いつもの如く、ヒカルは目覚ましが鳴ってから30分以上も過ぎてから、ようやく起きた。
目を擦りながらベッドから出て、それからテレビをつける。
頭の中でざっと棋院までの時間を計算して、間に合うと理解してほっと息を吐いた。
「かったるい…」
さすがに三連チャンの飲み会はキツいと思い、冷蔵庫からスポーツ飲料を取り出して飲むと何も食べずに着替えて外に出た。
実家を出る時、借りる部屋は駅まで徒歩10分以内と決めていたので走らなくても済み、そこそこに混んだ電車に揺られて市ヶ谷に着いた。
スクランブル交差点を渡り、カフェの前を通り過ぎて帯坂を上る。
二日酔いにこの坂キツいんだよなあと思いながらゆっくり歩いて行くと途中で足音が追いついて来てポンと背中を叩かれた。
振り返ると和谷が居て、苦笑いのように笑いながら「今頃かよ」と言った。
「そういう和谷こそ今頃かよ」 「寝過ごしたんだよ。クソっ、進藤よりは早いのが自慢だったのに」
しかしそもそも昨夜自分と飲んでいたのは和谷なのだから、寝過ごしたのも無理は無いとヒカルは思う。
「大丈夫だよ、まだ10分あるぜ?」 「そこまでギリギリなのおれは嫌なんだよ!」 「タマシイ小さっ、10分前でも20分前でもそんな変わらないだろ?」 「変わるんだよ、遅刻すれすれに来ても平気だなんてお前くらいだって」
軽口をたたき合っているうちにあっという間に坂を上りきり棋院に入る。
「進藤、おまえの今日の相手誰?」 「うーん、確か村上六段だったと思うけど。お前は?」 「おれ、佐久間四段。初めて打つんだよな」
でもまあなんとかなるだろうと、そして六階で下りた。
着いてしまえば後はいつも通りで、顔見知りに声をかけ自分の場所に向かうと既に来ていた相手の前に座った。
そして開始時間になって打つ。
ぱちりと響く音に頭の中の雑念を追い払いながらヒカルは盤に集中した。
打ち掛けを挟み、午後も打って、途中危ない所もあったけれど結局中押し勝ちで勝つことが出来た。
検討して、帰り支度をしていたら和谷もまた終わったらしくやって来て、顔を見るなり「今日はどうする?」と聞いて来た。
「今日は帰る。さすがに四連チャンはしたくねーもん」 「だな。おれも帰る」
そして無駄話をしながら棋院を出た。
朝と同じように電車に揺られ、最寄り駅に着いたヒカルはスーパーの前を通過するとコンビニに立ち寄った。そこで弁当と炭酸飲料とスナック菓子を買って帰路に就く。
真っ暗な部屋に戻るとテレビをつけて、上着をその場に脱ぎ捨てるとそのまま買って来た弁当を食べ始めた。
途中で喉が渇き手を伸ばして炭酸飲料を開ける。
飲んでいると着信があったのでメールを見て、すぐに返事をして再び食べ始めた。
「あんまり美味く無かったなあ…これ」
新発売で美味そうだったから買ったのにハズレたと、ぼやくように呟いて目はそのままテレビを見続ける。
だらだらと食べた後、しばらく床に転がって雑誌などを眺めてから、ようやくゴミを片付けてシャワーを浴びに行った。
せっかく風呂付きの部屋にしたのに、ちゃんと湯を張って入ったのってほとんど無いなと思いながらざっと洗って泡を流す。
出てからはまたぼんやりとテレビを観続け、あくびが出るに当たってやっと自分が疲れていることに気がついた。
「寝よう…もう」
そしてまだ乾ききっていない髪のままベッドに潜り込んだ。
いつも通りの変わりばえのしない1日。
つまんねー1日だったなと思いながら眠りかけて、ヒカルは目を見開いた。
「…って、違うだろ! 起きろ、おれ」
いつまでだらだら寝腐ってるんだよ、こんなつまんねー世界にいつまで居ても仕方無いだろうとヒカルは恫喝した。
「塔矢のいない世界なんか、意味無いんだよっ」
その瞬間―目が覚めた。
「驚いた」
すぐ傍らにはアキラが立っていて、びっくりしたような顔でヒカルを見ている。
「起こそうと思ったらいきなり目を開くから」 「いい加減…起きようと思ったんだよ」 「良い心がけだ。いつもこんなふうに自分で起きられればいいのにね」
そして去って行こうとするのを呼び止めて引き寄せた。
「…何?」 「なんでも無いけど、ちょっと」
抱き寄せたアキラは温かかった。温かく良い香りがして、困ったように苦笑しているのがまた、たまらなく良かった。
「進藤?」 「…シアワセだなぁ」
変わりばえのしない平凡な1日。
けれどそこにアキラが居るだけで幸福で満ち足りて充実していた。
「…大好き」
囁いた言葉に訳が分からないながらも、微笑んでアキラも返してくれた。
「ぼくも好きだよ」
キミがとても好きだと、その言葉でヒカルは更に幸せになったのだった。
| 2010年10月07日(木) |
(SS)16才には重すぎる |
まだ付き合い始めて間も無い頃、塔矢が仕事で長崎に行った。
一泊して翌日帰って来ると言うので、どこかで待ち合わせてメシでも食えないかなとメールをしたらすぐに返事が来た。
