SS‐DIARY

2009年08月29日(土) (SS)貧乏舌


舌の肥えた塔矢と何かを食べるというのは実は結構問題で、育ちがいいから言葉にはしないけれど、マズイ時はマズイとはっきり顔に表れてしまう。

「今日、なんか食って帰ろうぜ」

なので碁会所で打って遅くなった時などは、大抵カフェかそば屋で食べて帰ることにしている。

妥協点と言うか、それくらいが唯一お互いに可もなく不可も無く物を食べられる場所だからだ。

「藪茂に行く? それとも駅の反対側のベーカリーカフェに行く?」

行きつけの店の名前を挙げたのに、何故か今日は塔矢の返事は鈍かった。

「うん…それでもいいんだけど」
「何?なんか他に行きたい所でもあるん?」
「う…ん」

口ごもる視線の先には回転寿司屋があって、まさかと思いつつ尋ねて見た。

「もしかして、回転寿司に行きたい?」
「う…ん。前から一度入ってみたいと思っていたんだ」
「いや、おれは別にいいけどさ、おまえ普段美味いのを食べ慣れてるんだろ? だったら口に合わないんじゃないかと思うけど」
「別にそんな特別な物を食べているわけじゃないよ」

ただ、回っているお寿司は食べたことが無いだけでと、言うその口が食べたであろう寿司はたぶん銀座などの高級店の寿司なのだ。

「入りたいんなら別にいいけど…がっかりするなよな」
「しないよ、キミは人のことを一体なんだと思ってるんだ!」

少し拗ねた顔をしながら、でも塔矢は嬉しそうな顔をしておれと一緒にごくごくフツーの回転寿司屋に入ったのだった。


そしてカウンターに並んで座り、おれは腹が減っていたので二、三皿続けざまに取って食べた。

でも塔矢はじっとレーンを見詰めたまま動かない。

(ほら、やっぱりダメなんじゃん)

普段活きが良いネタを見慣れている塔矢にはとても不味そうで手を出せないんだなと、溜息をつきつつ自分だけ食べ続ける。

けれど塔矢はやっぱり一皿も手を出さない。

満腹になる頃になってもやはり一皿も食べずに居る塔矢にさすがにおれも声をかけた。

「なあ、そんなにダメ?」
「え?」
「どれか一つくらい食えそうなの無いん?」
「あ…いや」

どれも美味しそうなんだけどと意外なことを塔矢は言う。

「じゃあなんで食わないんだよ」
「タイミングが合わなくて」
「は?」
「だからお寿司の流れるのが早くて、皿を取るタイミングが掴めないんだ」

しばらく意味が飲み込めなくて、でもわかった瞬間に噴いた。

「何? おまえ、この皿が取れなくてさっきからじっとしていたん?」
「悪かったな、ぼくはキミみたいに運動神経が良くないんだ」

いや、だって運動神経とかそういう問題じゃないだろうと思いつつ、よくよく見れば塔矢は至極真剣な顔で右手をわきわきと動かしている。

それが皿を取ろうと待ち構えているのだと気がついて、おかしさより可愛さに心が支配された。

(こいつって、マジ本当に)

可愛い―――。


「…何食べたいんだよ」
「え?」
「だから、おまえ何食いたいん?」
「ええと…エンガワ」
「わかった。エンガワな。後は?」
「イクラとはまちとイカが食べたい」
「わかった」

おれはレーンの上から言われた皿を取って塔矢の前に置いてやった。

「ありがとう」
「いや、別に礼を言われるようなことじゃ…」
「このまま何も食べられないで終わってしまうのかと思っていたんだ。ありがとう」

それは素直な、有り得ない程素直な笑顔だった。

「ん、いいけど、本当にそれ、おまえが普段食ってるようなヤツじゃないからがっかりすんなよ」
「しないよ」

キミが取ってくれた物をがっかりなんてするはずが無いと言った塔矢はその言葉通り、寿司を全て美味そうに食べた。

それどころか興が乗ったらしく、茶碗蒸しやカニみそ汁、デザートまで食べた。


「ご馳走さま」

店を出る頃には二人併せて結構な皿数となっていて、でも一皿百円なのでおれはそれ程財布を痛ませることも無く、気持ち良く塔矢に奢ることが出来た。


「でさ、おまえ…本当に美味かったん?」

店を出る時、レーンの中で寿司を握っていた職人にバカ丁寧に「美味しかったですご馳走様でした」と頭を下げて恐縮させた塔矢におれは思い切って聞いてみた。

「美味しかったよ?」

エンガワはゴムみたいに固くて、イクラは人造で、はまちもイカも活きが悪かったけれどと、それちっとも褒めてねえ!と思いつつ、でも塔矢の顔は笑っている。

「カニのお味噌汁もちっともカニの味がしなくて、茶碗蒸しも調味料の味がキツ過ぎたけど、でも…美味しかった」
「マジ?」
「うん。キミと一緒に食べたからかな、どれもすごく美味しかった」
「ふーん」

