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2008年04月18日(金) 130000キリリク「その後」


柵に顎を乗せ、もたれるようにして下をながめている進藤は非道く機嫌の良い顔をしていた。

「…何を見ているんだ?」
「ん? 特に何をってわけでも無いんだけど」

そう言いつつ視線はずっと下、自分の斜め下を見つめ続けている。

二メートルほど下で繰り広げられているのはアマチュア同士のフリー対局で、イベントに来た誰でもが好きな相手と自由に打てるというコーナーだった。

「盛況だね」

他のコーナーもそうだけれど、年齢性別プロアマ問わず、碁好き同士が楽しんで打っているこのコーナーはどこよりも一番活気があった。




「今日暇だったら武道館行かねえ?」

最初そう進藤に言われた時、ぼくは真っ先にコンサートやスポーツの試合観戦を想像した。

「…別にいいけど、何を見るんだ?」
「イベント。今日は綾瀬の方で子ども向けの囲碁イベントがあるから」
「ああ…」

思い出して笑う。
そういえばそういう時期だということを思い出したからだ。

昔、まだぼく達も段位が低い頃にはよく駆り出された。

ぼくも進藤も囲碁の普及に貢献するそういう仕事が嫌いでは無かったし、何よりも普段は滅多に打つことが無いだろうアマチュアの人達と触れ合えるのが楽しかった。

なので時期的に余裕があれば参加するのだが、今年は開催がお互いにリーグ戦にかかってしまったので外してもらったのだった。

「あれ、今日だったんだね」
「うん。仕事以外で眺めに行ったら和谷達に嫌そうな顔されそうだけど」

でもふらっと散歩がてら見に行かないかと誘われてぼくは一も二もなく頷いた。

「いいよ、行きたい。一度でいいから純粋に客としてイベントを楽しんでみたかったんだ」

ぼくの言葉に進藤も笑った。

「それじゃ、色気が無いこと甚だしいけどいっちょ行くか!」

そして碁バカ丸出しで、いそいそと着替えたぼく達は、揃って東京の外れまでやって来たのである。



「…あの人、さっきから随分熱心に打ってるね」

しばらく進藤と一緒に下を眺めていたぼくは、斜め下で小学生くらいの男の子と打っている男性の背中を見つめながら言った。

「うん、さっきからずっとあの人、子どもとばっかりやってんの」

イベントに来た最初、ぼくは真っ先にプロ同士の手合いや段位認定戦を見に行ったのだけれど、途中まで一緒に歩いていた進藤はフリー対局の所まで来た所で急に自分は上で見ているからと言ったのだった。

「上?」
「ん、ちょっと歩き疲れたから上から眺めてる。おまえも一通り回ったら後から来いよ」

そう言われて少し変だなと思ったけれど、それ以上深くは突っ込まずにその場では別れた。そして小一時間ばかり後に武道館の三階、観覧席で進藤と落ち合った時にその理由がやっとわかったのだった。

進藤は真上からイベント全体と、真下のフリー対局をじっくりと眺めるために上に上がったらしかったのだ。

最も、多面打ちで指導碁をしている和谷くん達や、プロ同士の対局で無く、どうしてフリー対局を見たいのかとそれだけは気にはなったのだけれど。


進藤がじっと見つめている先、少しくたびれたスーツを着た五十代くらいの男性は、飽きやすく癇癪を起こしやすい子どもを相手に辛抱強く丁寧に打ち、打ち終わった後にはわかりやすく検討をしてやっていた。

「ありがとうございました」

にっこりと笑ってその子どもが去ると待ちかねていたように別の子どもが座る。どうやら口コミであのオジサンは親切だと広がったらしく、子ども達が打って貰いたくて周りで待っているようなのだった。

「すみませんねぇうちの孫が」

後ろからのぞき込むようにして老人が声をかけて来た時も男性は愛想良く受け答えをし、その老人も交えて多面打ちで三人で打つことまでしたのだった。



「あの人、プロだよね」
「うん、プロだよ」

それも結構段位が上のヒトと、進藤の口ぶりはよく相手を知っているかのようだったのでぼくは少し驚いた。

「知っている人なんだ」
「おまえもたぶん知ってると思うよ」

目を細めて笑いながら、進藤はじっとその人がたくさんの子ども達と打つのを見守っている。

(そうか)