『いいよ、半端な時間だし昼をどうしようかと思っていたんだ』
キミと一緒なら嬉しいなと、こちらの方が余程嬉しくなってしまうような、そんな言葉付きのOKに舞い上がる。
『おれ、ちょうど八重洲センターに用があって行くから、東京駅で待ち合わせよう』 『いいよ。待ち合わせる場所と時間はどうしようか?』 『待ち合わせは八重洲口改札にして、時間は…おまえ羽田に着くの何時?』
11時半着の飛行機だと言われてネットで検索する。
『羽田から東京駅まで40分くらいかかるみたいだから、じゃあ12時少し 過ぎに待ち合わせよう。おれ、早めに行って待ってるから着いたら連絡して』 『わかった、もし道路が渋滞して遅れたら許してくれ』
思いがけない言葉に一瞬思考が停止する。
『おまえ…羽田から何で来るん?』 『タクシー』
当たり前だと言わんばかりの言い切りのメールにしばし沈黙する。
『……悪い、やっぱ時間がわからないから、とにかく着いたら連絡して』 『わかった』
楽しみにしていると更に嬉しい言葉のダメ押しに、『おれも』とハートマークで返信してから俯いた。
『…このブルジョアがっ!』
電車以外の交通手段を考えもしなかった。自分と塔矢の「育ちの違い」を今更ながら思い知り、おれは深く落ち込んだのだった。
| 2010年10月05日(火) |
(SS)逆プロポーズ |
『どうか息子さんをぼくに下さい』
今日は非道く驚くようなことがあったと電話で母親に言われて、軽い気持ちで先を促したら塔矢が家に行ったことを告げられた。
『きちんとした格好で、手土産を持って、でも決して玄関より先には上がらずに三和土で土下座をされてびっくりしたわ』
こんな所ではなんだからと、家に上がるように言われても決して塔矢は頭を上げず、結局一歩も家には上がらずに帰ったのだと言う。
もう長い間付き合いを続けていること、おれ以外と人生を歩むことは考えられないということ、家を捨てて養子に入る覚悟もあるときっぱり塔矢は言ったのだと言う。
「嘘だろ…」
つい昨日、会った時にはそんな気配は微塵も無かった。単純にまた次に会う約束をして別れただけだったのに、そんなことを考えていたのだとは驚きだった。
『…で、どうするの?』 「どうするって、そっちはどうなんだよ」
頭の悪い返し方だったが、動揺しすぎて思わず聞き返してしまった。
「一人息子が男と結婚するって、許せんの?」 『私はあなたがどうするつもりなのか聞いているのだけれど』
母親の声は気味が悪いくらい静かだった。
「どうって…」 『あれは別に塔矢くんの思い込みや嘘なんかじゃ無いんでしょう?』
本当にそういう関係に在るということなんだろうから、私はあなたの気持ちが知りたいのだけれどと聞かれて唾を飲み込んだ。
「…反省してる」 『何に?』 「あいつに…そこまでさせちゃったこと」
もう何年もうやむやにしたまま付き合いを続けて来た。その間におれはもちろん塔矢の方は何度も見合いの話や将来どうするのかと責められ続けて来たのだから。
(なのにおれは、塔矢が何も言わないのをいいことに、自分からは何もしなかったんだもんなあ)
どんな気持ちで塔矢がおれの家に行ったのか考えるだけで胸が痛む。
『ヒカル?』 「とにかく、そっちに行ってちゃんと話をする。でもその前に寄る所があるから少し遅くなるかもだけど」 『どこに行くの?』 「あいつんちに行って、おれもケジメつけてくる」
『そう』と、母親の返事は短かった。
賛成はもちろんしていないだろう、けれどはっきりと口に出して反対しないのも不気味だった。
『そうね、塔矢くんはちゃんと筋を通したのだから、あなたも筋を通してらっしゃい。話をするならそこからだわ』
お父さんと二人で待っているからと言われて、思わずごめんと呟いた。
『何を今更―』
少しだけ母親は笑ったようだった。
『あなたのことなんか、もうとっくの昔に諦めてるわ』と耳の痛いことを言われて電話を切った。
―さて。
時計を見てあいつの家までの時間を計る。
あいつはまだ実家で親と暮らしているから、おれが行ったらさぞかし驚くことだろう。
(それとも覚悟の上なのかな)
塔矢先生は今日は家に居る。この前、それをさり気なく言っていたのを思いだして、じゃあやはり計画的犯行だと苦笑した。
情けない、へたれ男がどれくらいあいつの勇気に応えられるかわからないけれど、恋人として裏切ることだけはしたくない。
取りあえず、顔を洗って髭を剃ってと鏡の前に立ったおれは鏡に映った自分の顔がまだ少し自信無げなのに息を吐き、思い切り頬を叩くと「しっかりしろ!」と改めて気合いを入れたのだった。
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手土産は虎屋の羊羹か(対行洋)ダロワイヨのクッキー(対明子)でも買ってけ!
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