| 2008年08月06日(水) |
151515番キリリク「夏休み」 |
この夏はやたらと忙しくて、花火大会に行きそびれてしまった。
近所で行われる盆踊りにも行けなかったし、海にも山にも行けなかったしプールにも遊園地にも行けなかった。
「あーっ、もうっ! 夏だってのになんにもしてねぇ!!」
2泊3日の地方での仕事を終えて帰って来たヒカルは、スーツも脱がずにリビングに倒れ込むと、つい胸の中でくすぶり続けていた不満がこみ上げて、叫ぶように言ってしまった。
「おれの夏はきっとこのまま空しく終わっちゃうんだぁっ!!」 「まだ8月の頭だって言うのに、何を言っているんだ」
キッチンで夕食の仕度をしていたアキラは、良く冷えた麦茶のグラスを持って出て来るとヒカルの側に置いてやりながら呆れたように言った。
「花火や盆踊りは終わってしまったけれど、海や山ぐらいこれからでも行けるんじゃないか?」
「海なんて、もうすぐにクラゲが出るようになっちゃうし、山は行こうって言ってもおまえは付き合ってくれないじゃん」
「だってこの時期の山は混むから」
苦笑交じりにそう言うのは、いつぞやの夏、ヒカルに引っ張って行かれた近郊の山で、まるで朝の通勤電車のような混雑に遭い、うんざりとさせられた経験があるからだった。
「せっかく涼をもとめて行くのにあれじゃゆっくりと景色を見ることも出来やしない」
「そりゃそうだけどさ、それを言ったらおまえ、夏休み時期のプールや遊園地も同じ理由で付き合ってくれないじゃん」
「…人混みは苦手なんだよ」
元々アキラは休日だからと言ってどこかに出かけたりするよりは家の中でゆっくりと過ごす方が好きなのだ。
ヒカルもそれはわかっていたが、それでも休日、殊に夏の休みともなればそれらしい所にアキラと二人で出かけたくてたまらなくなってしまう。
「…じゃあ、お台場」 「混むから嫌だよ」 「映画」 「キミが観たいって言っていたヤツは混むんじゃないのかな」 「…千葉のネズミの…」 「どうして最も混みそうな所を言うのかな」 「あーっ、もう結局どれもダメなんじゃん!」 「そもそもキミもぼくも、来週は早々にまた手合いが入っているし、その後も仕事や用事がたくさん入っていて、明日くらいしか丸々一日ゆっくり過ごせる日は無いと思うんだけど」 「一日かぁ」
それじゃマジでなんにも出来ないなあとヒカルは大きなため息と共に言葉を吐き出すと、くるりと表を向いて、それから部屋の照明に眩しそうに目を腕で覆った。
「せっかく夏なのに…なんにも出来ないのってなんかすげえ悔しい」
それは本当にしみじみとした疲れと諦めが混ざったような声音だったので、アキラは苦笑するよりもヒカルが可哀想になってしまった。
「そうだね、キミは夏が好きなのに、その夏に何も出来ないんだものね」
それはさぞ辛かろうと、素直にそう思った。
子どもの頃は真っ黒に肌が焼けるまでプールに通ったと以前聞いた。
祭りに花火大会にラジオ体操に虫取り、宿題なんかは部屋の隅に鞄ごと放り投げ、毎日毎日、暗くなるまで友達と遊び回ったのだと。
「大人になるって結構つまんねえよなあ」 「…スイカならあるよ」
目を覆ったまま寝転がっているヒカルの側に座り、優しく髪を指で梳いてやりながらアキラは言った。
「スイカって言ったってどうせ6分の1くらいの小さくカットしたヤツじゃん」
「キミがそれで文句を言ったから今年は丸いのを一つ買ってある」
キミは大きく切り分けて、それにかぶりつくように食べるのが好きなんだろうと言われて、ヒカルはそっと腕をずらした。
「…そんだけ?」
「かき氷のシロップも買ったからかき氷も作れるし、冷蔵庫にはビールがキンキンに冷えていて、茹でた枝豆もある」
ちなみに今日の夕飯は素麺だよと言われてヒカルは覆っていた腕を完全に外した。でもまだ少し拗ねた風情が残っていて、口を尖らせながら言う。
「何味?」 「え?」 「シロップ。何味のを買って来たん?」 「苺だよ。苺しか食べないくせに。それにちゃんと練乳も買って来てあるから」
毎年毎年、同じようなキミの文句を聞かされ続けて来たからそこらへんに抜かりは無いんだよと、にっこりと言われてヒカルはばつの悪い顔になった。
「そんだけ?」 「まだ足りないのか、欲張りだな」
普段のアキラならヒカルの我が儘っぷりに怒って一喝している所だけれど、夏になってからのヒカルが本当に忙しく、色々我慢を重ねているのを良く知っていたので、ただ優しく微笑んだ。
「まだあるよ、とっておきのが―」
言ってアキラはふいっとヒカルに背を向けるとリビングから出て行ってしまった。そして程なく戻ってくると寝そべっているヒカルの体にふわりと何か布のような物を覆いかけたのだった。
「何だ、これ」
