日記×エッセイ...みち

 

 

つらつら - 2009年05月14日(木)

(つづきました)

ジベリッシュという、「意味のない言葉」をべらべら15分間くらい止めずにしゃべり続け、ピタリと声も動きも止めて自分の中に流れるエネルギーを感ずる、ということをしました。

これは先日書いていた呼吸法よりも気軽に出来るので、帰ってきてからも何回か行いました。

おもしろいのはいろいろな感情が出てくること。わたしの場合は、何だかどこかの外国語のような言葉になってきます。「言葉自体はただ、もごもごと言ってるだけだよ」という人もいるし、詠唱しているような感じになったり、いろいろみたいです。
わたしはいろいろな感情でその言語のようなものを話しています。何かを訴えています。
こういう風に言葉を言おうと発しているのではなくて、出てくるに任せてべらべらしているので、それをしばらく他人事のように「おもろいなあ」と聞いていると、その内にわたしの中に何だかイメージが出てきます。1回にひとつのイメージが出てきます。

寂しいのを我慢して怒っているおかっぱの外国の女の子。
ヒステリックな感じでくどくど文句を言っている神経質そうなおばはん。
怒っている大柄な女性。

始めたばかりの頃は、怒っている人ばかり出てきました。
そのうちに、幸せな一生を過ごしたけれど、その幸せな時間を過ごせた感謝の気持ちを周りに伝えられなかった老婦人が、これこれこういうことでわたしはとても幸せだったのよ…と伝えているイメージとか、楽しいことやしたいこと、そして歌ってそれを表現している人のイメージとかが出てきました。

ジベリッシュは表現できなかったものを表現するのを助けるもの、と思います。
わたしにとって怒りは、ずうっと「怒りを表現することはいけないこと」という思い込みがあったから(母親に「そんなに短気じゃ嫌われるよ」と子供の頃に言われたことが残ってしまってた)、自分の中に表現できなかったものとして残っていた事はなるほどなのですが、楽しいこととか感謝の気持ちとかもそうやって残っちゃうもんなのだなあ、と思いました。

あ。
怒りはネガティブな感情じゃないって先日教わったばかりなのに、ネガティブ扱いしている自分に気づきました。ごめんちゃい。

サイレントの時間に自分の中に流れるエネルギーの感じを観察してても、お腹の辺りや足の辺りにもぞもぞと感覚が感じられたり、とても興味深いです。


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