進藤と待ち合わせる時、ぼくは必ず少し遅れて行くようにしていた。
「珍しいじゃん、いつも時計よりも正確なのに」
待ち合わせ場所で待ち遠しそうにぼくを待っている進藤を見るのが好きだったのと、人混みの中、進藤がぼくを見つけてぱっと嬉しそうな顔になるのを見るのもまた大好きだったからだ。
どうしてそんなにも嬉しそうな顔をするんだろう。 どうしてそんなにもぼくを見て幸せそうに笑うんだろうか。
その瞬間を見るのが大好きで、だからいつでも彼と会う時だけは遅刻常習犯だったのに、ある時からぼくはぴたりとそれを止めた。
止めて、代わりに彼よりも先に行って待つようになったのだった。
「…最近は早いじゃん」 「そういつまでも遅刻していたらキミに何て言われるかわからないからね」
嘯いて言いながら、でも本当の理由は待たせるよりも待つ方がより幸せだと気がついたからだ。
約束した時間よりずっと早く行って待っている。
いつ来るだろうか、遅れるだろうか? それともぴったりに現われるだろうかと進藤を探すのはとても楽しい。
今日はどんな服を着て来るだろう。どんな表情で現われるだろうかとそれを考えるのもまた楽しかった。
「塔矢!」
そして何より、ぼくを見つけて真っ直ぐに走って来る進藤を見るのは最高に幸せだった。
「今日は絶対おまえより早いと思ったのにな」 「10年早いよ」
世界中の何より他愛無く些細な。 でも命と同じくらい大切な瞬間。
その喜びを知ってしまったので、ぼくは自分勝手と知りながら、もう二度と彼を待たせることはせず、ひたすらに彼を待つようになったのだった。
※※※※※※※※※※
どっちにとっても、待つのも幸せ、待たされるのも幸せ。
| 2011年01月21日(金) |
(SS)Feather Pillow |
ベッドをやめて布団にしたのは、二人で暮らし始めた時に買ったベッドの足が壊れてしまったからだった。
取りあえず新しい物を買うまでの応急処置と、客用布団で寝ていたものが、なんとなくそのまま定着してしまったのだ。
元々ぼくは実家では布団だったし、新しいベッドを買いに行く暇も無い。
「だったらもう、このままでいいんじゃん?」
進藤が苦笑のように笑って言って、以来、寝室にシングルの布団を二つ並べて敷いている。
「視点が低いから部屋ん中が広く見える」 「そうだね、ぼくもこの高さで天井を見るのは久しぶりだ」
そして何より眠っている体の下が軋まない。
ベッドは固めの物にしたのだけれど、それでもスプリングが入っている分、身動きすると確実に軋む。
それが無くなったことにぼくはなんだかほっとした。
「ベッドじゃねーと、ちょっとつまんないんだよなあ」
ある夜、暗い天井を見詰めながら進藤がぽつりと言った。
「何で?」 「えー? あの時に、動いていると軋むじゃん?」
あれに結構燃えたのだと言われて、なるほどと納得した。
押さえつけられ、挿れられる。
最初は遠慮があるけれど、段々高ぶるにつれて進藤は加減が出来なくなる。
あの時に、必死でシーツを掴みながら絶え間なく耳にしていたのが、どんどん激しくなって行く軋み音だったので、知らず知らずに抵抗を覚えるようになったんだろう。
行為そのものが嫌だというわけじゃない。
でもそれを何でも無い普通の時に思い出させられるのが、ぼくはきっと生々しくて嫌だったのだろうと思う。
「でもまあ…こっちはこっちでいいけどな」
まだその話を引っ張るのかと、呆れて溜息をついていたら、布団の端が僅かにめくれた。
「進藤、いい加減にしないと―」
話しているうちにその気になったのかと、剣突をくらわせるつもりで睨んだら、指は意外なことにぼくの胴では無く、添えて置かれた手に重ねられた。
「こんなふうにさ、こっちの布団から手を伸ばして、それでそっちの布団の中のおまえの手を探すのってなんかいい」
すごく温かいし、すごくシアワセな気持ちになると言って彼はぼくの指に指を絡めた。
「…ベッドだって手は繋げただろう」 「うん。そうなんだけど、でもちょっと違うだろ」
少し大きめのダブルベッドで、一緒に肌を触れあわせて眠ったのとはまた違う。
