思考過多の記録
DiaryINDEX|past|will
| 2003年03月29日(土) |
海の向こうの戦争2003〜その2 |
イラクで戦争が始まってから1週間が経過した。当初の大方の予想を覆して、米英軍の初期の快進撃はここに来て足踏み状態となり、短期で犠牲者も少なくてすむという楽観論は影を潜めつつある。 その理由はアメリカのいくつかの誤算のためだと言われている。イラク側の民兵を中心とした抵抗を甘く見ていたらしいこと、そしてアフガン戦争の時のように、イラク各地で反フセイン勢力が蜂起してフセイン政権が弱体化するという目論見が外れたことがその主なものだという。
いずれも圧倒的な軍事力を過信してのことだが、自分達が解放軍として迎え入れられると本気で思っていたらしいことを聞くにつけ、どうしてあの国はこうも楽観的、というより脳天気なんだろうと思う。やはり世界中の人間が自分達と同じ価値観を信じ、同じように行動するという揺るぎない、けれど完全に誤った世界観がそう考えさせるのだろう。「世界」=アメリカという世界である。国連を無視して戦争を始めることができたことで、彼等はいっそうその「世界」の住人であることに確信を持った。しかし、そんな「世界」はごく自分達の回りを除いて存在してはいなかったという「現実」に、彼等は遭遇しているのだ。 それはおそらく、砂漠の砂嵐が彼等の前進を阻むことを頭では理解していても、実感として分からなかったのと同じである。彼等の国に砂嵐はない。だからといって「世界」に砂嵐が存在しないわけではないということを、漸く彼等は身をもって知ったのである。
「ゲームは終わった」とブッシュが間抜け面に似合わず厳かに宣言して始まったこの戦争だが、最初の数日間は、かつての湾岸戦争を彷彿とさせる「ゲーム」感覚の戦争だった。テレビから流れる映像は、その殆どが米英軍側から撮ったもので、空母の甲板から出撃する戦闘機だったり、攻撃用ヘリがロケット弾を発射していたり、トマホークの煙と閃光が夜空を切り裂いているところだったり、迫撃砲がイラク軍の戦車を破壊しているところだったりした。 そして、スタジオにカメラが切り替われば、イラクの国土の模型に戦車のミニチュアが置かれ、その前でアナウンサーと軍事評論家が戦況の解説をする。夜7時のニュースのNHKのアナウンサーは、 「この補給路を襲われないように注意しなければいけませんね」 と、まるで自分がアメリカ軍の将校にでもなったかのような言葉遣いをしたものである。因みに、総じてNHKの現地レポーターは、明らかに米英軍の立場(=攻める側)から見た戦争の伝え方をしている。
こんな環境にいると、テレビのこちら側の僕達は、いつの間にか自分達がバクダットを落とすための「戦争ゲーム」に参加しているかのような感覚に囚われてくる。そこでは、イラク軍は「顔」のよく見えない「敵」という概念でしかない。だから僕達は、早くその「敵」を取り除いてこのゲームを「クリア」したいと思ってしまう。 けれど、当たり前のことだが、戦争はゲームではない。先日、イラク軍の捕虜となったアメリカ軍の兵士や、兵士の死体の映像が流され、それを見たアメリカ国民がショックを受けたというニュースがあったが、この時のパウエル長官(元軍人)の言葉、 「これが戦争だ」 というのが、事の本質をよく表していると思う。
戦争はゲームなどではない。現地では当然血が流れている。映像に映らないものは見えないので、僕達の思考はそこで止まってしまいがちだ。しかし、夜空を切り裂いたパトリオットは、必ず何処かに着弾する。その時、確実に何かが破壊され、誰かの血が流れている。画面一杯に映し出された米英軍の兵士達が撃ち放つ機関銃の先には、確実にその弾を体中に浴びているイラク兵がいる。そして、多くの命が奪われる。そのことについて、僕達はもっと敏感でなければならない。
先日ニュース番組に出演した椎名林檎は、この戦争についてきかれて、 「ここにいる私達にはどうすることもできないけれど、とにかくしっかり見ている。辛くても見続けること。それしかできない。」 という趣旨のことを答えていた。 海の向こうの戦争から、僕達は決して目を逸らしてはいけない。 何があっても見続けること、そして映像に映らない「現実」に思いをはせること。それこそが、この「平和」な国に暮らす僕達がこの戦争に対してとりうる精一杯の倫理的な態度である。
|