日記×エッセイ...みち

 

 

新盆 / シンゴジラ2回目 - 2016年08月12日(金)

母が亡くなって初めてのお盆ということで、お寺に行ってお経をあげていただきました。

お経を聞いている時に、ふうっと「悲しい」という感覚が上がってきて、いつもは出てこないのだけどふうっと上がってきました。

この「悲しい」って感覚、母が生きている時にもあったよね?って思いました。
わたしは幼い時から父母が亡くなることを恐れてて、父や母が生きている時にも先を考えて悲しくなってみたりして、その「悲しい」と同じだなと感じました。

この「悲しい」感覚って、母が生きてるとか死んでるとかに全然関係がない・・・、トリガーとしては母が関係するのかもしれませんが、母自体には全然関係がない感情なんだ、と感じました。

そして同時に、「悲しい」とは全く別の感覚もあります。
これは日常にずっとあります。

この感覚も、母の肉体が生きているとか死んでいるとかに全然関係がないんだな、と感じました。
母の肉体が亡くなったからと言って、無くなる気がしないので。
そしてこちらの方は、母自体に関係があることだなと感じます。

母が生きている時と何も変わっていないふたつの部分。
これからもずっと変わらないのは、その内のひとつ。たぶん。


それではこれから、2回目のシンゴジラに行って参ります!



追記↓

シンゴジラ見て来ました!(2回目)
おもしろいよーおもしろいよーなんなんだー

先日見た後に、ツイッターの感想まとめとか、感想記事とかもうたくさん拝見しまして、「わかるわあ〜」とか「え!なにそのネタ!」とかだいぶ楽しませていただいて再び気分も高まり、いつもなら時が経つにつれて「まあいっかー」なんて見に行かないで終わってしまうのですがその気分は全く衰えることなく、やはりこれはまた見に行かねばなるまいと、本日は2回目の鑑賞と相成りました。

「一度見た映画を細かいところまで楽しむために」という動機だったのですけど、結果全然そうではない感覚を得ました。

もちろん、前回気づかなかったところ(小ネタや役者さんの繊細な演技などなど)に気づくこともできてそれは楽しかったのですけど、想定していなかったのは、前回見てからまだ二週間経っていない同じ映画を見たのに新たな感覚が自分から出てきた、ということです。

既読の感想記事に書いてあったとかそういうものであったなら、「たくさん読んでいるうちにその見方を取り込んだのね」と思うのですけれど、そうでもない。

もちろん取り込んだ部分もあって、最初の上陸の時のシーンでは、「国として考えて関東で40%なら、きっと復興の進め方も違うんだろうなあ。」と妄想して切なくなったりもしましたけどね。
(僻んでみたいそんな日もある)

内容を知っていてもやはりゴジラ覚醒シーンは、また新たな感覚で来る感じがありました。
わたしはシンゴジラを「怖い」とは思わなくて、怖いというよりは「・・・すごい」って感覚で。
なんか自分のいらんものが抜け落ちる感じがしてどこか心地いいんですよね。その反面、そのいらんものが抜け落ちる感じが悲しいのか・・・ここはちょっと自分でよくわからない部分ではあるんですが、あのシーンではなぜか胸が痛くなります。

1回目の鑑賞の時は、ゴジラがかわいそうと投影したのでそれでかなと思ったのですが、2回目の本日は先日の鑑賞の結果、かわいそうと思う必要が感じられなくなっていたので、あれ?それでじゃないんだな、と思いました。

細かい部分を見ようとしていたはずが夢中になっていて、前回見たはずのシーンを今回見た覚えがなかったり、わかっていたのに見落としたりしています。
巻き戻したい!とか、今のシーンでストップ!とか思ってもそうできないことも含めて、映画館で見るのは楽しいですな。


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