス一枚隔てて忙しく行き交う人々。
そんな街の景色を眺めながらぼく達は話した。
石を使った会話では無く、言葉を重ねて会話した。
「なあ」
しばらくたって、それまでの会話の流れを遮るように、唐突に進藤が言った。
「何?」 「これからもたまに、碁抜きでも会わねえ?」 「え?」 「いつも打ったり検討したりで会ってたけど、そういう理由が無くてもたまに会いたい時には会わないか」 「キミと和谷くん達みたいに?」 「んー…まあ、そうなんだけど、でもちょっと違う」
おれ、おまえに会いたくても、なんとなく理由がなければ会って貰えない気がしていたと。
「ぼくも…そう思っていた」
彼は親しい友達がたくさん居る。だから打つという理由が無ければ会ってはいけないようなそんな気がしていたのだ。
「おれ、何も無くてもおまえに会いたいな」
もちろん打ちたいし、碁の話もたくさんしたい。
「でもそれ以外の、何でも無いつまんねー話とか、んー…話さなくてもいいから会いたいかも」 「…ぼくもだ」 「じゃあ決まり」
にっこりと進藤が笑ってぼくを見た。
「これからは会いたくなったら連絡する」 「ぼくは…いや、ぼくからも連絡する」 「―うん」
そして再び飲んだり食べたりしながら、ぼくと進藤は話を続けた。
特に何ということも無い、なんでも無い話を延々と楽しく続けたのだった。
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