「おれの部屋とおまえの部屋と並んで暮らしていて、それでおまえの部屋に入れて貰えたみたいな感じ」 「なんだそれは」 「なんだってそのまんまだよ」
ダブルベッドでは否応もなく触れあうけれど、布団では拒まれたら触れない。
「だからこうやって、おまえが手を握らせてくれるのが、なんか、凄く嬉しい」
だってそれっておれを拒んでいないってことだもんなと言われて体が熱くなった。
「何を今更」
拒んだってどうしたって触りたい時は無理矢理にでも触って来るくせに。
「おまえ、おれのこと好き?」
黙っているぼくに進藤は更に今更なことを聞いてくる。
「嫌いだったら一緒に暮らしてなんかいない」 「そうじゃなくて、はっきり言ってよ。おれのこと好きか嫌いか」
こうして夜中に手を握らせてくれる、おまえの心は本当におれを拒んでいないか、我慢してはいないか、おれを安心させてくれよと言われて思わず苦笑した。
(そうか)
付き合い始めて体も重ね、一緒に暮らしてもいるというのに未だに進藤は不安なのかと思ったからだ。
「そうだね、ぼくはキミと違って言葉の大安売りは出来ないから」
安易に言うことは出来ないけれど。
「――好きだよ」
世界中で一番好きだと呟くように言ったら、進藤は一瞬黙って、それからほうっと息を吐いた。
「良かった」 「ありがとうだろう」 「うん、ありがとう」
ぎゅっとぼくの手を強く握り、嬉しそうな声で言う。
「おれのこと好きって言ってくれてありがとう」
ああ、どうしてこう。 どうしてこうも、この男は自分を好きにさせるのか。
「…普段は俺様なくせに、キミは狡い」 「はあ? なんのことだよ」 「なんでもない」
なんでもないけれど腹が立ったからそれ以上は触るなと厳しい声で言ったら進藤は笑った。
「解ってるって」
今はこうしているだけでシアワセ。もう充分にシアワセだと言ってそのまま静かに目を閉じた。
八畳のなんの変哲も無い寝室で、ぼく達は手を繋ぎあって眠る。
時に拒むこともあるかもしれないけれど、たぶんきっと永遠に。
それはたぶん幸せだ。
彼が言う以上に幸せなことなのだと思いながら、ぼくは掛け布団の下、温かい彼の手を今一度ぎゅっと握り返した。
進藤はもう眠ってしまったのか握りかえして来なかったけれど、ぼくはそれでも幸せだった。
(確かにいい)
ベッドも別に嫌いでは無かったけれど、こういうことが出来るから、やはり布団で眠るのはいいと、微かにそっと笑いながら、ぼくは今一度確かめるように彼の手を握ってから、自分も静かに目を閉じたのだった。
元々あまり容姿について考えることは無かったし、年についても深く考えたことは無かった。
すぐ側に、「綺麗」と「可愛い」を連発する馬鹿が一人いるけれど、自分で自分を綺麗だと思ったことは無いし、もちろん可愛いと思ったことも無い。
見て見られないことは無い。
歩いていて人に見苦しく思われない程度ではある。それが自分の顔に対する認識だった。
だから人に何を言われても気にしたことは無かったし、自分の顔や体つきをまじまじと見ることも無かった。
それがある日明るい日差しの下で自分の手を見て、ぼくは自分が年をとったということを実感したのだった。
何が…というわけでは無いけれど、明らかに以前とは違う。
それは指導碁の相手をする子ども達の肌よりも、日々向かい合って打っている百戦錬磨の老人達の方にどことなく近くなっていた。
皺があるわけでも無い、染みが出来たわけでも無い。でもそれが何故かショックだった。
家に帰っても忘れられなくて、なんとなく鏡を眺めてみる。
(やっぱり年を取った)
写る顔は年相応の枯れ方をしていて、それにもまた軽くショックを受けた。
当たり前だ。十代や二十代ならまだしも三十を過ぎ、四十に近くなれば若いままではいられない。
そんなこと充分解っているつもりだったのに、何故だか非道く憂鬱になった。
「…ん?何してんの?」
そしてこういう時に限って、来なければいいのにタイミング悪く進藤が出先から帰って来てしまったりする。
「別に」 「あんまり綺麗だから自分で自分に見とれてた?」
なんかそういう神話があったよなと、器用にもネクタイを外しながらぼくにちゅっとキスをする。そんな彼の脳天気さに、溜息と共に苛立ちが涌いた。