塔矢は嘘をついていない。少なくともその顔は嘘をついている顔では無いのでおれも笑ってしまった。

「なんだおまえって結構貧乏舌なんじゃん」
「貧乏舌?」
「おれと同じってこと!」
「そうか、うん。だったらぼくは貧乏舌だよ」

意味もわからず微笑んでいる塔矢の顔は究極に可愛い。

(意味がわかったらきっと殴られるんだろうけど)

でもその笑顔は本当に本当に本当に本当にたまらないくらいに可愛かったので、おれは貧乏舌万歳と思った。

そして、絶対にまた塔矢を回転寿司屋に連れて行って、塔矢の代わりに幾らでも寿司の皿を取ってやろうと心からそう思ったのだった。


※※※※※※※※※※※※※※※※※

すみません。日記に回転寿司のことを書いたらどうしてもトロくさく皿を取れないアキラが見たくなってしまって自分で書いてしまいました。

いくら何でもそりゃ無いだろうとは思うのですが、でも生まれて初めての回転寿司ならばこういうことも有り得るのではないかと思ったり。
ほら、あれですよ。小さい子がエスカレーターの乗り降りに苦労するようなあんな感じです。




2009年08月05日(水) (SS)最強天然伝説


名人の子どもということもあってか、昔からよく嫌がらせのようなものを受けてきた。

もちろんあからさまでは無く、大抵は「間違い」や「気のせい」でも通ってしまうようなものばかりで、でもそういうせせこましい嫌がらせはぼくの気分をささくれさせた。


その研究会でぼくがされたのはコーヒーに塩を入れられるというものだった。

一口飲んでうっと思うくらい塩辛いコーヒー。

でも先生の奥様が手ずからいれてくれたものを吐き出すことは失礼だし、一番の若輩者が難癖をつけるわけにはいか無くてぼくは全て飲み干した。


先生も奥様もコーヒーに塩が入っていることは知らない。
台所から運ばれてくる間にぼくの分だけにたっぷりと塩が入れられるのだ。

気をつけていないとむせてしまうくらい塩っ辛いコーヒーをぼくは随分長い間飲み続けた。

失言を期待するたくさんの目に負けたくないという気持ちもあったし、これくらいの嫌がらせで自分を退けられると思われることも屈辱だったからだ。

あまりの塩っ辛さに気分が悪くなり後で吐いたこともあるけれど、一度たりともぼくが顔にも態度にも反応を示さないでいるうちに、諦めたのかいつしかコーヒーに塩が入れられることは無くなったのだった。



その研究会に進藤が参加するという。


「進藤」
「ん? 何?」
「キミ、あそこは初めてなんだよね」
「うん。和谷や冴木さんも来たこと無いって言うし。面白い?」
「勉強にはなるよ、皆さん厳しい方ばかりだし」
「へえ、そうか、楽しみだな」

屈託無く素直に言う進藤に塩コーヒーの話をするべきか否かぼくはずっと迷っていた。

最近あまり出入りしていなかったので、今だにそんなことが続けられているのかどうかわからないけれど、でも続けられているならばまず間違いなく進藤は塩コーヒーを出されるだろうと思ったからだ。

長年真摯に打ち続けても目の出ない者も居る。そんな人から見たら、ぼくや進藤は何の苦労も無く駆け上り続けているかのように見え、腹立たしい存在に違い無いからだ。

(でも…あれくらいの嫌がらせに屈しているようでは碁打ちとしてやって行くことは出来ない)

少なくともぼくのライバルである彼には、そんなつまらないことをはね除ける強さを持っていて欲しいとぼくは思ってしまうのだ。

研究会の会場である先生のお宅に着く直前まで悶々と悩みながら、結局ぼくは彼に何も話さなかった。

そして―。

久しぶりの部屋の中、居並ぶ面々の顔つきとなんとなく面白がっているような雰囲気に、ああ、またやるつもりなんだなと思った。

先生はコーヒー好きで知られていて、研究会の前には必ず奥様がいれたコーヒーが出される。

それを運ぶのは一番弟子で、今回もその人はたっぷりと進藤のコーヒーに塩を入れるはずだった。

(負けるなよ)

