####【みぃ♪の閑話休題】####
2017年はやっと勉強から解放され、自由を謳歌しました!映画も久し振りにたくさん観た! 時々、blog+twitter書いています☆  

2011年11月06日(日) Welcome little one! ■2011年11月■

あなたの生まれて初めての記憶は何ですか?

自分の存在を初めて認識した1番最初の記憶。
いくつの時ですか?
どんなことですか?

私が自分の存在を認識した1番最初の記憶は、2歳7ヶ月。
1977年の残暑厳しい夏。
妹が産まれた時です。

病院のベッド脇で「赤ちゃーん、おねえちゃんだよー」と、生まれたばかりの妹に向かって話しかけた事をハッキリ憶えています。

日中は祖母と(母+妹)一緒に病院で過ごし、夕方、仕事を終えた父が迎えに来る。
そのまま、毎日同じ中華料理屋さんに寄って天丼を食べて帰る。
翌朝、父と一緒に病院へ行って、祖母に引き渡されて、父は仕事へ。

この↑繰り返しの日々をよーく憶えています。

不思議なのは、これだけ鮮明な記憶があるのに、お腹が大きかった母の姿は全く記憶にないっ!

さらに、母と妹が退院してきて、妹に名前がついて、母が仕事に復帰して、祖母が私と妹の面倒をみて…という辺りの記憶もいまいち。

誕生〜病院での1週間が、2歳半の私のとって、強烈な印象だったんだろうなぁというのがよく分かります。

あれから34年3ヶ月。。。

私は再び、産まれたばかりの赤ちゃんに向かって同じ言葉を言った。

「赤ちゃーん、おねえちゃんだよー」と。
(まだ伯母さんとは呼ばせない!)

NICUのガラス戸の向こうに眠る小さな命に向けて。。。

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このたび、伯母になりました。

予定日を4日過ぎた日の早朝4時…「なんかキタかも」と妹から呼び出し電話がきて、病院に行ってから2晩越し。
3日目の午後にやっと産まれました。

輸血もするほどの大変な大変な難産だったとのこと。

妹は死んだようになっているし、赤ちゃんはケースに入れられて出てくるし…付き添っていたうちの母は絶望的になったみたい。

妹はその後、ずっと車椅子生活(入院)になり、赤ちゃんもNICUへ。

当日、私は仕事。
仕事中に父から電話が入り「産まれたよ」と聞いて安堵して、帰りにウキウキして実家に寄ったら、家族全員どんよりしてる…。

え?
なに?
と思ったら、妹の具合が悪い&赤ちゃんもNICUに入院という話を聞いて、相方も私も更にどんより。

胸がグーッと締め付けられるような思いでした。

数日後、NICUに面会に行ったら(ガラス戸の外から見るだけですが)鼻からチューブ、身体中にいろんな線が繋がっていてモニター管理されている赤ちゃんの姿。

「どうかこの子の未来に幸あれ!」という思いでいっぱいでした。

その後、おかげさまで妹も赤ちゃんも順調に快復し、無事に退院。
今は元気に過ごしています!

4月から妹の夫は単身赴任中。
母は車の免許を持っていない(運転手は父のみ)。
高齢の祖母の介護あり。
陣痛はいつやってくるか分からない。
義弟もすぐに戻って来られない。
私も一応、週に3日は仕事がある。
おまけに、ちょうど自分の試験や研修が重なり勉強ラストスパート中。

病院に行き⇒やっと産まれて⇒その後の入院⇒退院…。
本当に嵐のような日々でした。

思い起こせば8ヶ月前。。。義弟の転勤が決まり、妹が再び実家暮らしになり、妹もうちの両親&祖母にとってもハッピー妊婦生活かと思いきや。
切迫の危険があり、ずぅーっと安静状態。

過ぎてしまえば、「本当に大変だったね」という話しだけど、妹曰く「病院に行ってからの3日間の記憶が全くない」とのこと。

義弟が戻ってくる来年3月になると、妹も赤ちゃんも実家を出て新しい暮らしがスタートになります。

母からすると(妹が結婚して淋しい思いをしていたけど)「やっと父と祖母との3人暮らしが慣れてきた」ところに、またイレギュラーで戻ってきた為、早くも来年の3月の心配を…(苦笑)。

「淋しくなって、どうしていいかわからない」と既に気を揉んでいて、私はそれをなだめる係りであります。


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書き手: みぃ♪
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