「綺麗、綺麗っていつもキミは言うけれど、ぼくはちっとも綺麗なんかじゃないよ」
ごく普通の顔立ちだし、それも年を取って衰えて来ていると、言うつもりは無かったのに思わずそんな言葉がこぼれた。
「衰えるって何が?」 「何って、見てわからないか? キミは子どもの頃から馬鹿の一つ覚えのようにぼくのことを綺麗だの可愛いだの言うけれど、ぼくだってもうすぐ四十になるし、随分年を取って来ているよ」
なのにそれを直視もしないで、どうしてそんないい加減なことを言うのだと、言ってしまってから呆気にとられたような進藤にしまったと思った。
「なんだ、そんなこと気にして鏡見てたのか」
女々しいと、女じゃあるまいしと言われるかと思って顔を背ける。
「あのさ、おまえ確かにガキの頃とは顔が違って来てるよな」
でもそれは当たり前でおれだってそうだろうと言われて少し驚いた。
「キミが?」 「うん。おれだって四十になるんだもん、随分オッサンになったんじゃねーの?」 「いや? キミはちっとも変わらない。それは少しは年相応に落ち着いた部分もあるけれど、基本全く変わっていないよ」
なのにどうしてそんなことを言うのだとぼくの言葉に進藤は笑った。
「それ、その言葉そっくりそのまま返してやる。おまえ全然変わって無いよ。そりゃ少しは年取って変わるところもあるかもだけど基本は全然変わらない。相変わらず美人で綺麗で滅茶苦茶可愛い」 「でも、肌や髪や―」
全体的に何かが確かに変わっている。
「おれ…おかしいのかな? 例えばおまえに皺があったとしても、それをきっと凄く可愛いとしか思えないと思うんだ」
無い時も可愛かったけど、あるようになってもっと可愛くなったと、きっと自分は思うと言われ、どう返事をしていいのか解らなくなった。
「もう少しして、髪に白いものが混ざって来たとしても、たぶん綺麗だとしか思えない」
いつかもっと遠い将来、おまえがしわくちゃのじーさんになったとしても、きっと絶対綺麗だと思う。
綺麗で可愛いとしか思えないんだと、そして苦笑のように目を細めて笑った。
「おれって変態なんかな? きっと八十のおまえを見てもやっぱり絶対ヤリたいと思うよ」 「――馬鹿」
他に何も返すことが出来ない。
こんな馬鹿は見たことが無いと思った。
「安心した?」 「別に」
突っぱねて、でもその実ほっと安堵する自分が居る。
顔の美醜はどうでもいい。老いても若くても自分は自分。そう本心から思っているのに、それでも年を感じた今日、少なからずショックを受けたのは、老いる自分を進藤が愛し続けられるのだろうかと漠然と不安に思ったからだった。
「おまえ、きっと知的で可愛いじーさんになるだろうなあ」
和服が似合って、背筋がぴんと伸びたスゴイ美人のじーさんと、進藤は思い浮かべたのか嬉しそうにぼくを見て言う。
「キミも可愛いおじいさんになると思うよ」 「そう?」 「うん。九十になっても百になっても十代の頃と変わらない、悪戯盛りの悪ガキみたいなそんなお爺さんになると思う」 「まあ、そんなのも悪く無いな」
笑い合い、それからキスをして再び笑う。
「大丈夫。おれ『おまえ馬鹿』だから、何十年たっても何百年たってもきっと絶対おまえのことが大好きだから」
綺麗で美人でカワイイってきっと一生言うからさと笑われて知らず頬が赤く染まった。
『有り難い』
有ることが滅多に無い、有ることが奇跡のような――そんな馬鹿で尊い恋人。
彼と出会えてぼくは本当に幸せだと、きっかけになった手を見下ろしながらぼくは思い、やっと年を経ることの不安から解放されたのだった。
※※※※※※※※※※
ヒカルは本当にアキラがどんなに年をとっても、どんなに外見が変わってしまったとしても、ずっと綺麗で可愛いと思い続けると思う。
可愛いなあ、可愛いなあ、こんなに可愛い恋人で幸せだってきっと一生思っていると思う。
| 2011年01月07日(金) |
(SS)トレイン・トレイン |
夜遅い上り電車の中は閑散として人の姿がほとんど無かった。
時折すれ違う下り電車が満員のすし詰め状態なのに反してこちらは一つの車両に数人しか座っていない。