驚いて起きあがったヒカルは、被せられた布を顔から外して、やっとそれが何であるか気が付いた。
「浴衣――」 「お母さんが送ってくれたんだ。キミの分とぼくの分」
二人分縫ってくれたんだよとにっこりと言う。
「花火も盆踊りも終わってしまったけれど、でも何も無くたって浴衣を着てもいいだろう?」
アキラに微笑まれてヒカルの頬にはやっとほんのり赤みが差した。
「着てくれるんだ? 一緒に」 「着るよ? なんで一々そんなことを聞くんだ」
夏なんだから、そしてこんなに毎日暑い日が続くんだから家で浴衣を着たって何も悪いことは無いと、笑うアキラの顔は美しかった。
疲れたとか、暑いとか、遊びに行けなくてつまらないとか、そんなくだらない不満が全部まとめて吹っ飛んでしまうくらい艶やかで優しく、ヒカルへの愛情に満ちていた。
「キミが着たく無いなら別にいいけれど―」 「あっ、着る、着たい! ぜひ着させて下さい」
お願いしますと、思わず正座になって言葉も丁寧な物言いになるヒカルにアキラが可笑しそうに笑った。
「いいよ、今日着てもいいし、明日着てもいいし、今日も明日も両方着てもぼくはいい」
「今日! 今日これから着たい」
浴衣を着て、素麺食べて、スイカを食べて、かき氷を作って食べてからベランダでゆっくり夜の街でも眺めながらおまえと二人でビールが飲みたいと、ヒカルの答えにアキラはゆっくり頷いた。
「わかった。じゃあ用意しておくからキミはその前にお風呂に入ってくること」
ゆっくり入って汗と疲れを流して、それから今キミが言ったことを全部やろうとアキラは言った。
「あ、でもおれ花火もやりたい、花火っ!」 「ベランダで? 線香花火くらいなら大丈夫かもしれないけど」 「じゃあいい、線香花火で!」 「でもそれだと買いに行かないといけないな」
さすがのアキラも花火の用意まではしていなかったらしい。
「いいじゃん、浴衣着たらそのまま素麺食う前に買いに行けば」 「浴衣で? コンビニまで?」
キミがいいならいいけれどと、笑いながらアキラはこれにも頷いた。甘い、いつもの倍以上甘いアキラにヒカルは有頂天になった。
「あっ…後ハーゲンダッツも食いたい!」 「スイカとかき氷も食べるのに?」 「な、夏限定のヤツまだ食べてないからっ!」 「仕方無いなあ…」 「それから、粗挽きフランクとたこ焼きと――」 「いいからとにかく風呂に入って来いっ!」
あれもこれもそれもと際限なく並べ立てるヒカルをアキラは無理矢理風呂に押しやった。そしてその間にと一足先に浴衣を着付け、ヒカルの分を用意して上がってくるのを待った。
待ったのだけれど――結局アキラはヒカルに浴衣を着せることは出来なかった。
脱ぎ散らかされた浴衣の上、しばらく放心したように天井を眺めていたアキラは、こつんと当たった腕にゆっくりとそちらを向いた。
「あのさぁ…」
おずおずとした声はヒカルのもので顔色を窺うように上目遣いでアキラを見ている。
「怒ってる?」
「怒ってなんかいないけれど…でももう素麺は伸びてしまっただろうなあって」
素麺どころか、用意した何もアキラは口にしていない。
それどころか風呂から上がったヒカルに浴衣を着せようとして、アキラは逆に脱がされるはめに遭ってしまったのだ。
「キミが着たいって言ったのに」 「う…悪い」 「コンビニにも行きたいって言ったくせに」 「いや、本当にマジで行きたかったんだけど…」
浴衣姿のアキラを見た瞬間、ヒカルの中には唐突に全く別の欲求が沸き上がって、気が付いたら衝動的に床に押し倒してしまっていた。
驚いたような顔をしたものの、さしたる抵抗もしないアキラにヒカルはそのまま襟元を広げ、帯を解く間も惜しむようにして貪るように抱いてしまった。
「ビールはもう冷えすぎだし、枝豆もきっと味が落ちた」
今からじゃ、スイカを食べるにもかき氷を作るにも遅すぎると、ため息交じりの声にヒカルは一瞬「ごめん」と謝りかけて、それから言い直し「食うよ」と短く言った。
「素麺もスイカもかき氷もビールも枝豆もみんな今日食う」
コンビニに行ってアイスも買うし、フランクとたこ焼きと花火もちゃんと買うからと言うのにアキラが苦笑したように笑った。
「ダメだよ。こんな時間にそんなに食べたらお腹を壊す。それに―」
それにたぶんぼくはもう今日は動けないと思うからと言われて、今度こそヒカルは「ごめん」と言った。
「ごめん、おれ調子に乗った。おまえがすごく優しいから、なんでもおれの言うこと聞いてくれて甘やかしてくれるからちょっと調子に乗りすぎた」
「いいよ、キミ、ここの所ずっとがんばっているし」
ご褒美だよと、笑うアキラの顔も声も不思議な程全く怒っていない。
「それに実を言えばぼくも、夏らしいことが全く出来ないのが少しだけ寂しいと思っていたし…」