彼があの塩っ辛いコーヒーをどう切り抜けるかと息を飲んで見守っていたら、彼は一口飲むなり思い切りむせて咳込んだ。

してやったり。

不作法なと、にやりと笑って古弟子達がからかい始めるその前に、進藤は口を拭うとあっけらかんとこう言った。

「先生、このコーヒー砂糖じゃなくて塩が入ってますよ」

しんと部屋の中が静まりかえった。

今まで何十人もが洗礼を受けて来てその中の誰一人として言えなかったことを進藤はあっさり言ったのだ。

「きっとたくさん居るから奥さん間違えちゃったんですね。おれ取り替えて貰って来ます」

そして立ち上がりかけてふと気がついたようにぼくのカップを見て「おまえは平気?」と尋ねて来た。

「…大丈夫だけど」
「そっか、良かった」
「皆さん大丈夫でしたか?」

端から順に顔を見て心配そうに尋ねるのに、内情を知ってるはずの皆が居心地悪くコーヒーを含んで大丈夫だと返事をする。

「良かった。先生のも塩は入って無かったですよね? じゃあ被害は一つだけってことで最小限で済んでホント良かったですよ」

そしてにっこりと欠片の疑いも持たない顔で立ち上がると、出入り口近くの人に台所の場所を聞いてさっさと取り替えて貰いに行ってしまったのだった。



わっはっはっはっはと、いきなり大声で笑ったのは他でも無い先生だった。

「…塔矢くん。進藤くんは面白い子だね」
「はあ…」

水を向けられてぎこちなく頷く。

「いつもあんな感じなのかね」
「ええ、…概ねいつもあんな感じです」

憎めないねぇという言葉に部屋中の皆が苦笑したように笑った。

「塔矢くんも随分辛抱強かったけれど、ああいう強さは初めて見たね」

言われてはっとした。それでは先生はずっと嫌がらせのことを知っていたのだ。

「ああいう子は怖いね。粘り強くて打たれ強い」

みんな用心しなさい、あの子はきっと手強い棋士になるよと言われて思わず口元が笑った。

「おや、塔矢くんは笑っているね」
「彼はぼくの…唯一のライバルですから」

周り全て年長者の中、生意気な、何様だと罵られても仕方の無いぼくの言葉も何故か責められることなく流された。

それくらい進藤の反応は意外で皆毒気を抜かれてしまったのだろう。



「あ、すみません。いれなおして貰って来ました」

先生の家の台所ってうちの三倍くらい広いですね、塔矢んちも広いと思ってたけどタメ張るくらい広かったですとやがて戻って来た進藤が屈託無く言うのに皆がまた苦笑する。

「それから、なんかよくわからないけど、後で奥さんが美味しい和菓子を出してくれるそうです」
「そうかい、ありがとう。塩っ辛いコーヒーなんか出してしまって申し訳無かったね」
「いいえ、大丈夫ですよ、あれくらい」

天然か、それともわかって流しているのか、親しいぼくでもわからない。

けれど明らかに場の雰囲気は変わったし、周囲の空気も変わったのだった。


「そうだ、進藤くん、この前のNEC杯の予選面白かったよ」

後ろの方に居た中堅の棋士が進藤に声をかけた。

「あ、見ててくれたんですか?」
「ああ、面白かった。倉田さん相手に良く打つねぇ」
「そんなこと無いです。あれ、あの後こいつにぼろくそ言われたんですから」

な? とにっこり振り返るのにぼくは赤面しながら頷いた。


侮れない。でも憎めない。それがここでの彼の「存在」になったらしい。

「私も見ていたよ。あれは難解な碁だったね」

それじゃ並べて皆で検討してみようかと先生の鶴の一声で場の空気がぴしりと締まる。

進藤を中心に皆が碁盤に真剣に見入る。その姿はとても今日初めてこの研究会に参加したようには見えなかった。

(心配する必要なんて無かったな)

はね除けるのでもなく、おもねるわけでも無く、自分らしく彼は困難を切り抜けることが出来る。

ぼくよりもずっと処世術に長けていることをこの日ぼくは初めて知って、悔しい反面とても誇らしい気持ちになったのだった。


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