ふいに胸に気持ちがこみ上げてはらはらと涙がこぼれる。
突き動かされるような何かにたまらずに夜も眠れない。
「どうしたの? おまえ」
唐突に涙をこぼしたぼくに驚いたような顔をして、心配そうに触れようとした、進藤の手を思い切りはね除けた時にそれが何なのか初めてわかった。
(そうか)
恋か――。
これが恋というものなのかと知った、それはとても暑い夏の日。
黒々とした影がそのまま地面に焼き付いてしまいそうなそんな夏の日、額に汗を滲ませながらゆっくりと帯坂を上っていたら、上から声が降って来た。
「おまえ、遅ーい!」
日の光に目を細めながら顔を上げると、坂の先には進藤が居て、勝ち誇ったように両手を腰に当ててぼくを見下ろしていた。
「塔矢アキラ破れたり!」
今日はおれの方が先に来たもんねと、子どものようにべーっと舌を出してそれから明るく笑う。
「たまに早く来たくらいで何を勝ち誇ってるんだ」
暑いのと、眩しいのとで目の上に手をかざしながら睨んでやると、進藤は怯みもせずに嬉しそうにこう続けた。
「だっておれ、おまえにはいつも勝って居たいんだ。碁でも身長でも来る時間でも!」
全部、全部、おまえより勝って居たいんだというこれ以上無いくらい不遜な言葉に、でも何故か不思議と腹は立たなかった。
「まだ半分も勝って無い」
碁はまだぼくの方が勝ってるし、早く来るのだって今日が初めてだと言うと進藤は待ってましたとばかりに「でも身長は追い越した」と言った。
「そのうち全部追い越してやる」 「そんなに簡単にはさせてあげないよ」
身長は遺伝的なものも作用するからどうなるかわからないけれど、少なくとももう絶対にキミより遅く棋院には来ないと言ったら進藤は可笑しそうにまた笑った。
「碁は?」 「碁だってキミに負けるつもりなんか無いよ」 「上等」
それでこそおれの塔矢だと、笑いながらそのまま棋院の中に去って行ってしまった。
言いたいことだけ言って人のことを待ちもしない。 なんたる自分勝手と思って、それからあれ―と思う。
(今何か他の言葉が混ざっていなかっただろうか?)
いつもの軽口の応酬の合間に何か違う種類のものがちゃっかりと挟み込まれていたような気がする。
けれどそれをちゃんと考えようとすると、ただでさえ暑い帯坂の道が更に暑く感じられ、汗が流れて目に入ったので、取りあえずぼくは坂を上りきり、涼しい建物の中に入ってからそれの続きを考えようと思ったのだった。
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似たような感じの話を前にも書いたような気がしますが取りあえず。 市ヶ谷で下りて、帯坂を上る時の感触が私は好きです。段々と棋院が見えて来るまでの短い時間、わくわくするような気分がします。
棋士の方達はまた違う感慨があるんでしょうね。
ということで毎日陽炎が立つくらい暑いですが皆様どうかお体には気をつけてお過ごしくださいね。
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