これも有る意味とても夏らしいしねと言われてぱあっとヒカルは赤面した。
「おれ…そんなに毎年鬼畜だった?」 「さあ、どうだろう。でも浴衣を着て無事だった記憶はあまり無いな」
さすがにこんな風に、着たばかりの物を即脱がされたことは無かったような 気がするけれどと言われて更に顔の赤味が増す。
「ごめ―」 「いいよ」
謝りかけたヒカルの言葉をやんわりとアキラが遮る。
「別にいいよ、怒ってないし、少し順番が変わっただけと思えばいいし」
夕食に食べるつもりだった素麺は、明日の朝煮麺にして食べてもきっと美味しい。
スイカは昼に食べて、かき氷は3時に食べて、枝豆とビールは夜の楽しみに取っておいてもいい。
「浴衣も一晩かけておけば皺も伸びる」
だから明日、改めて二人で花火を買いに行こうと言われて、ヒカルは一瞬何か言いかけてそのまま言葉を飲み込んだ。
「なんだ?」
気が付いてアキラが問うのに顔を背ける。
「別に―なんでも無い」
「なんでも無かったらちゃんとこっちを向けばいいだろう、もしかしてどうしても今日中にスイカやかき氷を食べたかったのだったらキミだけでも食べても―」
「違うってば」
思わず怒鳴るように言って、それからヒカルは背けていた顔を正し、腕を伸ばすといきなりアキラを胸の内にぎゅうっと抱き込んだ。
「進藤?」 「だっておまえ、優しいんだもん」
いつもは鬼みたいにおっかないのに、なんで今日はこんなにおれに滅茶苦茶甘くて優しいんだよと、それはアキラにとってはほとんど言いがかりのようなものだったけれど、それでもアキラは怒らなかった。
ただ笑って、ヒカルに抱かれたまま静かに尋ねた。
「…鬼の方が良かったか?」 「そういうわけじゃない。ただ、ただ…こんなに優しくされるとさ」
幸せだ―なんて言いたくなっちゃうじゃないかと言われてアキラは思わず目を見開いた。
そしてくすりと笑う。
「いいじゃないか幸せで」
「素でそんなこと言うの恥ずかしいじゃん」
「恥ずかしくないよ、だってぼくはキミと居る時、いつだってとても幸せだから」
キミも幸せと感じてくれて嬉しいと言うアキラの言葉にヒカルは更にアキラの体を強く抱きしめた。
「おまえ、それ恥ずかしいって」 「恥ずかしくないよ。だって本当のことだから」
肌の表をかすめ、笑う声はとても優しい。
「キミが好きだ、大好きだ」
だからこんな風に共に過ごせて幸せだと、常に無くアキラが饒舌なのは、疲れ果て、眠りかけているからなのかもしれない。
「おれ…だって好きだから」
おまえのこと大好きと、言うヒカルの声もほんの少しだけとろりとしている。
大好きだ。 幸せだ。
交互に繰り返すように言う声が、蒸し暑い夏の夜に溶けて行く。
「進藤、明日」 「ん?」 「明日、ちゃんとぼくを起こせ」
絶対にキミがやりたいと言った事を全部するんだからと、相変わらず甘い優しい言葉にヒカルの頬がこらえてもほころぶ。
「やりたいことなんて言ったら、また全部出来なくなると思うけど」 「違う、素麺とスイカとかき氷と―」
後はすうと寝息に消える。
壁にかけておかなかった浴衣は皺が寄ったまま、明日も消えずに残ってしまうかもしれない。
でも目が覚めたら壁にかけて風を通そう。
そしてそれから今日出来なかったことのやり直しを一番最初から順番にやって、そして花火を買いに行くんだとヒカルは思った。
さらりとした肌心地の浴衣の上、しっかりとアキラを抱きしめながら、楽しい明日の予定を頭の中でお復習いする。
花火も盆踊りも海も山もプールも無いけれど、確かにアキラが居ればそれだけで楽しい。
(こんな夏もアリだよな)
ヒカルは大きなあくびを一つすると、アキラが冷えないように体を抱え直し、それから幸せな気持ちに満たされながら、ゆっくりと眠りに落ちていったのだった。
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151515番を踏んで下さいました篠平様からのリクエスト「夏の夜を穏やかに過ごす幸せなお話」でした。ヒカアキでもコノカモでもとのことでしたので今回はヒカアキで書かせていただきました。
書いてみたらばなんだか妙に食い気ばかりの話になりましたが(汗)そして書きながら思わずそんなに食べたら腹壊すって!と自分でツッコミを入れたりもしましたが、少しでも穏やかで幸せな空気の感じられる話になっていたなら嬉しいなあと思います。
篠平様、夏らしい素敵なリクエストをありがとうございました。篠平様の考えていたものとはもしかしたらイメージが違っていたかもしれませんが少しでも気に入っていただけたなら嬉しいです。
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