思考過多の記録
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見ず知らずの人達が、密閉した車の中に七輪を持ち込んで集団自殺する事件が立て続けに起こった。先月、同じように密閉した部屋に七輪を持ち込んで自殺を図った人達が、どうやらネットの自殺系サイトで知り合った人達だったらしいということで話題になっていた。今回2件続いた事件もはやりそうだったらしい。
こういう時に決まって槍玉に挙がるのは、ネットという装置と、自殺を図った人間の精神構造である。前者は出会い系サイト批判とも結びついて「ネット社会の危険性」の証拠として非難される。また後者は、「弱い」「命を粗末にした」というレッテルを貼られる。そして、そのことで全てが語り尽くされたかのような錯覚を、情報の発信者と受け手の両方に与えて終わるわけだ。
しかし、ネット批判はさておくとして、僕はいつも自殺者に対する批判にはしっくりこないものを感じていた。この違和感の正体は何だろうと考えているうちに、ふとそれは、この批判が常に一方的だからなのだと思いついた。 当然のことだが、批判する側は常に「生きている」人間達だ。「生きている」ということは、積極的であれ消極的であれ、この世に順応するのに成功していることを意味する。一方自殺者は、やはり積極的であれ消極的であれ、この世に順応できなかった人々である。何が動機なのかは人それぞれだろうが、そこにはある種の共通項がある。すなわち、「生きている」ことへの強烈な違和感であり、「生きている」ことが彼等にもたらすのは「苦痛」であるということだ。 「生きている」人間は、完全にこれらを理解することはできない。何故なら、彼等はそういったものがないか、ある程度以上の強さにならないからこそ「生きてい」られるのだから。だから、彼等は自ら命を絶つ人間を非難する。 けれど、この世に生を受けたからにはこの世に順応しなければならないという過酷な掟を疑うことは罪なのだろうか。そして、その結果この世にいないことを選ぶのもまた、罪なのだろうか。
僕の知り合いで、本気で「死」を考えたことがあるというある人は、それでも自分が死ななかった理由について、「でも何処かで自分は『生きる』ことを求めていた」と言っている。その人の場合、おそらく「死にたい」という欲求を一方で意識することによって、「生き続けたい」という正反対の意思を確認したかった、いや、それを無意識のうちに求めていたのだということになるだろう。 そう思える人は幸いである。ただ無意識のうちに「生きる」ことに順応してしまっている大多数の人々より、「生きる」ことに、そして世界に対してより敏感になれるであろう。ただし、その人にとっては、それが必ずしも幸せとは限らない。
「心中」した人達は、結局「生き続けよう」という意志が持てなかったのであろう。勿論、安易に「切望」してしまっただけなのかもしれないが、しかし、ある意味で彼等は誠実であった。 今の世の中、一体誰が心の底から「生き続けよう」などと思えるだろうか。うんと鈍感になって何も感じないようにするか、または何も感じていないふりをして自分を騙し続けながら日々をやり過ごすしかないだろう。 それでも、いざ自分の人生を終わらせようと思えば、かなりの勇気がいることは確かだ。彼等はそれを乗り越えようとした結果、「仲間」を募るという方法を使ったのだろう。ある種の「知恵」である。
僕は、彼等を非難するつもりはない。何故なら、僕もまた、何気なく生きながらえているだけの存在だからである。ほんの少しの勇気があれば、僕もまたあちら側に行っていたかも知れない。 僕はまだ、自分が「生きている」人間だということを肯定できずにいる。
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