エンターテイメント日誌

2006年05月29日(月) モナ・リザはトム・ハンクスに微笑んだか?

早くも、最低の映画を選ぶ祭典であるラジー賞(ゴールデン・ラズベリー賞)独占の呼び声が高い「ダ・ヴィンチ・コード」について語ろう。

まず筆者の置かれた状況をお話ししておこう。我が家には単行本の「ダ・ヴィンチ・コード」初版本がある。出版前から予約して購入したものだ。しかし、映画を観てから読もうと未読のまま置いておいた。「ダ・ヴィンチ・コード」はラングドン教授シリーズの第2作目に当たるのだが、1作目の「天使と悪魔」は読んでいる。

原作を読んでから映画を観た人は、「未読の人にはストーリーが理解出来ないのではないか?」という意見が多いのだが、そんなことは全くなかった。しかし、話しについていけるかどうかということと面白いか否かは全く別問題だ。映画は凡庸で退屈だった。評価はC- ... にしようかと想ったが、冷静に考えてみるとDで十分だな、うん。

映画「ダ・ヴィンチ・コード」はどうしてこのように悲惨な失敗作になったのか?まず長大な原作(単行本2巻、文庫本3巻)を上映時間2時間半に圧縮すること自体、土台無理だったのだ。原作がベストセラーであり、読者の期待を裏切ることも出来ないから下手に内容をいじくれない。だから出来損ないのダイジェストにしかならなかった。これは「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」と同じ現象である。同様にベストセラーを映画化した「風と共に去りぬ」が成功した一因はその上映時間(3時間58分)にあると筆者は考える。「ダ・ヴィンチ・コード」にもこれくらいの時間が必要だったのだろう。

ラングドン教授は原作で「ハリス・ツィードを着たハリソン・フォード」と描写されているが、トム・ハンクスは全くイメージにそぐわない。オール・バックの髪型も変・へん・ヘン!後退した生え際がみっともないだけ。ラングドンのトレードマークであるミッキー・マウスの腕時計もハンクスが身につけていたらキモイ。ラジー賞の最低主演男優賞は確実だが、是非ハル・ベリーみたいに授賞式に出席して欲しい。期待してるよ!

やっぱりラングドン教授は若いヒュー・ジャックマンあたりが相応しかったのではなかろうか?トム・クランシー原作のジャック・ライアン・シリーズはアレック・ボールドウィン(レッド・オクトーバーを追え!)、ハリソン・フォード(パトリオット・ゲーム、今そこにある危機)、ベン・アフレック(トータル・フィアーズ)と主演が交代してきているわけだし、ラングドン・シリーズも次回作から役者を変えるべきだ。

ヒロインのオドレイ・トトゥも精彩を欠く。「アメリ」や「ロング・エンゲージメント」の彼女と比べると非常に老け込んで、くたびれた印象。やはりミス・キャスト。結局良かったのはシラス役のポール・ベタニーだけだ。

「アポロ13」「ビューティフル・マインド」「シンデレラ・マン」は好きな映画だし、ロン・ハワードは優れた監督だと想う。しかし今回の演出は駄目だ。兎に角、緊張感なさ過ぎ。ラングドンたちが危機に陥ったときに、敵に隙だらけなんだよな。ジャン・レノはトイレの前でラングドンを監視しておくべきだったし、暗殺者が鳩に気を取られてラングドンに逃げられる場面なんかギャグかと想ったよ。カーチェイスも見せ方が下手くそ。引きの画面がないので何がどうなってるのかさっぱり分からないし、余りに呆気なく終わっちゃう。サスペンス演出が下手くそなんだな。

あとこの映画で気に入らないのが宣伝のミス・ディレクション。ポスターや特報でモナ・リザを強調し、さらに映画のキャッチコピーが「ダ・ヴィンチは、その微笑みに、何を仕組んだのか」である。そしたら当然誰もがモナ・リザに暗号が隠されていると考えるじゃないか。ところが事件の謎を解く鍵はダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の方にあるのである。これにはまんまと騙された。拍子抜けだ。

断言しておくが「ダ・ヴィンチ・コード」よりも「天使と悪魔」の方が圧倒的に面白いし、映画的である。次の映画化が「天使と悪魔」になるのか、2007年出版予定のシリーズ3作目「ザ・ソロモン・キー」になるのかは不明だが、今回はなかったこととして「天使と悪魔」に期待する。



2006年05月21日(日) モノクロームの似合う男

ジョージ・クルーニーが脚本・監督・助演の三役をこなした「グッドナイト&グッドラック」を観た。

1950年代のアメリカテレビ界を描いたこの作品、まず冒頭でテレビ・キャスターがタバコを吸いながら司会進行している姿に唖然とした。後にこの番組のスポンサーがタバコ会社だということが示されて納得はしたのだが、現代ならアメリカはおろか日本でさえ許されない行為であろう。ニュージーランドでラッセル・クロウがコンサート中に舞台で喫煙したというだけで大問題になり、同国の厚生省が乗り出すという事態にまで発展するこのご時世である。その事件の詳細はこちら。たった半世紀なのに時代は劇的に変化し続けている。

とまあ、ここまでは余談であるが、映画の評価はB+である。実に力強い佳作でありクルーニーがこの映画で描かれたマッカーシー旋風(赤狩り)を、現代のブッシュ政権によるネオ・コン(ネオ・コンザーバティブ、新保守主義)の暴走と重ね合わせているのが明らかで、そこが実に巧みな作劇で面白かった。

