プレゼンシングソマティクスについて、つらつら - 2016年08月07日(日) わたしは「別に自分がそれをしなくてもいい。」と思うところが昔からあります。 誰かがやってくれるならわたしがやらなくてもそれでいい、と思います。 プレゼンシングソマティクスもそんな感じで、「他者にプレゼンシングソマティクスを施術する人が誰かいるならそれでいい」と思いながら、わたしは自分のために、自分の興味や自分の日常に使うために学んできました。 言ってみれば、わたしのすっごい好きなものなので、わたしがお客さんになりたい。 ほぼ日での糸井さんと浦沢直樹さんの対談記事と似てる感じかもしれません。 「誰かやってくれればいいのに」 去年の秋くらいから、 「いやいやそれではいかん。誰かがやってくれるとしても、それはその人自身がしたいことをするわけで、わたしが望むことは自分がやらないと手に入らない。そうでないと、勝手に期待して、勝手に裏切られたって感じるだけだ。」 と思い始めて、自分でも他者に施術をするということを考えるようになりました。 しかしながら、「でもねー、それをしたいわけじゃないんだよねー」という気持ちも一緒にあって。 したいわけじゃない「それ」というのは、引っ越して、お客さんを呼べるようにホームページとか作って、施術して、という段取り? 引っ越すのも、サイトを作るのも、施術するのも、それぞれは全く問題がないのですけど、レールを決めてひたすら今ではなく未来を見て走る、みたいな感覚に納得がいかない感じがあったんですね。 この施術自体が「今この瞬間」をもとに行っているのもあって、その感覚に慣れてきてる分、今そっちのけで未来を構築するためにやるなんて嘘だろ?と思うわけです。 これは最近はこうして言葉にできますが、少し前までは自分では全然わかってなくて、これじゃない感、楽しくない感がどこかある、ということだけ認識していました。 このまま進んだとして、なんか違うんじゃないかな?って。 もちろんエゴの囁きの可能性もあるのですが、怖いというより、楽しくない、だったので、うーん、と思って。 そして、どうにもやらない自分、やる気がない自分を見ていました。ダメ出しもしながら。 今はダメ出しはないですけどね。 で。 どこか元に戻ったというか、やっぱり「誰かがそれをやってくれるならそれでいい」って考えに戻りました。 なんかね、ここがわたしはやっぱり楽なんです。もう、しょうがない。 でも以前とちょっと違うのは、「誰かがやってくれればいい」という内容が施術ではなくて、経験を指すようになったということです。 少し規模が大きくなりました。 (そして、いつの間にか他者に施術すること自体も、「わたしの楽しいこと」になっていました) それは、こちらの記事を読んで切り替わった感じがします。 【原爆投下】トルーマンの孫が語る謝罪と責任の意味(前編) いろんな立場によって、いろんな物語、いろんな感情があって。 一人だけの視点ではすべてを経験することはできないのだわ、とこの記事を読んで感じました。 一人だけではすべてを経験することはできない。 これと、プレゼンシングソマティクスの施術がわたしにとって合致する感覚なのです。 誰かが感覚を感じるという瞬間に共に参加できるということ、それにわたしは魅力を感じます。 こうしてまたWeb日記を書き始める気になったのは、わたしはこの施術が、この施術の根底にあるものが大好きだから。 まあ、過去のわたしとそのあたりは同じです。ゲームや本や映画やいろいろな経験、そこから感じられたことを、「おもしろかった!」「ここが素晴らしかった!」と言いたい、そういう場としてわたしはこの日記を以前使っていたので、また同じように使っています。 偶然読んだ自分の過去の日記で、今のわたしから見てなかなか興味深く感じたものがあったので、そのうちそれについても書きたいと思います。 ちなみに。 こうして書いていて思いましたが、どうしてわたしは「今をそっちのけにしてる」と感じてるのだろうなと。 どういうところからなのかな。わたしはどういう考えをしてるのだろうな。 書くと気づきます。 ...
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