日記×エッセイ...みち

 

 

セルフプレゼンシングのつづき。 - 2016年07月12日(火)

前回の続きです。



あの後第一チャクラの説明をいくつか読んだのですがやっぱりピンと来なかったので、第一チャクラじゃないんじゃないの?違うんじゃないの?ということで、もう一度見直し。
第一チャクラでいう焦点を当てている「存在」と、わたしが反応をした「存在」はちょっと違う感じがしたのでした。

とはいえ、主とするものは違っていたのかもしれないけれど、そうして体を感覚していたことから訪れてきたもの、収穫したものはあって、

「臭い、汚い、みっともない、近寄らないで!」

と拒絶する自分と、

「そう思う自分は悪い子!」

と自分をジャッジする自分とを見られました。
ついでに言えば、子供の頃の感じを持ち越してる感覚もしました。
そこから記憶として挙がってくる「過去の状況」がありましたし、それはわたしの母と関連がありました。



わたしは、寝る時と目覚めた時にそれぞれセルフプレゼンシングをしています。
それで寝る前に「臭い、汚い、みっともない、近寄らないで!」と、それに葛藤する意見とを、体の感覚で感じてみました。
その感情や意見が出る時に、体の感覚はどのようなものをわたしに与えてくれているのか。

感覚は、噛む筋肉、顎から耳の前を上がるラインにありました。
なので、わたしはそこに手を当てて感覚しました。
特に、顎関節の周りが強い感覚がありました。


感覚を感じていると、頭部や顔の筋肉がリリースするのを感じました。
力が入っていたのを、ふっとゆるめるような感じ。
ゆるまったから、力が入っていたことに気づいたような感じ。
こんなに緊張させているんだなあ、と思いました。
(緊張させている感覚に慣れていたので、実際にやるまでは自覚がなかった)



それから、最近しばらく気にかかっていたのは、これまで生きてきた中で、母に対しては不満なり怒りなりが出てきたとしても、父親に対しては全くそういうものがないということでした。
わたしは父が大好きだったのでそういうものなのかなと思っていたのですけど、そこも盲点でした。

父は母をよく怒鳴っていました。
そしてそれに対してわたしは違和感を感じていませんでした。

本当に小さい頃、その頃のわたしは、ケンカはやめてと止めていたのですが、声が大きいだけ、とよく説明されていて、それなのでだんだんとそれを納得していきました。
(実際、地声が大きい)

ただ、今更ながら振り返ってみると、紳士的態度ではないかもしれませんなと、父が亡くなって10年経って、思った、みたいな感じです。

父のことを大好きなのは変わりませんが、これまでとは少し違う感じがします。

例えて言うのなら、「その人の行動は、好き嫌いの判定に入ってない」って感じ。

これまでは、行動が好きというわけでなくても、お父さんは大好きだから大目に見るような感じがあって、それが今は、間違っているものは間違っているよね、みたいな感じというのか。



また一方で、母は間違っている、とずっと思っていました。

わたしは母も大好きで、でも父親の意見・価値観のほうが自分に近かったので、母は間違っているもの、と思っていました。

父と母の関係だけではなくて、近い親戚の人も母をそう扱っていたので、「それが正しい」と思っちゃっていたんですよね。

思っちゃってたんです。

それにやっと気づいたのが今週に入ってから。


参議院の選挙がありましたが、それがわたしを刺激したのだと思います。

「正しさは多数決で決まるものではない」

そうだよね!って感じ。

正しさは、誰かの意見によったり、多くの人の意見だったりに、よらない。
自分の、元となる部分に、正しさを選んでいるか、ということ。

これからしばらくの時間は、自分の再教育の時間になるなあ、と思いました。

今のわたしのその気づきを持った過去は、どのような彩りで、どのように父と、母と、わたしは接するだろうな、と思いました。




さてさて、話をぐーんと戻しまして、チャクラの話。

言葉での説明としてしっくりしたのは第二チャクラと第三チャクラの辺りで、うーむ、じゃあお腹かあ、ということでお腹に手を当てて感覚をしてみました。

そうしたら、これまでどのように人の意見を使っていたのかが、よーくわかりました。
たくさん、いろんなものを、入れるだけ入れてた。
そこから何かを知ろうとしてた。
共通項を見よう、みたいな。
外から得よう、みたいな。

これが、父や母との関係性の作り方とすっごくマッチして、あらららら!と思いました。


そうではないなと。
自分で、まず最初に選ぶんだなと。

そういうことがわかりました。

(大体、共通項を見ようとしても無駄というか、見るとしたらすんごい壮大なくくりになるかもねー)



「存在」は、社会との関わりとしての「存在」でした。
第三チャクラでしたね。



これまでわたしは、
知識は、自分の本を読む速度以上に手に入れようとするし、
食べ物は、食べられる能力以上に買いたくなるしで。

表れている行動という部分でも、すんごい腑に落ちました。



好きなものを、消化できる分だけ、得る。


...




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