思考過多の記録
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僕の会社のある女性が、この3月に退職することになった。正確に言うと「転職」である。彼女はまだ30代も前半で、子育ての真っ最中である。言うまでもなく共働きである。しかも彼女の職場は殊の外忙しく、なおかつ彼女は組合活動も積極的に行っていた。入社以来、パワフルで豪快な彼女は、会社の内外から何かと注目されていたのである。 そんな彼女の新しい職場は、何と公立の小学校。そう、彼女は東京都の教員試験を社会人枠で受験し、それに合格してこの4月から赴任という「内定」をもらったのである。
僕は彼女とそれ程親交が深いわけではないので、彼女がもともと教員志望だったかどうかはよく分からない。けれど、もともと彼女は教員養成過程の出身ではなく、したがって教員免許も持っていなかった。つまり、彼女のチャレンジは、まず教員免許の取得から始まったのである。仕事と子育て、そして家事の合間に通信教育で教免を取得。それと平行して教員採用試験の勉強。1次試験は面接のみだが、2次は学科(水泳やピアノを含む)と模擬授業だったというから、大学生の受験者と基本的にやることは同じだったと言っていいだろう。 彼女が凄いのは、学生は試験の準備に専念できる環境にある人間が大多数だろうが、彼女はそうではなかったということである。しかし彼女は、見事合格を果たした。これは言葉では言い表せない程の「偉業」だと僕は思う。仕事や家事・育児という日常生活の営みにどれ程の時間と体力と精神力を吸い取られるかについては、多くを語る必要はないだろう。それをこなした上での「合格」である。勿論、その陰には彼女の夫の理解と物心両面での支えがあったことは想像に難くない。
彼女をここまで導いた原動力は一体何なのだろう。教育に対する情熱だろうか。もっと大きく、今の社会を変えようとする何らかのアクションだろうか。はたまた、母親の立場から、自分の子供達の世代に対する責任感のようなものだろうか。いずれにしても、彼女が元々持っている内からのパワーが、のしかかる日常の重みの中でそのモチベーションを保つことに一役買ったのだと思う。では、そのパワーの源は何なのか?そればかりは僕にもさっぱり分からない。ごく一般論を言えば、それは彼女の育った環境であっただろうし、彼女の親御さんの教育方針であったのだろう。 まさに人は教育によって作られるということである。
そういえば、僕もかつては何か「夢」とか「目標」を持っていたような気がする。会社の自分は仮の存在、本当の自分はやりたいことに向かって少しずつでも進んでいく、人からは見えない存在。そう思っていた。 けれど、気が付けば日常の繰り返しに時間も労力も吸い取られ、いつしか自分が最も忌み嫌っていたその日常に居心地のいい場所を探すような存在に成り下がってしまっていた。僕も最初からモチベーションが低かったわけではないと思う。けれど、彼女を見ていると、生きていく上での「気迫」という点で全く負けているなと思わざるを得ない。 人間は、歳をとるにしたがって現状に安住しようとする傾向が強くなってくる。だから、当然それに抗うために必要な力も年々強くしていかなくてはならない。けれど、やっかいなことに、現状に抗う力は年齢に反比例して低下していくようにできている。それはおそらく、生命力の低下そのものだと思う。「理由なき反抗」は若さの特権だ。大人達は理由があっても反抗などしないだろう。彼等は現状維持の理由を見つけるのに忙しい。
4月から、子育てをしながら彼女は教壇に立つ。そして僕は、相変わらずこの会社の埃っぽい澱んだ空気を呼吸しながら、1日を何とかやり過ごすために労力を使い続けるのだろう。それで終わってはいけない。このままでは、彼女との年齢差よりもずっと早く、僕は墓場に到達することになるだろう。
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