進藤はフリー対局場まで来た時にあの人が居るのに気が付いて、それをよく見たくて上に来たのだと初めてやっと納得がいったのだった。

「研究会で会う人かな…確かに見覚えがあるような気がするけど…」
「打つ機会はおまえは今まで無かったんじゃないかな」

おれも公式では一回当たったきりだしと、言う進藤の目は優しい。

「面白い碁を打つ人?」
「いや」
「尊敬しているんだ?」
「まさか」

あんなヤツ冗談じゃないけど顔も見たく無いねと、でも言葉とは裏腹に声にはどこか親しみと喜びのようなものがある。

「顔も見たく無い人をこんな所から何時間もずっと見ているのか」
「うん。あ、おまえ飽きたら他の所見て来ていいから」

なんだったら打って来てもいいよと言うのに笑って首を横に振る。

「ぼくもここからあの人を眺めて見たくなったから」

そう言うと物好きと笑いながら、でも進藤はそっとぼくの手を握ったのだった。



どれくらいっただろうか。気が付けば対局終了のアナウンスが流れ、ざわざわと皆が動き出した。

「もう閉会式になってしまうんだね」

かなり長い時間居たはずだけれど、眺めている階下の様子が面白かったのでぼくはいつの間にか時間を忘れてしまっていた。

「今年は誰が挨拶するんだっけ?」
「寺田先生だったんじゃないかな」
「帰る前に挨拶くらいしていった方がいいよな」
「それはもちろんした方がいいし、それにキミ、和谷くん達に会わずに帰ったら後で散々言われるんじゃないか?」
「いや、あいつらはいいんだよ。うっかり顔合わせると片付けとか手伝わされそうだから」

からからと笑いながら進藤が腰を浮かす。

「フリー対局も全部終わったみたいだからそろそろ下行くか」

見るといつの間にか下の席はほとんどが空になっていて、あの男性も碁石を片付けて立ち上がる所だった。

最後の最後まで粘って打っていた中学年くらいの男の子に笑って手を振って、くるりとこちらを振り向いたその顔を見てぼくは驚いた。

その男性は悪名高き御器曽七段だったからだ。

昔はかなりな打ち手だったけれど、中年に入ってからはさっぱりと振るわず、成績の伸び悩みと共に言動が荒れるようになったという。

今はどうだか知らないが、かなり金に汚い人であり、金のためにはイカサマまがいのこともすると聞いていたので、この長い時間、子ども達を相手に親身に打っていた姿とのギャップがあまりにもあって、ぼくは軽く混乱してしまったのだった。



「塔矢何やってん。早く行こうぜ」

もう先に出口に向かっていた進藤がぼくを呼ぶ。

「…キミ、本当にあの人が誰か知っていたのか?」

ゆっくりと階段を下りながらぼくは思わず彼に聞いてしまった。

「何が?」
「あの人…御器曽七段じゃないか」
「うん、だから知ってるって言ったじゃん」

昔、まだ初段だった頃に彼は御器曽七段と打ち、圧倒的な力でねじ伏せるようにして勝った。傲りもあったのだろうが、初段に負けたということで、御器曽七段はその後非道く荒れたという。

「…キミは御器曽七段と付き合いがあるのか?」
「まさか、さっき言ったじゃん」

顔を見るのも嫌だよってと言った所で階段が終わり、進藤とぼくはホールに繋がる通路に出た。

高く天井を取り、喫茶喫煙コーナーも兼ねているその場所には、たくさんの椅子が置かれていて、たった今までイベントに参加していた子ども達やその子ども達を連れて来て待ちくたびれてしまったのだろう親達が、のんびりと煙草をふかしたりコーヒーを飲んだりしていた。

その中にさっきまでフリー対局場に居た御器曽七段も居るのを見つけて、ぼくは思わずぎょっとした。

「こんちは」

どうするんだろうと思う間も無く、進藤は真っ直ぐに御器曽七段に近づいて行くと声をかけた。

一瞬驚いたように振り返った御器曽七段は自分に声をかけた相手が誰かわかった瞬間、柔和だった顔を顰めて唾を吐かんばかりの苦い表情を浮かべたのだった。

「…ふん、棋聖戦のリーグ入り常連は随分余裕があると見える」

憎々しげな口調は先程までの子ども達との会話とは全く違うものだった。

「なんだ? 暇つぶしか? それとも落ちぶれたおれの姿でも笑いに来たのか?」

七段のプロの俺様がガキ共相手に打っている姿はさぞ面白かっただろうよと吐き捨てるように言う、御器曽プロはぼくの姿も認めて、「塔矢プロも余裕があって羨ましいことだ」と皮肉っぽく言った。