ヒカルとアキラが座っている6両目も、最初こそ座席の全てが埋まっていたが、一時間を超えた頃からどんどん人が減って行き、今や貸し切り状態に近い。
一番端、連結のすぐ近くの狭い座席に並んで座りながら、二人はぐっすりと眠っていた。
つい昨日まで命を削る対局をしていた、その反動で今日は疲れてアキラなどは座るや否や眠ってしまった。
ヒカルもしばらくは起きていたけれど途中から目を閉じて寄りかかるアキラをさり気なく抱えている。
ゆったりとした各駅停車。
急行を選ぶことも出来たけれど、わざわざ二人が時間ばかりかかるこの電車に乗り込んだのは少しでも長く共に時間を過ごしたかったからだった。
『これだと着くの夜中になるぜ?』
帰りの電車を各駅にしようとアキラが言った時、ヒカルは一応反対した。
『おまえもう体力残って無いだろ。移動にこんなにかけてたら、次の対局に疲れを引きずることになるぜ?』 『そこまでぼくは虚弱じゃ無い。大体疲れ云々を言うならキミだってそうだろう』
ほんの数時間前まで盤を挟んで打っていたのは他でも無いヒカルだったからだ。
天元戦五番勝負の第3局。
一勝一敗とお互いに勝ちを一つずつ持っていた所でアキラが先に一歩出た。
夕刻、かなり長い時間盤を睨んでいたヒカルは悔しそうに口を引き結ぶと「ありません」とひとこと言って投了した。
次の第4局でアキラが勝てばそのまま勝ち抜けで、ヒカルが勝てば第5局に持ち越しになる。
『普通、挑戦者とホルダーが一緒には移動しませんよって古瀬村さんに言われたなぁ…』
それでもその有り得ないをしてしまうのは、その時間すら惜しむくらい今の二人に時間が無かったからだ。
棋戦は他にも色々あって、ここしばらくヒカルはアキラとゆっくり時間を過ごした覚えが無い。
『急行で二時間半。キミがその方がいいって言うならそれでもいいけれど?』 『いや、いいよ。各駅で帰ろう』
おれだって少しでもおまえと一緒に居たいものとヒカルが言った瞬間アキラは笑った。
『最初から素直にそう言えばいいんだ』
そして二人して長い電車での帰路に就いたのである。
二人ばかり残っていた客が前の駅で降りて二人の乗る車両は他に誰も居なくなった。
アキラは肩掛けの鞄を膝の上に置いてその上に手を重ねている。
体は全部ヒカルに預け、顔は俯き加減に顎を胸につけて頬にはさらりと髪が被さっている。整った顔は面のように動かず、けれど規則正しい呼吸の音がすうすうと電車の走る音に混じって響いていた。
熟睡。
その隣に座るヒカルもまた眉一つ動かさない。
それほどの消耗が課せられる。それくらい過酷な一局だった。
と、唐突に連結部分のドアが開き、隣の車両から中年の男が一人移って来た。
ごく普通の会社員風のその男は端に眠る二人に目を留めると少し離れた座席に座った。
手に持った新聞を読むふりをしながらちらちらと眠る二人を見る。途中大きな音をたてて新聞を畳み、網棚の上に乗せたけれど、二人は閉じた目を開こうともしなかった。
やがて電車は次の駅に着き、男はゆっくりとした動作で立ち上がると、開いたドアに向かって行った。そしてさあ下りようかという瞬間に、アキラの膝に置かれた鞄をむんずと掴んだのだった。
置き引き完了。
けれど思いがけずくんと紐が引っ張られ、男はつんのめりそうになる。
「この…」
反射的に振り返った男は、けれど凍り付くようなヒカルの目にぶつかって罵倒する言葉を飲み込んだ。
ぐっすりと眠り込んでいるように見えたヒカルは、しっかりとアキラの鞄の肩紐を握り、男を睨みつけていた。
「―消えろ」
理解出来ない。
けれどそれに苛立ったようにヒカルが言葉を繰り返した。
「今すぐここから消え失せろ」
ひとことひとこと区切るように吐き出された言葉は命令だった。
畏れという言葉があるけれど、この瞬間はっきりと男はヒカルの迫力に気圧されていた。
「聞こえ無かったか?」
ひっと小さく悲鳴をあげると男は鞄を手から離して、そのまま走り去って行った。
鞄は際どく外では無く電車の床に落ち、ヒカルは手を伸ばしてそれを拾い上げた。
「……何?」
薄く目を開いたアキラが尋ねる。
