日記×エッセイ...みち

 

 

つらつら - 2016年08月14日(日)

自分の言った言葉に、へえーと他人事のように思うことが多いわたくしです。
なので、人と話す機会はそういう意味でもおもしろく感じます。
あ、わたし、そう思ってるんだ?みたいな発見。


先日、こんな会話がありました。
Aさんに連れられてBさんが飲みに行ったそうです。そこでAさんは「俺は部下に厳しいだけでなく、自分に厳しい。」と言ったのだそうでした。

その話を聞いたのはわたしはAさんやBさんからではなく、Bさんがそれを話したCさんからでした。「どう思います?」と話を振られました。
というのは、BさんもCさんも、Aさんが「自分に厳しい」というのが納得いかなかったからです。

わたしから見ても、Aさんが自分に厳しくしている方には見えていなかったのですが、わたしとAさんとは思考の仕方や得意なところがそれほど重ならないというのもあって、「厳しい」とする部分が違う可能性は大きいかなとも思います。
自分がさらっとできることだと、そこで誰かは「頑張ってる」とか気づきにくい場合があります。
そこの判断は個人的なことかなあと。

で。
わたしがその話を聞いていちばん気になったのは、Aさんが「厳しさに価値を置いている」というところでした。
価値を置いていないのなら、「自分に厳しくする分、部下にも厳しくしてしまう傾向があって気をつけている」などの文脈になるのかなと。


それをわたしが話していた相手のCさんに言ったところ、
「自分に厳しくないのに他人に厳しいのはどういうことなんでしょうね。」
と聞かれたので、
「他人のせいにしちゃうのかもね。」
と答えました。

もう少しちゃんと言うなら、「自分の感じる幸せの責任を他者に与えているのかもね」と。

そう言いながら、わたしは、それだけじゃなくてAさんは自分に本当に厳しいかもしれないな、とも思う感じになりました。
わたし自身の言った「厳しさに価値を置いている」という言葉がとても腑に落ちたのでした。
価値を置いているとしたら、自分にも他人にもそれを使うよね、と。

厳しさって、よりよくするために、と本人はそう思ってやっていることでしょうけれど、実際それが有効かどうかというと疑問を感じる場合も多いなと思います。

自分に厳しさを向けるという場合でも、「厳しくしている感覚」に夢中になっている場合があるかなと思うのでした。
実際に必要なこと、有効なことに対して、というよりは。

「厳しくしている感覚」に夢中になっていると、表情筋や肩・首など体の筋肉が緊張するので、自分の体に厳しさを向けている、とも言えます。
しかしながら、肉体が「自分自身」ではない。今の自分を表現してくれるけれど。

自分の体に優しさを向け、そうして変化していく、ということ。
それは「気づく」ということでもあります。気づこうとする、ということ。


その会話の後に、ノンフィクション本の「でっちあげ」を読みました。
エゴのいろんな反応の仕方を読むことができる本でした。
この親御さんもある意味、「厳しさに価値を置いている」というように読めました。

勉強を教えるということではないけど、根本的な教育が必要なんだろうなあ。
先生にも、生徒にも、親にも伝わっていくような。
誰に対しての教育、ということではなくて、誰かに伝わったらそれを望む誰しもに伝わっていくような。
自分がそれを望んでいたことに気づくことができるような。


...




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