「お父上が元名人だと色々と都合をつけて貰えていいですな」
「何を…」

当てこすられるように言われてさすがに不快で言い返そうとしたら、進藤がそっとぼくを押さえた。

「おれら今日オフなんです。だからずっと上から見させて貰ってました」
「ふん」
「御器曽プロがおっしゃる通り、面白かったですよ」

子ども達相手にあなたが打っている姿は面白かったと、その瞬間の御器曽プロの目は進藤を殺さんばかりの鋭さだった。

「まあ…言いたいように言えばいい。おまえだっていつかおれのようになることだってあるんだからな」
「ええ…そうですね、あなたみたいになるかもしれない」

そうありたいと思いますよと言った進藤の顔を思わずぼくはまじまじと見てしまった。本気で言っているのかと、こんな最低な男のようになりたいなどと思っているのかと、余程怒鳴りつけてやりたくなってはっとした。

進藤の口元は笑っていたからだ。

「すごく面白かったです。最後の小学生の子とのヤツなんかおれも混ざりたかったくらいだったな」

じっと御器曽プロが進藤の顔を見つめる。

「その前の中学生も良かったですよね。終わった後のあなたの指導碁も良かった」
「……………ふん」

随分長い時間が経ってから、御器曽プロは口を曲げたまま呟くように言った。

「…ガキは侮れないからな」

大人と打つよりも遙かに学ばされることが多いと、その言葉には先程までの棘は全く無くなっていた。

「まあ、おまえらクソ生意気な若手がタイトルだなんだと調子に乗っている間に、おれはせっせとおまえらを負かすような新しい世代を育てて行くさ」
「…楽しみにしています」
「ふん、まったくいけすかんガキだ」

そしてじろりと進藤を睨み、ぼくを睨むとぼく達を突き飛ばすようにして去り、会場へと戻って行った。


「あの人………聞いていたのとは少し違う感じだね」
「そうか? まんますげー嫌なヤツだけど」

でも最低なヤツでだけはなくなってたと進藤は言ってまた笑った。

消えて行った後ろ姿を思い出すように見つめ、それから本当に嬉しそうに顔中で微笑んだのだった。

「…あの人、本当の本当に最低な棋士だったんだぜ」

最低最悪、棋士の風上にも置けないような本当に非道い大人だったと、それでは御器曽プロが言った『侮れない子ども』はやはり進藤をさしていたのかとぼんやりとぼくは思った。

公式では一度だけしか打っていない、御器曽プロと進藤の間に何があるのかは知らないけれど、でもあまりに進藤が嬉しそうだったのでぼくもなんだか嬉しくなった。

「…またあの人と打ちたい?」
「えー?」

手を繋ぎ、閉会式が行われている会場に二人揃って入って行きながらぼくは進藤にそっと尋ねた。

「そのうちまたどこかで当たる可能性もあるだろう?」
「うーん」

くるりと目を回して見せて天井を見上げた進藤は、一瞬躊躇うような表情を見せてから悪戯っぽく笑った。

「……打ちたい…かな?」
「そうか」
「顔は見るのも嫌だけどね」

でも正直打ってみたいよと、言ってぎゅっと強くぼくの手を握る。その彼の手を握りかえしながらぼくもまた、あの皮肉で一杯の、でも子ども達には限りなく優しく指導していた、老年に近い棋士とたまらなく打ってみたくなったのだった。


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130000番のキリ番を踏んでくださったmiさんからのリクエスト、「その後の御器曽プロ」です。(タイトルは「その後」にさせていただきました。)

最初メールを読んだ時にはびっくりしましたが、すぐにものすごく書いてみたくなりました。
あの御器曽プロとプロとして対局した時のヒカルはものすごく格好良かったですよね。そして負けた御器曽プロはかなり悔しかったはずです。

あの一戦で何も思わなかったはずは無く、きっとその後変わったのでは無いかなとmiさんのメールを読み、思い出しながら考えました。

出来るなら良い方向に変わっていて欲しい。また昔の真摯に打っていた頃を思い出してヒカルやアキラの前に立ちふさがって欲しいと本気で思いました。
なので思いがけずほとんど一気書きで書けてしまいました。


miさん本当に素敵なリクをありがとうございました。
miさんのリクは候補も含め「ヒカルやアキラに出会ったすみっこの脇役のその後のエピソード」という優しいお気持ちの籠もったものでなんだか書いていて嬉しくなりましたです。

この話がmiさんの思ったような話になっているかどうかはわかりませんが気に入っていただけたら嬉しいです。


それから蛇足で(^^;
モデルにしている囲碁イベントは実際は1月の頭に行われます。なので実際のリーグ戦の時期などとはズレていますがお許しください。


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