「なんでも無い。鞄が落ちたから拾っただけ」 「済まない。ちゃんと持っていたつもりだったのだけれど」 「いいよ、おれが持っておくから。おまえ疲れてんだから寝てろよ」 「またそんな、キミだって同じくらい疲れているのに」
でもありがとう、今日は素直に甘えさせて貰うと目を閉じたまま言って、アキラは再びふうっと深い眠りに戻った。
すうすうと再び呼吸の音が規則正しく響き始める。
その寝顔を見詰めていたヒカルは頬にかかる髪をそっと指で寄せてやると、先程とは別人のような優しい顔で微笑んだ。
「…おやすみ」
そしてもたれているアキラの体を更に自分の方に引き寄せると、そこでやっと満足したような顔になって再びその目を閉じたのだった。
※※※※※
寝てません。ヒカルずっと起きてます。番犬です。
正月はなんだかんだと忙しくて、家を訪ねて来られるお客様の対応や、逆にお世話になっている方々へのご挨拶回りに父の後をついて行ったりで毎日が慌ただしい。
研究会を兼ねた父のお弟子さんの集まりもあって、それにももちろん顔を出す。
母の買い物の手伝いをしたり、家のことも手伝って、それであっという間に三が日は過ぎたという感じだった。
(進藤はどうしているんだろう)
合間合間にふと思い出し、けれど深く考える暇も無く名を呼ばれる。
彼はきっとお家の方とのんびり過ごし、中学や小学校の時の友達と初詣にでも行っているのかもしれない。
本当はぼくも彼と行きたかった。
初詣で無くてもただ顔を見て話したかった。
他愛無い、本当になんでもない普通の会話がしたくてしたくてたまらない。
これが恋しいという気持ちなのだとしたら随分と切ない。
ぼくだけがそう思っているだろうということが余計に切なく感じさせるのかもしれないけれど、でも、ぼくが彼を好きなのだから仕方無い。
待ちに待ってやっと来た五日。
打ち初め式に向かう足取りは軽くて、人混みの中にその姿を見つけた時にはもっと嬉しくなった。
「塔矢」
おはようとにっこり笑い、そして寒いなと続けて言う。
「もうずっとゆっくり起きるのが癖になっちゃってたから今日早起きするのが辛かった」 「…早いという程早くは無いだろう」
手合いの時とそんなに変わらないと言うと口を尖らせた。
「それはそうなんだけどさあ」
そうしてからいきなり思い出したようにぼくに言った。
「なあ、おまえ今日の午後は何か予定あんの?」 「予定? 別に…」 「だったらどこかでメシでも食おうぜ」
いや、ただ茶を飲むだけでも、どこかのカフェで携帯用碁盤で打つのでもいいとせわしなく続ける。
「いいけど何で?」 「何でって、正月中おまえに会えなかったからに決まってるじゃん」
休みの間中、会いたくて、会って話したくて仕方無かったんだと言われて微笑んだ。
「ぼくもだ…」 「だったら約束な?」
絶対に絶対に緒方先生とか他の偉い先生方に連れて行かれちゃ嫌だからなと、念を押しながらも友人達に呼ばれて行ってしまう。
「約束だぞー」 「…うん」
幸せだ。
なんて幸せな年の始まりだろうと思いながら、ぼくは進藤と交わした会話を噛みしめて打ち初め式の始まりを待ったのだった。
「面倒臭い」
帰って来てネクタイを外すなり、塔矢はぼそっと呟いてそのままソファに座り込んだ。
「何? お偉いじーさん達の話って何だった?」
そんなに面倒臭いことを言われたのかと尋ねたら、不機嫌そのままの顔で
「委員になることになった」と言った。 「へえ…何委員」
棋院も一応組織なので内部に色々な委員会がある。その一つに関わるよう言われたのだと思った。
「なんだか今年になってから出来る、新人を束ねて教育する委員会の責任者になって欲しいって言われた」
へー、おまえにぴったりじゃんと言いかけて、言ったら殺すと言わんばかりの目つきで睨まれて言葉を飲み込んだ。
「どうしてそんなに嫌そうなんだよ。おまえそういうの向いてそうじゃん」
クソ真面目で四角四面。品行方正で所謂委員長タイプだと思うのだけれど。
「ぼくが? 冗談じゃない」
塔矢は吐き捨てるように言うとそのまま怒濤のように喋り出した。
「人がどう思っているか知らないけれど、本来ぼくは非道く自己中心的な人間なんだ」