モノクロームの映像の美しさも際立っていた。光と影。一見華やかなテレビ業界の表とどす黒い裏。その対比が鮮やかだ。ジョージ・クルーニーという役者は実に濃い顔なので(佐藤浩市も似たタイプ)カラーだとちょっと暑苦しいというかクドイ印象が拭えないが、白黒映像だとそれが緩和されて実に格好よく映えるから不思議だ。現代劇だと魅力がないが時代劇・コスチューム・プレイだと生き生きとする役者もいるが(例えば松平健、稲森いずみ、スカーレット・ヨハンソン)、モノクロームが似合うタイプもあるんだなと新発見をした。



2006年05月13日(土) From Stage to Screen 〜 RENT

舞台版RENTを観劇した感想は2004.2.22の日誌No Day But Today ミュージカルRENTに書いているので←クリックしてみて欲しい。その時点での映画化の進行状況についても触れている。

結局ミラマックスはRENTを持て余し、映画化権を売りに出した。そこで飛びついたのがクリス・コロンバスである。コロンバスは1996年に初演されたオリジナル・キャストによる舞台を観ており、長年映画化を夢見ていたそうだ。だから結局「プロデューサーズ」同様、オリジナル・キャスト総出演による映画版が完成した。

筆者には懸念がいくつかあった。まず第一にコロンバスは「グーニーズ(脚本)」「ホーム・アローン」「ミセス・ダウト」「ハリー・ポッター」とお子様向けの映画ばかりを撮ってきた監督であり、この切実な青春映画を撮る能力が果たしてあるのか?ということ。第二に初演から10年経過して老けたオリジナル・キャストが演じて違和感がないのかという点である。

結論を言おう。それは全くの杞憂だった。コロンバスは舞台の精神を損なうことなく、作者のジョナサン・ラーソンに最大の敬意を払いつつ、同時に見事に映画的処理を行い傑作に仕上げた。特に冒頭、ニューヨークのイースト・ヴィレッジに燃え上がる紙が無数に舞う場面には強烈な印象を受けたし、ライフ・サポートの参加者たちが日を追うごとに椅子 から姿を消していく演出も素晴らしかった。コロンバス、疑って悪かった。ゴメン。

出演者についてはマークを演じるアンソニー・ラップの若作りのメイクが些か苦しかったが、そのほかの出演者については全く違和感なかった。それよりも全員の歌唱力の凄さ、そのパワフルなパフォーマンスに完全にノック・ダウンだ。改めてオリジナル・キャストって偉大だと痛感した。

筆者の評価はB+。必見。



2006年05月06日(土) 寡作なひと。

テレンス・マリックは「地獄の逃避行」(1973)「天国の日々」(1978)「シン・レッド・ライン」(1998)「ニュー・ワールド」(2005)と今までに監督した作品が5つしかない。「天国の日々」と「シン・レッド・ライン」の間なんてなんと20年の空白期間がある。実に寡作な映画作家である。

アカデミー賞で撮影賞を受賞した「天国の日々」(撮影監督:ネストール・アルメンドロス)の映像の美しさは空前絶後である。なんとマリックは映画全編を”マジック・アワー”で撮影したのである。”マジック・アワー”の解説はこちらをみて欲しい

アルメンドロス亡き後、「シン・レッド・ライン」でマリックは撮影監督のジョン・トールと組んだ。彼は「レジェンド・オブ・フォール」「ブレイブハート」で2度オスカーを受賞し、「シン・レッド・ライン」でも撮影賞にノミネートされた。

マリックが最新作「ニュー・ワールド」で組んだのはメキシコのアルフォンス・キュアロン監督と長年組んでキュアロン・グリーン(筆者命名)を編み出したエマニュエル・ルベツキである。ルベツキは「リトル・プリンセス」「スリーピー・ホロウ」そしてこの「ニュー・ワールド」でオスカー候補になった。

兎に角ルベツキの映像がため息が出るほど美しく、映像に圧倒される。今年撮影賞を受賞したのは「SAYURI」だが、筆者ならば断然「ニュー・ワールド」に軍配を上げる。画面の隅々にまで緊張感がピンと張り詰めていて凄みがある。

「天国の日々」ではサンサーンス作曲「動物の謝肉祭」の音楽から”水族館(アクアリウム)”が印象的に引用されていたが、「ニュー・ワールド」で引用されるのはワーグナーの楽劇「ラインの黄金」の前奏曲とモーツァルトのピアノ協奏曲第23番の2楽章である。「ラインの黄金」は壮大な神話4部作「ニーベルングの指輪」の第1話であり、神々の黄昏を暗示している。つまり映画の冒頭にこの曲がくることでこれはアメリカ大陸の神話であり、天国の日々(Days of Heaven)の終焉を描くのだということを暗示しているのである。実に巧みな選曲といえるだろう。

ただこの史実に基づいた映画、前半は面白いのだが後半ポカホンタスが西洋の衣装を身にまといイギリスを訪問するエピソードあたりから実に詰まらなくなる。テレンス・マリックってその映像はまさに一篇の詩なのだけれど、脚本家としての才能には疑問が残るんだよな。「天国の日々」もお話自体は俗っぽくて退屈だし。しかしまあ、こんな美しい映画は十年に一度しかお目にかかることが出来ないので総合評価としてはA-を進呈する。


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雅哉 [MAIL] [HOMEPAGE]