思考過多の記録
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| 2003年01月21日(火) |
「優しさ」は武器にはならない |
この日記でも以前触れたことのあるフジテレビの「あいのり」という番組を偶然目にした。前後関係は全く分からないのだが、ある男が女に告白していた。ドキュメント仕立てとはいえ、バラエティ番組だということを本人達も自覚していることと思う。男はやけにクサイ台詞をはく。 「僕と一緒に、ずっと夢を見続けてください。僕と一緒に日本に帰ろう。」 女は答える。まるで中学生の告白タイムのようだ。 「やっとあなたの優しさが分かった。ずっと見守ってくれていたんだね。でも、今私は恋心が芽生えていて、今まで経験したことのない感情なの。だから、私日本には帰れない。」 昔のねるとん流にいえば「お願いします」「ごめんなさい」という展開である。
このシーンを見ながら、僕はこれまで自分の身に訪れた恋愛物語の数々の結末を思い出していた。大抵の場合、僕は相手の女性から「優しい人」と思われていた。勿論、それにはそれなりの根拠があっただろう。僕にとって、自分の好きな人を喜ばせ、幸せを感じてもらうには、相手に対して「優しく」なるしか方法がなかったのだ。 大抵の場合、それは相手に評価された。「ありがとう」と言われたことさえあったと思う。けれど、それと恋愛の成就とは全く別問題だった。僕の「優しさ」は確かに相手に伝わったけれど、それが相手に僕に対する恋愛感情を起こさせることはなかったのだ。 つまり、「優しさ」は恋愛を成立させる一つのファクターではあっても、絶対条件ではないのである。少しも優しくない男に平気で惚れる女もいる。また、同じ「優しい」なら、相手がイケメンであるにこしたことはないだろう。
ことは何も恋愛だけの問題ではない。「人に優しく」などというけれど、「優しさ」で全てが解決するわけではない。どんな場面であれ、人は「優しさ」を発動することで自分や自分の所属する集団が不利になるのなら、敢えて「優しく」なろうとはしないものだ。勿論、そういうときこそ「優しく」なることが本当の「優しさ」なのだと思うが、それが如何に困難なことかを証明するための例には枚挙に暇がないだろう。自分の子供に「優しさ」を説く親が、自分の子供の利益を守るために他人の子供を押し退けたりするのはよくあることだ。 この世の中、というよりもこの世界は、そうして成り立っているというのがむしろ実態に近いだろう。「優しさ」は戦争を止めることができないし、飢餓や差別を消し去ることもできない。
ポップスは「優しさ」に万能の地位を与え、「優しく」なろうと歌いかける。 けれど、「優しさ」はこの世を生き抜くための武器にはならない。特に、誰もが自分を守ることに精一杯のこの世界では。「優しく」なったからといってご褒美がもらえるわけではないからである。そして、それは誰のせいでもない。 僕の「優しさ」を受け入れながら、決して僕を恋人として受け入れなかったあの女性達を責めることはできない。何故なら、恋愛とはそういうものだからである。そして、それを僕はどうすることもできない。 「優しさ」は、恋愛に対して無力だ。まるで、世界に対してそうであるように。
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