うん、まあそうだよなと、これも口に出したら殺されるので言葉では言わない。
「面倒なことはやりたくない大ざっぱな人間だから、学生の頃だって部活動も委員会も生徒会も何一つやらずに過ごして来たのに」
どうしてそれを今更やらなくてはならないのだとムッとした顔で言う。
「…それは、おまえが真面目そうだからじゃん?」
実際おれや和谷達と比べたら、塔矢は完璧なくらい人前に出して恥ずかしく無い『模範的な若手』と言っていいだろう。
「だからそれは思い込みだって言っているんだ。お父さんはそれこそ真面目で誠実な人だから色々な委員会にも属していたし、若手の教育にも熱心だった」
だから自宅を開放して研究会もやっていたのだけれど、あんなのはごめんだと塔矢は言い切ったのだった。
「ぼくはぼくだけのために時間を使いたい。人のために何かする時間があるなら一手でも多く打ちたいし、誰かと打ち合わせをしなくてはいけないんだったらその時間にキミと少しでも多く打ちたいと思う」 「あ、おれは特別なんだ」 「当たり前だろう」
キミはぼくの人生にもう組み込まれている。打つことと同義語でぼくにとって無くてはならないものなんだからと言われて少し、いやかなり嬉しくなる。
「なのにこれから少なくとも週に1度はその委員会のために集まれって言うし」
面倒だ、ああ面倒でたまらないといつまでもこぼしているのでとうとう言った。
「あのさぁ…」 「なんだ?」 「その委員って他に誰が居んの?」 「別に、他のメンバーはぼくが決めていいって言われているから」
それもまた面倒で困っているんだと言われて思わず笑った。
「だったらそれにおれも入れてよ」 「え?」 「おれもそのなんたら委員になる」
そうしたら一緒に居られるし、お前のフォローもしてやれるよと言った瞬間の塔矢の顔をおれは一生忘れ無い。
「……そんないい手が!」 「それにおまえが決めていいんだろう?だったら他のこともおまえの好きに進めていいってことになるんじゃん?」
それは考えようによっては上に通さず、全て自分の都合で采配してしまっていいということにもなるのではないか。
「他に芦原さんにも入って貰えば? 緒方先生は意地悪だけど発言力があるし、基本おまえの味方だから入って貰えば後々面倒が無くていいと思うし」
下っ端で動かしやすいのが欲しいんだったら岡と庄司を入れてしまってもいいし、若手仲間だったら幾らでもおれ自身が動かせる。
「前向きに考えろよ、おまえ頭イイんだからさ」
面倒を面倒で無いように無理矢理変えてしまえばいいんだと言ったら、更に驚いた顔をされた。
「キミに…そんなことを言われるとは思わなかった」
そうか、そうだね、そうしてみるよと、ぱあっと表情が明るくなって行く。
ホントこいつクソ真面目で、だから楽をすることなんて考えもしなかったんだろう。もしもおれが声をかけられたんだったら真っ先に役得で塔矢を側に置く所なのに。
(まあ、でも塔矢らしい)
面倒臭いのはおれも嫌いだし、打つ時間が減るのは嫌だ。でも塔矢と一緒なら別になんでもやったっていいと思う。
「…じーさん達、嫌な顔するだろうけどなあ」
誰よりもまず塔矢を手本に生活や服装を正して欲しいと思っていただろうおれに委員になられるのは碁界の重鎮たちにとってはたまらないことだろう。
更にそのおれの仲間達に好き勝手されるのは予想外のことだろう。
でもその嫌そうな顔を見るのも痛快だと思うので、自分の一生には無縁だと思っていた、組織という名の大きな歯車の中に、ここは一つ組み込まれてやろうかと思ったのだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※
実際委員もあるそうですし、ヒカルやアキラも段々色々やらなくちゃいけないようになるんだろうなと。
アキラはもちろんそういうのに向いていると思われがちですが、でも実はやらなくていいなら何もしたくないと思っているだろうと思います。碁だけしたい。自己中です。 そして意外にもヒカルの方がそういうことに向いていて、人を動かすことも上手い。
そのうち二人で碁界を牛耳ってくれたらいいなと思います。
|